Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その3

 

 「ソウスケ!」

 パーティー会場に現れた僕を、タカユキは目ざとくも一瞬で見つけて名前を呼び、肩を抱いてきた。

 「久しぶり」

 そう返した僕のあいさつは、どこかぎこちない。タカユキに会うのが久しぶりすぎて、なんだか初対面の相手に人見知りするような感じになってしまう。パーティーの雰囲気に対する気後れもあった、カジュアルな服装の人々が飲み物片手に談笑しているくらいで、だいぶ砕けた感じだったが、それでも、こういうのに僕は馴染まない性質だ。対して、タカユキは堂々とかつ自然に振舞っている。昔のタカユキだって別にこういうのが好きなタイプではなかったはずだが、会社をやりながら場数を踏んだのだろうと想像する。

 「何だ、陰気な感じだな。アメリカのパーティーアニマルですら、見るだけでうつ病になりそうな顔してるぞ」

 「そこまでひどい顔してないだろ、さすがに」

 それを聞いて、タカユキは大きな声で笑った。冗談のセンスは昔と変わらない感じだった、けれども、笑い方は昔とは違った。タカユキは昔より体格も声も大きくなっていた、たぶん彼の仕事がそうさせたのだろう。僕はそう思いながら、改めてタカユキを見る。むろん、タカユキはタカユキだった、そういった変化を除けば、昔と同じ親友がそこにいる。 

 「どうだ。楽しめそうか?」

 タカユキはパーティー会場を片手を挙げて指し示す。会場は、タカユキの会社の新しい支社オフィスの向かいにある、レストランを貸し切ったものだった。

 「いや……どうかな」

 僕はちらりとタカユキが示したほうを見る。当たり前だがタカユキのビジネス関係者がメインのようで、快活そうな人々がなにやら僕にはあまり分からない業界のことを喋っている。

 「そうだろ」

 ははは、と声を出してタカユキは笑った。続けて聞くと、僕はその笑い方に違和感をおぼえた、そして、正直あまり好きではないと思った。昔のそれと違う笑い方は、もしかしたらタカユキが昔と違う人間になろうと無理した代償なのではないかという気がしたのだ。別に暗いやつではなかったが、こんなふうに人前にしゃしゃり出たり、集団や組織の先頭に立つような性質ではなかった。

 「そうだろって。お前が呼んだんじゃないか」

 「まあまあちょっと待てよ。アヤカとかノリマサとかも呼んであるんだ。そのうち来るだろう」

 「ノリマサも?」

 「ああ」

 そう答えたタカユキの態度は平然としたものだった、平然としすぎていた、つまり、何かをごまかしていた。アヤカを呼ぶのは自然な話だったが、ノリマサに、いまさらタカユキが会いたいとも思えない。それに、ノリマサとアヤカが会えば、そこに何らかの気まずさが漂うはずだ。それなのに、タカユキはあえてノリマサを呼んでしまった。

 「来るのか? ノリマサは」

 「……まあ、来ないかな」タカユキの態度は、結果には頓着していないといった調子だった。「けど、呼ばないのもどうかなって話だろ」

 「そりゃそうも言えるだろうけど……」

 僕は、それ以上追求しないことにした。どのみち、タカユキの真意は分かりそうにない。

 「どうだ、最近は。相変わらず金にならなそうなことをやってるのか?」

 タカユキは、僕が小説を書いたりしていることについて尋ねていた。僕は英語が得意なので翻訳の仕事などで生活費を稼ぎながら、出版するあてもない小説を書き続けている。

 「金が目的ならもっと別のことをやってるよ」

 「そんなら何が欲しくてやってるんだ」

 「そりゃあ……」

 言葉に詰まる。何が目的かということが、僕の場合はっきりとはしていなかった。地位にしろ名誉にしろ金にしろ、ちゃんと何かを欲しいと思っている方が結果は出やすいのだろうが、僕の動機はその点不明確だった。初めは、自分は会社などから与えられる仕事にやる気を見出せる人間ではなくて、創作的なことにしか情熱を持てまい、という気持ちでやりだしたことだったが、今では何かもう、意地でやっているような気もする。

 「まあ何でもいいや。意志を持って何かやろうというだけで立派だよ。そういう人間が希少な時代だからな」

 何も言えなくなった僕にタカユキは助け舟を出す。僕はどう答えても居心地悪いように感じて、とっさに話題をすり替える。

 「立派といえばタカユキのほうじゃないか。東京に行って十年、いつのまにか会社を起ち上げたと思ったら、今やこんなに成功してる」

 「まあな」

 「だいぶ世の中に貢献してるよ」

 タカユキはあまり、というか全く、誇らしげな様子を見せず、ただ生返事だけをする。いささか妙なリアクションだった、褒められるのが嫌というより、後ろめたいことを探られているかのように、タカユキは視線をそらして首をかしげた。

 「世の中に貢献? どうかな。俺は流行りの経営者みたいに会社を大きくすることが”日本を元気にする”ことにつながると主張するみたいな趣味はなくて、その点、極めて個人的な目的でやってる」

 「個人的?」

 タカユキはさっきまでの快活な調子ではなく、ずいぶん冷めた調子で話していた。それを見て、他のビジネス関係者と話していた時や、僕に最初に応対していたときのタカユキには、いくらか作った部分があるのだと僕は確信する。

 「まあ、なんていうかな……」

 その時、僕とタカユキは同時に、こちらへ近づいてくる一組の男女の姿に気付いた。

 「元気してた?」

 そう言って、女性のほう、アヤカは僕の肩をぽんとたたく。その様子を、タカユキは少し目を細めて見ていた。

 「まあ、相変わらずさ」

 「だよね。そういう顔してた」

 そう言ってアヤカは微笑んだ。その自然なやりとりの感じに、僕は安堵する、タカユキと違って、アヤカは昔と何も変わっていないようだった。

 「タカユキも、元気?」

 アヤカはタカユキに手を振る、その仕草も、昔のままだった。

 「ああ」

 タカユキは笑顔を作って答える。ただ、そこには僕に応対したときとは違うぎこちなさがあった、それはタカユキだけじゃなくて、むしろアヤカとタカユキ、その二人の間にあるぎこちなさだった。

 「えっと、二人に紹介しとかないとねーー」

 そう言いながら、アヤカは後ろを振り返った。僕とタカユキの視線は、おのずとそこにいた男性のほうへと向く。

 「これ、私の夫」

 アヤカの紹介を受けて、その白人男性は「はじめまして」と言って、僕らに微笑みかける。体格は良く、華奢なアヤカと並ぶとなおのこと大きく見える。人懐こい笑顔だったが、その目には思慮深い雰囲気が漂っていた。

 「ブライアンと申します。よろしく」

 少々うやうやしい感じだが、その言い方から、かなり日本語が流暢なのが窺えた。ブライアンはこちらに手を差し出し、僕らはその求めに応じて握手をする。タカユキは、ブライアンを観察するように、二度ないし三度くらい、その顔をちらちらと見ていた。アヤカは大学で留学したり日本でも外国人の友達を作ったり、活発に動きながら英語を熱心にやっていたようだが、今はアメリカ人男性と結婚して生活している。

 「うわさには聞いてたけど、ーー結婚したんだね」

 一瞬、「外国人と」という言葉を付け足しそうになって、僕はそれを飲み込んだ。ブライアンのいる前でそれを言うのは、失礼にあたる気がした。

 「結婚なんかできない女だって思ってた?」

 「そうだね」

 「正直じゃない」

 アヤカは口を開けて笑う。

 「いや、もちろん冗談だけど」

 「だけど?」

 「まあ、自分の考えとかをはっきり言うタイプだから」

 もう一度アヤカは声を出して笑った。

 「そうね。なかなかそれを受け止められる男はいないよね。それができるのはこのブライアンくらい」

 言いながら、アヤカはブライアンの腕をなでる。どこか誇らしげで見せびらかすかのような態度は、外国人と結婚した日本人女性の典型のように見え、僕はそのことに違和感をおぼえた。アヤカは基本、自分らしさをはっきり持っていて、何かの威を借るようなタイプではないはずだった。けれども、何か自分を、実際とは違う、または実際以上の人間に見せようとする、そういう違和感がそこにはあった。

 「そのおかげで、アヤカといると退屈しないよ」

 ブライアンは柔和な笑顔でそれに応じ、アヤカをそっと抱くように肩に手を置く。

 「幸せそうじゃないか」

 タカユキが二人の間に割って入るようなタイミングで声をかける。表情は優しげだが、その言い方には相手を突き放すような響きがあった。

 「タカユキだって、私なんかよりずっと見事にやってるじゃない」

 微妙な冷笑の雰囲気を感じ取ったのだろう、アヤカはタカユキの言葉に正面から応じるよりも、相手の話題にすり替えることを選んだ。

 「そう見えるか?」

 「そりゃあ……そう見えない方が不自然だけど」

 「表面的にはな。実際にはいいことばかりじゃない。華やかな部分以外はだいたいみんな隠そうとするし、あえてそうしなくても隠れてるもんだ。不思議なもので、華やかな部分は人々の意識の表にあらわれ、そうでない部分は意識の底に沈む。意図せずとも、自然とそうなってしまうのさ」

 タカユキは視線をそらし、会場を埋めるパーティーの参加者達を眺める。その冷淡な表情は、意識の底の何かの存在を覆い、同時にそれ以上その話題を続けることを拒んでいた。

 「まあ、何はともあれ、順調そうでよかった」

 「ああ」

 そっけない返事だった。タカユキは、自らの成功と躍進を祝うイベントを開催していながら、直接その話題に触れることを嫌がっているようだった。それなら、なぜ、僕やアヤカを呼んだのか、タカユキは、それについて語って欲しいのではなく、ただその成功を見て欲しいだけだったのだろうか。それは、決してわかりやすい感覚ではない。

 「何よ。ずいぶん陰気じゃない」

 その態度に苛立ったのか、アヤカが急にストレートな物言いをする。それを聞いたタカユキは、一瞬はっとしとたようになり、急にそれまでとはうって変わって、鷹揚な笑いをもらした。余裕のある表情に戻り、その顔をアヤカに向ける。

 「いや、悪かったな。普段から、他人にはあまり順風満帆みたいな顔をしないようにしてる。無用な嫉妬を招きやすいんだ、こういう仕事をやってるとな。まあ、一種の癖みたいになってる」

 「別に嫉妬なんかしないよ。昔の友達の成功くらい、素直に喜べるって」

 「ついついそうなるんだ。そういう意味じゃない、つまり悪気はない」

 タカユキはずっと同じ表情で微笑みかけ、アヤカは腑に落ちない感じを見せつつも、その言葉にうなずきを返した。タカユキの態度には、どこかうさんくさい感じがあった。少なくとも、さっきのネガティヴな物言いのときのほうが、嘘がないように見える。

 「タカユキ」

 「ん?」

 「ちょっと、昔とは変わっちゃったね」

 タカユキが、一瞬、言葉に詰まっているのが僕にはわかった。目を細めて、アヤカを見つめる。アヤカには、何気ない物言いの中で、鋭く本質を突くような、独特の才覚があった。その一言は、彼女の感情のトーンや抑揚によって、特別な重みを帯びていた。タカユキは、平静を装う表情の裏で、かすかに動揺していた。何か自分が昔とは違うことを、いくらかは感じてはいたのだろう。でも、具体的に、何が、どう違うのだろう? それを、アヤカの直感も、僕の思考も、タカユキの自覚も、とらえきれていなかったのではないだろうか、と僕は思う。タカユキは言葉を探していた、その姿は、ひどく孤独なものに見える。

 「俺はーー」

 ようやく、タカユキの唇が動き、言葉を発しようとする。けれどもその瞬間、僕ら全員の耳に聞こえてきたのは、会場の入り口で、ガラスのコップが床に落ちて砕け散る音だった。

 

 会場の話し声がいっせいに止み、全員が物陰から様子をうかがう小動物のように、視線を音が聞こえたほうに向ける。そこには、一人の男が立っていた。鼻梁の通った作りの良い顔だが、やや頰がこけすぎている。顔は紅潮して、目はかすかに充血している。男は、たぶん酔っている、会場の多くの人が、彼の顔からそれを読み取った。

 「ーーノリマサ?」

 声を発したのは、僕だけだった。アヤカもタカユキもそれがノリマサであると気づいていたはずだった、それなのに、何も言おうとはしない。いや、僕にはもちろん分かっている、二人とも、強い驚きのせいで、身がすくんでしまっていたのだ。よもや、僕はこの三人の再会が実現することがあろうなどとは思っていなかった。タカユキはどうせ来ないだろうと思ってノリマサを招待したのだろうし、アヤカも、彼が来ると思っていたら、ここへ出席していたかどうか怪しい。ノリマサは、名目上の招待客であり、実質上の招かれざる客だったのだ。

 「おっと。すまんすまん」

 悪びれもせず、シニカルな笑いを唇に浮かべながら、ノリマサはすぐ隣にいた参加者にぶしつけな態度でわびる。自分が落としたコップの破片を片付けようとするそぶりすら見せない。一目見ただけで、様子がおかしいのが分かった。

 「タカユキ!」

 遠くからタカユキを見つけたノリマサが、品の悪い大きな声で呼ぶ。

 「……完全に失敗だったみたいだな、あいつを呼んだのは」

 嫌な空気を感じ取ったタカユキがぼそりとつぶやいて舌打ちし、足早にノリマサへと近づいていく。だが、タカユキがノリマサの正面に来た瞬間、ノリマサはいきなりタカユキの胸ぐらをつかみ、血走った目でにらみつけた。全くおかしなノリマサの行動にやばさを感じた僕は、急いでタカユキの後を追う。ここ何年かのノリマサの素行について悪い噂だけは聞いていたが、どうも想像していたよりひどい状態のようだった。

 「冗談だよ、冗談。びびんなよ」

 突然ノリマサは笑い出し、タカユキの胸ぐらから手を離す。異様なノリマサの行動に緊迫した会場の中で、その笑い声が気味の悪いくらいによく響く。

 「どうした。いったいどういうつもりだ?」

 落ち着いたトーンだったが、タカユキは苛立ちを隠そうとはしていなかった。

 「どういうつもり? いやいや、てっきり社長様が俺みたいな落ちぶれ者を呼びつけて、見下してらっしゃるのかと思ってよお」

 ノリマサは卑屈な笑いをもらして、へりくだるように頭を下げて上目遣いでタカユキを見上げる。

 「別にそんなつもりはない」

 「へえ! そうじゃなけりゃ、純粋に俺を招待してくれたってのか? 昔の同級生だから? 俺に会いたいから? おいおい、とんだ嘘つきだな。本当は見せつけたかったんだろ? 今のお前の成功を、見せつけて、憎い憎いこの俺をはいつくばらせたかったんだろ?」

 「落ち着けよ。酔ってるのか?」

 「確かに酔ってる。ここに来る前にしこたま飲んできたからな。けど、俺は落ち着いてるよ。俺は自分が何を言ってるのか分かってる。なあタカユキ、お前、俺に復讐に来たんだろ? じゃなきゃ、今さら帰ってこないだろうしな。でもな、そんな必要はないんだ。俺はとっくに、底辺の人間だ! これ以上みじめにはなりっこない」

 この場にいる全員が、唖然としてノリマサを見ていた。いきなり現れて、聞く耳を持たず、個人的なことを大きな声で一方的にまくしたてる姿に、僕ですらどうしていいのか分からず困惑してしまっている。

 「少し静かにしてくれ。ノリマサ、俺は別に復讐とか、そんなこと考えてない」

 「考えてない? おいおい、じゃあ、お前は、俺をお友達だと思ってここへ呼んだのか?」

 タカユキは、じっと、ノリマサを見ていた。何も言葉を発しない。タカユキは、答えを探しているよいうよりも、答えを回避しようとしているように見えた。そのタカユキに、ノリマサが笑い声をあびせる。

 「やっぱり図星じゃねえか」

 皮肉たっぷりのいやらしい言い方だった、タカユキを追い詰めてやろうという意図が、はっきりと表れていた。このままだと不毛なやりとりが続くだけだった、だから、僕はいちかばちかで、タカユキとノリマサの間に割って入ろうと前に出る。

 「ノリマサ」

 間合いを測るような意図で、僕はノリマサの名前を呼んだ。

 「おう、ソウスケじゃねえか。相変わらず勉強ばっかしてんのか?」

 酒臭い息を吐きながら、ノリマサが言う。中学時代にやたら成績の良かった僕を、ノリマサはからかっていた。

 「ずいぶんな勢いじゃないか。まるで、この場にいる全員が敵みたいな態度だな」

 ノリマサの言葉から、多少は余裕のありそうな気配を感じ取った僕は、冗談めかして言ってみる。

 「そりゃそうさ。だってこの連中は、どうせタカユキの取り巻きみたいなもんだろ」

 「タカユキの仲間だからって、お前の敵ってわけじゃない。少なくとも僕は、ノリマサの仲間でもある」

 「ははは! お前も俺のせいでひどい目に遭ったってのに? お前はヒトがいいから、バランスを取ろうとするんだな。疲れる生き方だろう」

 「僕は僕でしかないから、他の生き方は知らない」

 僕はおどけたように肩をすくめる。ノリマサの表情はいくらか崩れ始めていた。少なくとも、さっきまでタカユキを攻撃していたときとは違う顔をしている。

 僕はその後もノリマサと会話を続け、どうにか彼を外へ連れ出すことにした。会場から出るとき、僕は一瞬アヤカのほうを見る、アヤカはブライアンの陰に隠れるように立って、こちらを遠慮がちにのぞいていた。きっと、ノリマサに見つかりたくはなかったのだろう、それを察した僕は、そっとノリマサからの視線を遮るような位置を歩いて、ノリマサを外へ誘導していった。

 せっかくの同窓会だったけれども、完全に興が冷めてしまった。何もかもが消化不良で、何もかもが混乱してしまっていた。そこには、そのままにしておけない何かがあるように思えた、僕らそれぞれの間に、それぞれの中に。そして、この再会は、決してこれで終わることはなかった、僕らの関わりはもっと複雑に絡み合い、僕ら全員を、後戻りできない場所まで、押し流してしまうことになったのだ。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その4へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その2

 

 がこの世に生まれてきたとき、その人の人生は、いったいどのくらいが、あらかじめ定まっているものなのだろうか。どんな国の、どんな地域の、どんな集団の、どんな親の子供として生まれてくるかによって、それはどのくらい決められてしまうのだろうか。ある人は全てが運命だと言うだろうし、ある人は全て努力次第だと言うだろう。そして多くの人は、例えば半々だとか、割合の問題だと言うだろう。

 それがもし貧しい家庭に生まれた子が金持ちになるという問題に限定されるなら、それはシンプルな話になるし、努力によってその目標が達成された話も枚挙にいとまがない。けれども、もしここに、生まれたときに用意された、ありとあらゆるものから自由になりたい、という人間がいたとしたら? この問題の本当に意味での矛盾と困難にぶち当たるのは、まぎれもなくそういう人間だろう。それはあらゆる社会的条件や前提からの解放を信じること、裏を返せばあらゆる社会的条件や前提と無関係に自分というものが存在し得るという信念、ひいては信仰と言える。人間が単なる肉体の存在だとするなら、あらゆる国や社会が消えても個人が存在するのは当たり前の事実だと言えるし、個人が社会的関係の中の座標の産物でしかないとするなら、なんらか寄って立つための根拠が必要というのも当たり前の事実だと言える。ただ一つ確実なのは、あらゆる意味付けの無い荒野の中の、むき出しの肉体のような人間としての自分を想定する力なしには、人はそういった個人を析出することができないということだ。それが実際には不可能なことであれ。

 荒野への想像力ーーただそれだけが、「個人」と呼ばれる存在への道を開く。

 そしてその荒野への想像力は、自分が何者かであるということへの違和感を出発点とする。この国の、この集団の、この親の子供として生まれたという「この私」への、その恣意性と必然性への、底無しの違和感。

 おそらく、僕らはそういう違和感を持っている人間たちだった。僕と、タカユキと、そしてそのパーティーで再会することになる、アヤカと、ノリマサ。僕の同級生の中で、そういう違和感を持っているのは、たぶんこの四人だけだった。仲が良かったと言えるのかどうかはわからない、けれど、僕らは、他の同級生たちよりも、互いに強い縁のようなものを感じていた。きっと、その違和感を共有していることこそが、僕らを結びつけたのだろう。その違和感への向き合い方は、四者四様ばらばらだったけれども、僕らはそれに向き合うことなしに、生きては来られなかった。

 これは、僕ら四人の物語。そして僕らと同じような人々の、定められた何者かでいることから、踏み出してしまう人々の物語。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その3へつづく__

僕らが何者でもなくなるように その1

 かしい人から連絡が来た。かつての同級生。久しく途絶えてなかった交流であっても、その名前と言葉を聞けば、いろんなことが鮮やかによみがえる。記憶が、記憶の中でもとりわけ感情と結びついているような、淡い色彩を帯びたような記憶たちがよみがえって、僕はいくらかの気恥ずかしさと愉快さに胸をくすぐられる。僕はとりわけ彼と仲が良かった、決して気の合う人間が多いわけではない僕が、最も気を許せたのは、この同級生、タカユキだった。

 タカユキからの連絡は、パーティーへの招待だった。東京で立ち上げたアプリ制作会社が大きくなり、地元に支社を開設することになったので、その記念のパーティーをやるのだという。そういうパーティーにかつての同級生を招待するものなのだろうかという感じもしたが、特に出席を避ける理由も僕にはなかった。あるいは何か意図があるのかもしれないし、それとも忙しい中で地元に姿を見せるせっかくの機会なので、ということかもしれない。いずれにしろ僕は素直に嬉しかった、同級生の中でも飛び抜けて世間的に成功したタカユキに会うのは、もうそんなに簡単なことではなくなっていたし、事実、もう十年くらいは会っていない。それに、僕はもしかしたら、タカユキと二度と会うことはないんじゃないかとすら思っていた。タカユキは、二度と僕らには会いたくないと考えているんじゃないかーー僕はあのころのタカユキのことを回想して、そんなふうに思っていた。だからこの招待は正直意外なものであって、タカユキとの友情を決して忘れてはいなかった僕にとっては、とても嬉しい知らせだったのだ。

 

 

僕らが何者でもなくなるように その2へつづく__

物語のはじまるところ 最終回

 京に着いたのは昼前で、夜の飛行機の出発まではまだかなり時間があった。

 「海が見たい」とヘイリーが言う。僕らはすぐに駅で行き方を聞くと、そのまま電車とバスを乗り継いで、太平洋が見える砂浜まで向かう。

 その道中、僕らはずっと無口なままで、砂浜に着いても、僕もヘイリーも何も喋らず、ただ、とぼとぼ、砂浜を踏んで海まで歩いていくばかりだった。晴れた日の、高く澄んだ青空が広がり、薄衣のような白雲がゆるやかにたなびいて、視界のはるか彼方へと溶け込んでいる。波は、ゆっくりと砂浜に寄せて、悲しみを誘うほどに静かに優しく引いていくことを、幾度も幾度も繰り返す。波の白い泡立ちは、まるでためらいの中へ失われていく言葉たちのように、耳に触れないほどのささめきを残して消える。そして海は、遠くへ行くほどに青色の深みを増して、わきあがるどんな悲しみも受け入れないほどに、あまりに穏やかで茫漠としている。そこにはいかなる区別もないような、いかなる区別も消してしまうような、無限の平面があるだけだ。まるで今まで生きて死んできた全ての人々が話してきたあらゆる言葉を飲み込んで、そこに込められていた意味も感情も、何もかもを等しく忘却の中に包んでしまうような、そういう海だった。ヘイリーは、コートのポケットに手をつっこんで、僕の前を、ゆっくりゆっくり歩いている、どんな場所をめざすこともない、不確かな、ただ進んでいるということだけに理由のある歩み。僕はひとり立ち止まって、海の彼方へ視線を遣った、この遥けさを越えたところに、ヘイリーの生まれ故郷がある。この海が隔てているものなど、ただの幻想にすぎないと知っている。知っているのに、なぜ、僕とヘイリーは別れてしまうのだろう。なぜ、これが別れで、ここに悲しみがなければならないのだろう。ヘイリー、僕の生きる世界の、外で生まれた人。ヘイリー、僕の生きる世界の、外からやって来た人。ヘイリー、僕の生きる世界の、外へと帰っていく人。

 「ヘイリー」

 唐突に、僕はヘイリーを呼び止める。少し大きな声が出てしまい、ヘイリーは驚いたような顔をして振り返る。

 「ん?」

 一瞬、思わず言葉につまった僕を見て、ヘイリーが聞き返す。

 「……ヘイリー」

 「どうしたの?」

 「これ、返すよ」

 僕はストールを取り出し、ヘイリーに見せる。

 「あっ」

 短く声を上げて、ヘイリーがそのストールを手に取る。

 「よかった、帰る前に見つかって。お母さんからもらった、本当に大事なやつだったから、嬉しい。見つかって、本当によかった」

 本当に嬉しそうに、ヘイリーは重苦しかった雰囲気など嘘のように笑顔を浮かべて、じっと、そのストールを見つめ、愛おしそうに手のひらでなでている。

 「違うよ」

 「えっ」

 喜ぶヘイリーとは正反対の、思いつめたトーンの僕の言葉に、ヘイリーが顔を上げて、こちらを見る。

 「違うって、何が違うの?」

 「見つけたんじゃない」

 「見つけたんじゃないって、だって、これ、私がなくしたやつ」

 僕の言っていることがまったく理解できない様子のヘイリーを見て、僕は唇を噛む。いっそ、嘘をつき続けて、ごまかしてもよかったのかもしれない。何食わぬ顔で、僕はそれを返すことができただろう。でも、僕はそれを選ばなかった、これが僕の不実から始まった、うたかたの夢なのであれば、僕は、せめて最後に、真実を呼び戻す。これを美しい思い出にするために、嘘をつき通すことを、僕は望まない。

 「見つけたんじゃない。盗ったんだ」

 「盗った?」

 けれども、その真実は、今までの僕とヘイリーの関係を、まるでひとつの、嘘だったかのようにしてしまう。始まりがどうあろうと、その関係は真実だった、それなのに、僕が始まりの真実を語ることで、それが嘘になってしまうのが、ただただ、悲しかった。

 「あの日。僕はヘイリーのストールを、本棚から手に取ると、そのまま、自分の部屋のクローゼットの中へ隠してしまったんだ」

 「……どうして?」

 じっとこちらを見つめるヘイリーと、視線を合わせることなどできなかった、僕はうつむいて、何度も言葉につまりながら、どうにか言葉を絞り出す。

 「もう会えないかもしれないと思ったんだ。あのときの僕にとって、ヘイリーは、あまりに遠い存在だった。僕はあのときすでに、ヘイリーに魅了されてしまっていたのに、僕はヘイリーをつなぎとめるために、何もすることができなかった。だから、まるで愚かな子供みたいに、ヘイリーのストールを盗んでしまうことで、どうにか、つながりを残そうとしたんだ。それが、どんなに馬鹿げたやり方であっても、僕は、それ以外の方法が思いつかなかった」

 ヘイリーは、じっとそれを聞いたまま、そこで動かずにいた、僕が返したストールを手に握ったまま、何も言わない。僕はヘイリーの顔を一瞬だけ見て、怖くなり、また目をそらす。そこにあるのが怒りなのか、呆れなのか、判別ができない。

 「正直に、また会いたいって言えばよかったのに」

 ようやく、ひとつためいきをついて、ヘイリーが僕に言葉を返す。それが僕に対する失望を表しているようで、僕はうなだれ、そしてうなずく。単純に、そう言えたらどんなによかっただろう。けれども、あのときの僕には、それはまるで、覚めていく眠りの中で、夢を現実まで連れて行こうとするようなものだったのだ。

 「ごめん」

 僕に言えるのは、ただその言葉だけだった、「ごめん」ともう一度、肩を落としたままで、僕は繰り返す。

 「いいわ。ゆるしてあげる」

 ヘイリーは、笑顔になってそう言い、そのストールをふわりと首にまいてみせる。僕の目の前で、もう一つ、別の場所にある青空が広がった、はるかに遠いどこかの青空、ヘイリーが生まれた場所に広がっていた青空。ヘイリーが、この世界の、外から来た人へ戻ってしまったかのようだった、僕はこの瞬間、永遠にヘイリーを失ってしまうのかもしれない。

 ふいに、空から聞こえた音のほうを、僕とヘイリーは見上げる、青空の中を、ぽつんとして飛行機が飛んでいる、今日の夜には、あんな飛行機に乗って、ヘイリーは、海の向こうへ帰ってしまうのだ。

 「ありがとう。楽しかった、幸せだった」

 ようやく、ヘイリーの顔を見ることができた僕は、胸の内に痛みを感じながら、その言葉を伝える。

 「私も。本当に楽しかったし、幸せだった」

 ヘイリーは笑顔だった、遠く高くとりとめもなく広がる海と空の青色の中に立った彼女の、金色の髪が、そよぐ風でふわりと揺れている。僕らは幸せだった、ならば、どうして僕らはこれから別れようとしているのだろう? 僕とヘイリーの間にある、虚構の境界線が、いったいなんだというのか。それぞれが生きようとする場所を隔てる距離だけが問題なのだろうか。なぜ異なる言語や肌の色や国籍が、僕らに、別々の人生の位相をあたえることができるのか。なぜ僕らの生き方が、そういう条件に枠をはめられた、定型的な物語でしかないというのか。まるですでに語られた物語をなぞるように、僕らは生きなければならないというのか。全ての物語は、僕らの生き方を抑圧するためにしか、存在していないというのか?

 ヘイリー、ヘイリー、僕は君を、失いたくない。

 

 「そろそろ、行ったほうがいいかな」

 ヘイリーが時間を確認する。日はすでに傾き、空は赤くなっていた、沈む太陽が、地平線を溶かして、空と海を同じ色に染めている。太陽の沈む瞬間、詩人のランボーが、そこに永遠を見た瞬間。夜が来る、僕らを隔てようとする、夜が来る。僕は何も答えない、僕は、もっと別のことを言わなければならない。

 「どうしたの?」

 黙っている僕の顔を、ヘイリーが見つめる。遠く高くとりとめもなく広がる海と空の赤色の中に立った彼女の、緑色の瞳が、彼方からとどく光で輝いている。

 「ヘイリー」

 僕は僕の今までの人生の中で、最も強い決意に満ちていた、ただ、ひとつの言葉を言うために、今この場所で僕は、それほどの決意を必要とする。ヘイリーは、僕の言葉を待っている。僕が何を言おうとしているのか、知っているのだろう、ヘイリーは、柔らかい、優しい笑顔をしている。もうためらいはない、これは、言葉を理解しなかった子供が、初めて確信を持ってひとつの言葉を発する瞬間のように、僕がひとつの、最初の言葉を手にいれる瞬間、その最初の言葉とともに、そこから全ての語りが始まる瞬間。

 僕は、たったひとつの、僕の言葉を言うために、ヘイリーの目をまっすぐ見つめて、口を開く。

 

 "I love youー"

 

 むかしむかしーー? いや、今この瞬間に。あるところにーー? いや、この場所にーー僕と、ヘイリーがいる。

 

 今この瞬間、この場所に

 僕と、ヘイリーがいる

物語のはじまるところ その12

 「僕はーー」

 新幹線は、僕が望むスピードよりずっと速く、僕とヘイリーを東京方面へと運んでいく。自分の手の届く世界から消えてしまったかぐや姫からもらった不死の薬を焼いてしまった帝のように、僕もまたその薬を焼くだろうかと考えて、自分がどうするのか分からずに答えにつまる。なぜ、かぐや姫は不死の薬を与えたのだろうか? なぜ、帝はその薬を焼いたのだろうか? 僕は、原初の物語の中へ自分を投影し、また、原初の物語を自分の中へ投影する。なぜ、これが原初の物語だったのだろうか? あるいは、なぜ、これが原初の物語として残っているのだろうか?

 「僕は焼かないよ」

 はっきりとした理由を自覚するより先に、答えが言葉になって出た、僕は、不死の薬を焼かないだろう。

 「じゃあ、その薬を飲んで、かぐや姫に会う方法を探し続けるの? 永遠に、会えないかもしれない。それでも、その薬を飲むの?」

 「飲むかどうかは、分からない。でも、はっきりしてるのは、僕がその薬を焼かないっていうことだ」

 「どういうこと?」

 どういうことだろう。ただ、その瞬間の僕には、確信だけがあった、僕は、絶対にその薬を焼かない。

 その原初の物語は、それを語る人々の、共同体の誕生についての真実なのだというのが、そのときには自覚していなかった僕の考えだった。共同体は内と外に境界線を引くことで誕生する。ならば、その誕生は、必ず外部の喪失の物語になるだろう。そのとき初めて、そこには内と外という分裂が作られ、彼らは内へ向かって閉じてしまうのだ。帝は、かぐや姫が唯一残した、外との繋がりである不死の薬を焼くことで、内と外を完全に隔ててしまった。その犠牲によって、初めて共同体は誕生し、帝は帝となり、物語は物語として語り継がれることになる。富士山から登る煙は、この世の境界で、むなしく空へと消えていくだろう。ただ、内と外を隔てる境界線が常に虚構である限り、抑圧されたものの回帰として、僕らは絶えず外部を呼び戻そうとするだろう、僕らは夢を見続けるだろう、遠く美しいものに、自ら望んで魅了され、自らの全てを奪い去られる恍惚に身を委ねるだろう、内と外の境界線が消えた世界の夢を、永遠に見続けるだろう。僕らは、物語を物語として語りながらも、しかし、その物語をはるかに超えたものを、夢見ている。

 

 新幹線は、どんどん目的地へと近づいていた、僕らはこれから、空港まで行くだろう、そしてそこで、生まれ故郷へ帰るヘイリーを、僕は見送ることになるだろう。僕は自分のカバンの上に、そっと手を置く。その中には、僕がヘイリーから盗んだ、あのストールが入っている。

 ヘイリー。ヘイリー・ベイリー。僕のそばにいた、あのコの名前。ヘイリー、ヘイリー、僕は君を、失いたくない。

 

 

 

物語のはじまるところ 最終回へつづくーー

物語のはじまるところ その11

 れから、いくらかの日がすぎた、その夜の後の日も、その夜の前の日と変わらず、僕とヘイリーはそれまでの二人のようであり続けた。僕らは、少し他の恋人たちと違っていた、二人の間には、ひと言も話し合われることなく暗黙の了解となっている、不思議な距離感があったのだ。僕もヘイリーも、そのとき互いに、他の誰よりも親密な関係にありながら、しかしそこに、それがつかの間の夢のような瞬間であることを、それぞれの胸のうちで理解していた。うたかたの、恋愛という戯れを、その喜びを、享受する。

 「父親のことを、誰かに話したのは初めてだった」

 ある満月の夜、ぽつりと、ヘイリーは呟く。

 「どうして僕に?」

 「どうして、だろう」

 ヘイリーは首をかしげたが、たぶん僕らには分かっていた、ヘイリーが僕に、今まで誰にも言わなかった父親の話をしたのは、僕らの間にあった、距離のおかげなのだ。誰より近いところにいて、でも同時に、その間に絶対に埋まることない距離を介在させたせいで、ヘイリーはまるで置き土産のように、その思い出を僕に託すことができたのだ。常に過去へ過去へと流れて消えていく思い出、忘れるための思い出。ヘイリーがいつか僕の前から消えたとき、僕が、ヘイリーが、それを忘れることができるようになるため、とでもいうように、ヘイリーは、自らの忘却を、僕の手に残したのだ、僕とヘイリーだけの、つかの間の夢の中に。目が覚めたとき、僕の手のひらの上には、まるで一輪の花のような、忘却だけがそこにあることだろう。

 「あなたは特別な人。今までのどの恋人とも違って。他の誰とも違って」

 僕の目を見つめながら、ヘイリーが言う。

 「本当?」

 「うん」

 「嬉しいよ」

 たぶん、ヘイリーは本当にそう思っていてくれたのだと思う。僕らはその距離を隔てて一緒にいたせいで、恐れることなく、向こう見ずなほどに、親密な関係に飛び込むことも可能だったのだ。

 

 気がついたとき、いつの間にかヘイリーが涙を流していた。

 「どうしたの?」

 僕は驚いたが、むしろそれだけに、ヘイリーの気持ちの昂りを抑えるような柔らかい口調で聞く。また発作が起こったのかもしれないと思い、僕は心構えをする。

 「ううん。大丈夫」

 ヘイリーは僕の心配を察したかのように首を横に振って答える。

 「でも、涙が」

 僕はヘイリーのほおに触れる。涙が、指先を濡らした。

 「本当に大丈夫。ただーー」

 「ただ?」

 その言葉をつぶやくまでに、ヘイリーは何度もためらい、浅く呼吸を繰り返し、そして一度、深呼吸をして、またためらう。

 「ただ、私はやっぱり、どうしても、いつかは帰らなきゃいけないんだって、そう思ったの」

 僕はそれに沈黙で答えた、そうすることしかできなかった。いつかはそうなるだろうと分かっていながら、それについて考えることを避けて、さらには愚かしくも、それがずっと続くかもしれないという期待すら抱き始めていたのだ。だからそのことを突きつけられたとき、僕は答えるべき言葉を、何も持っていなかった。

 「……うん」

 まるで聞きわけのよい子供のような返事だけが、僕が搾り出すことのできた言葉だった。言わなければならないことを、ちゃんと口に出したヘイリーのほうが、僕よりよっぽど大人だった。

 「私はまるで、二つの人生を生きてるような気がする。ここでの生活は仮りの人生で、まるで私が本当に持っていた人生を中断させてるような気がするの。本当に向きあわないといけないこと、本当にしないといけないことを、海の向こうに残してきてしまった。この生活も、私にとって大事なものだけど、でも、私の本当の生活は、別の場所にある」

 ヘイリーの言うことはよく分かったし、それはその通りなのだと思う。でも、僕のことはどうなるんだろう。僕の存在は、ヘイリーの仮の人生の一部でしかないのだろうか。いや、そんなことは分かりきっていることだった、それは望んでもどうしようもない。僕はヘイリーの夢の中に、ふらりと迷い込んだにすぎない。けれども、僕にとって、はたしてヘイリーは夢なのだろうか。まるで夢のようなものとして始まった関係は、ヘイリーと言葉を交わすたび、ヘイリーに触れるたび、どうしようもない現実として、僕の心と体を縛り始めていたというのに。

 「人生に仮も本当もないよ、それは全部、ひとつの人生だ」

 真実を語っているようで、無力でむなしい響きのある言葉でしかなかった。

 「言いたいことは分かるけど。でもね、そんなことよりもーー」

 「そんなことよりも?」

 「お母さんを、このまま一人にはしておけない」

 僕はそこで、ヘイリーを手放さなければならないことを、認めるしかなかった。あのストールをくれた母親、ヘイリーにとって、最も根源的で切り離せない繋がりが、そこにある。海を越えた向こうにこそ、ヘイリーの人生があった。自分がどれほどまでに国や言語の縛りから自由な気になっていたとしても、その繋がりの中にある幸福を必要とする相手を目の前にして、なにができるというのか。僕はただそれを、一時的に、いやしくも、盗み取ったにすぎないというのに。全てを、返してしまうときが来ていた。僕が見ていた、これまでにないくらいに美しく、幸せな夢から、覚めなければならない。僕はヘイリーを抱きしめながら、固く目を閉じる、まるで少しでも長く夢を見続けようとするかのように、まるでもっと深い眠りの中へ逃げ込もうとするかのように。けれども、僕のまぶたの裏には、ただ深い霧のような、暗闇が広がっているばかりだった。

 

 

 

物語のはじまるところ その12へつづくーー

物語のはじまるところ その10

 の発作は、父親が死んですぐではなく、その数年後に始まったのだとヘイリーは僕に語った、いつやってくるのかはまったく予想がつかず、サイコロを振るかのようにランダムに、数ヶ月に一度、夜中にいきなり始まるのだという。原因はよく分からない、父親の死と直接関係があるのかどうかすら分からない、ただ、突然に、どうしようもない恐怖に縛り上げられたかのように身体が硬直し、呼吸ができなくなるらしかった。

 「発作が始まると、ほとんど無意識にいつも心の中で祈ってしまうの。苦しい、助けて、って」

 因果関係は定かでないが、少なくとも発作の間、ヘイリーの頭の中に父親の記憶がよみがえるのだという。

 「自分が特別、父親に依存する心をもっていたとは思わない、けど、発作の間は、まるで子供の時の精神状態に戻ってしまったみたいになる」

 父親が死んだ時、ヘイリーはまだ十四歳だった、その十四年の積み重なりの中にあった日常から急に転げ落ちるように、ヘイリーの人生から父親が消えてしまったのだ。

 「お父さんの仕事は建築家だった。たまに二人で出かけると、いつも寄り道して、自分がデザインした家を見せてくれる。こういう人が住んでて、その人のためにこんな工夫をしながら設計して、だからこのデザインができあがったんだってことを、にこにこしながら楽しそうに説明するの。まだ子供だったから、あんまりよく分からなかったけど、子供の目にはなんでもないように見える家が、どんどんいろんなものが詰まった不思議な箱に思えてくるのが面白かったし、何より、上機嫌な父親を見るのが好きだった」

 日本ではあまり父親が好きだという女性は多くないが、ヘイリーの友達などは割と好意的に自分の父親のことを語る人がほとんどだったことからすれば、ヘイリーのこの父親に対する感覚は別に過剰なものではなくむしろありふれたものなのだ思う。

 「正しくて寛大な人だった。お父さんは死んだお姉さんの子供、つまり私のいとこの面倒を見てあげてたの。いとこはアメリカ軍に入隊を志願して、イラク戦争に行ったんだけど、そこで、心にひどい傷を負ってしまった」

 ヘイリーのいとこは、PTSDを抱えた帰還兵だった。バスケットボールとギターが好きなどこにでもいる少年という感じだったいとこは、まるで別人のようになって帰ってきたのだ。表面的にはある程度普通に生活をしていたものの、性格はひどく内省的になり、帰還してから毎日飲むようになった酒の量はみるみる増えていき、抑うつで無気力に襲われ、酒の空きビンの転がる部屋でひとり、ぼうっとしていることがしばしばあった。

 「いとこは派兵の前に結婚してたんだけど、いとこが帰ってきて喜んでいた奥さんも、どんどん追い詰められていったみたい。ときどき私の家に来て、お父さんとお母さんにいとこの話をしながらわんわん泣いてた。前みたいな、明るくて優しい人に戻って欲しい、それなのに、日に日に悪くなるみたいに見えて、もう希望が持てないって。それで胸の内を吐き出してしまうと、こんなことばかり言ってごめんなさいって、謝ってから帰っていくの」

 正直言うと、僕はどんなふうにその話を聞いたらいいのか分かりかねていた、戦争からの帰還兵という存在が、僕の日常からはあまりにかけはなれている。後で知った話では、日本でもPKOとかで派遣された自衛隊員がPTSDを抱えることがあるらしいが、その時の僕にとってはまったく未聞の事実でしかない、だから僕にできるのは、無理にコメントを挟むことではなく、しっかりとヘイリーの話と感情を受け止めることだけだった。

 「いとこはイラクで、同じ部隊の同じグループにいた同い年の仲間で、友達と言っていいくらいに仲良くなった人を亡くしたらしいの。敵の急な攻撃を受けて、なんとか安全な所まで逃げこんだんだけど、壁から敵の様子をうかがったとき、いとこが見たのは、敵に頭を押さえつけられてしまった友達の姿だったんだって。助けようとした瞬間、その友達は頭を撃たれて死んでしまった」

 それ以来、ヘイリーのいとこはそこで死んだのは自分だったかもしれないという強迫観念に取りつかれてしまったのだという。自分がその友達と入れ替わるところを想像してしまい、どんなに抑えつけても繰り返し繰り返し頭の中へと上ってきて、ヘイリーのいとこは、自らの想像の中で、何度も何度も死んだのだ。

 「お父さんは二週間に一度はいとこに会いに行って、どうにか立ち直らせようとしてた。でもそのうち自分やいとこの奥さんのサポートだけでは駄目だってことに気づいて、カウンセリングに行かせることを考えたみたい。でも問題だったのは、いとこは繊細なのに男らしさへの執着心が強いところがあって、それを提案するのが難しかったってことだった。「そんなのはゲイ野郎が受けるもんだ」とか言って、カウンセリングを軽蔑してたの」

 手をこまねいているうちに、いとこの状態はますます悪くなっていったらしい。家の外から大きな音が聞こえるだけでひどく怯えて、わけのわからないことをわめき散らすようになってしまった、ささいなことで苛立って、壁やドアを殴りつけたりして、とうとう奥さんが身の危険を感じ始めるほどになったのだ。

 「いとこはだんだんおかしくなって、ほとんどパラノイアックなくらいになった。そしてとうとう、耐えられなくなってカウセリングを受けさせようと説得した奥さんを、いとこは殴ってしまった。いとこは奥さんの顔を殴ってから、壁に叩きつけたの。奥さんは鍵のかかる部屋に逃げ込んで、お父さんに電話で助けを求めてきた」

 警察沙汰にすべきかどうか、戦争の英雄として帰ってきたはずの自分の醜態をさらすことを望まないであろう、いとこの意思に配慮すべきかどうか、という迷いが、そこにはあったようだった。ヘイリーの母親は警察に連絡すべきだと主張したが、父親は一度様子を見てから決めると言って、いとこの家に向かった。

 「そのいとこの様子を、お父さんはまともに確認することすらできなかった。いとこのいる部屋に入った瞬間、頭のおかしくなったいとこが持っていた拳銃で、お父さんは撃ち殺されたの」

 とうとう駆けつけた警察に取り押さえられたときですら、いとこにはヘイリーの父親を撃ったという自覚がなく、「"sand-nigger"のテロリストが、イラクから俺を殺しに来やがった」という妄言を、口から泡を吹きながら始終わめき散らしていた。その銃弾は、まるで強い恨みを抱いた相手にそうするように、何発も何発も、執拗に撃ち込まれていたのだという。

 

 ただただ、僕は黙ってその話を聞いていた、すぐに共感や理解を示すには、やはりその出来事はあまりに遠い。ずっと身近にいたせいで、ヘイリーが、こことはまったく違う場所で、今ではなく以前に、生きられた人生を抱えているのだということに僕は気づいていなかったのだ。戦争も銃も、僕が今まで生きてきた現実からはかけ離れすぎていて、そのせいでヘイリーの話が映画のワンシーンのような気になってきてしまう。僕は限界に当たった自分の想像力を必死で展延させて、それがまぎれもない現実であるという認識までたどり着こうと、そしてヘイリーの傷に少しでも共感と理解を持とうともがく。ただそうすればするほど、僕はヘイリーと自分との間にある、大きな大きな隔たりを感じるはめになってしまう。個人と個人として繋がることができたと思っていたのに、それでもなお、僕とヘイリーの間には、国とか言語とか、そういうものが、そういう境遇に与えらえれたそれぞれの現実が、否定しようのない断絶として穿たれているのだと感じざるを得ない。僕は僕であり、ヘイリーはヘイリーである、というだけでは、どうしても済まないのだ、僕は日本人であり、ヘイリーはアメリカ人である、普段どれほどそんなことを気にせずにいられたとしても、それが消えて無くなるわけではない。ヘイリーは確かに、海の向こうから来た人だったのだ。

 「それでも、少しずつ、お父さんのことは忘れていってる」

 そう言って、肩を抱く僕の手に触れながら、ヘイリーは僕に笑顔を作ってみせる。悲しい笑顔だった。

 「……いつまでも、悲しんでるわけにはいかないからね」

 そう言いながら、僕は果たしてそれが適切な返事なのか分かりかねていた。

 「忘れなくてはいけないけど、忘れてはいけないこと。忘れれば忘れるほど、私は、私の大事なものを失っていく。この痛みが残っているうちは、まだお父さんの存在は消えないけれど、もし、私がこの痛みを失えば、お父さんは、本当にただ、死んでしまった人になる」

 「……うん」

 うなずきながら、僕は自分のことを考えた。僕は自分の両親を失ったことを、ヘイリーほど気に病んではいない。僕は不誠実だろうか? 僕の両親は、特に父親は、事故で死んだことになっている。けれども、僕にはひとつ、気付いていることがあった。父親は、そこそこ名の通った企業に勤めていて、本人はずいぶんそれを誇りにしていた、そしてそのおかげで、僕の家はどちらかといえば裕福なほうだった。しかし、僕が十八歳になったとき、その会社は倒産した、長引く構造不況とその変化に疲弊して、見るも無残に崩れ落ちたのだ。再就職を試みた父親に、満足のいく口は与えらえなかった、比較的ましな話もあったが、年下の人間の部下になることを条件に出されて断ってしまったということもあったようだった。父親は他人よりプライドの高い所があり、そして自分の勤め先と年齢をそのプライドの根拠にしてしまっていたせいで、とうとうそれを回復することができなかった。父親はしょっちゅう酒を飲みながら、政治と社会の批判をぐちぐちといつまでも言う人間になってしまった。高校生だった僕は、その父親を、心から軽蔑していた。そしてそんな日々の果てに、父親は母親と用事があって出かけたその道中で、交通事故を起こして死んだのだ。それは本当に事故だったのか、僕は疑問に思っている、プライドを打ち砕かれ、家族からの尊敬を失った父親は、わざと事故を招いたのではないだろうか、というふうに、思っている。はっきりとした意思による自殺ではなくても、無謀な運転をしてきた相手の車をあえて避けずに、目の前にちらついた死の可能性に、誘惑されるように飛び込んでいったのかもしれないということに、僕は気づいていた。

 「父親が死んでからしばらくして、私は日本語を勉強し始めた。何の関係があるの? っていう感じだけど、今になって考えてみると、私は、どこか完全な別世界に入り込んでしまいたかったのかもしれない。英語っていうものが与える世界に囚われた状態から、父親の死を招いた世界に囚われた状態から、避難できる場所が欲しかったのかもしれない。私は別にオタク文化にも日本の伝統文化にも興味もなかったけど、他の学生よりも遥かに日本語が上手くなった。長く日本語を教えていた先生も、こんなに上達する学生は珍しいって驚いてたくらい」

 「それで父親のことを忘れることができると思った?」

 「というか、私はむしろ、父親のことを忘れることを恐れていた。英語の中で生きている限り、私は父親のことを完全に忘れなければ、父親の存在を消さなければ、前に進めなかった。だから、日本語へと逃げ込むことで、私はその、忘れるっていう行為を、中断しようとしたのかもしれない」

 忘れるというのは、いったいどういうことなのだろう、と僕は思う。僕は両親の存在を忘れていた、少なくとも、自分では忘れたことにしていた。僕はそのとき十八歳で、すでに親との精神的なつながりは薄かったし、それは何より軽蔑していた父親の死だった。だからそれは、ヘイリーがそうするよりもずっと単純で簡単なことだったのだ。

 「僕は忘れたよ」

 そんなことを考えていたせいで、僕は思わずそれを口に出す。

 「何を?」

 「自分の死んだ両親のことを」

 「どうして? どうやって?」

 「必要だったから。特別な方法なんかない、僕はただシンプルに、両親のことを忘れたんだ」

 一瞬その言葉をうまく受け取りそこねたようで、ヘイリーはだまってから、一度だけうなずく。

 「……そうね。私に必要なのは、その決心なのかな」

 ヘイリーは、僕の、本当な残酷な言葉を、重要なアドバイスとして解釈してしまった。ただ、僕は、本当に両親のことを忘れたのだろうか。僕は決して、誰にも両親のことを語ろうとしなかった。戦争と経済という、互いに大きくて不条理で人間の意思などとは無関係なうねりによって翻弄された喪失を抱えてはいたけれども、ヘイリーのような愛着によってではなく、嫌悪によって、僕は両親の記憶を恐れていた。

 「無理に忘れなくても、良いんじゃないかとは思うけど」

 取り繕うように、僕は言う。ヘイリーに向かって言うべき言葉を、探していたのだ。

 「でも、やっぱり前に進まないといけない。いつまでも逃げ回っていてはだめだから」

 たぶん、ヘイリーのほうが、僕よりずっと忘れるということに対して忠実だった。忘れるというのは、たぶん、思い出さないということではなく、思い出すのを恐れないということなのだ。

 

 

物語のはじまるところ その11へつづくーー