Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 最終回

 日も、悠葦はチャンスを伺っていた、男と妻子が暮らすマンションの近くを車で周り、息子が一人で外に出てくる瞬間を待つ。自分が指名手配されていることをニュースで知っていたので、とにかく慎重にやらなければならず、警察に怯える毎日だった。帽子を目深に被り、口にはマスクをして、一箇所に長時間いないように気を配る。助手席にはバッグが置いてある。その中には、彼がいつか姉と一緒に暮らそうと貯め続けていた金が入っていた。決して多くはないが、しかし彼のこれまでの人生で費やしてきたものが、そこに詰まっている。漠然と、彼はその金を息子に渡そうと思っていた。所詮そうしたところで男と妻に取られてしまうだけだが、悠葦はそんなことについては何故かまるで考えない。とにかく、自分が貯めた金を息子に与えたという事実だけがあれば、それで良いとでもいうように。

 そしてようやく、彼は公園で独り遊ぶ息子を発見する。母親から暗くなるまで外で遊んでおいでと言われたので、真栄はそれと引き換えに渡されたお菓子をポケットに入れて、公園までやって来ていた。新しい生活が始まってから、母親は長い時間を男と二人だけで過ごすようになり、あるいは世間からネグレクトと批判されるかもしれないが、真栄自身はそれをどうも思っていない。父親から離れることができて、男が自分を殴る様子もないし、もともと母親は子供に対して関心を示すような人間でもない。独りで遊ぶ自由があるだけで、真栄は満足だった。遊具を使ってひと通り遊んでから、草むらでバッタを捕まえると、ベンチに座ってそれを観察する。それは真栄にとって平穏そのもので、初めて彼の世界が安定した時間だった。だから、ベンチに近づいていくる父親の影を見たとき、それはさぞかし巨大で、不穏な暗闇に見えただろう。

 「真栄」

 久しぶりに、悠葦は息子の名前を呼ぶ。真栄はなぜ父親が現れたのか分からず、驚いた顔で見上げている。恐れているが、体がすくんでおり、逃げる様子もない。一方で、悠葦も何と言っていいのか分からない。息子が生まれてから今まで、まともにコミュニケーションなど取ったことがなかった。

 「来い」

 悠葦にできたのは、結局力ずくで息子の腕を引っ張って、車に押し込むことだけだった。公園を散歩していた老人がそれを見かけて、何やら叫びながら一人で後ろを追ってくるのが見える。悠葦の行為は、当然のことながら他人から見ればただの誘拐でしかない。いちいち取り合っている暇はなかった、急いで息子を車に押し込むと、エンジンをスタートさせて、一気に逃げて行く。

 できるだけ信号の無い道を選んで走る。一瞬でも止まりたくはなかった、自分は息子に、何かを伝えなければいけないと思っていたから、せめてそれまでは捕まるわけにはいかない。ただ、いったい何を伝えればいいのか、彼には全く分からない。殴るということ、屈従するということ以外の、父子関係のイメージを持ち合わせてはいないのだ。もうこれ以上、息子を殴る気はなかった、かと言って、息子に何をしてやろうとしているのか、自分でもよく分からない。ただ、金を与えようということだけは決めている。助手席の真栄は、ただじっと身を固くしている。何かをする勇気など、父親相手に持つことはできないでいる。散々いろんなところを走り回った挙句、悠葦がたどり着いたのは、父親の失踪と姉の死を知り、母親の両眼を切り裂いたあとと同じ、夜の山道の路肩だった。

 「真栄」

 もう一度、息子の名前を呼ぶ。けれども相変わらず、何をしていいのか分からない。息子は、じっとうつむいたまま目を合わせない。悠葦はシートに体を沈めるように座り直し、空を見上げるようにする。よく晴れた日だった、暗い山道からはたくさんの星が見える。積み込んだ携行缶のせいで、車内はガソリンの匂いがする。悠葦はずっと考え続ける。考え続けるが、何も思いつかない。一つため息をついてから、もはや自分にできるのは、言葉ではなく行動だけだと結論付ける。しびれを切らしたような動作で、悠葦は後部座席へ身を乗り出して、そこに置いてある、金の入ったバッグを掴む。そして後ろを振り返ろうとした瞬間、息子がまるで抱きつくかのように、背中に覆いかぶさってくる。息子は固く目を閉じ、唇を噛みながら、悠葦にくっついたまま、荒く息をし続けている。何が起こったのかを理解する前に、悠葦の脇腹に激しい痛みが走った、全身が脈を打っているかのようにピクピクと蠢き、自分の中から、何かがどろどろと溶け出していくかのような感覚があった。体が動かない、言葉が出てこなかった、出そうとすると、一緒に力が失われていくのが分かる。ただ、弱々しい呻きだけが漏れる。

 __刺された。

 ようやく悠葦はそれを理解する。息子の両手に握られたなまくらの包丁が、自分の脇腹に刺さっている。黒くて円い奈落のような息子の瞳が、こちらを見つめている。それは、父と子が見つめ合った最初の瞬間であり、同時に、最後の瞬間だった。口元は笑っているようにも見える。そこには、身を凍らせるような恐怖と、身を焼き尽くすような昂揚が同時に溢れ出している。真栄は空想の中で何度も何度もシミュレーションした通り、ヒーローの武器を両手に持ち、父親を突き刺したのだ。

 「やめろ!」

 振り絞るように叫んで、悠葦は息子の頭を殴打する。真栄は弾き飛ばされて、後頭部をドアにぶつけて動かなくなった。一瞬殺してしまったかと思い、息子に顔を近づける。鼻からかすかな呼吸の音がしていて、失神しただけだと分かってひとまず安心する。今に至るまで、悠葦は自分が息子を完全に支配下に置いているという意識が抜けずにいた、よもや息子が自分を殺そうとするなど、夢にも思っていなかった。子供の頃の自分と比較しても、意気地のない息子だと思っていたが、それが完全に間違いだったと認めざるを得ない。たぶん同じ状況にあっても、自分には父親を殺せなかっただろうと思う。包丁は、さほど深く刺さっていない。このまま病院に行けば助かるはずだった。

 一度山道から出て、悠葦は交番の近くにある公園を見つけ、そこに息子を降ろした。ここならば、明日の朝にはだれかが見つけて、息子を交番に預けてくれるだろうと考える。失神したままの息子を見下ろしながら、その手には金の入ったバッグを握っている。しばらく考えてから、悠葦はその金を息子に与えるのをやめようと思った。代わりに彼が思いついたのは、このまま息子に殺されてやるということだった。金を与えるなどというのは、愚かな思いつきだったと思う。何かを与えるということは、所詮、たとえそれが純粋な善意からのものだったとしても、自分の力を息子に誇示することでしかない。この後に及んで、何のために力を示すというのか。彼の考えは、全く正反対の方向へ進み始めていた、すなわち、どこまでも無力な存在として死んでいくというのが、彼の結論だった。全く殺すに値しない、同一化する必要のない、徹底的に無力な存在として、俺は息子に殺されてやるのだ。悠葦はそう思った。

 

 (おい、よく聞け。俺は今、真栄と一緒にいる。お前が男と逃げたことは分かってるんだ。用意できるだけの金を、今から言う場所に一時間後に持ってこい。警察には言うなよ!)

 我ながら随分と不器用な身代金の要求の仕方だと思いながら、悠葦は妻へ向けた電話を切る。こうしておけば、あの二人は当然警察に通報するだろうと思った。そして指定の場所で待っておけば、警察が自分を捕まえにくるだろう。脇腹の痛みはまだひどかったが、あと少しで終わると自分に言い聞かせ続けて耐える。

 約束の時間、約束の場所までやって来て、そこをぐるりと一周しながら、警察の車に目星を付けようとする。実際のところ、どれがそうなのか悠葦には分からなかった、どれも怪しい気もするし、どれもそうでない気もする。たぶん警察が来てるはずだと思うしかなかった。しかし、ここで捕まろうとは思っていない。悠葦は急に進路を変え、約束の場所から離れていく。フロントミラーで、後続車が三台ほど来ているのを数える。きっと警察の尾行に違いない。悠葦が徐々にスピードを上げていくと、それに合わせて三台の後続車もついてくる。やはりそうだと思い、さらにアクセルを踏み込む。あとは後ろを振り返らず、夢中で逃げ回ることにする。不器用に身代金を要求して、あとは警察に追い回され、できるだけ無様に事故で死ぬだけだ。川にでも飛び込むか、公衆トイレに正面衝突でも良い。闇雲にハンドルを切り、対向車線に飛び出しながら前の車を追い抜いて進んでいく。街を走り抜けながら、彼は死に場所を探している。街にはいろんなものが溢れすぎている、建物が建ち並び、人々が往来し、ガードレールも電柱も続いているし、歩道橋なんてものもある。死ぬ場所にはことかかない! 俺はどの瞬間であっても、ハンドルひとつ切るだけでこの身体をぐしゃっと押しつぶすことができる。悠葦は妙な解放感で恍惚としながら、運転をしていた。しかしそこで、警察が追跡しているのに、全くパトカーのサイレンが聞こえないことに気づく。不思議に思い、スピードを落とすと、フロントミラーを再度確認する。そして、そこにはなんとさっきの車が一台も映っていなかった。悠葦は驚き思わず車を停める。もう一度確認するが、そこには一台の車も自分を追っては来てはいない。どうやら最初の三台は、警察でもなんでもなく、ただの普通の後続車だった。そのことをようやく理解した悠葦は、同時に笑い声をあげる。ならば妻とあの男は、自分からの脅迫の電話を、ただ単に無視したのだ。後ろめたいことのある二人であり、警察との関わりを持ちたくなかったのか。たとえ子供の安否がかかっていたとしても。見放されたものだと悠葦は思う。だが別に、それでも良い。真栄が、誰かの子供である必要などないのだ。

 __まあ、これで良い。

 そう思った。いちいち警察に後を追わせることはない。無様な死に方なら、いくらでもある。

 

 悠葦は、三たび山道に戻ってくる。夜もだいぶ遅くなったおかげで、他の車は一台もこの道を走っていない。目的の場所が近づくと、ハンドルを切りながら徐々に速度を上げていく。足元のガソリンの携行缶を蹴り倒すと、においが車内に充満する。身代金を取り損ねて、結局息子を放り出した男が逃走を図って山道に逃げ込んだが、誤ってガソリンの携行缶を蹴り倒し、そのまま危険性について何も考えることなくタバコを吸おうとして、気化したガソリンに引火、そして火だるまになった男は無様にも、急なカーブでガードレールに突っ込み、そのまま転落して死亡。それが彼の筋書きだった、まるでギャグ漫画のような死に方だと、悠葦は笑いを漏らす。ハンドルを握る手が冷たい汗を書き、震えている。ああ、俺は怖いんだな、と悠葦は自分が恐怖心を抱いていることを受け入れる。そうすると、心がどんどん静まっていくのを感じた。車を操作しながら、口にタバコを咥える。結局、自分には何もできなかったな、と思う。父親を殺すことはできなかったし、姉を救うこともできなかった。妻と息子を殴り、母親の両眼を切り裂いた。無力を恐れ、力を求め、それゆえに何もかも台無しにしただけだ、何よりも自分の人生を。けれども今、自分はただの無力な存在として死んでいくことができる。父親の死の顛末を知ったとき、息子は自分をこの上なく愚かで無力な存在だと思ってくれるだろう。息子は、将来もう誰かを殴る必要はないだろう。殺すに値しない父親を殺そうとした息子に、父親の死を贈与する。それは、与えられた者が与えられたことに気づかない贈与だ。痕跡のない、贈与であることをあらかじめ剥奪された贈与。与えられた者が一切の負債を抱えることのないゼロの贈与。与える者が一切を与えてしまう無限の贈与。

 悠葦は正面のガードレールめがけてアクセルを踏み込むと、ハンドルから両手を話す。フロントガラスの向こうには、無数の星が見える。囁くように光を放ち、夜空は明るく天体の声で満たされている。ただ悠葦一人だけが静かで、茫漠の闇の中でぽつんと車を走らす。歌でも口ずさみたい気分だが、なんのメロディも浮かんでこない。好きな歌が、一つもない人生だった。姉のくれた、小さなウサギのぬいぐるみを胸に抱いて、咥えたタバコの先に、ライターで火を点ける__。

 

 

(了)

最後の物語 その13

 がつけば、また車でずっと長い距離を走っていた、ただ衝動的に、彼は遠くへ逃げたのだ。助手席には、血のついたなまくらの包丁がおいてある。母親の両眼を切り裂いた後、彼は極度の興奮状態にあり、包丁を握りしめたまま車に乗り込んでしまった。彼は人目を避けるように夜の山道へと入り、路肩に車を停めて、疲れ切った体と神経を休めようとする。手はかすかに震えていた、母親の両眼を切り裂いた時の感触が、まだ残っている。せいぜい15分に一台車が通る程度だった、重く滞留する煙のような静けさが、周囲を満たしている。シートを倒して仰向けになった時、ルームミラーに吊り下げた姉の形見のぬいぐるみが目に入る。その瞬間、彼の感情は激しく揺さぶられる。

 __姉はもう、この世にいないのだ。まだ生きていると俺が信じていた間も、ずっと、姉は死んでいたのだ。

 悠葦は仰向けのまま顔を覆った、そして、目から涙があふれ、彼は嗚咽し始める。感情のコントロールができなかった、今までの人生で耐えてきたものが全て崩れ落ちていくかのように、彼は泣き続ける。何もかもが、耐え難かった、自分が今まで耐えてきたという自覚すらなかった。いつもどこかで、最後の心の拠り所にしてきた姉が、もう存在していなかった、その事実が、自分の存在をどこまでも無根拠にしていくような気がする。自分が、この夜の闇の中にふわふわと浮かんでいるように感じた、このまま流されて、自分はどこかへ消えてしまうんだと思う。

 __本当に、どこへ行けばいいんだ。

 彼はひたすら、心の中でそう自問し続ける。根拠のない存在には、帰る場所も行く場所もない。父親を殺しに行くことについて、何度も考える、何度もそれを目的にしようとするが、うまくいかない。姉を殺した父親に対する憎悪はこの上なく激しかったが、同時に、父親を憎悪することも殺すことも、この上なく無意味だという考えが湧いてくる。矛盾した感情と思考の両極に引き裂かれながら、彼は煩悶する。煩悶しながら、自分が今まで、自覚もせずに、父親に同一化しようとしていたことを理解し始める。そしてそれは、その同一化の欲望が、姉の死を知った瞬間に、完全に停止したことを意味している。彼は自分のそれを、今や距離を取って、遠くから眺めている。姉の残した小さなウサギのぬいぐるみを抱きかかえるように胸元に持ちながら、彼は嗚咽を続ける。悲しめば悲しむほど、絶望の底で、父親への恐れとそこから生まれる怒りが、まるで浄化されるように消えていく。そして涙が枯れた時、彼はどこまでも空虚な何者でもない存在でありながら、しかし、これまでの彼とは全く別の存在になっていた。今まで彼を駆動させていた、父親への怒りと恐れが消えて、もはや彼は何によって動けば良いのか、分からなくなっている。まるで姉が、自らの命と引き換えに、悠葦の中の父親を消し去ったかのようだった、殺したのではなく、まるではじめから存在しなかったかのように、消し去ってしまった。殺すことはそれまで存在していたことを逆説的に強く肯定するが、消し去ることは、その存在の痕跡すら残さないように、根こそぎ捨て去ることを意味する。どこまでも小さく無力な姉は、どこまでも大きく万能な父を、悠葦の中から消し去ったのだ。彼はもはや、父殺しと、その対象となる父を求める必要がなくなった。

 __息子に会いに行こう。

 彼は、突如としてそう考える。もはや彼は、なんの希望も抱いていない。だから、このまま消えてしまうつもりだった、だから、消える前に、何か贖罪をしようと思った。自分が父親と同一化することで、最も苦しめたのは、自分の息子に他ならない。強大な力で抑圧を受けた息子は、大きくなるにつれてその無力感から逃れるために、自分に同一化しようとするかもしれない。人間の世界で、愚かしくも繰り返されるメカニズムを再生産することに人生を費やしてしまうかもしれない。だから、悠葦はそれを阻止したいと思う。

 

 真栄は、母親から貸し与えられたスマホでゲームをしていた。以前に父親が家に連れてきた男と母親と別の家に移って新しい生活が始まってから、母親は頻繁にゲームをさせてくれるようになった。「ちょっと二人で話があるから、真栄はゲームやってて」と母親は言って、いつも男と二人で寝室へ入って行く。そこでどんな会話が行われているのか、真栄は興味を持たなかった、時々母親の笑い声が漏れてくるので、楽しいことでも話しているのだろうと思う。そんなことよりも、彼はゲームに夢中だった。まだ慣れていないので、画面の上で指を乱暴に扱い、しょっちゅうゲーム画面を閉じたりしてしまう。とはいえ、何度も繰り返したのでゲームを再開させる方法もすっかり覚えてしまった。ゲームを再開した時、彼の指はたまたま降りてきたニュース速報の通知を捉えて、それを開いてしまう。

 

 被害者息子を指名手配 母親の両眼切り裂いて逃走

 市内のアパートで無職の新宮優子さん(51)が両眼を包丁で切り裂かれて倒れていたのが発見された事件で、捜査本部は15日、傷害容疑で新宮悠葦容疑者(25)を指名手配したと発表。写真も公開した。

 捜査本部によると、悠葦容疑者は優子さんと親子関係にあり、血のついた包丁を持って部屋から逃げるところを近隣住民から動画で撮影されており、捜査線上に浮上。12日夕方ごろ、優子さんの両眼を包丁で切りつけた疑いが持たれている。悠葦容疑者が自宅を訪れたのはおよそ20年ぶりで、近隣住民は優子さんが子どもについて話すのは全く聞いたことがないと話している。

 室内からは白骨化した女児と見られる遺体も発見されており、警察は20年前に失踪した優子さんの娘である可能性が高いと見て、捜査を進めている。

 捜査本部は、昨年に撮影された容疑者の写真と、近隣住民から提供された映像を公開している。

 

 そこに何が書かれてあるのか真栄には分からなかったが、そこに載った父親の写真を見て、何か恐ろしい、悪いことをしたのだということは直感的に分かる。真栄の指はゆっくりと画面をスクロールして、ネットニュースのコメント欄を表示させる。

 

 rin***

 白骨化した女児の遺体って何?この事件ヤバすぎますね。

 

 13g***

 母親と息子が娘を殺したのかな。そんで母親が自首しようとしてもめたとか。

 

 Kuu***

 誰が娘を殺したのかは不明だが、間違いなくキ○ガイ家族。この母親にしてこの息子ありだろ。

 

 K7x***

 産んでくれた母親の目をきりさく??? コイツは真の悪者。だれかコイツをころせよ。ころしたらヒーロー。

 

 「ころしたらヒーロー」という文字を見て、真栄の指が止まる。「ころす」と「ヒーロー」という言葉は彼にでも分かる。好きなアニメに出てくる、強い存在。父親に打ちのめされ続けた彼の、憧れの存在だった、彼はヒーローになりたかった、ヒーローは無力ではなかった、ヒーローの力が欲しかった。アニメによく出てくる「悪」という言葉も理解できる。ネットニュースへの書き込みが、彼にヒーローになる方法を教えてくれた。父親は「悪」で、「ころせ」ば、ヒーローになれる。真栄は空想の中でアニメのヒーローの武器を両手に持ち、それを父親の虚像目がけて振り下ろす。父親は断末魔の叫びをあげながら爆発し、炎の中へ崩れ落ちる。その空想は、強い昂揚をもたらしてくれる。彼はもう一度武器を振り上げ、父親の虚像を爆発させる。また気分が昂揚する。何度も何度も繰り返し、彼は空想の中で、何度も何度も父親を殺し続ける。空想の中で、彼は父親と同じ大きさの体と、同じ太さの腕を持っていた。どんな悪にも負けることはない。彼は圧倒的な力を持った、ヒーローなのだ。

 

 

最後の物語 最終回へ続くーー

最後の物語 その12

 して彼は、20年ぶりに自分の生家に戻ってきた。それが同じ場所に同じように残っていることにいくらか驚きつつ、近くの公園のそばに車を停める。当時ですら古びていたアパートは20年経った今では無残なくらいにみじめな見た目になっており、壁は乱雑に淡墨を吹き付けたかのように汚れ、階段は錆びて歩くと崩れ落ちるのではないかと思える。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどだった。自分の生みの家族は、とっくにどこかに引っ越しているのだと、何の根拠もないのに今まで信じきっていた。しかし、福祉事務所からの文書に記載された母親の住所がここだったということは、未だにここから引越しなどせず、とどまっているということになる。少なくとも母親は。父親と姉はどうしたのだろうか、と思う。自分にとって重要なのは、その二人なのだ。会ってどうするのか、ということは、彼自身はっきりとは分かっていない。三人ともここにいるのなら、両親を殺して、姉を連れて逃げるのか、あるいは他に方法があるのかは知らない。彼が求めているのは、自分を呪縛している家族の呪いのようなものを、完全に断ち切ることだった、一刻も早くそうしたくて、何の考えもないくせに、衝動的にここへやってきた。殺すなら、二人まとめて焼き殺すのが一番いいと思って、車にはガソリン携行缶を積んである。

 確かに見覚えのある部屋のドアの前に立って、インターホンのボタンを押す。音は鳴らなかった、何の反応もない。続いて、ドアをノックする。やはり反応はない。苛立って、ほとんど殴るような強さで、一度ドアをノックする。誰も出てはこなかった、だが、部屋の奥で、ガタンと何かが落ちるような音が聞こえる。誰かが、部屋の中にいる。母親か、父親か、もしかすると姉なのか、それは分からないが、彼は何の躊躇もせずに、ドアノブを掴みガチャガチャと音をさせて何度か回してから、そのドアが施錠されていないことに気づく。一瞬動きを止めて、小さく呼吸をした。それから、勢いをつけるようにして、悠葦は20年ぶりに、そのドアを開ける。

 そこにいたのは、何か予想外なもので、不潔な見た目の老婆だった。パサついた白髪を垂らし、襟元の黒ずんだ服を着て、色が褪せきったような絨毯に座っている。悠葦と老婆は、無言のまま互いを観察している。悠葦がゆっくりと近づいて行くと、おそらく何日も風呂に入っていない老婆からは、老いた人間特有の生臭いにおいがした。これは誰だろうかと訝りながらも、老婆はどこか見覚えのあるような姿をしている。老婆もまた、何か思うところがあるのか、近づくほどに、まじまじと悠葦の顔を観察し続けている。

 「……お前、悠葦か」

 歯がまばらに抜けた口を動かして、老婆が尋ねてくる。うまく喋れなくなっているようで、言葉と一緒にひゅうひゅうと間の抜けた息が漏れる。

 「なんで俺の名前を知ってるんだ?」

 初対面の老婆に自分の名前を呼ばれて驚き、悠葦は足を止める。

 「なんで? 理由なんかいらんやろ」

 「どういう意味だ」

 そう言った瞬間、悠葦は目の前の老婆の正体に気づく。20年前とは、見た目が変わりすぎていたが、それは紛れもない、自分の母親だった。年齢で言えば50歳くらいのはずだが、あまりに醜い老い方をしているせいで、幼い頃の記憶しかない悠葦には別人にしか見えない。いったいあれからどういう人生を歩めば、こんなひどい老い方をするのか。

 「何や、アタシが分からんのか」

 「今分かった。ずいぶん汚いなりをしてるな」

 「ひどいやつ。久しぶりに会ったいうのに」

 そう言って、母親はくっくっと喉を引きつらせて笑う。悠葦は、記憶の中に母親の姿がほとんど残っていないことに気づいた、見た目や話し方や、笑い方を目の当たりにして、自分の母親とはこういう人間だったのかということをたった今、この場所で発見する。俺と姉は、こんな醜くて頭の悪そうな存在から生まれ落ちたのかと思うと、背筋が寒くなる。この女から遺伝したものを全て引きちぎって捨てられるのなら、そうしたい。

 「それで? どうしてここへ来た?」

 「役所から手紙が来た」

 「ああ、あれか」

 「何のつもりだ」

 「アタシは知らんよ。役所の奴らが勝手にやったんだ。息子に金があるかどうか、聞かにゃならんとかいって」

 「迷惑だ」

 「別に金なんか無いって言えばいいだろ。アタシだってお前に期待なんかしちゃいない。どっからだろうと、金さえもらえりゃいいんだ」

 悠葦は、話せば話すほど不愉快な気分になっていく。口を開けるたび母親の口から漏れる口臭で吐きそうになる。

 「俺もお前の世話なんかするつもりはない」

 「じゃあ、何しに来た」

 「親父の居場所を教えろ」

 母親の表情がさっと変わり、目つきが悪くなる。まるで悠葦を憎悪して睨みつけるような顔だった。

 「……知らんよ」

 「嘘つけ」

 「知らん」

 「嘘つけ!」

 何の根拠もなく、悠葦は母親が父親の居場所を知っているはずだと思う。激情に任せて、台所のカゴに無造作に入れてあったなまくら包丁を掴むと、それを母親の顔面に突きつける。

 「何すんだい」

 「言えよ」

 「本当に知らんよ」

 「じゃあ死ね」

 「……ちょっと待ちなよ。何でアタシがあの男の行方を知ってるんだい」

 「知るか。でも、それを確かめるには、お前を殺してみるのが一番だ。命の引き換えに隠すようなことじゃない」

 「知ってりゃタダでも教えてやるよ。いいか、あの男はな、お前が施設に入って養子に行った後、どっかに消えてしまったんだ。それから連絡もよこしゃしない。20年も前に失踪した男の居場所なんか、アタシが知るわけないだろ」

 「手がかりくらいあるだろ」

 「ないよ。まったく銀行から有り金全部引き出して、自分だけ逃げやがって」

 「逃げた?」

 「……ほら、その、あれだよ。金の持ち逃げってことだよ」

 母親は何かを隠しているような感じもしたが、それは悠葦の関心を引かなかった。彼は考えあぐねた、父親を見つける手段がないということは、見つけだして殺す術もない。いっそ母親だけでも殺して行くかと思ったが、自分が本当に殺したいのは父親だった、そんなことをしても何にもならない。ならば、と思う。

 「それなら教えろ。姉はどこへ行った?」

 「……知らんよ」

 さっきと同じ答えだった、しかし、声のトーンは明らかに違う。何かを知っている、と悠葦は直感する。

 「教えろ!」

 「だから知らんよ」

 「じゃあ、姉はどうしていなくなったんだ」

 「……知らん」

 「そんなわけないだろ!」

 「知らん、アタシは何も知らん!」

 その叫びを合図にしたかのように、突然、激しい地鳴りがした、山が裂けるような音がして、立っていられないほど地面が揺れ、二人はほとんど床にしがみつくかのようにへたり込む。猛烈な地震に襲われ、ボロボロのアパートは今にも倒壊しそうになり、壁や柱が軋んでバキバキと嫌な音がする。ようやく収まりかけた瞬間、壁に大きな亀裂が走ったかと思うと、壁紙が破れ、中から砕けたコンクリートがなだれ込んでくる。地震が収まり、呆然とそれを見ていた悠葦は、なぜここだけコンクリートになっているのかと思い、近づいて行く。

 「やめな!」

 母親が叫ぶ。恐ろしい形相で、這うようにしてこちらへ近づこうとする。だが、地震で腰が抜けたのか、動きは緩慢でその場でもがいているのと変わらない。悠葦はそれを無視して、コンクリートが砕けた壁の奥をのぞき込む。そこには、何か白い枝のようなものが突き出している。コンクリートの中に入れてある建材か何かかと思ったが、そうではなさそうだった。もう少し近づき、そして悠葦は息を呑む。そこにあったのは、人の骨、人の頭蓋骨だった、大きさから言って、小さい子供のものに間違いない。

 「……これは何だ」

 母親は黙っている。動きを止め、悠葦をじっと見ている。

 「言え!」

 悠葦は母親に駆け寄り、不潔な白髪頭を掴み上げ、自分の方を向かせる。

 「……知らん、知らん」

 母親は弱々しく首を振るが、頭を掴まれているので、ろくに身動きが取れない。悠葦はその垢で汚れた首筋に、包丁の切っ先をゆっくり押し付ける。皮膚が破れて、一筋の血が流れた。

 「言えよ」

 「……」

 「あれは、俺の姉だろ?」

 包丁を喉元に突きつけられて、母親は首を縦にも横にも振れない。ただ血の気の引いた真っ白な唇をパクパクさせて、ようやく言葉を漏らす。

 「……そうや」

 その答えを聞いた瞬間、悠葦は包丁の柄で母親の頬を殴りつける。

 「どうしてだ。何があった!」

 「あの男だよ。お前の父親がやったんだ」

 「何でだ……姉が一体何をした!」

 「……」

 黙っている母親の頭をもう一度掴み上げ、同じように包丁を突きつける。

 「助けたからだよ」

 「助けた? 誰を?」

 「お前をだよ」

 驚いて、悠葦は思わず包丁を下ろす。あの日、父親にひどく殴られた自分を、姉は救おうとした。そして、代わりに暴力を振るわれる姉を救い出そうと、自分は初めて父親に逆らい、そして病院に運ばれることになった。そのことを思い出して、悠葦は動きを止める。

 「俺のせいで、姉が死んだっていうのか」

 「そんなことは知らんよ。ただ、お前が入院したせいで警察のやっかいになりかけたあの男は、尋常じゃないほど腹を立てて、あの子を顔の形が変わるほど殴ったのさ。気を失うと、風呂場で水をぶっかけて、目を覚ましたかと思うとまた殴るの繰り返し。もう手がつけられなかった、アタシにゃ止められんかったよ。そんで、気が付いたらとっくにあの子は死んでた。アタシだって、あの子を救いたかったよ。でもな、分かるだろ、あの時、お前の父親に逆らうなんて無理な相談だっただろ」

 悠葦に殺されるとでも思ったのだろうか、母親は、懇願するように、自分の罪のなさを認めさせようとしてくる。

 「お前は、俺と姉を救おうなんて、一度たりとも思ったことはないだろ」

 「そんなことないよ」

 「お前はただ、自分がやられなければ、それで良かっただけだろ。お前はただ、見ているだけだ」

 「そんなことないよ、そんなことない、そんな__」

 呪文のようにつぶやき続ける母親の前で、悠葦は包丁を振りかざすと、懇願するように自分を見つめる母親の両眼めがけて、その刃を真一文字に薙ぐ__。

 

 

最後の物語 その13へ続くーー

最後の物語 その11

 はだんだんと強くなり、遠くからたたなづく薄墨色の雲はまたたく間にカラスの大群のように真っ黒になって広がる。道は混んでいて、赤信号に何度も捕まった。家までまだ15分はかかるだろうかというタイミングで、空がひび割れるような雷の音がして、どろっとした白味のように重い雨の粒が天から一斉に落ちてくる。激しい雨の打擲の音が車の屋根で鳴り続ける。断続的に突風が吹くと、雨粒は弾丸のように車のフロントガラスにぶつかり、血しぶきのように散る。なんとなく楽観的に天気が持つような気がしていたが、荒ぶる台風に捕らえられてしまったようだった。悠葦は舌打ちをしたが、虚しく雨音にかき消される。

 家に帰って玄関のドアに鍵をさして解錠しようとしたところで、鍵がかかっていないことに気づく。家人の不用心に腹を立てて、わざと勢いよくドアを開け放って中へ入る。反動で帰って来たドアが、悠葦の背後で閉まったとき、いやに良く音が響いた、まるで、家の中に誰もいないかのように。部屋の中はとても静かだった、静かだけなら良いが、気配すらない。そこで初めて違和感を覚え、中を観察するようにじっと見る。

 「おい!」

 威嚇するように、彼は大きな声を出した。しかし、それはドアと同じように、がらんとした空間で響く。

 __ここには、誰も、いない。

 彼は見るより先ににそれを直感して、部屋の中へ飛び込む。そしてただ、自分の直感が正しいことを確認する。本当にそこには、誰もいない。乱暴に家族の服を詰め込んであるクローゼットを開けると、妻がいつも使っているバッグと、服が数着無くなっている。引き出しも漁ってみるが、息子の服も、妻の下着も消え失せていた。何が起きたかをようやく理解して、彼は腹立ちに任せ、残った妻の服を引っ張り出すと、力いっぱい床に叩きつける。逃げやがった__。

 「逃げやがった!」

 彼は一人で大きな声を出し、玄関の外へ飛び出す。何のあてもないくせに、アパートを出て、目の前の道を走って行く。雨風に打たれ、ずぶ濡れの異様な風体になりながら、闇雲に突き進む。当然ながら、妻子の姿などそんな近くに見当たるはずもない。とうとう彼は立ちすくんで、正面から矢のように叩きつける雨を全身に受けながら、はるか道の先、妻子が逃げていった道の先、を睨みつける。彼にそうさせていたのは、家族への執着というよりも、姉の喪失の記憶だった。

 「また、いなくなった__」

 まるで抑圧しようとした姉の記憶が、現実の現象となって回帰したかのように、妻子が消えてしまった。彼は訳のわからない叫び声をあげた、どこにいるのかもまるで分からない、失踪した姉へと向けて、叫び声をあげる。この地に繰り返し訪れる地響きが台風に呼応するように、街を囲んでいる山を揺らし、その軋みがが足元へ伝わる。そのとき彼は、憎悪の塊だった、いったい誰に向けた憎悪なのかも分からず、あるいはこの世の全ての者へ向かう憎悪を、彼は全身の毛穴から噴き出してしまいそうなほどみなぎらせている。

 

 妻子がいなくなったということを、彼は誰にも言わなかった、何くわぬ顔で仕事へ向かい、飯を食い、また家に帰る。ただ、彼は帰途において、あの男のマンションに立ち寄り、そこで30分ほど停車して様子を伺いながら、一度だけ、男に電話を入れる。

 __どうしてあいつは、息子の名前を知っていたのか。

 妻子がいなくなった後、彼は遅まきながらそのことに疑問を持った、「真栄くん」とあいつは言った、息子の名前を読んだ。あの食卓では、息子はただ黙って座っていただけで、特に名前を言う機会もなかった、もちろん、自分からあの男に息子の話をしたこともない。まさかとは思いつつ、男と妻子が一緒に逃げたような気がしてならない。出会ってたった一週間たらずで、男と女が一緒に逃げる? 馬鹿げた話だった、だが、妻ならやりかねない、そのことも分かっている。あれはそういう女だ、と悠葦は思う。かつて、自分もまた、たった二度会っただけの彼女を連れ出したのだから。人は同じことを繰り返す生き物だ、それが常識から外れていれば外れているほどに、それを繰り返したいという衝動は強くなる。

 一週間ほど、毎日男のマンションを訪れ、様子を窺った、もとより男と妻子を見つけられるなどとは思っていなかった、ただ、そうでもしなければ、気持ちが落ち着きそうになかった。だから、その日も同じようにもう切り上げて帰ろうとした時だった、マンションの階段を、誰かが周囲を気にする様子で降りてくる。まさかと思い、じっと目を凝らした悠葦は、思わず噴き出しそうになる。そのまさかの、あの男が、黒バッグを抱えて、駐車場に止めてある車めがけて走って行く。流石に失踪した時に乗っていた仕事の車ではなかったが、悠葦はその車に見覚えがあった。男は一人のようだった、慌てて逃げるように、車のエンジンを抱えてさっさと発進させる。やはり思い過ごしで、男はただ単に、例えば借金だとかそういう理由で一人で逃げただけなのだろうか。そんなことも考えてみるが、まだ確証はないので、彼もまた車を発進させ、男の後をつけることにする。

 間に一台車を挟みながら、悠葦は男を尾行する。さすがに真後ろならバレそうなものだが、これなら全く気づく様子はない。男の車はただただ、国道をまっすぐ走って行く。わずかな距離を移動する、と言う感じではない。男の車は止まる様子はなく、普段の生活圏となるようなエリアを超えて進む。悠葦は、かつて自分が妻を連れてあてもなく走り続けた時のことを思い出す。あの時見えていた、淡く光り輝く世界の、この上なく生々しい手触りを、あれから自分は一度も体験できていない。もし男が妻子と逃げているのだとしたら、今その感覚を味わっているかもしれない。それはまるで、生きている動物の胸腹を真一文字に裂いて、まだ鼓動する心臓に直接触れたかのような、そういう暖かく血なまぐさい感覚だった、人をバットで殴って血まみれにして、女を連れて逃げたあの瞬間ほど、自分にとって確かな実存の経験はない。それから2時間ほど車は走り続け、ついには県境をまたぐ。そこでようやく男は道から外れ、坂の上にある住宅街へと入って行く。並んでいる家は40年ほど前くらいに建てられたようなものばかりで、新しい家はほとんどない。そして男が停車したのは、やはり40年ほど前に立てられただろう、四角い箱と呼ぶのにぴったりなマンション群の中にある駐車場だった。車から出てきた男は、さっきとはうって変わって安堵したような表情をしている。どういう経緯かは知らないが、ここに住んでいるらしい。もともと住んでいたマンションと、全く同じような雰囲気の場所だった、それを見て、あの男は定住することを苦に思わない人間なのだと理解する。妻もまた、よくもまあそんな男と逃げたものだと思う。何の証拠もなかったが、すでに悠葦はそれを直感していた、自分もまた車から降り、男への尾行を続ける。 エレベーターの無いマンションの階段を上がり、3階まで来た男は、奥の方へ進み、一つのドアをノックする。中から出て来た子供を見て、「ああやっぱり」と悠葦は思う。間違いなく自分の息子だった、だから当然、妻もあのドアの向こうにいるのだ。息子は笑顔だった、男も笑っていた。証拠を押さえたら、男を殴り倒して妻子を連れ戻そうという気持ちさえあったのに、それを目撃した瞬間、自分が不可解なほど冷静になっていくのを感じた、本当は、この光景を見たがっていたような気すらしてくる。妻が自分の前から消えることを恐れながら、姉の喪失の反復をどこかで求めていたという矛盾を、彼は抱えていた。屈辱と怒りと、それを覆い尽くして余りある安堵感。凍傷を起こしてしまいそうなほど冷たい孤独で体をひりつかせながら、ゆっくりと彼は帰っていく。これからどうしようか、と思う。悠葦はここからどこにも行けないような感じがしている、もはや自分の家ですら、自分が帰って良い場所ではないような、そういう感覚がして、車を発進させると、そのまま家があるのとは反対方向へ向かって走り始める。

 

 結局、彼は家に帰らなかった、一晩車中泊を経て、次の日の仕事にも行かず、再び走った。そしてもう一晩寝てから、また走り、そしてまた一晩。

 __俺は、たぶん、家族について、何かの期待を抱いていた。

 朝起きた彼は、突如そう思った。そこで初めて、自分が絶望していることに気づく。家族に対する強烈な否定感情と同時に、それに対する無自覚な依存というアンビバレンスが、自分の知らないところで、自分を引き裂いていたのだと思い至る。しかし、いったい何を期待していたというのか。幸福? 愛情? それを素直にそう呼ぶことはできないと思った、強いて表現するなら、自分に植え付けられた欠落感を、埋めてくれる何かだった。「失敗した」家族に生まれ落ちた自分が、父親とは違って「失敗ではない」家族を持ちうるという期待、と呼べばいいのかもしれない。しかし、失敗ではない家族の営み方など全くわからず、失敗した家族以外のパターンでそれをすることはできなかった、ただただ、同じような家族を再生産しただけだった、あたかも、自分が父親のコピーであるかのように。そんなことを考えていると、気分が悪くなって来て、だんだんと視界が暗くなってくる。このまま失明してしまうのではないかという強迫観念に襲われ、思わず車を路肩に止めてハンドルにうつ伏せになる。視界がぼやけ、彼は冷や汗をかいていた、洪水のような不全感に神経が犯され、体がホメオスタシスを失っていく。彼はまるで自らの魂を吐き出すかのように、嘔吐してしまう。そしてそのまま、意識を失った。

 「__すいません。ちょっと、すいません」

 窓ガラスをノックする音で目が冷める。そこには警察官がいて、こちらを窓越しに覗き込んでいた、すぐ真後ろに、パトカーが停まっている。誰か通報したのだろうか。悠葦は、足元の吐瀉物を見られないように、とっさにそれを踏みつけて隠す。

 「どうかされましたか」

 「いや、ちょっと眠かったんで」

 「大丈夫ですか?」

 「もう大丈夫だよ」

 「ちょっと、免許証見せてもらっても?」

 「……どうぞ」

 「今日は、仕事お休みですか?」

 「……まあ、そうだけど」

 悠葦のひどい表情を見て、警察官は何か違和感を感じたようで、探りを入れてくる。いくつか質問をした後に、トランクの中身を見せて欲しいと言われた。それを不快に思いながらも、いちいち抵抗する方がもっと不快な思いをする可能性があると考え、「好きにすれば」と答える。トランクを調べて戻って来た警察官はまだいろいろ調べたそうに見えたが、ネタが尽きたのか、不服そうな顔で悠葦を解放する。

 パトカーから逃げるように車を走らせながら、彼は自分の目が光を感じることを確かめ、安堵した。ただ、もう限界だった、これ以上走れないと思う。車を方向転換させ、ずっと進んで来た道を帰ることにする。他に行くところはなかった、だから彼は、自分の家に行くことにする。もはやそれは自分の居場所ではなかったので、彼はそこに帰るのではなく、そこに行くとしか感じられない。

 

 家に着いた時、彼は疲れ切っていて顔は土気色、墓場のようになった家に入るゾンビさながらだった。郵便受けに溜まったチラシや封筒を抜き取ると、ドアを開けて部屋に入り、それを床に撒き散らすように放ってから布団に倒れこみ、そのまま眠りにつく。目を閉じると闇の底へ引き摺り込まれ、もう二度と自分は目覚めないのだと思った。彼は眠り続け、起きた時には長すぎる睡眠のせいでいつまでも意識が覚醒せず、もう何日も日が経っているような気がした。

 ようやく体を起こした時、時間帯は夕方で、窓が西向きの部屋に毒々しい真っ赤な光が差し込んでいた。口の中がひどく乾いて、吐きそうなくらい気持ち悪い。周囲には帰った際に放ったチラシや封筒が散乱している。その中の一つ、枕元に落ちていた緑色の封筒に目が止まる。差出人は、市の福祉事務所、全く心当たりのない相手だった。いったんキッチンまで行って蛇口から水をがぶ飲みした後、いったい何の用があるのか検討もつかない福祉事務所からの封筒を拾い上げ、乱暴に破って中に入った文書を取り出す。

 

 扶養義務の履行について

 次の方は当福祉事務所において、困窮により生活保護法による保護を申請中です。生活保護法においては民法に定められた扶養義務者からの扶養が、生活保護よりも優先して行われることとされております。

 つきましては、保護決定の実施上必要となりますので、あなたがどの程度扶養することができるかについて、別紙様式にてご回答ください。

 生活保護対象者__

 

 そこには、生みの母親の名前が記されている。養子に出されて以来、一度も会っていなかったし、互いに会おうとすることすらなかった、だから、悠葦の中ではすでに縁が切れているものだと思っていた。しかし、全く自分のことなど知らず、書類上でしか確認していない役所からの通知は、その極めて事務的な無味乾燥さによって、かえって彼と母親の間のどうしても切れない縁を強調しているようだった。幼い自分が散々父親から殴られている時に、ただ無気力な目で宙を見つめ、一度たりとも助けようとしなかった母親を、どうして自分が今、助けてやる必要があるのか。あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑いすらこみ上げてくる。

 __自分には、家族がいた。

 そのことを改めて突きつけられ、彼はまるで完全に忘れていたことを思い出したかのような気がする。どうして俺にはそんなものがあるんだ、そんなものがあるから俺は苦しみ、無益にも自分の家族を持ち、それを失って絶望している。なぜ俺は、希望のないところに、むざむざ希望を抱こうという愚かな試みをしてしまったのか。そんな言葉を心の中で反芻しながら、次第に、彼の心意は一つの考えに収斂していく。

 __俺は、もう一度だけ、生みの家族に会いに行かなくてはならない。

 ただし、それは家族と「再会」するためではない。彼は、布団を足で踏み、ゆっくりと立ち上がる。

 __もう一度だけ、会いにいかなくては。俺の家族を、この世から消し去るために。

 

 

最後の物語 その12へ続くーー

 

最後の物語 その10

 (フィリピン海上で発生した台風12号は北上を続け、7日土曜日には南西諸島を通過し、その後西日本へと上陸する見通しです。今日10時現在大型で非常に強い台風となっており、推定値は中心気圧が930ヘクトパスカル、最大瞬間風速70メートルです。このまま上陸すれば大きな被害をもたらす可能性があり、十分な注意が必要です。今後の台風情報にご注意ください)

 あくる日の仕事は、妙に疲れてひどく眠かった。公園脇の道路に車を停めて、ラジオから聞こえるニュースを聞き流しながら仰向けでじっとしている。

 「お父さん!」

 子供の声が聞こえて、悠葦はそちらを見る。自分の息子と同じくらいの年齢の男の子が、道の真ん中に立って手を振っていた。もう一方の手を、母親らしき女性とつないでいる。男の子の視線の先を追うと、そこには父親らしき男性が歩いてきており、男の子に応えて手を振り返す。二人を迎えに来たらしい父親に子供がじゃれついて、父親も笑顔で相手をしてやっていた。そしてその後は、子供を真ん中にして、それぞれ手をつなぎながら、どこかへ帰って行く。テレビCMのような家族を見ながら、きっと家族を作る誰もが、ああいうものを目指しているのだろうと悠葦は思う。ならば自分もああいうものを理想として描いていたのかと言われれば、はっきりとそれは違うと答えるだろう。それなら一体、なぜ自分は家族など持とうと思ったのか。結局のところ、自分は父親のコピーになろうとしただけなのか。確実なのは、そこに選択肢がなかったということだった、人の人生の可能性は無限にあるのだとしても、狭い世界で生きていた自分が子供の頃に直に接していた大人は結局父親だけで、だから自分が現実的な手触りを感じることができた選択肢はそれだけでしかなかった。夢や理想と呼べるようなものを、悠葦は知らない。自分の人生には、いつだって選択肢と呼べるようなものがないのだ。

 __姉を救うことはできなかった。

 大人になって、彼はそんな風に考えるようになっていた。選択肢はなかった、だから、姉はどこかへ消えてしまう運命だった、密かにルームミラーにぶら下げたウサギのぬいぐるみを見る度、心の中でそう繰り返す。念仏のように唱えていると、自分の無力感や罪悪感から来る苦しみや苛立ちから逃れることができる。ずっと姉のことを忘れずに生きて来たはずだったが、今ではそれを忘れようとすらし始めている。姉についてのそれでさえ、少しずつ、家族についての忌まわしい記憶の一部になりかけていた、だから、それらを全て、捨ててしまおうとしている。

 悠葦は短い休憩を終えて、車のエンジンをスタートさせる。ハンドルを握ると、さっきの家族にこのまま突っ込んで、自分も含めて何もかも破滅させてしまいたい衝動に駆られる。だからゆっくりと車をバックさせて方向転換すると、さっきの家族が歩いて行ったのとは正反対の方向へ走り始めた。ひどく恥ずかしい気分だった、それが何に対しての感情なのか分からないが、ただただ、顔を伏せたいくらいに恥じ入っている。

 

 仕事を終えて営業所に戻り、帰宅しようとした悠葦を待っていたかのように、例の同僚の男が外の喫煙所でタバコを吸っていた。二人の目が合うが、互いに何も言わず、そのまま数秒の間があった。

 「悪かったな昨日は」

 不意に、男がそう言う。悪態の一つでもつくのかと身構えていた悠葦にとってそれは奇妙で、返す言葉も見つからずに男を見たままでいる。

 「普段は独り者だからよ、ついつい」

 男はそう続ける。どうして謝ろうとするのか、悠葦には理解不能だった、悪態をつかれてやり返し、ケンカ別れしてそれ以降は口も効かない、それで良かった。自分の非社交的な性質を差し引いても、男の態度はどこかおかしいと思う。

 「独り者だから? なんだよ、人恋しいとでも言うつもりか」

 「そんな嫌味な言い方するなよ。たまには他人と飯を食って喋りたい日が誰にでもあるだろ」

 「俺にはねえよ」

 「無い? じゃあ、なんでお前は結婚して家族を持ったんだ?」

 「……女とヤってガキができた。それだけのことだよ」

 「おいおい、事実はそうだとしても、そりゃ随分身も蓋もない言い方だな。奥さんと真栄くんにも悪いだろ」

 「別に、事実だろ」

 「そうかも分からんけど……じゃあお前にとって家族ってなんだよ」

 悠葦はそこで言葉に詰まる。家族について感情的な部分で思うことはあれこれあるが、理屈の部分でそれが何かという定義について考えたことは、自分にはただの一度も無いのだ、とそこで初めて気づく。

 「……何でも無いな」

 「何でも無い?」

 「空洞だよ。俺にとって家族は、がらんとして何も詰まってない」

 男は、一瞬だけ怯えたような目をする。悠葦の言い方は、とても乾いて、冷たくて、空虚だった。

 「なんだよそれ、カッコつけてんのか?」

 「率直に、そう思ってる、いや、そう感じてる」

 それを捨て台詞にして、悠葦は男の目の前から歩いて去っていく。男は唖然とした表情をしていたが、それ以上声をかけてくることもなかった。

 

 それから三日後の夜、いつもの時間に家に帰った悠葦だったが、いつもと違って妻が家に居なかった。部屋の中へ入っていくと、青白い蛍光灯の光の下で、薄汚れたおもちゃを握った息子が、不器用な手つきで遊んでいる。その鈍臭い姿には、いつもどこか彼をイラつかせるものがある。

 「おい」

 呼んだ瞬間、息子は身をすくませて、強張った手からおもちゃを落とす。父親に殴られることに怯えきって、声を聞くだけでも体を固くしてしまう。かつて同じように殴られ続けていた悠葦だが、別にそれに対してなんの同情もしない。自分はもっとましだった、と思う。殴られても殴られても、いつか必ずこいつを殺してやるんだという復讐心を燃やし続けていた。実際はどうあれ、少なくとも大人になって形成された彼の記憶の中では、幼い彼は小さい体にそういう満腔の反骨精神を宿していた。そして、自分は息子より優れているのだというその考えには、彼をどこか安堵させるものがある。彼にとって、息子は自分より劣っているべき存在だった。

 「あいつはどこへ行ったんだ」

 「……買い物」

 「買い物? それならもう帰ってる時間だろ」

 「……」

 「何黙ってんだよ」

 「……遅くなるって言ってた」

 「遅くなるって何でだよ」

 「……」

 「おい」

 息子はますます身をすくませて、少しずつ壁際までにじり寄って逃げようとする。そして今にも泣き出しそうな顔で、か細い声を絞り出す。

 「……知らない」

 「あ?」

 「分かんない」

 「何で分かんねえんだよ?」

 「……だって」

 衝動的に、悠葦は息子の胸ぐらを掴む。ひぃひぃとか細く息を吐きながら、目には涙をにじませ、息子は訪れる暴力に虚しく身構えている。

 「だって?」

 「だって……本当に知らない」

 言い終わると同時に、悠葦の平手が息子の頭を殴打する。息子はその場に崩れ落ち、頭を押さえて荒く息を繰り返す。泣くのを我慢していた、泣けば、泣き止むまでもっともっと殴られる。その姿を見ながら、悠葦はそれが何かひどく滑稽に見えてきて思わず噴き出す。急に許してもらえたの だと期待したのか、息子は顔を上げる。けれども、悠葦は悪意に満ちた笑みを浮かべながら、もう一度殴る。そして、二度、三度。とうとう泣き出してしまうが、悠葦は息子の顔面を掴んで泣き声を封じ込める。息子の弱さが、彼の嗜虐性を刺激する。

 その時、玄関のドアが開いた、物音と気配で妻が帰ってきたのだとわかる。部屋に入って来た妻は、顔を押さえられた息子を発見して息を呑む。

 「どこへ行ってた?」

 「どこって、買い物」

 「いつもより遅い」

 「今日は、スーパー以外にも行く店があったから」

 「店?」

 悠葦は妻に近づくと、襟首をつかんで押さえつける。

 「痛いっ」

 「どこの店だ」

 「どこって……」

 「言えよ」

 悠葦は手に力を込め、痛がる妻に一つ一つ今日行った店の名前を挙げさせる。支配欲が満たされるに従い、情欲が頭をもたげてきて、彼はお決まりのように妻を風呂場まで連れて行こうとする。

 「……やめて」

 絞り出すような声とともに、妻は自らを支配する悠葦の腕に抵抗しようとする。悠葦はそれに驚いて動きを止めると、じっと妻の顔を見つめる。今までならば、確かに妻は進んで従うそぶりを見せることはなかったが、しかし抵抗するそぶりを見せることもなかった。まるで性処理の人形のように力なく悠葦にされるがままだったのに、初めて彼女は意思を示している。それは、彼の世界に突然闖入した異物のように映った、それは彼の奥底にある他者への怯えの感情を揺さぶり、神経を逆撫でする。家庭は彼の箱庭で、そこに、彼に逆らう者など、存在して良いはずがない。

 「てめえ!」

 怒鳴り声と同時に、彼は妻の顔を殴りつけていた。その体は背後のドアに激しくぶつかって大きな音を立て、そしてそのまま床へ崩れ落ちる。頭を押さえて、妻はうずくまった、それがまるで彼から身を守ることで抵抗を試みているように見えて、悠葦はますます怒りを募らせ、妻の髪の毛を引っ張って顔を起こす。痛みと恐怖で喘ぐ妻を見ると、ドアノブで打ったのかその額からは赤い血が滴っている。そこまで相手を傷つけるつもりはなかった、彼はかすかに狼狽したが、それでも髪の毛を掴む手を話そうとはしない。彼は恐怖を感じていた、妻が、自分の目の前から消えてしまうような感じがしたのだ。あの日、姉が消えてしまった時の記憶が鮮明に蘇り、失うことの恐怖が、吐瀉物のように腹の底からせり上がってくる。彼は必死で妻の髪の毛を押さえつけ、彼女がもがく度、動きを止めようと殴りつける。動きを止めなければ、彼女が目の前から消えてしまう。彼は恐怖に支配され、パニックを起こしている。その時、背後から火のついたような息子の泣き声が聞こえた。

 「静かにしろ!」

 彼は叫んだが、息子は泣き止まない。息子もまた、感じたことのない恐怖でパニックになっていた、息子の目には、父親が母親をなぶって殺そうとしているように見えていた。近所の人間に聞かれて、警察だの児童相談所だのに通報されては困ると思い、舌打ちをしてやむなく妻から手を離すと、悠葦は息子に近づいて行く。そして再び息子の顔面を鷲掴みにすると、泣き声をあげられなくなるまで締め上げる。殺してしまいかねないほどに、強く強く力を込めていく。もはや彼は、自分で自分を制御できそうもない。鬱血して色が変わっていく息子の顔をただただ眺めているだけだった彼の背中に何かがぶつかってきて、彼はよろめく。それは彼の妻で、必死に彼の手から息子を取り返してくる。乾いた血で額をべとつかせている妻は泣き声を上げながら、顔面蒼白になっている息子を抱きしめていた。彼は動きを止める、そしてそれ以上二人に危害を加えることはなかった、そこでようやく、彼は自分が危うく二人を殺してしまうところだったことに気づいた。目の前の母親と抱きしめられる息子は、まるで一つの存在のようで、それゆえに、自分たち以外のものから閉じている。その母と子の結びつきが、まるで自分を排除しているようで悠葦はたまらなく不快な気分になるが、彼はそれでも動けない。妻の姿はまるで、自分を庇おうとした、姉のようだった。感情はどんどん複雑なものになっていき、彼は去来するものを眺めるようにしている、そうしていると、少しずつ、自分が自分から切り離されているかのような感覚__幼い頃、父親に殴られていた自分を守っていたあの感覚が、甦ってくる。

 

 「おい、あいつどこにいるか知らねえか?」

 珍しく、営業所の所長が悠葦に話しかけてきたかと思うと、そんなことを尋ねられた。

 「あいつ?」

 「あいつだよ。お前ら一緒にパチンコとか言ってんだろ」

 どうやら、あの男のことを聞いているらしい。

 「知りません。たまにあいつが誘ってくるだけで、俺から連絡とって誘うことなんかないし」

 「本当かよ。参ったな、あいつ昨日から急に行方不明なんだよ」

 「行方不明?」

 「仕事中にだよ。会社の車に乗ったまんま、どっかに消えやがった。消えるなら、終わった後に自分の車で消えろってんだよ。こんなことされると俺のカントクセキニンが問われる」

 そう言って所長は奥に引っ込んだかと思うとまた帰ってきて、悠葦にメモ書きを手渡してくる。

 「あいつの住所だよ。お前、ちょっと行ってきてくれ」

 所長にそう言われて、悠葦は仕事を午前中で切り上げると、受け取ったメモに書かれた住所に向かって車を走らせた。毎日単調な仕事をやって、その退屈さをギャンブルへの依存で誤魔化すようことの繰り返しの日々が嫌になったのだろうが、わざわざ仕事中に消えるようなことをしなくても良さそうなものだと思う。帰宅後にこっそり消える方が発見もされにくいだろうに。そんなことを考えながら、悠葦はハンドルを操作する。

 男の住所には、築40年は超えているであろうマンションが立っていた、雨風で黒く汚れ切ったコンクリートの壁が、家賃の安さを物語る。鳩の糞で汚れた階段を上がり、3階にある男の部屋のドアをノックする。1度2度と叩いても、3度4度と叩いても、案の定男は出てこない。郵便受けに突っ込まれた数枚のチラシが、近づく台風の風にあおられてガサガサと音を立て、男がしばらく帰っていないことを知らせているようだった。無駄足だったなと思いながらも、悠葦はじっとドアを見つめている。何か妙な感じがした、直感でしかなかったが、そこに誰かがいるような気がしていた。もう一度だけ、ドアをノックする。その瞬間、小さくて短い、子供の声を聞いた気がした。耳を近づけ、ドア越しに音を聞こうとする。何も聞こえてはこない、だが、ドアを隔てたそこに、息を殺して自分の様子を窺う、誰かが存在しているような感じがする。

 「誰かいるのか?」

 声を出してみる。当然、返事はない。しばらくそこでじっと待ってみるが、やがて、悠葦は踵を返す。たとえそこに誰かいるとしても、自分に何の関係があるのか。会社に義理立てするような動機もないので、必死になって男を探そうとも思わない。あいつが消えたいのなら、好きにすればいい。そのまま、悠葦は階段を降りると、車に乗り込んで、エンジンをスタートさせる。

 

 

最後の物語 その11へ続くーー

最後の物語 その9

 

 響きを聞いていた、骨の髄そのものが微かに震えているような感覚と同時に、はるか地の底から、大蛇の蠢きのような、苦悶する男の絶唱のような、音が聞こえていた。夜半闇の深い時刻にそれが身体を縛り震わせるとき、精神もまた囚われて悪夢に飲まれてしまう。地響きの都度に決まって見る夢は、いきなり現れた頑強な体躯の老人に首根っこを押さえつけられて、睾丸を握りつぶされるという不快でおぞましいものだった。もがくように身をよじって目を覚ますと、汗で寝具は湿り、口の中は渇いて、反面ひどい尿意に襲われる。10代の頃からずっと見ている夢だった、地響きにこの地域が震える度に繰り返され、結婚して子どもを儲けた今もなお苛まれる。ただ、10代の頃には恐怖を感じていたその夢に対して、25歳になった今では羞恥を感じている。まるで自分が思春期とひと続きの心理の中にいるような、ひどく未熟な人間のように思える。さらに言えば、その夢の老人が自分を殴っていた父親の像を反映しているものだとすれば、所詮自分の心理は幼少期とひと続きなのかもしれない。安物の薄い布団の上で起き上がり、日々繰り返す肉体労働のせいで太くなった腕を見つめる。すでに消えかけている記憶を頼りに、幼少期に見ていた父親の腕と比べて自分の太さが勝っているかどうか考えている。父親はこの太さの腕の力で、自分を殴っていたのだろうか。今、自分が息子に対してやっているのと同じように。彼のそばには、妻と息子が寝息を立てている。そばに居たいからではなく、ただ部屋が狭いからというだけの理由で、彼と妻子はそばで寝ている。子供の腕には父親に鷲掴みにされてできた痣が浮かんでいるが、暗闇の中では見えない。

 あの時自分は、もっと重い罪に問われているべきだったのかもしれない。殴った男は思ったより軽症で、連日理不尽な言葉を浴びせられていた事実も考慮され、少女を連れて逃亡したことについても、そこに同意があったことを少女が認めていたので、悠葦は保護観察処分にしかならなかった。自分は男を殺し、少女を殴って拉致し、強姦しているべきだったのかもしれない。低俗な罪を犯し、超俗な法によって厳罰を与えられ、孤独の縄で縛られているべきだったのかもしれない。見捨てられ、世界の片隅の溝に落ちて見向きもされない、それで良い、むしろそうなりたい、と思っているくらいなのに、なぜ、自分は俗世間のありふれた生活に甘んじようとしたのか。

 「……どうかしたの?」

 とっさに目が合った妻が尋ねてくる。目を覚まして物思いにふけっていた彼を、彼女は見ていたのだ、彼は彼女が起きていることを知らないのに、彼女は彼が起きていることを知っていた、その事実を悟られまいとするかのように、彼女は目が合った瞬間、さもたった今起きたかのような調子で尋ねた。

 「どうかしてるように見えたか?」

 「別に、ただ急に目を覚ましたみたいだったから」

 「急に目を覚ましたくらいで、何かおかしなことがあるように見えたのか?」

 悠葦は妻の肩を掴み、暗闇の奥から彼女の顔を覗き込むようにする。

 「やめてよ」

 彼女は身をよじって逃れようとしたが、肩を掴む悠葦の力はそれを許さない。

 「言い方が気にくわないんだよ」

 「何も、おかしなこと聞いてない」

 「俺の心理を先回りするような、言い方をやめろって意味だよ」

 「そんなこと言っても、気を遣わないなら遣わないで、腹立てるくせに」

 次の言葉より先に手が出た、頰を張られた妻は、虚ろな目でうつむく。睨み返したりはしない、子どもの頃から暴力を受けて来た彼女は、それに慣れすぎている。言葉では言い返すのに、肉体が傷つけられた瞬間に、彼女は反抗する姿勢を崩す。それはまるで、抵抗よりも誘発のための行為に見える。その従順さに性欲を掻き立てられ、彼は妻の体をまさぐり始める。妻がまだ少女だったころに、海辺の車の中でそうしたのと同じように。妻は喜んでいるようには見えなかったが、無抵抗のままでいる。とはいえ、それは彼の関心事ではない。隣に息子が寝ているのもおかまいなしに、彼は妻に覆いかぶさる。二人は暗闇の底に横たわっている、重い呻きの声のような喘ぎが、蛇のように床を這い回る。横たわる息子は起きているのか寝ているのか、腕に浮かんでいる痣を手で押さえながら、まぐわいをする両親のそばで身を固くするかのようにじっとしている。

 

 銀色の玉が、繰り返し繰り返し上がっては落ちて上がっては落ちて行くのを見ている。パチンコ台の真ん中でスロットの数字がくるくると回って、表示されているアニメキャラの派手な演出が期待を煽り、そして萎ませていく。悠葦はカラカラと音を立てて落ちて行く玉に、人々の人生を重ねてみたりする。いくつもの玉がチャッカーに入ることすらできずに無駄死にしていく中で、ほんのわずかな玉だけが、大当たりを引き当てる。ただ、人の世には、チャンスを狙うために打ち上がることすらない人生もまた無数にある。そう、ここで無駄な時間を浪費し続けているだけの、自分のように__悠葦はそんなことを考えながら、まるで自傷行為のようにパチンコを続けている。

 「お前全然ダメだな」

 背後から、男の声がする。背中合わせでパチンコを打っていたその男の足元には、パチンコ玉のケースがいくつか積み上げられている。

 「調子いいな」

 お愛想程度に、悠葦は答える__少し歳を取って、悠葦は少しくらい他人に合わせた言葉が使えるようにはなっていた。といっても別に他人と仲良くしたいからではなく、そうする方が面倒なことを避けられると学んだからに過ぎない。

 「釘をな、読むんだよ」

 「釘?」

 「何にも知らねえな、お前。そんなことも知らねえから、パチンコ屋にカモにされるんだよ」

 男は笑って、悠葦の肩を叩く。悠葦はその手を振り払いたい衝動に駆られたが、パチンコ台の画面を見てごまかす。

 「お前といるときくらいしかやらねえから、パチンコ」

 「やっぱりよく分かんねえやつだな、普段いったい何やってんだ? 仕事ぶりもとにかくクソ真面目だし」

 「別に、何でもいいだろ」

 「俺は、心配してやってんだよ。先輩として」

 男は、再び悠葦の方に手を置く。

 「筋合いねえよ」

 その手をどかすように、悠葦が立ち上がる。男は同じ職場の同僚で二つ先輩だったが、悠葦はそういう口の利き方をする。そもそも悠葦には、先輩を敬うという慣習ががなんのためにあるのか分からない。本音ではどう思っているか知らないが、男は別に怒ることもなく悠葦と会話をしている。

 「もう行くのかよ」

 そのまま背を向けて店の外へ出て行こうとする悠葦に男が声をかけるが、悠葦は応えない。

 

 「なんだよ、いるんじゃねえか」

 パチンコ店の外でタバコを吸ってぼうっと立っていた悠葦を、換金を終えた男が見つけて近づいて来た。

 「探したのかよ」

 「バカ言え、店出たらお前がいたんじゃねえか」

 「そうかよ」

 車に乗せてくれという男を助手席に座らせ、悠葦はハンドルを握った。男は饒舌で、さっきのパチンコの話から始まって、アプリで出会った女と遊びに行ったが二回目にはつながらず、だから女がなびくような車が欲しいとか、そんな話を一方的にし続け、悠葦は終始苦笑しながら聞いている。こんな退屈な話でも退屈しのぎになってしまうくらい、彼は人生に倦んでいた、18歳の頃に疑問を感じていた、ギャンブルと女と車の話しかしない大人たちの一員になりかけている。ただ、自分自身そのことを自覚していて、だからそんな話を聴くときの彼の胸中は、いつもぞっとするほど冷たいもので濡れている。

 「よう、お前ん家、行ってもいいか」

 言いたいことが尽きると、男は出し抜けに言った。その要求に厚かましさを感じ、悠葦は思わず聞こえないくらいの音で舌打ちをする。

 「別に独り暮らしじゃねえぞ俺は」

 「分かってるよ。家族がいるから何だよ」

 ほとんど無視するように悠葦は黙って車を運転する。それでも男はあれこれ述べたてて悠葦の家に来ようとする。結局、悠葦はそれを断らなかった。はっきり言って、悠葦は男のことを友達だとは思っていない。ただ二人は共に日常に倦みきっていた、男はそれをごまかすために道化のように生きていて、一方で悠葦はそうなれないし、なろうとはしていない。だから、悠葦にとって男といることには、いくらか気を紛らわせるものがある。

 

 結局男は悠葦の家に上がりこむことになった。かつて悠葦が幼い頃住んでいた薄汚いアパートによく似て、夫婦二人と息子が暮らす部屋はせいぜい六畳程度の広さで、狭苦しくて当然来客をもてなすスペースもない。

 「俺の実家はもっと狭くてボロかったぜ」

 男はそう言って気にする様子もなかった、親が貧乏で中学を卒業して家を出るまで実家暮らしで、いい歳こいて家族四人肩を寄せあうようにして寝ないといけなかったと笑いながら話す。それでもいい歳こいても一緒に暮らせるような家族が居たのなら、悠葦にしてみれば随分幸せな話だと思う。

 「腹減った」

 男は遠慮なくそう言う。悠葦も妻も人をもてなすような料理を作ることはできなかったし、そもそも家に客が来たのも初めてだった。もちろん男の方も別にもてなしなど期待もしておらず、結局ただピザの出前を注文して息子も入れて四人で食べることにする。男は食卓でもずっと話していた、悠葦は男を連れてきたことを後悔しながら、ろくに相槌も打たずにピザを機械的に口に運び続けた。一方で、息子は初めは緊張していた様子だったが珍しい来客が嬉しいようで、徐々に慣れてくるにつれ男の話す内容などほとんど分からないはずなのによく笑っていた。妻も言葉こそ発しなかったが、息子につられるように時々くすりと笑いを漏らしている。男の話は決して面白くはなかったが、妻と息子は、少なくとも来客がいる間は父親から暴力を受ける可能性が低いので、緊張感から解放されたことで些細なことにも笑い声を出すようになっていた。その二人の笑い声に、悠葦は理由も分からず、腹の中に苛立ちが湧いてくるのを感じ、それを流し込むようにビールをあおる。

 「もうそろそろ帰れよ」

 二時間くらい経った頃、話を断ち切るような不躾さで悠葦は男に言い放つ。楽しげですらあった空気が突如張り詰め、妻と息子は怯えたように表情をこわばらせて下を向く。

 「なんだよ急に、俺の話つまんねえか?」

 「疲れてるし、もう寝てえんだよ」

 なんとか少し笑みを作り、なだめるような言い方をした男に対し、悠葦は単にめんどくさそうな顔をしながら、にべもなく言い捨てる。その様子に、上機嫌だった男もさすがに嫌そうな顔をして悠葦を見たが、特に争う姿勢は見せない。静かに席を立つと、「帰るわ」とだけ言って、部屋を出て行く。息子は機嫌の悪くなった父親に怯えて表情を固くし、うつむいている。

 「あ、忘れ物」

 机の上に置きっぱなしになっていた男のスマホに気づいて、妻がそれを手にとる。

 「届けてくる」

 悠葦と目を合わさずに妻は言って、男の後を追う。玄関を出て行く妻の背後で閉じるドアを見ながら、悠葦はじっと動かなかった。

 単にスマホを渡すには少し長い時間が経った。悠葦は横目でドアを見ていたが、様子を見に行こうとはしない。不自然と言うには少し短い時間が経ってから、妻は部屋に戻って来た。

 「遅かったな」

 「少しだけ話したから」

 「何を?」

 「別に……特には」

 「答えになってないな」

 「なんだって良いじゃん」

 適当なことを一つ二つ言えば良いだけのことなのに、妻は不器用でそんなことができない。まるで挑発のような言い方になってしまい、それを聞いた悠葦が反射的に妻の手首を掴み上げる。「痛い」と悲鳴をあげるが、それは悠葦の嗜虐性を刺激するだけで、手首はもっと強い力で捩じ上げられる。そして彼はそのまま妻を浴室まで連れて行き押し込めると、性行為におよぶ。男性器を勃起させて性的興奮に呑まれている間、彼の頭の中はいつも二つの記憶__父親に殴られている子供の自分と、失踪した姉の影を追いかける子供の自分__に支配されていた。ひたすら責め立て膨れ上がる記憶に感情を揉みくちゃにされ、苦しみにもがきのたうち回るように男性器を振り回し、毒素のような精液を吐き出す。妻の存在などまるで見ていない、感情の交歓など何もないような虚しいセックスだったが、彼にとって重要なのは征服感だけだった。その征服感が与える万能感をもってすれば、彼は父親に同一化し、姉を繋ぎとめられるかのような幻想の中に遊ぶことができる。

 

 

最後の物語 その10へ続くーー

最後の物語 その8

 誰かが遠くで、短く鋭く、炸裂するような叫びを上げているのが聞こえている。それが自分の叫び声だということに、悠葦は気づいていない。熱くなった体を、膨れ上がった心臓が何度も打ち鳴らしている。ハンドルを握る手は震え、死を前にした獣のように荒く息をして肩を上下させる。不安定に左右に揺れながら、危うい軌道で車はどうにか前進して行く。

 よく知った場所へと車は向かう。この道を直進して、角を右へ、一つ、二つ、三つ目の交差点を左へ。たどり着いたマンションの黒く汚れた壁には無数の亀裂が走っていて、午前中の雨水が染み出す膿のように亀裂に沿って残っている。__誰もが痛みを感じているのだろうか、この建物も、俺も、姉も、あの少女も。

 「えっ?」

 ドアが開いて、出てきた少女は、単純に驚いていた。彼女はまだ何も注文していなかったし、だから悠葦がここに来るはずはない。来るはずはない彼がここにいて、少女を見下ろしている。

 「ここに居たいか?」

 いきなり、悠葦が質問する。どういうことか分からず、少女はただじっと、彼を見上げている。

 「ずっと、ここに、お前の家族と一緒に、居たいか?」

 何か宣誓文を読み上げるかのように、ゆっくりはっきりとした口調でもう一度言い直す。少女はまだ動かない。なおも意図をつかみかねて、じっとしている。

 「俺が連れ出してやるよ」

 そこで初めて、彼女は反応らしい反応を見せる。精気が集まったかのように瞳の焦点がきゅっと合って、悠葦の姿を捉える。学校から帰ったばかりの彼女は、まだ制服を着ていた。その少女の腕を、悠葦はつかんで、自分の方へ引き寄せる。「連れ出してやるよ」という言葉は、まるで何か魔法のように、少女を魅了したのかもしれない。彼女は全く無抵抗に、悠葦の導きに身を委ねていた。二人はそれ以上ひと言も交わさず、影のようにコンクリートの箱をすべり抜け、あっという間に車に乗り込んでしまった。

 「どこへ行くの」と少女は尋ねる。「どこだっていいだろ」と彼は答える。会社の制服を着て、会社の車に乗ったまま、いつもぐるぐる廻っているコースを外れて、遠く遠くへと走って行く。10分も走れば、外の景色はあっという間に見慣れない姿へと遷り変わった、日常の外へ出ることが、いともたやすいことなのだという発見が、二人を昂揚させる。躊躇はない、街を飛び出して、さらに郊外の道を加速して行く。

 「あれは何?」

 小さな子供のようにはしゃいで、少女が窓から見える建物を指差す。

 「ショッピングモールさ」

 「何があるの?」

 「何でもあるよ。服も、マンガも、ゲームも、レストランとか映画館も」

 「行きたい!」

 少女は、全く子供と同じテンションで叫んだ。

 「いいよ」

 悠葦は答えると同時に、ウインカーを点滅させる。少女のマンションと違って、ショッピングモールの壁はひび一つ無いつるつるしたシャンパンカラーだった。

 周囲が眉をひそめることなどおかまいなしに、二人はショッピングモールの中を走り回り、大きな声を出す。ゲームセンターで遊んで、映画を観て、レストランでピザとパフェを食べる。

 「わたし、ピザもパフェも食べたことない」

 少女は初めての美味しさに感動しきりでいる。

 「俺はピザくらいあるよ」

 悠葦はそう言ったが、彼もパフェは食べたことがなかった。二人とも、大多数の10代なら経験しているようなことを経験せずに生きて来て、あまりに世界観が狭いので、ショッピングモールですら何もかもが新鮮に思える。

 食事を終えて、車は県境を越えて走り、ずっと郊外から郊外を伝うように進む。夜になるとコンビニのATMで金を引き出し、節約もせずに二人でホテルに泊まった。明日のためにいくら残そうとか、できるだけ安く済まそうとか、そんなことは考えない。まるで、今この瞬間だけが全てだとでもいうように、目の前のものを手に入れるのに必要なだけの金が手元にあればそれを使う。自分たちを取り巻く世界が、刻み込んだようにはっきりとした輪郭を持って浮かび上がり、淡く光り輝いている。二人には世界がこんな風に見えたことなど初めてで、それは多分、ほとんどの10代は経験したことのない光景だった。朝が来ると、また車を走らせて当て所なく進む。行き当たりばったりに食べたい店で食べたいものを食べ、遊びたい店で遊びたいように遊ぶ。そして再び夜が来るまで、ただただ進んで行く。それを数日間繰り返して、いくつもの県境を越えて行った。

 「ねえ、そろそろ泊まるところ探そうよ」

 夜の気配が満ちて来た頃、少女は相変わらず無邪気な調子で言う。けれども悠葦はハンドルを握ったまま、ずっと前を向いている。今までの浮かれた高揚感は、いつの間にか消えていた、少女は初めてそこで何か不穏な空気を感じて、悠葦の顔を見つめる。

 「ねえってば。どっか泊まろうよ」

 「……もう、金がない」

 ぽつりと、嫌に湿っぽい、ため息のような言葉が漏れる。そこには、姉と暮らすために貯めようと思っていた金を、会ったばかりでしかも素性の知れない少女と一緒に無目的に使い果たしてしまったことへの自己嫌悪も混じっている。

 「金がないって、どうするの?」

 「車の中で寝るしかないだろ」

 少女もまたそれをどこかで覚悟していたのか、特に文句も言わずに黙っって前へ向き直る。ただ、さっきまでの屈託無い表情とはうって変わって、ふてくされたように遠くを見つめている。

 その後も走り続けた車は、田舎の農道の中でようやく停まる。そもそもこの逃避行はバットで人を殴ったことがきっかけで、だからできるだけ人が来ないようなところを選んだつもりだった。時間はすでに深夜で、街灯もない道は夜の底へと落ち込んだように闇と静寂で塗り固められている。エンジンを切った車の中で倒したシートに体を預け、フロントガラス越しに、悠葦は田舎でしか巡り会えない、それこそ降り注ぐかのように輝く星空を、さらに高いところにいる存在を探そうとするかのように見つめている。

 「ねえ、お腹空いた」

 「何もないよ」

 「だって、何か食べないと」

 「明日、朝にコンビニへ行こう。まだ500円ある。パンくらい買えるよ」

 少女は黙って、悠葦の隣でシートに横たわり、空腹のおなかを抱える。文句は言わなかったが、どこか不満そうな態度でいる。悠葦はそれを無視するかのように、無言で目を閉じた。少女も無言で応え、眠りの尻尾をつかもうと目を閉じる。先に眠ったのは少女の方だった、その隣で悠葦は、小さく膨らんではしぼむ風船のような寝息を聞いている。

 

 「あの、すみません! こんばんは」

 まだ未明とも言えない、闇が溶けきらないうちの時間帯、悠葦は車のドアをノックする音に起こされる。寝ぼけ眼でそちらを見ると、懐中電灯を手に持った男が窓ガラスをこんこんと叩いている。悠葦がほとんど睨むようにその男を見つめていると、男はその強い警戒心を感じ取ったのか、懐中電灯の角度をずらして、自分の顔が見える程度に光が当たるようにする。その男の正体が警察官であることに気づいた瞬間、悠葦は顔にいくらか動揺を浮かべてしまう。平静を装った方がよかったが、とっさにそれを判断できなかったことを心の中で悔いる。警察官はすでに何か怪しいものがあると直感したようだった。再び明かりを車内に向け、助手席に制服を着たままの少女が、不安を全く隠そうともせずにこちらを見ている姿を視界に捉えると、警察官の顔には、もはや直感ではなくて確信の色が浮かぶ。

 「ちょっと、窓を開けてもらえますか」

 警察官がガラス越しに要求して来る。悠葦は応えようとはしない。

 「いいから開けるんだ」

 落ち着いたトーンだが、明らかな命令口調で警察官は再度要求する。悠葦はやはり応えない。その様子を見た警察官は一歩だけドアから下がると、装備している無線に手をかける。応援を呼ぼうとしているのだということは、悠葦にもすぐに分かった。もはや躊躇などしていられない。そう思った瞬間、ドアのロックを解除して開けるなり、そのドアを思い切り蹴飛ばして警察官にぶつける。完全に不意を突かれて、警察官は足をばたばたさせながらもバランスを失ってしまい、そのまま田んぼへと落っこちる。そして悠葦はドアを乱暴に掴んで閉めると、車を急発進させた。

 「何してんの?」

 さすがに取り乱した様子で、助手席の少女が尋ねる。

 「逃げるんだよ」

 「でも、あんなに派手にやったら……」

 「ああでもしないと逃げられない」

 「あれなら素直に捕まる方がマシでしょ」

 「捕まる? それは俺にとって最悪だ」

 「だって、私を連れて車で走り回ったくらい、大した罪にならないよ」

 「それだけならな」

 「どういうこと?」

 「俺は、ある男をバットでボコボコにして逃げてるのさ」

 自分でも驚くくらい直截に、悠葦はそれを告げてしまう。

 「なんでそんなことを」

 「クソみたいな、いや、クソ以下のヤツだったから。そして……」

 「そして?」

 「そうしないと、俺の存在が消えてしまうから」

 

 車はずっと、北へ北へ走って行く。二人ともひどく疲れた顔をしている。朝から口にしたのは500円で買えたコンビニのパンと水だけだった。たたなづくような厚い雲がどんよりとして、まだ夕方五時を回ったところなのにすでに空は暗く、世界はグレースケールの濃淡で表現された風景画のように見える。いつの間にか雨が降り出して、水と音が車の中でシートに体を預ける二人をその世界から隔てていく。人のいるところを避けて、いつの間にか車は海沿いの道を走っていた。切り立った崖の下で、驟雨にまみれた海は濁って、茶色いしぶきを上げながら蠕動している。すれ違うのはたまに走って来るトラックくらいで、寒々しい山水画のような光景の中、二人を乗せた車はぽつねんとして、弱々しい軌道を残しながら、灰色の霧の中へ飲み込まれていく。逃避行の始まりにはあれほどはしゃいでいた二人が、その日は朝からずっと笑いもしなければ喋りもしない。やがて車はのろのろと坂を下り、誰もいない海岸へとたどり着いて止まった。悠葦は疲れていた、ハンドルを握っていた手を離し、雨に濡れるガラス越しに空を仰ぐ。少女も同じようにしていた、ひどく疲れた顔で、空を仰ぐ。まるでこれから心中する老夫婦のように二人はそこに並んでいる。けれども二人は夫婦ではなくて、若くて、しかも、死ぬ気はなかった。

 「ねえ」

 「何だよ」

 「この世界から、消えてしまいたいって思うことはない?」

 「この世界を、消してしまいたいって思うことはある」

 「消してどうするの? あなたは独り、取り残される」

 「消えてどうするんだ? お前は独り、忘れ去られる」

 「忘れられたいの、私はこの世界の外側から、私が消える前と後で、何も変わらず回っていく世界を見つめている」

 「取り残されたいんだ、俺は虚無の荒野になった世界を、ひたすら歩いて行って、自分が存在することの絶対性を感じている」

 「だから他人を傷つけるのね」

 「だから他人から逃げるんだな」

 「あなたが壊した世界を、私は外から眺めてみたい」

 「俺が壊した世界に、お前を迎えてみたい」

 「でも無理ね、世界は壊れないし、私は世界の外へ出れない。たとえ死んだとしても、それは世界の内側で起きて完結するできごとでしかない」

 「たとえ無理でも、世界は壊れているし、俺は世界の外を垣間見れる。無意味な生の中にいても、一つの生は、過去の全てと未来の全ての両翼を広げている」

 「でも私たちは、親に殴られて、地に堕ちるのよ」

 「俺たちは、親を殴って、空に上がれる」

 「親を殴っても、空には上がれない。お互いに地に堕ちてるから。親子は鏡、あなたが殴っているのは鏡」

 「………………………………」

 突然、悠葦は黙る。少女の言葉に、思考の全てを停止させられてしまったかのように。

 「そこで黙るのね。そこがあなたの思考の涯て。後はそこから転がり落ちるだけ」

 やはり悠葦は何も言えない。この少女は自分よりはるかに無力だが、はるかに物事をよく観察している。途端に、自分がこの世のことなど、何もわかっていないように思えて来る。

 「私、帰る」

 唐突に、少女はその言葉を発する。

 「どうして?」

 「だって、もう終りでしょ、お金も行き先もなくて、これ以上何ができるっていうの」

  他意は無く、ただ単純にそう思っただけの言葉だったが、悠葦には、それが自分への失望であり拒絶であるかのように響く。

 「できるさ、何だって」

 そう言いながら、悠葦は少女の言葉よりも唐突に、少女の体へ覆いかぶさる。少女は驚いた表情を浮かべながらも、黙ったままで、とっさに出た右手を、悠葦の胸に当てて距離を保とうとする。

 「嫌か?」

 中学生の頃に同級生のアヤカに拒まれた記憶が全身を血液のように巡り、悠葦の手と唇を震わせる。いまだにそれは、独特の苦い記憶となって残っている。

 「私、帰る」

 もう一度、少女は繰り返す。その言葉は怒りや悲しみとは違った、単純な要求として発せられていた。しかし悠葦の中で、途端に、その言葉が、姉の喪失と結びついてしまう。ついさっきまで、まるで少女は一蓮托生であるかのように悠葦と逃避行を繰り広げていたのに、いきなり、自分から離れてしまおうとしている。その不条理なまでの変化が、ある日何の理由も分からないままに目の前から姉が消えてしまった時の混乱と恐怖を呼び起こす。口の中に渇きを感じ、目の奥でパチパチと火花が散るような感覚に襲われ、全身の拍動のスピードが上がって行く。もう次の瞬間には、手遅れだった、拳は振り下ろされ、少女の唇は切れ、紅を引いたように赤く染まる。二人はそのまましばらく見つめ合う、悠葦は拳を握ったまま、少女は痛みに疼くほおを押さえたまま。それは何か、二人にとって決定的な瞬間__暴力だけが人と人とをつなぐ環境を生きて来た二人の間に、おのごろ島を産んだ矛先の一滴のような何かが落ちた瞬間だった。多くの人から見れば不合理で不道徳であっても、二人にとっては、ごく自然に受け入れられる関係の始まりだった。悠葦は覆いかぶさり、少女は抵抗しない。ますます激しく降る雨の音も冷気も感じないほどに、全身を燃やす欲情に、二人は身を任せていく。誰もいないその海岸は暗く静かで寂しく、まるでこの二人の少年と少女以外には、何も存在していないかのような光景だった、ここが、世界の内側であれ、外側であれ。

 

 

最後の物語 その9へ続くーー