読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ 最終回

 京に着いたのは昼前で、夜の飛行機の出発まではまだかなり時間があった。

 「海が見たい」とヘイリーが言う。僕らはすぐに駅で行き方を聞くと、そのまま電車とバスを乗り継いで、太平洋が見える砂浜まで向かう。

 その道中、僕らはずっと無口なままで、砂浜に着いても、僕もヘイリーも何も喋らず、ただ、とぼとぼ、砂浜を踏んで海まで歩いていくばかりだった。晴れた日の、高く澄んだ青空が広がり、薄衣のような白雲がゆるやかにたなびいて、視界のはるか彼方へと溶け込んでいる。波は、ゆっくりと砂浜に寄せて、悲しみを誘うほどに静かに優しく引いていくことを、幾度も幾度も繰り返す。波の白い泡立ちは、まるでためらいの中へ失われていく言葉たちのように、耳に触れないほどのささめきを残して消える。そして海は、遠くへ行くほどに青色の深みを増して、わきあがるどんな悲しみも受け入れないほどに、あまりに穏やかで茫漠としている。そこにはいかなる区別もないような、いかなる区別も消してしまうような、無限の平面があるだけだ。まるで今まで生きて死んできた全ての人々が話してきたあらゆる言葉を飲み込んで、そこに込められていた意味も感情も、何もかもを等しく忘却の中に包んでしまうような、そういう海だった。ヘイリーは、コートのポケットに手をつっこんで、僕の前を、ゆっくりゆっくり歩いている、どんな場所をめざすこともない、不確かな、ただ進んでいるということだけに理由のある歩み。僕はひとり立ち止まって、海の彼方へ視線を遣った、この遥けさを越えたところに、ヘイリーの生まれ故郷がある。この海が隔てているものなど、ただの幻想にすぎないと知っている。知っているのに、なぜ、僕とヘイリーは別れてしまうのだろう。なぜ、これが別れで、ここに悲しみがなければならないのだろう。ヘイリー、僕の生きる世界の、外で生まれた人。ヘイリー、僕の生きる世界の、外からやって来た人。ヘイリー、僕の生きる世界の、外へと帰っていく人。

 「ヘイリー」

 唐突に、僕はヘイリーを呼び止める。少し大きな声が出てしまい、ヘイリーは驚いたような顔をして振り返る。

 「ん?」

 一瞬、思わず言葉につまった僕を見て、ヘイリーが聞き返す。

 「……ヘイリー」

 「どうしたの?」

 「これ、返すよ」

 僕はストールを取り出し、ヘイリーに見せる。

 「あっ」

 短く声を上げて、ヘイリーがそのストールを手に取る。

 「よかった、帰る前に見つかって。お母さんからもらった、本当に大事なやつだったから、嬉しい。見つかって、本当によかった」

 本当に嬉しそうに、ヘイリーは重苦しかった雰囲気など嘘のように笑顔を浮かべて、じっと、そのストールを見つめ、愛おしそうに手のひらでなでている。

 「違うよ」

 「えっ」

 喜ぶヘイリーとは正反対の、思いつめたトーンの僕の言葉に、ヘイリーが顔を上げて、こちらを見る。

 「違うって、何が違うの?」

 「見つけたんじゃない」

 「見つけたんじゃないって、だって、これ、私がなくしたやつ」

 僕の言っていることがまったく理解できない様子のヘイリーを見て、僕は唇を噛む。いっそ、嘘をつき続けて、ごまかしてもよかったのかもしれない。何食わぬ顔で、僕はそれを返すことができただろう。でも、僕はそれを選ばなかった、これが僕の不実から始まった、うたかたの夢なのであれば、僕は、せめて最後に、真実を呼び戻す。これを美しい思い出にするために、嘘をつき通すことを、僕は望まない。

 「見つけたんじゃない。盗ったんだ」

 「盗った?」

 けれども、その真実は、今までの僕とヘイリーの関係を、まるでひとつの、嘘だったかのようにしてしまう。始まりがどうあろうと、その関係は真実だった、それなのに、僕が始まりの真実を語ることで、それが嘘になってしまうのが、ただただ、悲しかった。

 「あの日。僕はヘイリーのストールを、本棚から手に取ると、そのまま、自分の部屋のクローゼットの中へ隠してしまったんだ」

 「……どうして?」

 じっとこちらを見つめるヘイリーと、視線を合わせることなどできなかった、僕はうつむいて、何度も言葉につまりながら、どうにか言葉を絞り出す。

 「もう会えないかもしれないと思ったんだ。あのときの僕にとって、ヘイリーは、あまりに遠い存在だった。僕はあのときすでに、ヘイリーに魅了されてしまっていたのに、僕はヘイリーをつなぎとめるために、何もすることができなかった。だから、まるで愚かな子供みたいに、ヘイリーのストールを盗んでしまうことで、どうにか、つながりを残そうとしたんだ。それが、どんなに馬鹿げたやり方であっても、僕は、それ以外の方法が思いつかなかった」

 ヘイリーは、じっとそれを聞いたまま、そこで動かずにいた、僕が返したストールを手に握ったまま、何も言わない。僕はヘイリーの顔を一瞬だけ見て、怖くなり、また目をそらす。そこにあるのが怒りなのか、呆れなのか、判別ができない。

 「正直に、また会いたいって言えばよかったのに」

 ようやく、ひとつためいきをついて、ヘイリーが僕に言葉を返す。それが僕に対する失望を表しているようで、僕はうなだれ、そしてうなずく。単純に、そう言えたらどんなによかっただろう。けれども、あのときの僕には、それはまるで、覚めていく眠りの中で、夢を現実まで連れて行こうとするようなものだったのだ。

 「ごめん」

 僕に言えるのは、ただその言葉だけだった、「ごめん」ともう一度、肩を落としたままで、僕は繰り返す。

 「いいわ。ゆるしてあげる」

 ヘイリーは、笑顔になってそう言い、そのストールをふわりと首にまいてみせる。僕の目の前で、もう一つ、別の場所にある青空が広がった、はるかに遠いどこかの青空、ヘイリーが生まれた場所に広がっていた青空。ヘイリーが、この世界の、外から来た人へ戻ってしまったかのようだった、僕はこの瞬間、永遠にヘイリーを失ってしまうのかもしれない。

 ふいに、空から聞こえた音のほうを、僕とヘイリーは見上げる、青空の中を、ぽつんとして飛行機が飛んでいる、今日の夜には、あんな飛行機に乗って、ヘイリーは、海の向こうへ帰ってしまうのだ。

 「ありがとう。楽しかった、幸せだった」

 ようやく、ヘイリーの顔を見ることができた僕は、胸の内に痛みを感じながら、その言葉を伝える。

 「私も。本当に楽しかったし、幸せだった」

 ヘイリーは笑顔だった、遠く高くとりとめもなく広がる海と空の青色の中に立った彼女の、金色の髪が、そよぐ風でふわりと揺れている。僕らは幸せだった、ならば、どうして僕らはこれから別れようとしているのだろう? 僕とヘイリーの間にある、虚構の境界線が、いったいなんだというのか。それぞれが生きようとする場所を隔てる距離だけが問題なのだろうか。なぜ異なる言語や肌の色や国籍が、僕らに、別々の人生の位相をあたえることができるのか。なぜ僕らの生き方が、そういう条件に枠をはめられた、定型的な物語でしかないというのか。まるですでに語られた物語をなぞるように、僕らは生きなければならないというのか。全ての物語は、僕らの生き方を抑圧するためにしか、存在していないというのか?

 ヘイリー、ヘイリー、僕は君を、失いたくない。

 

 「そろそろ、行ったほうがいいかな」

 ヘイリーが時間を確認する。日はすでに傾き、空は赤くなっていた、沈む太陽が、地平線を溶かして、空と海を同じ色に染めている。太陽の沈む瞬間、詩人のランボーが、そこに永遠を見た瞬間。夜が来る、僕らを隔てようとする、夜が来る。僕は何も答えない、僕は、もっと別のことを言わなければならない。

 「どうしたの?」

 黙っている僕の顔を、ヘイリーが見つめる。遠く高くとりとめもなく広がる海と空の赤色の中に立った彼女の、緑色の瞳が、彼方からとどく光で輝いている。

 「ヘイリー」

 僕は僕の今までの人生の中で、最も強い決意に満ちていた、ただ、ひとつの言葉を言うために、今この場所で僕は、それほどの決意を必要とする。ヘイリーは、僕の言葉を待っている。僕が何を言おうとしているのか、知っているのだろう、ヘイリーは、柔らかい、優しい笑顔をしている。もうためらいはない、これは、言葉を理解しなかった子供が、初めて確信を持ってひとつの言葉を発する瞬間のように、僕がひとつの、最初の言葉を手にいれる瞬間、その最初の言葉とともに、そこから全ての語りが始まる瞬間。

 僕は、たったひとつの、僕の言葉を言うために、ヘイリーの目をまっすぐ見つめて、口を開く。

 

 "I love youー"

 

 むかしむかしーー? いや、今この瞬間に。あるところにーー? いや、この場所にーー僕と、ヘイリーがいる。

 

 今この瞬間、この場所に

 僕と、ヘイリーがいる

物語のはじまるところ その12

 「僕はーー」

 新幹線は、僕が望むスピードよりずっと速く、僕とヘイリーを東京方面へと運んでいく。自分の手の届く世界から消えてしまったかぐや姫からもらった不死の薬を焼いてしまった帝のように、僕もまたその薬を焼くだろうかと考えて、自分がどうするのか分からずに答えにつまる。なぜ、かぐや姫は不死の薬を与えたのだろうか? なぜ、帝はその薬を焼いたのだろうか? 僕は、原初の物語の中へ自分を投影し、また、原初の物語を自分の中へ投影する。なぜ、これが原初の物語だったのだろうか? あるいは、なぜ、これが原初の物語として残っているのだろうか?

 「僕は焼かないよ」

 はっきりとした理由を自覚するより先に、答えが言葉になって出た、僕は、不死の薬を焼かないだろう。

 「じゃあ、その薬を飲んで、かぐや姫に会う方法を探し続けるの? 永遠に、会えないかもしれない。それでも、その薬を飲むの?」

 「飲むかどうかは、分からない。でも、はっきりしてるのは、僕がその薬を焼かないっていうことだ」

 「どういうこと?」

 どういうことだろう。ただ、その瞬間の僕には、確信だけがあった、僕は、絶対にその薬を焼かない。

 その原初の物語は、それを語る人々の、共同体の誕生についての真実なのだというのが、そのときには自覚していなかった僕の考えだった。共同体は内と外に境界線を引くことで誕生する。ならば、その誕生は、必ず外部の喪失の物語になるだろう。そのとき初めて、そこには内と外という分裂が作られ、彼らは内へ向かって閉じてしまうのだ。帝は、かぐや姫が唯一残した、外との繋がりである不死の薬を焼くことで、内と外を完全に隔ててしまった。その犠牲によって、初めて共同体は誕生し、帝は帝となり、物語は物語として語り継がれることになる。富士山から登る煙は、この世の境界で、むなしく空へと消えていくだろう。ただ、内と外を隔てる境界線が常に虚構である限り、抑圧されたものの回帰として、僕らは絶えず外部を呼び戻そうとするだろう、僕らは夢を見続けるだろう、遠く美しいものに、自ら望んで魅了され、自らの全てを奪い去られる恍惚に身を委ねるだろう、内と外の境界線が消えた世界の夢を、永遠に見続けるだろう。僕らは、物語を物語として語りながらも、しかし、その物語をはるかに超えたものを、夢見ている。

 

 新幹線は、どんどん目的地へと近づいていた、僕らはこれから、空港まで行くだろう、そしてそこで、生まれ故郷へ帰るヘイリーを、僕は見送ることになるだろう。僕は自分のカバンの上に、そっと手を置く。その中には、僕がヘイリーから盗んだ、あのストールが入っている。

 ヘイリー。ヘイリー・ベイリー。僕のそばにいた、あのコの名前。ヘイリー、ヘイリー、僕は君を、失いたくない。

 

 

 

物語のはじまるところ 最終回へつづくーー

物語のはじまるところ その11

 れから、いくらかの日がすぎた、その夜の後の日も、その夜の前の日と変わらず、僕とヘイリーはそれまでの二人のようであり続けた。僕らは、少し他の恋人たちと違っていた、二人の間には、ひと言も話し合われることなく暗黙の了解となっている、不思議な距離感があったのだ。僕もヘイリーも、そのとき互いに、他の誰よりも親密な関係にありながら、しかしそこに、それがつかの間の夢のような瞬間であることを、それぞれの胸のうちで理解していた。うたかたの、恋愛という戯れを、その喜びを、享受する。

 「父親のことを、誰かに話したのは初めてだった」

 ある満月の夜、ぽつりと、ヘイリーは呟く。

 「どうして僕に?」

 「どうして、だろう」

 ヘイリーは首をかしげたが、たぶん僕らには分かっていた、ヘイリーが僕に、今まで誰にも言わなかった父親の話をしたのは、僕らの間にあった、距離のおかげなのだ。誰より近いところにいて、でも同時に、その間に絶対に埋まることない距離を介在させたせいで、ヘイリーはまるで置き土産のように、その思い出を僕に託すことができたのだ。常に過去へ過去へと流れて消えていく思い出、忘れるための思い出。ヘイリーがいつか僕の前から消えたとき、僕が、ヘイリーが、それを忘れることができるようになるため、とでもいうように、ヘイリーは、自らの忘却を、僕の手に残したのだ、僕とヘイリーだけの、つかの間の夢の中に。目が覚めたとき、僕の手のひらの上には、まるで一輪の花のような、忘却だけがそこにあることだろう。

 「あなたは特別な人。今までのどの恋人とも違って。他の誰とも違って」

 僕の目を見つめながら、ヘイリーが言う。

 「本当?」

 「うん」

 「嬉しいよ」

 たぶん、ヘイリーは本当にそう思っていてくれたのだと思う。僕らはその距離を隔てて一緒にいたせいで、恐れることなく、向こう見ずなほどに、親密な関係に飛び込むことも可能だったのだ。

 

 気がついたとき、いつの間にかヘイリーが涙を流していた。

 「どうしたの?」

 僕は驚いたが、むしろそれだけに、ヘイリーの気持ちの昂りを抑えるような柔らかい口調で聞く。また発作が起こったのかもしれないと思い、僕は心構えをする。

 「ううん。大丈夫」

 ヘイリーは僕の心配を察したかのように首を横に振って答える。

 「でも、涙が」

 僕はヘイリーのほおに触れる。涙が、指先を濡らした。

 「本当に大丈夫。ただーー」

 「ただ?」

 その言葉をつぶやくまでに、ヘイリーは何度もためらい、浅く呼吸を繰り返し、そして一度、深呼吸をして、またためらう。

 「ただ、私はやっぱり、どうしても、いつかは帰らなきゃいけないんだって、そう思ったの」

 僕はそれに沈黙で答えた、そうすることしかできなかった。いつかはそうなるだろうと分かっていながら、それについて考えることを避けて、さらには愚かしくも、それがずっと続くかもしれないという期待すら抱き始めていたのだ。だからそのことを突きつけられたとき、僕は答えるべき言葉を、何も持っていなかった。

 「……うん」

 まるで聞きわけのよい子供のような返事だけが、僕が搾り出すことのできた言葉だった。言わなければならないことを、ちゃんと口に出したヘイリーのほうが、僕よりよっぽど大人だった。

 「私はまるで、二つの人生を生きてるような気がする。ここでの生活は仮りの人生で、まるで私が本当に持っていた人生を中断させてるような気がするの。本当に向きあわないといけないこと、本当にしないといけないことを、海の向こうに残してきてしまった。この生活も、私にとって大事なものだけど、でも、私の本当の生活は、別の場所にある」

 ヘイリーの言うことはよく分かったし、それはその通りなのだと思う。でも、僕のことはどうなるんだろう。僕の存在は、ヘイリーの仮の人生の一部でしかないのだろうか。いや、そんなことは分かりきっていることだった、それは望んでもどうしようもない。僕はヘイリーの夢の中に、ふらりと迷い込んだにすぎない。けれども、僕にとって、はたしてヘイリーは夢なのだろうか。まるで夢のようなものとして始まった関係は、ヘイリーと言葉を交わすたび、ヘイリーに触れるたび、どうしようもない現実として、僕の心と体を縛り始めていたというのに。

 「人生に仮も本当もないよ、それは全部、ひとつの人生だ」

 真実を語っているようで、無力でむなしい響きのある言葉でしかなかった。

 「言いたいことは分かるけど。でもね、そんなことよりもーー」

 「そんなことよりも?」

 「お母さんを、このまま一人にはしておけない」

 僕はそこで、ヘイリーを手放さなければならないことを、認めるしかなかった。あのストールをくれた母親、ヘイリーにとって、最も根源的で切り離せない繋がりが、そこにある。海を越えた向こうにこそ、ヘイリーの人生があった。自分がどれほどまでに国や言語の縛りから自由な気になっていたとしても、その繋がりの中にある幸福を必要とする相手を目の前にして、なにができるというのか。僕はただそれを、一時的に、いやしくも、盗み取ったにすぎないというのに。全てを、返してしまうときが来ていた。僕が見ていた、これまでにないくらいに美しく、幸せな夢から、覚めなければならない。僕はヘイリーを抱きしめながら、固く目を閉じる、まるで少しでも長く夢を見続けようとするかのように、まるでもっと深い眠りの中へ逃げ込もうとするかのように。けれども、僕のまぶたの裏には、ただ深い霧のような、暗闇が広がっているばかりだった。

 

 

 

物語のはじまるところ その12へつづくーー

物語のはじまるところ その10

 の発作は、父親が死んですぐではなく、その数年後に始まったのだとヘイリーは僕に語った、いつやってくるのかはまったく予想がつかず、サイコロを振るかのようにランダムに、数ヶ月に一度、夜中にいきなり始まるのだという。原因はよく分からない、父親の死と直接関係があるのかどうかすら分からない、ただ、突然に、どうしようもない恐怖に縛り上げられたかのように身体が硬直し、呼吸ができなくなるらしかった。

 「発作が始まると、ほとんど無意識にいつも心の中で祈ってしまうの。苦しい、助けて、って」

 因果関係は定かでないが、少なくとも発作の間、ヘイリーの頭の中に父親の記憶がよみがえるのだという。

 「自分が特別、父親に依存する心をもっていたとは思わない、けど、発作の間は、まるで子供の時の精神状態に戻ってしまったみたいになる」

 父親が死んだ時、ヘイリーはまだ十四歳だった、その十四年の積み重なりの中にあった日常から急に転げ落ちるように、ヘイリーの人生から父親が消えてしまったのだ。

 「お父さんの仕事は建築家だった。たまに二人で出かけると、いつも寄り道して、自分がデザインした家を見せてくれる。こういう人が住んでて、その人のためにこんな工夫をしながら設計して、だからこのデザインができあがったんだってことを、にこにこしながら楽しそうに説明するの。まだ子供だったから、あんまりよく分からなかったけど、子供の目にはなんでもないように見える家が、どんどんいろんなものが詰まった不思議な箱に思えてくるのが面白かったし、何より、上機嫌な父親を見るのが好きだった」

 日本ではあまり父親が好きだという女性は多くないが、ヘイリーの友達などは割と好意的に自分の父親のことを語る人がほとんどだったことからすれば、ヘイリーのこの父親に対する感覚は別に過剰なものではなくむしろありふれたものなのだ思う。

 「正しくて寛大な人だった。お父さんは死んだお姉さんの子供、つまり私のいとこの面倒を見てあげてたの。いとこはアメリカ軍に入隊を志願して、イラク戦争に行ったんだけど、そこで、心にひどい傷を負ってしまった」

 ヘイリーのいとこは、PTSDを抱えた帰還兵だった。バスケットボールとギターが好きなどこにでもいる少年という感じだったいとこは、まるで別人のようになって帰ってきたのだ。表面的にはある程度普通に生活をしていたものの、性格はひどく内省的になり、帰還してから毎日飲むようになった酒の量はみるみる増えていき、抑うつで無気力に襲われ、酒の空きビンの転がる部屋でひとり、ぼうっとしていることがしばしばあった。

 「いとこは派兵の前に結婚してたんだけど、いとこが帰ってきて喜んでいた奥さんも、どんどん追い詰められていったみたい。ときどき私の家に来て、お父さんとお母さんにいとこの話をしながらわんわん泣いてた。前みたいな、明るくて優しい人に戻って欲しい、それなのに、日に日に悪くなるみたいに見えて、もう希望が持てないって。それで胸の内を吐き出してしまうと、こんなことばかり言ってごめんなさいって、謝ってから帰っていくの」

 正直言うと、僕はどんなふうにその話を聞いたらいいのか分かりかねていた、戦争からの帰還兵という存在が、僕の日常からはあまりにかけはなれている。後で知った話では、日本でもPKOとかで派遣された自衛隊員がPTSDを抱えることがあるらしいが、その時の僕にとってはまったく未聞の事実でしかない、だから僕にできるのは、無理にコメントを挟むことではなく、しっかりとヘイリーの話と感情を受け止めることだけだった。

 「いとこはイラクで、同じ部隊の同じグループにいた同い年の仲間で、友達と言っていいくらいに仲良くなった人を亡くしたらしいの。敵の急な攻撃を受けて、なんとか安全な所まで逃げこんだんだけど、壁から敵の様子をうかがったとき、いとこが見たのは、敵に頭を押さえつけられてしまった友達の姿だったんだって。助けようとした瞬間、その友達は頭を撃たれて死んでしまった」

 それ以来、ヘイリーのいとこはそこで死んだのは自分だったかもしれないという強迫観念に取りつかれてしまったのだという。自分がその友達と入れ替わるところを想像してしまい、どんなに抑えつけても繰り返し繰り返し頭の中へと上ってきて、ヘイリーのいとこは、自らの想像の中で、何度も何度も死んだのだ。

 「お父さんは二週間に一度はいとこに会いに行って、どうにか立ち直らせようとしてた。でもそのうち自分やいとこの奥さんのサポートだけでは駄目だってことに気づいて、カウンセリングに行かせることを考えたみたい。でも問題だったのは、いとこは繊細なのに男らしさへの執着心が強いところがあって、それを提案するのが難しかったってことだった。「そんなのはゲイ野郎が受けるもんだ」とか言って、カウンセリングを軽蔑してたの」

 手をこまねいているうちに、いとこの状態はますます悪くなっていったらしい。家の外から大きな音が聞こえるだけでひどく怯えて、わけのわからないことをわめき散らすようになってしまった、ささいなことで苛立って、壁やドアを殴りつけたりして、とうとう奥さんが身の危険を感じ始めるほどになったのだ。

 「いとこはだんだんおかしくなって、ほとんどパラノイアックなくらいになった。そしてとうとう、耐えられなくなってカウセリングを受けさせようと説得した奥さんを、いとこは殴ってしまった。いとこは奥さんの顔を殴ってから、壁に叩きつけたの。奥さんは鍵のかかる部屋に逃げ込んで、お父さんに電話で助けを求めてきた」

 警察沙汰にすべきかどうか、戦争の英雄として帰ってきたはずの自分の醜態をさらすことを望まないであろう、いとこの意思に配慮すべきかどうか、という迷いが、そこにはあったようだった。ヘイリーの母親は警察に連絡すべきだと主張したが、父親は一度様子を見てから決めると言って、いとこの家に向かった。

 「そのいとこの様子を、お父さんはまともに確認することすらできなかった。いとこのいる部屋に入った瞬間、頭のおかしくなったいとこが持っていた拳銃で、お父さんは撃ち殺されたの」

 とうとう駆けつけた警察に取り押さえられたときですら、いとこにはヘイリーの父親を撃ったという自覚がなく、「"sand-nigger"のテロリストが、イラクから俺を殺しに来やがった」という妄言を、口から泡を吹きながら始終わめき散らしていた。その銃弾は、まるで強い恨みを抱いた相手にそうするように、何発も何発も、執拗に撃ち込まれていたのだという。

 

 ただただ、僕は黙ってその話を聞いていた、すぐに共感や理解を示すには、やはりその出来事はあまりに遠い。ずっと身近にいたせいで、ヘイリーが、こことはまったく違う場所で、今ではなく以前に、生きられた人生を抱えているのだということに僕は気づいていなかったのだ。戦争も銃も、僕が今まで生きてきた現実からはかけ離れすぎていて、そのせいでヘイリーの話が映画のワンシーンのような気になってきてしまう。僕は限界に当たった自分の想像力を必死で展延させて、それがまぎれもない現実であるという認識までたどり着こうと、そしてヘイリーの傷に少しでも共感と理解を持とうともがく。ただそうすればするほど、僕はヘイリーと自分との間にある、大きな大きな隔たりを感じるはめになってしまう。個人と個人として繋がることができたと思っていたのに、それでもなお、僕とヘイリーの間には、国とか言語とか、そういうものが、そういう境遇に与えらえれたそれぞれの現実が、否定しようのない断絶として穿たれているのだと感じざるを得ない。僕は僕であり、ヘイリーはヘイリーである、というだけでは、どうしても済まないのだ、僕は日本人であり、ヘイリーはアメリカ人である、普段どれほどそんなことを気にせずにいられたとしても、それが消えて無くなるわけではない。ヘイリーは確かに、海の向こうから来た人だったのだ。

 「それでも、少しずつ、お父さんのことは忘れていってる」

 そう言って、肩を抱く僕の手に触れながら、ヘイリーは僕に笑顔を作ってみせる。悲しい笑顔だった。

 「……いつまでも、悲しんでるわけにはいかないからね」

 そう言いながら、僕は果たしてそれが適切な返事なのか分かりかねていた。

 「忘れなくてはいけないけど、忘れてはいけないこと。忘れれば忘れるほど、私は、私の大事なものを失っていく。この痛みが残っているうちは、まだお父さんの存在は消えないけれど、もし、私がこの痛みを失えば、お父さんは、本当にただ、死んでしまった人になる」

 「……うん」

 うなずきながら、僕は自分のことを考えた。僕は自分の両親を失ったことを、ヘイリーほど気に病んではいない。僕は不誠実だろうか? 僕の両親は、特に父親は、事故で死んだことになっている。けれども、僕にはひとつ、気付いていることがあった。父親は、そこそこ名の通った企業に勤めていて、本人はずいぶんそれを誇りにしていた、そしてそのおかげで、僕の家はどちらかといえば裕福なほうだった。しかし、僕が十八歳になったとき、その会社は倒産した、長引く構造不況とその変化に疲弊して、見るも無残に崩れ落ちたのだ。再就職を試みた父親に、満足のいく口は与えらえなかった、比較的ましな話もあったが、年下の人間の部下になることを条件に出されて断ってしまったということもあったようだった。父親は他人よりプライドの高い所があり、そして自分の勤め先と年齢をそのプライドの根拠にしてしまっていたせいで、とうとうそれを回復することができなかった。父親はしょっちゅう酒を飲みながら、政治と社会の批判をぐちぐちといつまでも言う人間になってしまった。高校生だった僕は、その父親を、心から軽蔑していた。そしてそんな日々の果てに、父親は母親と用事があって出かけたその道中で、交通事故を起こして死んだのだ。それは本当に事故だったのか、僕は疑問に思っている、プライドを打ち砕かれ、家族からの尊敬を失った父親は、わざと事故を招いたのではないだろうか、というふうに、思っている。はっきりとした意思による自殺ではなくても、無謀な運転をしてきた相手の車をあえて避けずに、目の前にちらついた死の可能性に、誘惑されるように飛び込んでいったのかもしれないということに、僕は気づいていた。

 「父親が死んでからしばらくして、私は日本語を勉強し始めた。何の関係があるの? っていう感じだけど、今になって考えてみると、私は、どこか完全な別世界に入り込んでしまいたかったのかもしれない。英語っていうものが与える世界に囚われた状態から、父親の死を招いた世界に囚われた状態から、避難できる場所が欲しかったのかもしれない。私は別にオタク文化にも日本の伝統文化にも興味もなかったけど、他の学生よりも遥かに日本語が上手くなった。長く日本語を教えていた先生も、こんなに上達する学生は珍しいって驚いてたくらい」

 「それで父親のことを忘れることができると思った?」

 「というか、私はむしろ、父親のことを忘れることを恐れていた。英語の中で生きている限り、私は父親のことを完全に忘れなければ、父親の存在を消さなければ、前に進めなかった。だから、日本語へと逃げ込むことで、私はその、忘れるっていう行為を、中断しようとしたのかもしれない」

 忘れるというのは、いったいどういうことなのだろう、と僕は思う。僕は両親の存在を忘れていた、少なくとも、自分では忘れたことにしていた。僕はそのとき十八歳で、すでに親との精神的なつながりは薄かったし、それは何より軽蔑していた父親の死だった。だからそれは、ヘイリーがそうするよりもずっと単純で簡単なことだったのだ。

 「僕は忘れたよ」

 そんなことを考えていたせいで、僕は思わずそれを口に出す。

 「何を?」

 「自分の死んだ両親のことを」

 「どうして? どうやって?」

 「必要だったから。特別な方法なんかない、僕はただシンプルに、両親のことを忘れたんだ」

 一瞬その言葉をうまく受け取りそこねたようで、ヘイリーはだまってから、一度だけうなずく。

 「……そうね。私に必要なのは、その決心なのかな」

 ヘイリーは、僕の、本当な残酷な言葉を、重要なアドバイスとして解釈してしまった。ただ、僕は、本当に両親のことを忘れたのだろうか。僕は決して、誰にも両親のことを語ろうとしなかった。戦争と経済という、互いに大きくて不条理で人間の意思などとは無関係なうねりによって翻弄された喪失を抱えてはいたけれども、ヘイリーのような愛着によってではなく、嫌悪によって、僕は両親の記憶を恐れていた。

 「無理に忘れなくても、良いんじゃないかとは思うけど」

 取り繕うように、僕は言う。ヘイリーに向かって言うべき言葉を、探していたのだ。

 「でも、やっぱり前に進まないといけない。いつまでも逃げ回っていてはだめだから」

 たぶん、ヘイリーのほうが、僕よりずっと忘れるということに対して忠実だった。忘れるというのは、たぶん、思い出さないということではなく、思い出すのを恐れないということなのだ。

 

 

物語のはじまるところ その11へつづくーー

物語のはじまるところ その9

 "I, I... I can't breathe."

 僕は夜中、隣で寝ていたヘイリーの激しい呼吸の音で目を覚ました。重度の喘息みたいに、塞がれた胸に必死で空気を送り込もうとあえぐ、さも苦しそうな音が何度も何度も聞こえてくる。明らかに異常な事態を察した僕は、慌てて部屋の明かりを点ける。

 「ヘイリー?」

 僕の呼びかけに、何度も何度も大きな呼吸の音をさせ、胸を詰まらせながら、ヘイリーはどうにか"I can't breathe"とだけ答えた。ベッドに横たわりうずくまるヘイリーの、額にそっと触れてみる、肌には冷たい汗がじっとりと滲んでいて、顔は息苦しさのせいなのか真っ赤になっている。喘息かと思ったが、普段のヘイリーには全くそういう所はなかった、あるいはパニック障害かとも思ったけれども、確証はない。あまりに突然のことだったので、全くどうしていいのか分からなかった、このまま治らなかったら救急車を呼んだ方がいいだろうかと思い、枕元に置いてあったスマホの位置を確認する。ヘイリーは必死で呼吸を求めてあえぎ続けている、僕はその顔をできるだけ優しく包むように、手のひらを額から頬へと移動せさる。すると、ヘイリーは塞がれてしまった胸を押さえていた両手のうち、片方をゆっくりと動かす、そして溺れた人間が投げ入れられた浮き輪をつかむような必死さで、僕の手を握りしめた、ぶるぶると震えているその手は、ひどい量の汗で濡れてしまっている。どうにかヘイリーを助けたいのにどうしていいのか分からなかった僕は、せめて少しでも気分が落ち着くかもしれないと思い、ヘイリーの手を握り返すと、横たわっているヘイリーのすぐそばに寝そべり、降りかかる重苦しさからその体をかばってやろうとするかのように、背中からヘイリーを抱きしめる。それでもしばらくは、ヘイリーの乱れた呼吸音が続いていた。僕は必死でヘイリーに体を密着させ、ヘイリーの両手をそれぞれ自分の両手で握りしめ、ヘイリーの頬に自分の頬を合わせた、ヘイリーの体温が伝わって来る、全身が汗ばんでいて、僕は頬に湿り気を感じる。何が起こっているのかは全く分からない、確認するすべはなかった、もしかしたらヘイリーにも分からないのかもしれない、僕は祈りを捧げながら嵐が去るのを待つ無力な人のように、ただただ、ヘイリーの体を抱きしめて、その回復を待つ。

 ゆっくりと、ゆっくりと、気まぐれな恐竜のように、窓の外を時間が横切っていった、それにつれて、必死で僕の手を握りしめていたヘイリーの手から、徐々に徐々に、力が抜けていく。ヘイリーは一言も喋らなかった、けれども、その呼吸音は次第に静かになり、リズムを取り戻していった、今までとは全く違って、力の抜けてしまったその手が、何度か僕の手を握りなおす。ヘイリーは落ち着きつつあった、僕も安堵して体の力が抜けるのを感じ、ヘイリーの首筋に顔を埋めるようにして、まだ汗ばんでいるその肌に唇をつける。蛍光灯の冷たい光の下で、金色の細い髪を乱れさせ、すっかり顔色の青ざめたヘイリーの姿は、とても痛々しく、なんでこんなことが起きたのか分からない僕は、その理不尽に、ただただ己の唇をかむ。

 

 「大丈夫?」

 ベッドの上に座って、両手でコップを持ち、僕が汲んできた水をちびちびと飲んでいるヘイリーに声をかけた、ヘイリーはこちらを見ずに、目を閉じて、力なく、一度だけうなずきを返す。深くゆっくりと、取り戻した呼吸が逃げないように心配しているみたいに、一回一回、慎重に息を吸って、吐く。ヘイリーはしばらく、口を開こうとはしなかった、僕もあえてそれを求めることはなく、ヘイリーの横に座って、その体を抱きしめ、頭をなでて、額に唇を触れさせる。汗は引いていて、肌はひどく冷たかった、僕は毛布をつかんで、お互いの肩にかけ、包み込むようにする。何が起きたのかは分からず、僕もそしてヘイリーも混乱したままだったが、少なくとも、事態はとりあえず落ち着いたのだということだけは間違いない。

 ひどく長い時間をかけて、ヘイリーがコップの水を飲み終える。

 「もう一杯、いる?」

 僕がそのコップを手にとって尋ねると、ヘイリーは小さく首を横に振って、立ち上がりかけた僕の膝に手を置く。自分のそばにいてくれ、ということらしい。ベッドの脇にコップを置いた僕は、ヘイリーの横で居ずまいを直しながら肩を抱いてやった、ヘイリーは相変わらずのゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、力なく、僕の肩にしなだれる。ヘイリーはじっと、何かを考えているように見えた、目を閉じて、小さく口を開けて、気をぬくとまた乱れてしまいそうな呼吸を、なんとか繋ぎ止めている。そのまま、たぶん、長い時間が経った、僕もヘイリーも、まるで世界のあらゆる場所から孤立してしまった空間であるかのような、ぽつんとした部屋の中に二人、じっとしたままでいる。ヘイリーの呼吸は、ようやく平静を取り戻していた。落ち着いたことを確認する作業であるかのように、ヘイリーはひとつ、唾を飲み込む。僕は、こぼれ落ちる滴のような、言葉の気配を感じた、血色の戻ったヘイリーの唇が、誰の目にも留まらなかった野草の花のつぼみのように、小さく、ゆっくりと開く。

 「私のーー」

 ずっと黙っていたせいで、その声はかすれていた。

 「ん?」

 できるだけ優しく、無理をさせないように、僕は聞き返す。

 「私の、お父さん」

 「お父さん?」

 「私の、お父さん。死んじゃったの」

 「え?」

 「私の、お父さん。死んじゃったの。銃で、撃たれて。死んじゃったの」

 唐突に、本当に全く唐突に、ヘイリーはその話を始める。それは、僕が初めて聞くヘイリーの父親の話だった、そして、それは、僕が最後に聞くヘイリーの父親の話だった、つまり、ただ一度だけ、ヘイリーは、僕に父親の話をしたのだ。

 

 

物語のはじまるところ その10へつづくーー

物語のはじまるところ その8

 "I love you"

 初めてヘイリーと寝た後、ベッドに横たわりながら、僕は目の前のヘイリーの顔を見てそう言った。それはとても甘い時間で、僕はヘイリーの口からも同じ言葉が返ってくるのだと思っていた。けれども、僕にとっては意外なことに、それまでずっとにこにこしていたヘイリーの表情が一瞬固まり、怪訝な様子で見つめられてしまう。

 「……えっと、なんだかアメリカの映画とかドラマとか観ると、よく言ってるし、それに、日常的に愛情表現をするっていうイメージがあるから、なんていうか、言ったほうがいいのかなって思って」

 少なくとも、なんだか変なタイミングでそれを言ってしまったことだけは察して僕は恥ずかしくなり、懸命に説明して取り繕う。

 「まあそうかなって思った。ちょっとびっくりしたけど」

 「びっくりした?」

 「だって、普通は会ったばかりの相手にそんなこと言わないから」

 「でも、僕らは単純に会ったばかりの相手じゃないと思うんだけど」

 「キスしてもセックスしても、それイコール"I love you"っていうわけじゃない。そういう感情に対してというより、それだけじゃなくて、もっと深い、"関係"に対して使う表現なの」

 ぼくは文字通りきょとんとする。僕の持っているイメージからすると、それはむしろ、もっと気軽な言葉だった、テンションの高いアメリカ人どうしが、そこかしこでアイラブユーと言っているような感じがする。

 「それを言うには、もっと時間かかるってこと?」

 「はっきりと決まってないけど、ただ、いきなり言うのは、ちょっと……なんていうのか、"too much"って感じ? そういう人もいないわけじゃないとは思うんだけど」

 「重い、ってことかな」

 「そう、重い。いい表現ね。そのとおり」

 「僕のこと、重いやつだって思った?」

 「そうね。いきなりこれなら、来週にはプロポーズされるんじゃないかと心配になった」

 ヘイリーは笑顔に戻って、僕を見つめる。

 「それじゃあ、例えば僕は君に、なんて言ったらいいんだろう」

 「別に、特に決まった表現はないわ」

 「日本人どうしなら、「好き」とか言うんだけど」

 「男性はあんまり言わないって聞いたけど」

 「確かにそうかな。あんまりそういう感じのこと、言われたくない?」

 「そんなことない。言われたほうがもちろん嬉しい」

 「うーん。じゃあ、"I like you"とかは?」

 ヘイリーの唇が動いて、くすりと笑いをもらす。

 「あんまり使わないけど。まあいいわ。カワイイ表現じゃない?」

 そう言いながら、ヘイリーは僕の頭をなで回す。

 "I like you."

 "I like you too."

 しばらく見つめ会ってから、僕らは同時に吹き出した、"I like you"という言葉の気軽さといい加減さによって、真剣さがバカバカしさにとって変わり、僕らはそれを笑いあう。もしかしたら、それは単純に"I love you"なんて言い合うよりも、ずっと僕らを幸せな気分にしていたのかもしれない。

 

 ヘイリーとの日々は、常にそういうギャップやすれ違いや勘違いの連続だった、ただ僕らが幸せだったのは、そもそもすれ違うことが当たり前であって、互いが同じ価値観や通念を持っているという前提でコミュニケーションをせずに済んだことだ。多くのカップルにあるように、すれ違いが終わりに向かう亀裂になることはなく、むしろそれは始まりであり、僕らはその始まりを、何度も何度も繰り返すことができた。僕らにとって、すれ違いはコミュニケーションの決裂点ではなくて出発点だった、その度ごとに、僕らはそれについて意見を交わし、最後にはその滑稽さを互いに笑い合う。僕らは、互いが同じであることを確認し続け、来たるべきその決裂を先延ばしにし続けるような、ありふれたコミュニケーションをすることはなかったのだ。

 一緒にいる期間が、決して長いとは言えなかったせいでもあるのかもしれないが、本当の話、ヘイリーと僕は、一度もケンカをしたことがなかった。僕らは別に特別温厚で辛抱強い性格というのではなかったが、落ついて他人の話を聞くタイプの人間どうしであり、そして、無理に合意を求めず、よく分からない議論はいつも冗談で締めくくっていた。ただ、考えるに、僕らは実際のところものすごく奥深い部分において、共通のものを持っていた、そして、それこそが、僕とヘイリーを単純な衝突から守っていたように思う。その僕とヘイリーに共通していたものとは、自分が何か、この世界から切り離されて存在しているという感覚だ。カフカが、どんな場所へ行っても、まるで外国人のように収まりの悪い、そういう人間が存在しているのだということについて書いているが、もしかしたら、僕らはそういう種類の人間なのかもしれない。ヘイリーは表向きには明るさと優しさを備えた、他人から好かれるような雰囲気の人間だったが、その奥底には、彼女を人々から遠くへ運び去ってしまうような、強い孤独の影が潜んでいる、ヘイリーが打ち解けることのできる人間は決して多くはない、ただ同じように、なんらかの強い孤独に取りつかれた人間でなければ、そもそも彼女の孤独に気づくことはできないし、もちろん本当に仲良くなることもできない。一方で僕は、どこでだれと一緒にいて、どんなアイデンティティを共有していても、全く他人と打ち解けることはない人間だった、ずっと幼い頃から自分が他人とは遠く離れた、孤独の領域で生きることを運命付けられた人間なのだということに感づいていて、すでに十代のどこか、多分高校二年生くらいのときだったか、僕は他人と通じ合えないのだという事実を受け入れ、他人から、群れから遠く離れ、自分は自分の感覚だけを信じて、自分のためだけに考えて生きていくのだという決心をしたのだった。そういう意味で、僕は常に、外国人のような存在だった、たとえ同じ場所で生まれ、同じ言葉を話す人々と一緒にいても、僕は決して、自分がそのことで無条件に彼らと何かを共有しているのだという感覚を、持つことがない。だから、僕とヘイリーはたぶん、全くおなじ種類ではないけれども、互いに自分を他人から遠ざけざるを得ないような孤独を抱え込んでいた、そのせいで無理に相手と同じであるということを追い求める必要がなかったし、その代わりに、僕らはそういった価値や意味ではなく、交感とか共鳴とか、そういうふうにしか呼びようのないもので、互いにつながっていたのだ。

 しかし、僕にとって、そしておそらく僕のような人々にとって、最も不可解なことは、なぜ、僕らのような限られた人間だけがこういう感覚を抱いてしまうのだろうか、そしてまた、なぜ、他の人々は、こういう感覚を抱かないのだろうか、ということだ。彼らのように多くの人々が世界の中に産み落とされたのに対して、僕はまるで、世界の外に産み落とされてしまったかのような感じがする、それは何か、生まれ持ったとしか言いようがないような、根源的で決定的な分岐であるように思える。彼らが当たり前のように抱いている、自分は世界の一部であるという感覚を、僕は決して持つことがない。もちろん、僕は亡命者ではなくて、はっきりと保証されたアイデンティティを持ち、帰属する場所を用意されているが、そんなこととは無関係に、それでもなお、まるで亡命者のようであり、あらゆる場所に置いて、外国人のような存在だった。それは別に与えられたアイデンティティを拒否しているのではなく、そもそも、拒否するとか受容するとかいうことは問題にすらならなくて、そこにあるのは、僕と世界の間の決定的な断絶、としか言いようがないものなのだ。でも、これは僕のごくごく個人的な見解にすぎないし、思い込みにすぎないとすら言えるのかもしれないが、しかし僕個人が確信していることがあった、それは、僕は全くの孤独というのではなく、そこには小さな、しかし確実な希望があって、それは、僕らが孤立しているがゆえに、多くの人々のように他人に鈍感になることで帰属や共有の感覚を得るのでなく、僕らは他人という存在を純粋なものとしてつかむことができる、つまり僕らのような人々だけが、その絶対的な距離の向こうにいるはずの、他人というものと、通じあうことがあり得るということだ。僕はそのことに、ヘイリーとの出会いを通じて、ヘイリーと過ごした日々の中で、僕自身の皮膚感覚によって、気付いたのだ。それはヘイリーが外国人であるからではなかった、それは入り口にすぎない、ヘイリーが外国人でなければならない必然性はなかった、ただ僕は、この出会いを通して初めて、他人というものが、一体どういう姿をしているのかということを、ようやく知ることができた、それは今までのような人間関係の中に埋もれたままであれば、決して見ることのできなかった景色だったということは間違いない。

 ヘイリーと過ごす日々の中で、僕は幾度となく眠りに落ちて、目を覚ます、そこにはいつもいつも同じ顔があって、同じ緑の瞳が僕を見つめ返していた、そこにはまったく純粋でむき出しの、まばゆいばかりの他人の姿があった、僕はヘイリーの頬に触れる、僕は確かに他人に触れていた、ヘイリーとしか名指ししようのない、その人の頬に触れていた、ヘイリーという存在、ヘイリーという名前、僕のそばにいた、あのコの体温、あのコの感触。

 

 ただ、僕はいったい、どこまでヘイリーのことを分かっていたといえるのだろうーーかなり、ある程度、全然? 分かっていると思っていた相手が分からなくなることはもちろんあるし、近くにいると思っていた相手が実は遠くにいることに気づくことももちろんある。そもそも他人というのは、決して分からないものであり、相対的ではなく絶対的な距離の向こうに存在している、と言うことはできるのだが、しかし僕らは誰もが、相手を分かるとか、相手に近づくとか、そういうことが可能だという考えを捨てることはできないし、それどころか、そういうことに幸せを見出したりする。いったい、分かるとか近づくとかいうのは、どういうことなのだろうか。なぜこんなにも、僕らは孤独であることを運命付けられているのだろうか。言葉が現実のものに触れることは決してできないのと同じように、僕らが他人について本当に語ろうとするとき、その言葉の全ては空疎に響き、ことごとく粉々に打ち砕かれるだろう。だが、それでも、他人の存在だけが僕らの現実なのだ。僕がヘイリーについて語る言葉の全ては、風に吹かれて溶けるように消えていく塵であり、誰かの耳に届くとき、それはもはや、人の歴史の、いつかどこかで観られた、ひとつの夢でしかない。それはひとつの詩としてしか存在することはできない、意味を回避しつつ、意味から自由であることを目指しつつ語るとき、それは詩以外にありえない。ヘイリーは意味ではない、ヘイリーとは僕の現実であり、だから、言葉のうえにおいては、ヘイリーは詩としてのみ存在し得るのだ。

 

 

 

物語のはじまるところ その9へつづくーー

物語のはじまるところ その7

 "Wake up. It's already 10am."

 羽毛のような柔らかいふわふわとした感触が、鼻先をなでているのを感じて、僕は目を開ける。長い髪を下ろしたヘイリーが、僕の顔を覗き込んでいた、髪の毛が薄絹のカーテンのように揺れ、朝の光を解きほぐして柔らかい綾を作り、それが僕のまぶたをくすぐって心地よい目覚めを与えてくれる。ヘイリーの髪の毛は、アジア人の僕のそれよりも細く柔らかい。無造作に手ぐしを入れると切れてしまうので、それをなでるときは、とても丁寧にする必要がある。

 「おはよう」

 僕が眠たげな声で言うと、ヘイリーは微笑んで、僕の鼻先にキスをする。何の変哲も無い休みの日の朝の、僕の家の中の光景だった、ただその中に、ヘイリーがいる。僕はベッドから上半身を起こして、部屋から部屋へ歩き回るその姿を目で追っていた、ヘイリーのいる風景は、まるでこの家の全てを違ったものに見せる。突然外国からやって来たその闖入者は、ついこの間まで両親がいなくなった後の僕だけの孤独な世界だったその家に、そよ風のような幸福感を振りまいていた。この家に孤独を反復させ堆積させていた自動化されたシステムのような空気の流れが、ヘイリーの存在一つで変わってしまった。あれから僕らは何度か会ったりするうちに、こんな感じで互いの家を行き来する関係になったのだった。

 キッチンのほうから、甘い匂いがしてくる。朝食にするために、ヘイリーがパンケーキを焼いていた。ヘイリーは料理しながら鼻歌を唄っている、最初は流行りのポップスだったが、そのうちヘイリーのお母さんの作った歌になった、彼女の歌、ヘイリー・ベイリーの歌。シンプルで楽しい歌だった、いいかげんで、思わずくすりとしてしまうような。この歌を聴いた人は、ヘイリーが愛され満たされて生きてきたと信じるのではないだろうか、実際のところはどうであれ。のそのそと起き出した僕は、ヘイリーを手伝うためにキッチンへ入った。手伝うと言っても、皿を並べるとか道具を片付けるとかくらいの話だったけれども。

 "Enjoy."

 できあがったパンケーキを、ヘイリーが僕の前に置いた。ふわふわとして、表面はきれいなキツネ色、それはもう見事に焼き上がっていて、その上にはブルーベリーのジャムとホイップクリーム、そして本物のブルーベリーも乗せてある。

 「おいしい」

 本当においしかったので、僕はそう言いながら子供みたいにパンケーキを頬張った。

 「もしブルーベリーがもっと安かったら、自分でジャムを作りたいんだけど」

 日本でフルーツを買うと高いということについて、ときどきヘイリーは不満を漏らした。外国で暮らしたことのない僕には全く比較のしようがなかったが、ヘイリーが作ったブルーベリージャムでこの絶品パンケーキが食べられないのは残念だということだけは確かだ。

 「本当においしい。どこで作り方覚えたの?」

 「お母さんから習った。生地の作り方から、焼き方の、細かいタイミングまで、全部」

 しばしば、ヘイリーは母親の話をした。ジェイムズやアリスにもそういう所があったが、彼らはしょっちゅう家族のことを話題にする。それは仮に僕が両親を亡くしているということを差し引いても、不思議な感じだった、日本人の友達や恋人といるときに、両親の話題が出ることは、彼らがそうするのに比べたらずっと少なかった。ただ、アリスとジェイムズと比べても、ヘイリーが母親の話をする回数はとても多かったし、それより不思議だったのは、これほど母親の話をするヘイリーが、父親の話は全くしないことだった。父親よりも母親のほうが子供との距離が近いというのは多くの家族において見られることだったが、いささかそのギャップが大きすぎる気もしていた。

 「お母さん、料理が得意だったの?」

 僕は会話を続ける、父親のことは、遅かれ早かれ聞くことになるだろう、くらいにしか思っていなかった。

 「そう。母親の趣味みたいなものだった」

 「こんなおいしいパンケーキを作れるんなら、たいしたもんだよ」

 「そうでしょう?」

 ヘイリーが頻繁に母親の話をすること自体はけっこうなのだが、僕にとって困ったことは、それを聞くたび、聞けば聞くほど、僕の罪悪感が積み上がっていくということだった、何度もヘイリーと会って、親密になってしまうことで、僕はその母親からのプレゼントだったストールを返すタイミングを完全に失ってしまっていたのだ。そのことは、僕とヘイリーが一緒にいるという生活が、どこかで借り物の現実であるかのような感覚をもたらしている。この生活は僕がこっそり盗み取ったもので、ストールを返すことで、何もかもが、夢から覚めたかのように、消え去ってしまうような気がしていた、これほどヘイリーと親密な関係になっても、未だにこんなのは僕の今までの人生からすれば現実離れしているという感じがある。

 パンケーキを食べ終えると、僕らはキッチンを片付けた、ヘイリーがいつも料理をするので、皿洗いは僕の仕事になっている。その後は、二人でソファに座って日本のバラエティ番組を見ていた、日本語がかなり流暢なヘイリーでも、お笑いなどの理解は難しいようで、僕には少しベタに思える所や、普通は日本人が面白さを見出さないような所で笑ったりしていたし、一方で、僕が笑う時には、ヘイリーにはそれがどうして面白いのか直感的には分からないらしい所がちょくちょくあった。しばらくだらだらと過ごしてしまっていたが、別にとりわけテレビを見たいというわけではなく、僕らは単に手持ち無沙汰の時間を潰していただけだった。僕らは、アリスからの連絡を待っていた。

 

 「やっぱり行かないみたい」

 ようやく来たアリスからのメッセージを見て、ヘイリーがつぶやく。

 「行きたくないのかな?」

 「嫌いなんだって」

 「何が?」

 「その、ジェイムズの友達の人」

 僕ら三人は、ジェイムズから彼の友達らしき人がやるコンテンポラリー・ダンスのパフォーマンスを観に行かないかと誘われていた。僕もヘイリーもその友達と面識はなかったが、アリスは一度だけ会ったことがあるらしく、「なんか嫌い」だと思っているようだった。感覚的に判断する所が彼女らしい。

 「なんで?」

 「うーん。よく分からない。どんな人なのか私も知らないし……。ただ、ジェイムズは、その人に気があるみたいなんだよね」

 「ええと、それは、アリスが嫉妬してるってこと?」

 「そうじゃないと思うんだけど。まあ、アリスのことだから、よく分からない。ていうか、きっと自分でも分かってないと思う」

 「どうしよう?」

 「私は、どっちでもOKだけど」

 ヘイリーは(そしてジェイムズやアリスもそうだったが)、けっこう「どっちでもいい」という言い方をする。僕が刷り込まれたステレオタイプによれば、欧米人というのは常にはっきり意思表示をする人々だったのだが、わりかしゆだねたり譲歩したりもするらしい、もちろん必要なときには、はっきりと意見を述べるのだが。

 「そうだな。ジェイムズが好きでアリスが嫌いだっていうのは、いったいどんな人なのか見てみたい気もする」

 「私もちょっと気になってる、実は。ジェイムズはイケメンだからけっこうもてるけど、あんまり他人にそういう興味を示すことは多くないから。どんな人なのか、見てみたい」

 「よし、それじゃあ行こうか」

 「うん。せっかく誘ってもらったしね」

 ジェイムズの招待に応じることで合意ができると、ヘイリーはすぐにアリスに「気が変わったらいつでもおいで」とメッセージを送った。点けっぱなしのテレビから「わあ」と歓声が上がったのでそちらを見る、照明をたっぷり浴びた有名レストランのステーキがアップで画面に映し出されており、ソースと絡み合う油がきらきら輝きながらしたたっているのを観て、タレントたちがめいめい「食べたい食べたい」と連呼している。

 「日本のテレビは、食べ物と動物のことばっかりやってる」

 あくまで素直な感想といった感じで、ヘイリーが言う。

 「僕は日本のテレビしか知らないけど」

 「だいたい何時みても、そんな感じ。日本人は食べ物と動物が大好きなのかな」

 そう言われて、僕は首をかしげる。あんまり日本人がそういう人たちだと思ったことはない。

 「みんなで共有できる無難な話題というのを突き詰めていくと、その二つに絞られるのかもしれない」

 ぱっと思いついたことを、僕は答える。昔なら流行りの歌とか野球とか、そういうものもあるいはそうだったのかもしれないが、今はそういう時代じゃない。例えば家族がみんなで観られる番組なんて、かなり限られてくるだろう。

 「ああ。そうかも。日本のテレビはチャンネルが少なくて、みんなが同じものを観てるもんね」

 これほど人々の嗜好が細分化されていく時代にあっても、みんなで共有できるものを求め続けるという、人々が持つある意味滑稽な本性を、食べ物と動物が象徴している気がした、そしてその滑稽さの奥に浮かび上がる、孤独を解決できない人々の無自覚な寂しさを、僕は見つめていた。ふと、ヘイリーに辛辣な言葉を浴びせた老人のことを思い出した、彼は、もはや手のつけられないほど、無自覚な寂しさにその精神を蝕まれていたのかもしれない。

 

 会場は、普段はサブカルやアート系の音楽をメインでやっているクラブだった。以前に世界的に有名なノイズ音楽のミュージシャンのライブを観に来たことがあったが、けっこう久しぶりなので、僕はきょろきょろとして、微妙な内装の変化を見つけたりする。基本的な造りはどこにでもあるクラブという感じだったが、ステージがちょっと高い所にあるので、後ろの方からでも演者がよく見える、その両サイドには、そびえる二体の守護神の巨像のような、どでかいスピーカーが積み上がって、観客を迎え撃つように凝視して立つ。開始の五分ほど前に会場に入ったのだが、すでに多くの人でごった返していた。友達どうしの内輪的なパフォーマンスになるのかとばかり思っていたが、意外にもそういう雰囲気ではなく、いろんな人たちが観客としてそこにいるようだった。

 「なんか人、多いね」

 はぐれないように、僕はヘイリーのそばをキープしながら、ジェイムズを探して会場を移動する。

 「そうだね。その友達って、けっこう有名な人なのかな」

 知り合いどうしで固まっている人たちもいたが、一人だけとか、僕らみたいにカップルで来ている様子の人もけっこう多い。会場は薄暗く、ジェイムズは見つからなかった、しょうがないので、ステージが見える位置をキープして、パフォーマンスを観ながら探すことにする。僕がステージを眺めている間、ヘイリーは隣に立った中年の女性から話しかけられ、なにやらそれに応じていた、フランス語なまりの英語のようで、僕には何を言っているのか全くわからない。モノクルをかけて、真っ赤なスプリングコートを着ているやたらおしゃれな女性は、たぶんアート関係の仕事とか、もしくは大学教員とか、そういうことをしている人にも見える。

 「なんだか、やっぱり注目されてる人らしい」

 中年女性との会話を終えたヘイリーが、たったいま聞いた内容を僕に説明してくれる。その女性は、どうやら日本を旅行中の雑誌記者らしく、気鋭の若手ダンサーである『カルロス・アレナス・クセナキス』(もちろん三人トリオというわけではなく、これが彼のフルネームだそうだ)、つまりそのジェイムズの友達のパフォーマンスを半ば取材がてら観に来たらしい。

 「何人なの?」

 「アメリカ人だけど、お父さんがキューバ系で、お母さんがギリシャ系だって」

 僕の頭の中で世界地図が展開して、想像が海を越えてぐるぐると駆け巡る。日本人どうしだと父親が北海道出身で母親が沖縄出身とかでも驚くのに、特にアメリカ人と話していると、それぞれの人が持つルーツのスケールの大きさにめまいがしそうになった。

 会場で控えめに鳴っていた音楽が止まり、照明がふっと落ちる、パフォーマンスの始まりを知らせる合図だった、雑談に興じていた人々のざわめきが、徐々に、収まって、みんながステージに視線を向ける。観客席もステージも、しばらく真っ暗なままだった、隣の観客の呼吸音が聞こえるくらいに沈黙がはりつめたとき、ステージの奥から、不意にゆらゆらと揺れる白熱球が灯り、それが、じわじわとこちらへ前進してくる。そのうっすらとした光の奥に、上半身をむき出しにした半裸のダンサーの姿がぼんやりと浮かび上がっていった、暗黒からにじみ出た液体のようなダンサーは、コードにつながれたその白熱球を手にぶらさげて、猫背になり、舞踏のような不気味で緩慢な動きで、闇を這うように蠢いていた。その演出は、闇をめぐる日本の美意識に想を得ているようにも見える。ようやくステージの中央まで来たとき、ダンサーはその白熱球を天井にかかったフックに結びつけた。暗闇に慣れてきた僕の目は、その浅黒い肌に覆われた金属的な質感をした筋肉でできた肉体の、異様なまでにくっきりとした無数のユニットからなる建築物のような構造をとらえていた。ステージの両端にある巨大なスピーカーから、非常にかすかで繊細なノイズ音が聞こえて来る、そしてダンサーは、その白熱球の周りをぐるぐると回るように踊り始める、硬い筋肉が、体を動かす瞬間だけ鞭のようにしなって闇を切り裂き、白熱球の光の中へと現れる、灯りから遠い部分は闇へ隠れ、近い部分だけが観客の視界に入り込んだ、腕が、顔が、脚が、闇の中から現れては消え、消えては現れ、ダンサーの全体像は、観客の想像力の中で構築されてはそれを拒むように溶け出し、ぼやけながらも強度を増していく。白熱球はダンサーの動きに影響されて振り子のように揺れ、ダンスのスピードが加速するに従ってどんどん不安定になっていき、全くランダムにステージへ光を落としていた。激しく踊りだしたダンサーは点滅する発光体のようにめまぐるしく照明の中へ出入りして、その姿を注視する会場には、ダンサーの荒々しい息遣いが響く。やがてそのスピードが頂点に達した瞬間、突然にダンサーはステージの中央へ這い出し、嘘のようにぴたりと動きを止めた。完全に魅了された観客たちの視線の中で、揺れる白熱球に照らされたその完璧な肉体を構築する筋肉が、音を立てるダンサーの呼吸とともに上下して、その汗によってぬらぬらと光っていた。そしてそのまましばらく静止した時間が続いた後、白熱球はふっと消えて、そこにはただ奥へ奥へと引きずられるような闇が残るばかりだった。

 パフォーマンスはそこで終了し、圧倒されて興奮した観客から長い長い拍手が送られる。

 「なんだか期待以上だった」

 感動を隠さずに僕は言った。

 「うん。あんまりコンテンポラリーのダンスって観たことなかったけど、面白かった」

 拍手しながらヘイリーが答える、イベントが終わったので、周囲の観客たちがぱらぱらと帰り始めていた。

 「ジェイムズはどこにいるんだろう」

 「そうね。もっと空いてるイベントだと思ったから、簡単に見つかるって予想してたのに」

 僕らはきょろきょろしながら、観客が片付くのを待った、たぶんジェイムズも僕らを探していることだろう。けれども、なかなかジェイムズは見つからなかった、観客の中にはまあまあの数の白人男性が混じっていたので、いつも日本人の人混みの中にいるときのようには目立たない。

 「来てないのかな」

 意外とそんなことかもしれないと思いながら、僕はつぶやく。

 「まさか。招待したのはジェイムズだし、大事な友達のパフォーマンスだし、来てると思うけど」

 「だよねえ」

 と言いつつ、これだけ見回しても見つからないので、本当にそうかもしれないと思ってみたりする。

 「あっ」

 短く声をあげて、ヘイリーがステージの横のあたりを指差した。そっちを見てみると、そこに固まっている関係者みたいな人たちに混じって、僕らのよく知るジェイムズの姿があった。ジェイムズはなんだか自分の存在を持て余したかのように、控えめな位置に立って、パフォーマンスを終えて関係者たちの前に現れたカルロス・アレナス・クセナキスを見つめていた。カルロスはさっと関係者全員の顔を確認しながら両手を挙げて来場に感謝するような動きを見せると、その中の一人だった眼光鋭い老紳士の所へ行って、軽いハグを交わす。たぶん、一番の重要人物なのだと思われる。

 「なんだかもじもじしてるみたいだな、ジェイムズは」

 「好きな人の前では”奥ゆかしい”感じになっちゃうのかな」

 カルロスを見つめるジェイムズの目には、どこか相手を恐れるような弱々しい光が灯っていた。

 「じっと見つめてばかりだね」

 "Yeah, he's in looove."

 ヘイリーがおどけて肩をすくめる。

 「どうしよう。待っとく?」

 「いいよ。行っちゃおう」

 ジェイムズをひやかすような感じで、ヘイリーは遠慮なく彼に近づいていった、僕もとりあえずその後を追う。

 "Hi!"

 近づきざま、ヘイリーがひじで軽くジェイムズをつつく。

 "Oh, hey."

 ほとんど上の空で、ジェイムズが返事をした、まるで僕らが現れたことになんの感動も示さないかのように。

 「ずっとここにいたの?」

 自分の存在をいちおうアピールするかのように、僕はヘイリーの後ろから顔を出して尋ねる。

 「パフォーマンスが始まる前に君たちのことを探そうかと思ったんだけど、予想より人が多くて。それに、ちょっとした仕事もしないといけなかったんだ」

 「仕事?」

 「パフォーマンスの写真を撮ってくれって頼まれたんだ、カルロスに」

 そう言って、ジェイムズは首から下げた一眼レフを僕らに見せる。大学で美学を専攻していたジェイムズは、趣味で写真をやっていた、その腕はほとんどプロ級で、彼のインスタグラムにはまあまあの人数のフォロワーがいる。彼がアリスやカルロスのような芸術家タイプの友人たちと交流があるのもそのせいだった。

 「こういう写真、確かに得意だもんね」

 ジェイムズはモノクロ写真だけを撮り続けていて、光と影による表現にかけては抜群のセンスを持つ。カルロスからこのパフォーマンスの撮影を頼まれたというのは、よく分かる話だった。

 「まあ、他の写真よりは。モノクロのやつばっかり撮ってるし」

 ジェイムズは謙遜してはにかんだが、やはりカルロスが気になるようで、何度も視線がそちらへ流れていた。

 「話しかけないの?」

 ヘイリーがあごでカルロスを指しながら尋ねる。確かに、友達のわりに、ずいぶん遠慮をしている。

 「あんまり邪魔したくないんだ」

 ジェイムズは僕らに微笑んで見せたが、秘めた感情は隠しきれず、顔に一抹の寂しさをのぞかせてしまっている。カルロスはたぶん、彼の中で重要度の高い自分から順番にあいさつを交わしているように見えた、つまりジェイムズの重要度は、それほど高くないらしい。その場にいる人々の全てとそつなく会話をこなしていく姿は、ダンサーとしての才能だけでなく、社交術においても抜け目のなさを感じさせる、一部の人間が持っているような、常に多くの人々に囲まれるという才能ーーそういうものも、カルロスは持ち合わせていた。

 "Hey, thanks for coming."

 そのうち、ようやくカルロスはジェイムズの前に現れ、ジャガーが獲物を捕らえるような豪快かつしなやかな動きで、ジェイムズをハグする。今までの気弱な表情がぱっと明るくなり、ジェイムズはカルロスを見つめた、その視線は、魅入られている人間のものに間違いない。カルロスは黄金比でデザインされたかのように美しい顔と体を持っている、誰もがその姿に、目を奪われてしまうことだろう。ジェイムズはすぐに、カルロスに撮影した写真を見せはじめた、彼はまるで恋愛下手な女性が、自分を利用する男性に尽くしてしまうのと同じように、好きな男性に媚びて、気に入られようとしてしまっているみたいだった。その姿に僕は、なんだか嫌なものを見てしまったような気にさせられる。

 "Oh, they're my friends."

 ほとんどそっちのけにしていたことを悪いと思ったのか、急にジェイムズが僕らをカルロスに紹介する。

 "Hi, did you like it?"

 社交辞令として、カルロスは僕らにパフォーマンスの感想を尋ねる。その顔に浮かんでいる社交慣れした笑みは、確かに初対面の人であっても惹きつける力を持っている。でも、僕はその裏にある、他人に対する徹底的な無関心を見逃さなかった。社交欲の強いタイプのほとんどは意外と他人に対して鈍感なものだが、カルロスの場合は芸術家気質も加わって、ある意味では他人から最も遠い所に立っているような人間だった。

 "Oh yeah, it was excellent!"

 ヘイリーが感想を述べるが、だいたいそういうコメントを聞き慣れているのだろう、カルロスはそつない感謝を示しながら、それ以上ヘイリーや僕と会話を続けようとはしない。その表面的な人当たりの良さの奥には尊大さが見て取れる。彼のように才能がある人物の多くにはそういうところがありがちなものだとは思ったが、要するに、カルロスは自分より優れていないと見なしたものを心のどこかで軽蔑する、そういうタイプの人間だった。

 "Hi, Carlos!! how are you?"

 そのとき、横からモデル風の女性が現れ、カルロスに身を寄せるようにしながら話しかけてきた。美人だが、その立ち振る舞いにはあまり品性のようなものはない、才能ある芸術家の男の周辺をうろつくタイプの女だと、すぐに分かる。しかしカルロスは満面の笑みとハグで応え、そのまま女性の腰に手を回して、だいぶ馴れ馴れしい感じで会話を始めてしまう。それを見て、僕は妙な感じがした、さっきのジェイムズとのやりとりにも、そこにはかすかな性的アピールのにおいがしていたので、カルロスもゲイなのだと思ったのだが、その女性に対してもまるで同じような、性的なやりとりの雰囲気が漂っている。少なくとも、カルロスはジェイムズが自分に好意を寄せているのを知っているはずだったし、カルロスもまた、ひどく思わせぶりな親密さを見せていたはずだった。しかしそのジェイムズが見ていることなどまるで意にも介さず、というよりもはや眼中にすらなく、カルロスはその女性の耳に、ほとんど唇が触れるくらいの距離から何かを囁いたりする。ひどく甲高い、下品な笑いが女性の口から漏れた、ジェイムズの気持ちを考えると、全く見たくない光景だ。カルロスには、他人の気持ちに対する異様なまでの冷淡さがあり、同時にそれをカバーしてあまりある、社交の能力を備えてしまっている。ひどく鈍感で残酷な男だと思った、どうしてジェイムズは、こんな男のことが好きなんだろう、僕はそんなことすら考えたが、しかし、カルロスはその残酷さを正当化してしまうほどに美しく、強い精力を振りまいて、人々を魅了してしまう。

 

 「もうちょっと、ジェイムズと喋ってくれてもよかったのにね」

 イベントからの帰り際、ヘイリーがジェイムズに向かって言う。結局カルロスはジェイムズに再びかまうことはなく、そのままあの女性と一緒に控え室まで引っ込んでしまったのだった。

 「いや、いいんだ。彼は忙しいから。ちょっと話しかけてくれただけでもありがたいよ」

 ジェイムズには恨み言を言うような様子は全くない、それどころか、カルロスをかばうような口調ですらある。

 「でもさ、あの人、ジェイムズに気があるの知ってたはずでしょ? もうちょっと気を遣ったらいいのに。あんな見せびらかす感じで、つまんない女と仲良くしちゃって」

 僕はヘイリーの意見に賛成だった、ただ、見せびらかすというのはカルロスの意図にはなくて、彼は単に、他人の気持ちに極端に鈍感なだけだと思った。

 「彼はそういう"exclusive"な関係を求めたりはしないのさ。別に、一回か二回そういう"カンケイ"になっても、カルロスはそこに特別な意味を与えたりしない」

 僕はそこでようやく、カルロスがバイセクシャルだったのだと気付いた。ジェイムズと彼の間で一回か二回は、そういう"カンケイ"が結ばれたらしい。でもそのことはたぶん、カルロスからすれば、ジェイムズはあの下品な女と同じような扱いなのだということを意味するだろう。

 「あっちこっちで、そういう相手を捕まえてるやつってことなの?」

 「奔放なのさ。彼は誰のものにもならない。そして、誰も彼のものにはしない。自由だけがカルロスを捕らえてる。"monogamy"への執着なんて、彼にはないよ」

 「ジェイムズはそれでいいの?」 

 「僕はただ、カルロスが好きなだけだ」

 「うーん。そんなのって、……ねえ?」

 急に、ヘイリーが同意を求めてくるが、僕はただ、あいまいに首をかしげただけだった。正直言えば、それはカルロスとジェイムズの意思の問題だと思っていた。ただ多くの女性は、そういう奔放な性のありかたと、それをジェイムズが受け入れてしまっているということに納得がいかないのだろうし、ヘイリーのその気持ちを、想像できないこともない。もしかしたら、アリスもまた、そういう理由でカルロスを嫌いだと言っていたのかもしれない。

 「まあ、嫉妬がないのかって言われたら、それは嘘になるよ」

 「やっぱり」

 「でも、カルロスにとって、"exclusive"な関係というのは弱さの証なのさ。強い人間は、気のおもむくままに、相手を求め続けるというのが、彼の持論なんだ」

 「ずいぶん"masculine"なのね。強さへの"obsession"なんて、過剰に男性的な感じがする」

 「カルロスは、そういう意味ではかなり男性的だよ。むしろ、その過剰な「男性性」が、彼をバイセクシャルにしている気もする」

 「そういうもんなの?」

 「いや、僕も分からないよ。自分がLGBTだからって、他のLGBTのことが理解できてるわけじゃない。でもとにかく、カルロスは文句がつけられないくらい自由で美しい。そんな理屈では、彼を捕まえられないよ」

 僕は全く、二人の会話には入れなかった。今までそういう人たちの存在についてまともに想像したこともない自分が、ちゃんとした意見など持ち合わせているわけもなかった、二人の会話に入れるような知識も考えもない。少なくとも僕が感じることができたのは、”ノーマル”と考えられている男女間の交際については、ノーマルであるがゆえにスタンダードや規範がそれとなく多くの人に共有され、人々は大なり小なりそういうものに従いつつ恋愛をするのにたいして、彼らのそれは、社会的通念と言えるほどにはっきりした交際のスタンダードがなくて、そのあいまいさと人間臭い感情の間で、ジェイムズは揺れ動いているということだった。

 「でも、まだ彼を追いかけるつもり?」

 ヘイリーは、どうしても納得いかない様子で尋ねる。たぶんジェイムズは飽きられて利用されているだけだったし、第三者の視点から見れば、ヘイリーの意見は正しい。

 「まあ、彼に魅力を感じている間はそうするよ。そばで見られるだけでもいいんだ。あれだけ美しくて才能のある人間と、僕は知り合いになったことはない」

 そう言いつつも、ジェイムズの表情にはひどく疲れたような雰囲気の寂しさがつきまとっていた。あまりに遠く、手の届かない距離にあるものを求めて、その切望に夢中になることで感情を支配されてしまい、自らの心身が弱っていくことに気づかない、そういう人間の表情をしている。けれども僕は、ジェイムズの気持ちを想像せずにはいられなかった、明日、もしヘイリーが僕を嫌いになって、どこかへ去ってしまったとしたら、僕は、ジェイムズとまったく同じ表情になるのかもしれない。遠く美しいものが与えるその喜びは"ravishment"であり、それは奪うことによって恍惚を与える、それは与えたものを奪うのではなく、人が以前から持っていたものを根こそぎ奪うことによって、恍惚を与えるのだ、だから、遠く美しいものを失った人間は、文字通り全てを失う、失うことで今までの自分に戻ってしまうのではない、それを失ってしまえば、人は、二度と元の自分の戻ることはできないのだ、そのとき初めて、自分が以前とはまったく異なった人間になってしまっていることに気づくだろう。

 

 

物語のはじまるところ その8へつづくーー