僕らが何者でもなくなるように その9
僕の家の前でタカユキは、出口のちょうど正面に助手席が来るように車を停めていた。けれども、僕は後部座席のドアを開け、猫のように何食わぬ顔で乗り込む。「前に座らないのか」と言うタカユキに、「後ろの方が広々としていていいんだ」と僕は答えた。車を発進させながら首をかしげるタカユキだったが、僕の意図にはなんとなく気づいていただろう。僕らはこれからアヤカを迎えに行くところだった、つまり僕は、タカユキの隣にアヤカを座らせてやろうと思っていたのだ。
待ち合わせの場所に着いた時も、僕はぬかりないように助手席のドアを開けてアヤカをそこへ導き入れる。
「ずいぶん紳士的じゃない」
ドアに手を添えたまま肩をすくめてみせた僕に、アヤカは戸惑った視線を向けながらも、嫌がることまではせずに助手席に座った。なんだかやけにおせっかい焼きのような感じだったが、こうしたほうがいい。この二人の間には妙な遠慮というか、距離感があった。あのころも互いにいくらか惹かれ合う部分があったはずなのに、どちらも相手の領域に踏み込もうとはしないのだ。だからうっかり僕が間に入ってしまえば、二人はずっと僕を媒介するようにしてしか、喋ろうとはしなくなるだろう。
案の定、バタンとドアが閉まった瞬間から、ほとんど二人は無言のままだった。タカユキは口を真一文字に結んでハンドルを握りながら、アヤカは所在なさげに髪の毛を指先でいじくりながら、どちらもずっと真正面を向いている。なんだか熟年夫婦かケンカしたカップルにでも挟まれたような感じだな、と僕は思う。だんだんそれが可笑しくなってきて、僕はあえて何も喋らずに、二人をそのままにしておく。
「ーーねえ、どこに行くの?」
ようやく、アヤカが口を開いた。タカユキにでも僕にでもなく、その間に向かって、声をぽんと放り投げるような感じで。
「さあ、何も考えてなかったな」
ようやく、といったタイミングでタカユキが応じたが、やはり前を向いたまま、独り言のように喋っていた。二人はそれとなく僕に助け舟を求めている雰囲気を出していたが、僕はそれを分かった上で黙ったままでいる。少し意地が悪いかなとも思ったが、だんだん可笑しさが増してきて、僕は笑いを噛み殺しながら、それでも何食わぬ顔で窓の外をずっと見ている。できるだけ、二人に喋らせたかった。そしてできれば、二人の間で喋らせたかった。
「それなら、中学校行かない?」
「中学校?」
アヤカの提案に、タカユキが聞き返す。二人は遠慮がちに視線を互いの方に向ける。そして、落ち着かないそれをどうにかしてもらおうとするかのように、同時に僕の方へ顔を向けた。
「二人で決めたらいいよ。僕はそれに従う」
まぜ返すかのように、僕は決定権を二人へと投げる。二人は一瞬だけ苦笑いをして、前へと向き直り、観念したように会話を始める。
「せっかく久しぶりに三人そろったんだし、昔を懐かしむのもいいんじゃない?」
「まあ、いいけど」
「あれ、あんまり乗り気でない?」
「いや、俺は昔を懐かしむとか、そういう発想がない人間だし」
「かっこつけてんの?」
アヤカが笑う。タカユキも困ったような笑いを漏らして、首をかしげてみせる。
「そういうんじゃない。本当に俺はそうなんだ。普段は過去のことなんて思い出したりしない」
「過去にとらわれたくないってこと」
「ある意味では。人間は思い出すたびに、過去を自分の都合のいいように作り変えてしまうからな。中毒性のある行為さ。そんなことやってると、そのうち過去の栄光を自慢する年寄りになってしまいそうだし」
「未来に意欲を持ち続けられる人間もそんなにいないだろうけど。それに、過去は慰撫されるだけのものじゃない。常に、浮かびあがろうとする深層意識みたいに、過去は現在に呼びかけてくる。置き忘れてきたものにもう一度手を触れたいというのは、衝動なのか誘惑なのか分からない。けれど、そこにはきっと必然性もあるのよ、タカユキ。そういう意味で、人は過去からそんなふうに自由になれるかのかな」
「まあ、そうだな。そんなこと言いつつ、俺はなんだかここに立ち戻ってしまったんだし」
「何か、理由があって戻ってきたんじゃないの?」
「……分からないな、自分でも。どうしてなんだろうな」
「そんなに無自覚に、思い出すことのなかった過去を思い出したってこと? それはやっぱり、過去に呼ばれたんだね」
「何かあるとは分かってるんだけど、うまく言葉にならないんだ」
「気をつけることね。過去を変に餌付けしようとすれば、いつの間にか自分が頭から飲み込まれてるものなんだから」
「それは謎かけか? 脅しか? それとも、たんにからかってるのか?」
「お好きなやつを選んだら?」
「なるほど、これはからかわれているに違いない」
タカユキとアヤカは、二人同時に、くすりと笑いを漏らした。
「それでーー」タカユキが、思い出したように、顔を少しだけ僕の方へ向ける。「中学校に行くってことでオーケーか?」
「異議はないよ」
僕の答えにうなずき、タカユキは前を見てハンドルを握りなおす。車内は再び静かになった、タカユキの出したウインカーの音のリズムに刺激されるように、僕はタカユキが何かを置き忘れたとすればそれは何だろうかと考えをめぐらしてみる。アヤカがどこまで本気で言っているのか分からないが、過去には常に、何かがある「かのように」見えるだけじゃないのだろうか。『記憶とは、過ぎ去ることを止めない現在のことである』ならば、僕らは絶えず喪失感の奔流の中にある。現在の確信が揺らいだ時、僕らは、その流れに引き寄せられてしまうことだろう。タカユキはもしかしたら、何か問題を抱えているのだろうか。その揺らぎにもたらされた空洞に、僕らと一緒にいたその過去が、残響したのだろうか。そして、あるいは愚かにも、その過去に手を触れるという誘惑に、心を惹かれたのだろうか。タカユキの記憶の、暗い影のように沈んだノリマサと、明るい光のように輝くアヤカに、もう一度会うことが、彼に何かをもたらすと、期待を抱いてしまったのだろうか。
中学校まで来た僕らは、校舎へは入らずに、衛星のようにその周囲をぐるっと回った。
「さすがに、いい大人の姿で入っていくのは憚られるよなあ」
「そうねえ。思いつきで学校に行こうとはいったけど、そりゃ入っちゃだめよねえ」
校舎は僕らが通っていた頃と変わりない感じだったが、入り口の側にはその当時にはなかったスペースが設けられ、常駐の守衛がいた。
「まるで検閲官だな、潜在意識まで沈んだ記憶がこちら側の意識の領域まで上がってこないようにするための」
守衛を見ながら、タカユキが冗談を言う。
「これはさしずめ、精神分析的な比喩を演じてるわけね。『子供時代はもうないのだ』っていう」
「さて、中に入るのをあきらめるなら、俺たちはこれからどうしよう」
「あそこは? あそこからなら、学校を見下ろせる」
「公園の上のとこか」
「そう」
「物事との距離を持って、高いところから見下ろす。それこそが成熟した精神の視点だな」
「比喩のゲームは、まだまだ続くのかしら」
タカユキはそれに笑いで答え、ハンドルを切って学校から離れる。車が向かったのは住宅の並ぶ丘の中にある公園で、そこからさらに階段で登ると、この辺り一帯を見下ろすことができる場所に行ける。
「変わってないねえ」
頂上からの眺望に、アヤカが率直な感想を漏らす。
「正直、前がどんなだったか、はっきりとは憶えてないな」
「そうだな。でもまあ、やっぱりそれほど変わってないよ」
タカユキの言葉に相槌を打ちながら、僕は街の景色を見渡していた。おおまかな街の姿は何も変わっていない、住宅の並び方や、スーパーとか図書館とか学校の位置。ただ僕が感じていたそれは懐かしいという感覚ではなかった、同じことがズレた形で再現されたものを見ているような違和感があった。まるで古いオリジナルの写真の、劣化してぼやけてしまった部分を、曖昧な記憶でつぎはぎ上に復元したものを見ているような、そんな感覚だった。懐かしいという感覚は、過去を美化する心性によって湧き上がってくる。してみれば、たぶんタカユキの中にそれはないだろう、僕のような違和感すらないだろう。アヤカには懐かしさがいくらかあるかもしれない。されば、ノリマサについてはどうだろうか。その感覚のバラバラさに、僕らそれぞれの来し方と、互いを隔てる距離を思う。
「少なくとも、中学校は変わってないねえ」
「そうだな」
タカユキが肯く。
「やっと同意したわね」
「ああ」
「こうやって離れた所から見てると、よけいにずいぶん遠くまで来ちゃったような、感じがするねえ」
「そうだな。俺は地元を離れて、全く違う世界観で生きてきたから、よけいにそう思える」
「私も同じような感覚、あるかも。自分が留学して、外国人と結婚して暮らしてるなんて、あの頃は想像もしてなかった」
「そういう夢は持ってただろ」
「ただの夢よ。漠然としていて、実現するなんて思ってもいなかった。実現させようという意志すら持ってなかった」
「数奇なもんだな。俺はこんな風になろうという発想すらなかった」
「そうだよ。タカユキはなんだか厭世的な感じの子供だったのに、まさか起業して、社会とがっぷり四つに組み合うようなマネをするなんて。いったい何があったのって感じ」
「別に。単純だよ、金が欲しかったから」
「厭世主義と拝金主義が結びつくなんてことがあるのね」
「俺に言わせれば、当然の話だ。金があればあるほど、どうでもいいやつとは関わらなくてよくなる。そして、誰かに服従しなくてよくなる」
「金で厭世的自由を買おうとしたのね」
「むしろ金こそが自由そのものだ。買う力を手にすることで、自分を売り渡さなくて済むようになる。『全ての労働は売春である』というのは、紛れもない真実だ」
「そうかなあ。本来は、働くことにはある種の尊さがあると思うけど。それが現代の経済システムの中では、不当に貶められているんじゃないかな。労働が尊さを奪われているせいで、人は「働く意味」を求めるなんていうことをしてしまう」
「人が「働く意味」を求めるのは、現代人がポスト消費社会の、あるいは情報化社会の労働力商品だからさ。そこでは意味が価値と不可分に結びつく。意味を持つ労働が価値につながる。アヤカの言うとおりだったとしても、その尊さを取り戻すことはできない。尊さは、意味でも価値でも作り出せないからな」
「ちょっと否定しすぎじゃない? そこまで絶望的でもないと思うけど」
「たとえ可能だったとしても、あまりに困難で、漠然としてる。だから、俺にとっては買う力こそが全てだ。少なくとも、そう思った方がずっと実践的だ。金があれば、望まない場所に所属しなくていい。例えばもしあの時俺に大金があれば、勝手に不登校にでもなんでもなって中学生という集団に属さなくても良かったし、その中の権力関係に服従する必要もなかった。無用なくやしさを味わう必要もなかった」
学校の方を憎々しげに見ながらタカユキが呟く。それを聞いたアヤカは、はっとした様子になって、彼を見つめていた。
「それは、本当にそれでいいの? 利己的というかニヒリズムというか……うまく言えない、よく分からない。でも、なんだか、どこか間違った考えに思える。あの時、あんなことがあったくやしさは分かるけど、過去の挫折に、そんなに囚われなくてもいいのに」
「俺は、別にそのことだけが原因でそう考えてるわけじゃない。あのときの俺にはとても悔しい出来事だったけど、今となっては本当に小さなことでしかない。そうじゃなくて、俺はもともと、何かに属したり権威にひざまずくというようなことから、自由になりたいと思い続けてきた。それだけのことだ」
アヤカはタカユキから目を離さず、しばらく考えていた。考えて、首を横に振る。
「やっぱりうまく言えない。けど、私は、あの時あそこにタカユキがいてくれて良かったと思ってる。正直ずっと心残りだったの、あなたに「ありがとう」って言えなかったことが。私は私なりに、過去に恥を残してきてる。優柔不断で、意志の弱い人間だったことを後悔してる。あのとき私はただただ、強い力を持ってたノリマサに、引きずられているだけの人間だった。あそこで、タカユキは無力だったかもしれないけど、少なくとも、最も強い、最も善き意志を持った人間だった。今この日まで、少なからず、私にはその善き意志に導かれているような感覚があった。でも、今のあなたは、力を得たことで、かえって利己的になり、その善き意志から遠ざかろうとしているように見える」
一方のタカユキは、アヤカに目を合わそうとはしなかった。ただ、唇を軽く噛みながら、その言葉を聞いている。
「良い意味でも悪い意味でも、俺は大人になったのさ。弱さを抱えるがゆえに善良であるよりは、力を持つがゆえの冷淡さを選んで生きている」
「それが自分の方向性だっていうんならしょうがないけど、その自由は、解放感を欠いていて、どこか窮屈な感じがする」
「確かに、そういう感じのするものかもしれない。けど、俺はとにかく、それを求めてる。俺はそこまでたどり着かないと、それ以上のことは考えられない」
「ある種の人々はそれぞれ、どうしても求めずにいられないものを持ってしまうから、仕方がないことなんだろうね。でも、やっぱり、タカユキは、どこか遠くに行ってしまったような気がする……」
「俺はとにかく、「ここ」から離れようとして生きてきたような気がする」
タカユキは少し緊張の抜けた顔になり、アヤカの方を見る。そこで初めて、二人の目が合った。
「でも、本質的には昔も今も、タカユキは変わってないんだろうね。周囲のことなんか気にせずに、自分の考えで、マイペースに進んでいく感じ。そういう感じ、ああ、タカユキだなって思う」
「変わってない、のかな」
「そうよ」
「そうかな」
タカユキとアヤカは、ようやく和らいだ表情になっていた。僕は一瞬、昔の二人がそこにいるような錯覚にとらわれる。お互いが覚えているお互いの感触を、感情のつながりを、まるで手探りで見つけ出したかのように、二人は昔のままの表情で見つめ合っていた。
「あの時は、私たちみんな、あんなに近くにいたのにね」
その言葉は、まるで魔法のように響いた。僕らの誰も、その後に言葉を続けない。タカユキは目を細めて、街の景色を見つめていた。僕はたぶん、タカユキと同じ気持ちを共有していたと思う。自分の心が、何か急に、遠くに運び去られるような感覚。これは、懐かしさと呼ばれているものだろうか? 僕はそこにうまく、一つの言葉を当てはめることができなかった。人の感情と概念は、常に不釣り合いで、ずれていて、もどかしい。もっと何か、強い力で引っ張られ、小さくて明るい空間の中へ入っていくような、そういう感覚を、僕は何と名付けたらよいのか。
「あ、ソウスケ、今日時間ある?」
帰り道、アヤカが突然僕に聞いた。
「いや、今日はちょっと。今やってる翻訳の締め切りが近いんだ。何かあるの?」
「ちょっとさ、本棚にある洋書をまとめて処分しようと思ってるんだけど、もしソウスケが欲しいやつがあったら持って帰ってもらえないかなって思って」
「ああ、そういうこと。でも、何でわざわざ処分なんて」
「まあ、何ていうか……」アヤカは一瞬、視線を宙に泳がせる。「単純に蔵書が増えただけ。一回まとめてきれいにしよっかな、ていう」
「じゃあ、来週には仕事が落ち着くから、それからならいつでも行くよ」
それからアヤカを送り届けるまで、車内に会話はなかった。タカユキはずっと物思いにふけっていて、まあそれは彼の性格からするといつものことだったが、アヤカもまた、何やら思うところがあるのか、深刻そうな顔で、ずっと窓の外を見ていた。僕はふと、一人一人が互いには分からないそれぞれの事情の中にふさぎ込んでいるこの沈黙が、どうしようもない隔たりに見えてきて、これから先、皆が一堂に会するようなことはもうなくなるのではないかと思った。タカユキが本格的に自分の仕事に戻れば、僕らは繋がる理由を失って、まるで他人になったかのように、それぞれの生活の中に、溶けて消えていくような気がした。
僕らが何者でもなくなるように その10へつづく_
僕らが何者でもなくなるように その8
僕はノリマサを許したのか、と言われると、それはよく分からない。ノリマサは終始三年生の側だったのだから、別に僕らは裏切られたわけではない。僕らは正義と公正さを重視して、ノリマサは保身と権威を重視していただけのことだ。強い恨みを持っていたわけではなかったから、それ以降の人生でそのことについて考えることもあまりなかった。ただ、たぶん、僕の中には、ノリマサに対する軽蔑の感情があった。三年生から受ける抑圧を、そのまま周囲に向けることで己の力であるかのように行使していた彼は、アヤカが被害に遭ってもなお、それを変えることはなかった。僕は、そしてタカユキはもっと強く、心の底にそんなノリマサに対する軽蔑を抱いていた。もしかしたらノリマサも、心の底で僕らの軽蔑を感じ取っていたのかもしれない。僕らの存在は、ノリマサが同級生の中で奮っていた権勢の、無根拠さを突きつけてしまうものだった。だからそんな裸の王様のようなノリマサは、僕とタカユキを屈服させる必要があったのかもしれない。僕は今ではそんなふうにノリマサのことを考えていたから、言うなれば、確かに僕は彼を恨んではいないが、昔から変わらず、今もどこかで軽蔑してしまっているのかもしれない。今のノリマサに、僕とタカユキから、自尊心を守るものは残っていなかった。タカユキを見たノリマサが、あんなに攻撃的になったのは、そのせいかもしれない。そうだとすれば、ノリマサが僕らに会うのは、実は僕ら以上に苦痛なはずだった。自分に対して軽蔑を抱いている人間と対峙するなんて、誰にとっても耐え難いことだろう。
ましてやその相手に、金を無心するなんて! そう考えて、初めはタカユキをノリマサに会わせることに懸念を抱いていた僕は、次第にノリマサをタカユキに会わせることにより強い懸念を抱くようになっていた。
「かまわないよ、別に」
タカユキの返事は、あっさりとしたものだった。てっきり断るとばかり思っていた僕は、虚を衝かれたようで一瞬言葉に詰まる。ノリマサの用件は伝えなかった、ただ、会って話したいことがあるみたいだ、とだけ伝えた。金の無心だと伝えるべきだったろうか。僕はもちろんタカユキの側だったが、ただ、積極的に踏み込む気にもならなかった。ノリマサと決定的に対峙しているのはタカユキで、そこでは自分が出しゃばらないほうがいいような気がしたのだ。
結局、僕とタカユキとノリマサの三人は、『サンビ』で会うことになった。改めて見ても店内の雰囲気は穏やかなもので、当時僕らの溜まり場になっていたというのは、たまたま学校の近くで周囲にファストフード店がなかったことを抜きにしても、妙なことに思える。とはいえ、当時から一面ガラスのエントランスと明るい店内は客が入りやすい感じで居心地も良く、同級生が中にいるのが見つけやすかった。学生たちが溜まっていた一角には本棚があって、そこには当時から連載していた『ワンピース』とか、そういう漫画が今も並んでいた。
僕らはかつて指定席のようにしていた木製のテーブルで、そこに置かれた当時と同じコーヒーを、三人で囲むように座っている。
「調子はどうだ?」
ノリマサは薄ら笑いを浮かべてそう言う。待ち合わせの時間から、三十分くらい遅刻して席についての、開口一番だった。そのことについても、この間のことについても、悪びれた様子はない。忙しい仕事の時間を調整して来ていたタカユキの顔には、不愉快そうな色が浮かんだ。
「お前こそどうなんだ」
たぶんわざとなのだろう、タカユキはぶしつけな感じで聞き返した。さっきまでは冷静だったのだが、腹を立てたらしい。無理もない、ノリマサの態度は、それだけ挑発的だった。
「見ての通りさ。ひどいもんだ」
ノリマサは自嘲する。いったいこの男には、金の無心の交渉を上手くやろうという気持ちがあるのだろうか。それとも何か、他の目的があるのだろうか。
「見ての通り? 俺には見てもよく分からない」
まるで挑発をやり返すかのように、タカユキはトゲのある言い方をした。どうもこの二人の間には、互いの感情を逆なでするようなものがあって、それが会う前の冷静さを奪っていくようにも見える。
「俺に説明させるのか? 詳しく説明する必要はないだろう、『見ての通り』だ、低賃金の単純労働でうだつのあがらない毎日を送って、先の見通しもない、そういう生活だ。自分で会社起こしてしこたま儲けてるお前とはまったく別の、な。『お前も何かやればいいじゃないか』とでも言うつもりか? だいたいお前みたいな連中はそう言うんだ、自分ができたんだから、他人にもできるってな。でもな、俺みたいな連中も100パーセントのバカってわけじゃない。自分がそういうことをして成功するような器かどうか、多少なりとも分かってるのさ。だから結局、夢を見ずに今の生活に甘んじるだけさ。みじめだろ? でもな、みじめさを受け入れるくらいの分別は残ってる」
「本当にお前はそれを受け入れてると言えるのか? それならなんで、この前は俺に対してそんなに突っかかったんだ」
「は! お前は無神経だな、それともそういうことに関しては蒙昧なのか? お前は、自分が他人をどれだけ軽蔑してるか自覚してないんだ。俺が腹を立てたのは、お前の中にあるその軽蔑を一目で見抜いたからだよ。みじめさを受け入れるってのは、尊厳を捨てるってことじゃない。忠告しといてやるよ、俺みたいな人間は、そういう軽蔑に、お前なんかが想像できないくらい敏感なんだ。お前が自覚していない軽蔑ですら、俺たちの怒りを煽るには充分だ。だから、お前はよっぽど巧妙に、その軽蔑を隠さなきゃいけない。今のひと言でよく分かるよ、お前みたいな連中は、俺たちのことを賎民みたいに思ってる。お前の言う『受け入れる』っていうのは、おとなしく軽蔑されてろってことだ」
「いくらなんでも曲解しすぎだ。お前の方こそ、妬み僻みがあるんじゃないのか。それが、悪意を生んでる。世間は、お前が思ってるほどお前のことなんか気にしてない。人間は、気にしてもいない他人をわざわざ軽蔑しない。お前は過剰に卑屈になっているだけだ」
「気にしてないから軽蔑しないんじゃない。軽蔑してるから、気にしないのさ。お前の言う世間というものは、俺みたいな連中のことを、見えないものとして扱ってる。それだけのことだ。誰もかれもが、資本主義に毒されてあくせくしている。世間というのは、日本人の美徳を忘れてしまった。どいつもこいつも自分のことしか見えなくなった個人主義のロボットなのさ」
ノリマサの言うことの中には、たぶんノリマサの側から見た真実が、いくらかは混じっているのだと思う。けれども、タカユキの指摘もまた、その通りだろう。僕は、ノリマサにはもはや自尊心を守るものはない、と言った。けれども、自分で自分のみじめさを露出するこの卑屈さこそが、唯一彼に残された防衛の手段なのかもしれない。自分で自分を下げるアイロニーで、ノリマサは自分にわずかでも残されたプライドを守ろうとしている。それが、よけいにそのプライドを削り落としていくのだとは気づかずに。その先にある、プライドの枯渇という地獄を、たとえ想像的にであれ救うものがこんな状態の彼に残されているとすれば、それは、宗教か、または国家みたいな権威に、自分の身を空にして投じることくらいしかない。
「話をすり替えるなよ。それは他人の美徳の問題じゃない、お前の意識の問題だ。自分のありのままの状況を受け止めて、もしそこから抜け出したいなら、自分ができることを全力でやる。話は全てそこからだ。お前は単に、プライドと現実のズレにふてくされて、駄々をこねているにすぎない。誰もそんな人間を助けたいとは思わないし、そもそも、そういう人間に手を差し伸べるのは逆効果だ。他罰的で依存的な人間は、助ければ助けるほど自立から遠ざかる。資本主義とか美徳とか、そんなこと以前のレベルの話だ」
「なあ、タカユキ。お前の主張はやっぱり、個人主義に偏りすぎなんだ。追い詰められた人間が、なんの助けもなしに、その状況から脱け出せると思うか? 想像力が足りないんだよ、お前は」
「助けさえあれば自分はどうにかなる、とでも言いたげだな」
それを聞いて、ノリマサは喉の奥から笑いを漏らした。まるで、自分の思い通りに会話を誘導できたのだとでもいうように。
「少なくとも、俺は今、助けを必要としているんだ」
「どういう助けだ?」
「ちょっとしたトラブルに巻込まれてな、警察のやっかいになっちまった。まあ、あれだ、俺を見下した調子で絡んできたオッサンをぶん殴っただけのことなんだ。それで、保釈金を払うのに借金しなきゃいけなかった。そのオッサンにも非はあるのにな、結局、手を出したやつが悪いってことになる。とにかく、俺には、どうにもその金を返すあてがないのさ」
「意外だな。お前がそんなふうに、『目上』の人間に反抗することがあるなんて。中学のとき、あんなに上級生に従順だったくせに」
その皮肉の辛辣さに、タカユキはあのときの怒りを思い出してしまったのだろうかと僕は感じた。
「あんまり見下した感じだから、キレただけさ。それでも目上を敬うってのは基本だよ、それは日本人の美徳であり、文化だ。というか、今さら中学時代の話を持ち出すなよ。まだ恨んでるのか? 俺に謝罪を要求するのか? 中国や朝鮮みたいに? そもそも、あのオッサンも、本当に日本人だったかどうか疑わしいけどな。は、は!」
ノリマサは妙に興奮していた。精神のバランスを欠いた人間が、何の脈絡もなく、頭に浮かんだことをただ言いたいだけという理由で言ってしまう、あの感じが、しばしばノリマサには伺える。
「俺に言わせれば、そんなものは反倫理的な陋習で、共同体の中で通用する「道徳」でしかない。別に謝罪なんか求めてない。お前こそ、なんで中国だの朝鮮だのと言い出すんだ。何の関係もないだろ」
「は! 残念ながら、どうしても俺たちはそりが合わないらしいなあ。でもな、俺は今、お前の助けを必要としているんだ。とりあえず、金を貸してくれるだけでいいんだ。時間はかかっても、返すつもりはある。結局は、俺とお前は同じ日本人なんだ、同じ共同体の仲間なんだ。同胞は、助け合わなきゃいけない。なあ、そうだろ?」
一瞬、タカユキがあきれて言葉も出ないという感じの顔をする。
「国籍なんか関係ねえよ。俺が助けるべき人間は、俺が決める。少なくとも今のお前は、俺が助けるべき人間じゃない。自分の状況を何とかしようという発想もなくて、ただ単に自業自得で引き起こした問題の尻拭いを頼んでくるようなやつを、俺は助ける気にはならない」
タカユキの言い方はにべもないものだったが、さりとて、僕はさすがにノリマサを擁護する気にもならなかった。主義主張はともかく、いくらなんでもこんな頼み方があるだろうか。
「なあ、タカユキ。お前にとってはたいした金額じゃないだろ。それに、俺はくれって言ってるんじゃない、返すって言ってるんだ。俺とお前はしかも中学の同級生だ。それなりによしみがある。いっそうつながりが深いんだ」
「いいか、何度も言うけどな、俺とお前が同じ集団に属しているかどうかなんか、問題じゃない。俺がもし他人を助けるなら、そこには個人と個人の信頼関係がないといけない。けどな、お前と俺の信頼関係なんか、あの時に完全に消え去ってる。いざというときに、権威だとか帰属意識だとか、そんなものを離れた視点からものを見て判断できない人間に、他人との間に本当の意味での信頼関係を結ぶことはできない。お前はアヤカを裏切ったし、お前は盲目だった、本質的なことは、何も見えちゃいない」
「ふん。俺をよっぽど恨んでるらしいな」
「恨みとかじゃない。俺が言ってるのは、お前を助ける理由がないってことだ。お前は他人との間に信頼関係を持てる人間じゃなくて、だから強制的にそれを保証してくれる同族意識みたいなものを必要としてしまうってことだ」
ノリマサの顔から笑みが消え、彼はタカユキを睨んでいた。タカユキはちょっと相手を追い詰めすぎじゃないかという気もする。だが、次の瞬間には、ノリマサの顔にすでに不敵な笑みが戻っていた。
「ずいぶんな言い草だな。なるほどここで優位なのはお前だ、だからいくらでも俺を突き落とせる。けどな、お前も綺麗なことばかりやってきたわけじゃないだろ。因果応報なのは皆同じだ。個人としての強さにも限界がある。お前が俺を突き落としても、足をつかまれて、一緒に落ちていくことだってあるんだぞ」
まるで呪いをかけるように、ノリマサは吐き捨てる。目の奥には、僕が見たこともない、己の卑屈さを全て悪意として表現するような暗い暗い感情が蠢いていた。
「どういう意味だーー?」
突然タカユキは妙に饒舌さを失って、言葉を見つけられなくなったかのように黙る。
「まあ予言みたいなものだ」
おもむろに、ノリマサはそばにあった本棚から分厚いマンガの週刊誌を一冊取り出して机の上に置く。そしてポケットに手を入れて探るような仕草をしたかと思うと、そこから一本の折りたたみナイフを取り出した。不可解な行動に怪訝な顔をする僕とタカユキの前で、ノリマサはナイフの刃を取り出して逆手に柄を握ったかと思うと、いきなり机の上の週刊誌に突き立てる。
「何をやってるんだ」
半ば脅すようなしぐさに、タカユキは身構えるような姿勢になる。
「これは俺の覚悟だ」
「覚悟?」
「いざとなれば、なんだってやる覚悟が俺にはあるのさ。俺は追い詰められている。だからこそ、覚悟を決めることができる。たとえば、国のために死ぬことだってできるだろう。それはお前みたいな個人主義者にはないものだ。大きなものに身を捧げることで個人というちっぽけな枠を超越して、崇高さを身にまとうことができる。俺のような人間は、美学的にお前のような人間に優越している」
そう言ってノリマサは喉の奥で笑いながらナイフをしまい、イスから立ち上がる。そしてまたタカユキのことをじっと見つめてから、それ以上は何も言わずに、ここから立ち去ってしまう。僕の方には一瞥もくれなかった。
「いったい何なんだ?」
困惑して、僕はタカユキを見る。けれども、タカユキはノリマサの出て行った方を見たままじっと動かなかった。苦々しそうに唇を噛んで、ずっと黙ったまま、何かを考えているようにも見える。ノリマサの態度は、終始おかしなもので、まるで、初めから交渉をあきらめているかのようだった。他に何か意図があったのか、ただタカユキに嫌がらせをしたかったのか、精神のバランスを失いかけているせいなのか、僕には全くよく分からなかった。
僕らが何者でもなくなるように その9へつづく__
僕らが何者でもなくなるように その7
たぶん、僕はこの辺で、僕らがまだ一緒にいた過去に、ノリマサとタカユキとアヤカの間に、何が起こったのかを言っておくべきじゃないかと思う。アヤカが言ったように、僕らは無知で無自覚だった。だが何に対して無自覚だったのか? 欠落に対して。いや、そうではなくて、過剰さについて。僕ら四人が、皆に与えられている以上の何かを必要としていたことについて、僕らの精神の、僕らの存在の、過剰さについて。
あの頃。僕らはまだ十四歳だった。降りしきる雨のような大人たちの話す言葉に、ただ無防備に打たれ、イメージの世界に生きることを許されていた幼年時代を終え、その雨が、言葉が、実体をもった存在のようだと気付く時期、言葉に対して能動的にならなければならないのに、その術がまるで分からない時期、その中で自分の存在が、言葉の音の響かない空洞なのだと気付く時期。
「あーむかつく」
ぶつくさ言いながら、タカユキは校舎の壁を蹴っていた。
「落ち着けよ。別に直接何かされたわけじゃないだろ」
その横に座っていた僕は、タカユキをなだめる。
「偉そうに群れて、下級生が自分たちにびくびくしてるのを見て楽しんでやがる。腹を立てるのが道理だ」
タカユキは、僕らの中学校の上級生のことを言っていた。彼らは下級生に対していつも威圧的な態度を取り、萎縮するのを見てにやにやしている。
「あんまり露骨にそういうのを態度に出すと、目をつけられるぞ」
「だからなんだよ。正義はこっちにある。だいたい、みんなが従順にしてるから、こういう上下関係が無くならないんだ」
世の中のほとんどの人間が当たり前のように受け入れている年齢による階層に、珍しくもタカユキはこの頃から反発していた。というか、後にも先にも、それに反発する彼以外の人間に、僕は出会ったことがない。強いて言うなら、古い本で「抑圧の移譲」と呼ばれているのを読んだくらいだろうか。それはこの国の人たちが、例えばフェミニズム等に見られるように、外国から言説を輸入することなしに、自分たちで問題を発見して論じることを苦手とするせいかもしれない。当時、なぜタカユキがこんなにそれを毛嫌いするのか分からなかったが、同時に、なんでみんながそんなにそれを素直に受け入れているのかも確かに分からなかった。
「反乱でも起こすか」
「みんなにその度胸があればな」
「たぶんボコボコにされるぞ」
「いいんだよ、それでも。何もしないよりは、堂々と負けたほうがいい」
年齢相応な、まばゆいくらいの血気盛んさを振りかざして、タカユキが胸を張る。僕は、タカユキのこういうところが気に入っていた。
「おい、君たち。また悪いことの相談かね」
急に声がして、僕とタカユキが顔を向けると、そこには両手を腰に当て、おどけて威丈高な態度を取るアヤカの姿があった。
「公正な社会を作ろうという相談さ。僕らは正義の味方だ」
僕はアヤカのポーズを真似ながら混ぜっ返す。
「へえ、ホントに?」
「ああ、そうさ」
控えめに、タカユキが答える。タカユキはアヤカの目の前では口数が減って、態度もやや無愛想になる。つまり、好意を抱いていることの裏返しだ。当時のタカユキには、こんなシャイな一面があった。
「仲良いよね、君たち」
「まあね。他に友達がいないから」
「言えてる」
「良いだろ、別に」
「悪いなんて言ってないもん、別に」
「何で話しかけてくるんだよ」
「いいじゃん。私も仲間に入れてよ」
「変なやつだな」
「お互いにね」
僕もタカユキも、クラスでは浮いた存在だった。なんというか僕らはマイペースで、みんながやっているような、集団的人間関係の馴れ合いのゲームみたいなものから距離を置いていた。それゆえに僕ら二人は仲が良く、それゆえに他のみんなとは馴染んでいなかった。ただどういうわけか、アヤカは僕らに興味を示したし、僕らもそれが嫌ではなかった。
「ホント、困っちゃうよね。怖いもんね、三年のヒトたち」
僕らは当時二年生だったので、上級生とはつまり、三年生のことだった。
「何だよ。聞いてたのか」
「違うよ。けど、いつも言ってるじゃん」
「怖いんじゃない。自分たちの優位を振りかざして、偉そうでムカつくんだよ」
「ケンカ売ってやっつけちゃえばいいのに。私はそんな度胸も腕力もないけど」
「やれるもんならやりてえけど、そもそも賛同者がいないんだよ」
「まあ、おとなしくしてたらそのうち卒業するんだし、しばらくガマンするしかないね」
「みんながそういう姿勢だから、こういうのが無くならないんだ」
「でも、本気でやりあう気もないんでしょ?」
「そりゃあ……」
タカユキが口ごもる。アヤカは現実的なことをずけずけと言いながらも、嬉しそうだった。僕には時々、アヤカもタカユキに好意を抱いているのではないかと感じることがあった。それが単なる勘違いだったのかどうか、未だによく分からない。
「アヤカ」
いつの間にか、僕らの近くに、ノリマサが立っていた。堂々とした態度、余裕のある笑み、こちらを見つめているが、その目には冷たい光もちらついている。
「何かそいつらに用でもあったのか?」
「……ううん、別に」
「もう帰るぞ」
まるでアヤカが自分のペットだとでもいうように、ノリマサは彼女に手招きをして呼び寄せる。僕はそれがあまり好きではなかった。ノリマサとアヤカが付き合っているというのは、ひどく不自然なことに思えていた。けれども、アヤカはその自信たっぷりな声に誘われるように、ふらふらとノリマサのそばにいく。
「ソウスケ、タカユキ、お前らも、たまには来いよ。これからクラスのやつらと、『サンビ』かゲーセンに寄って行こうって話してるんだ」
ノリマサはときどき、僕らをクラスの輪に引き入れようとした。真意は分からなかったが、それはしばしば好感に近いものにも見えた。
「僕はどっちでもいいけど……タカユキはどうする?」
僕はタカユキを見る、彼はそれに、首をかしげるしぐさを返す。
「俺はちょっと、用事があるんだ。店から借りてたDVD、返却しに行かないといけない」
タカユキとしょっちゅう一緒にいる僕には、それがたぶん嘘だということが分かった。実際、タカユキはいつもノリマサの誘いには乗らなかった。僕はノリマサのことが嫌いなわけではなかったが、タカユキには、彼を拒むような態度が感じられた。クラスの中心にいて、その影響力の中にみんなを引き込もうとするノリマサから、タカユキは常に距離を取っていた。
「そうか、残念だな」
断られたことに何の感情の動きも見せず、ノリマサは言った。
「じゃあ、行こうぜ」
ノリマサは僕とアヤカに合図を送って、タカユキに背を向ける。「バイバイ」とアヤカはタカユキに手を振って、その後ろについていく。僕もどっちでもいいと言ってしまった手前、ノリマサについて行くしかない。
「ノリマサ君、すげえ!」
ノリマサのゲームプレイを見て、彼の取り巻きたちが声を上げる。僕らは結局ゲームセンターに来ていた。取り巻きたちとゲームをするノリマサの後ろで、ゲームに興味のない僕とアヤカはその様子を見ているだけだった。ノリマサは何をやっても器用にこなした。勉強も、スポーツも、こういうゲームも。ただ、当時のノリマサの一番の才能は、その過剰な自信と、そこからくるカリスマ性だった。自我の未熟な集団ではありがちなことだが、意識していてもしていなくても、誰もが集団のボスに気に入られたがっていた、ノリマサの言うことには誰もが”自発的”に賛同し、誰もがノリマサに気を遣う。アヤカもそうだった。自覚はなかったが、たぶん僕もその気持ちがゼロではなかっただろう。唯一の例外は、権威にも承認にも惹かれない、最も自律的な自我を持っていたタカユキだった。
「でも、ここのゲーセンってちょっと怖い雰囲気あるよな」
取り巻きの一人がぽつりと呟く。ここはゲーム自体は頻繁に新しく入れ替えてはいるものの、建物は古くて、あまり清潔ではなく、雑然として、照明が薄暗い。
「時々、カツアゲとかあるらしいぜ」
もう一人がそれに応じる。
「びびんなよ」
プレイしていたゲームを終えたノリマサがそう言って、その二人の目の前で、ポケットに手を突っ込み、そこから折りたたみナイフを取り出してかざす。
「いざとなったら、これで脅してやればいいんだよ」
ナイフから刃を出して、ノリマサはその二人の心臓を突き刺すような動きをしてみせる。二人は少し慌てたように後ずさりをして、嘲笑を浮かべるノリマサをこびるような目で見る。そのナイフを、ノリマサはいつも持ち歩いていた。少年ならたいていナイフを持ちたい願望を抱くものだが、僕らの中で実際にそうしているのはノリマサだけだった。ノリマサがそれを持っていることによって、他の取り巻きや同級生たちは、同じようにナイフを持つことができなかった。ノリマサがそうしろと命じたわけではないのに、誰もが自らの判断でそれを控えていた。ノリマサのナイフは、単なる凶器というより、まるで神器のように権威を象徴し、同級生たちを萎縮させていた。
「次はあっちのヤツやろうぜ」
ノリマサはナイフをしまいながらそう言って、近くにあったガンシューティングのゲーム機まで移動する。取り巻きたちに騒がれながら、ノリマサは見事な反射神経でゲームをクリアしていく。僕らのグループはしばらくそうやって盛り上がっていた。けれどもその間、いつのまにか別の集団が近づいて来ていたことに、ふと僕は気付いた。
「よう、ノリマサ」
薄ら笑いを浮かべた、僕らより背丈の大きな、四、五人のグループ、中学校の上級生たちだった。「あっ」と取り巻きたちが声を上げて、怯えた顔で後ずさりする。
「こんちわっす」
ゲームを中断して、ノリマサは彼らに軽く会釈をする。慌てた様子はなかった、上級生を前にしても落ち着いていて、その顔には余裕すらうかがえる。
「面白そうなゲームやってんじゃん」
「やりますか? よかったら」
そう言って、ノリマサは手にしていた拳銃型のコントローラーを差し出す。
「いいのか?」
「はい」
上級生はそれを受け取って、嬉しそうにゲームを始める。結果的には横取りされたわけだったのだが、ノリマサは終始落ち着いた態度を崩さず、卑屈な感じを抱かせない。誰もが威圧的な上級生にビビってしまっている中で、こんなやり取りができるのはノリマサくらいだった。そこには何か、共犯関係があるように見えた。下級生のカリスマに気を遣わせることで威厳を見せる上級生たちと、その上級生たちと落ち着いたやり取りができるのを見せることで他との違いを見せるノリマサ。お互いが、その上下関係から利益を得ていた。
「あのうわさ聞いた?」
ゲームセンターからの帰り道、取り巻きの一人が、ノリマサに話しかけた。
「うわさ?」
「あの四組のヤツが、もう一週間ずっと欠席してるでしょ」
「ああ」
「俺の親、PTAの役員やってるんで、親同士が話してるのこっそり聞いたんだけど、あれ、自殺未遂起こしたらしいんだ」
「自殺未遂?」
「そう、救急車とか来て、大騒ぎだったって」
「なんで自殺なんか」
「たぶん、いじめだよ」
「そういえば、あいつ三年生からだいぶやられてたみたいだな」
「小遣いとかけっこうもらってるの自慢してたのが耳に入って、だいぶ巻き上げられてたって話だった」
「バカだな。三年生は容赦ないから、とにかく目立たないようにしとくのが常識だろ」
「ノリマサ君の言う通りだよ。ずっと搾り取られて、嫌だとか言うと、傷が目立たないように腹とか殴られたり、ズボン脱がされて写真撮られたり、雑巾を口の中に入れられたり、まあ他にもいろいろやられてた」
「親たちにバレたのか?」
「いや、本人は何も言ってないみたい。ただただ学校にはもう行きたくないって言い続けてるだけだってさ。きっと報復が怖いんだろ」
「まあ、目をつけられたら終わりだよな。目立ちすぎず、媚びすぎず、うまく付き合うのが一番だ。なあ、アヤカ」
「え? あ、うん」
急にノリマサに話をふられて、ずっとぼうっとしていたアヤカはびっくりしたように返事をする。
「じゃあ、解散だな」
別れ道にさしかかって、ノリマサが取り巻きたちにそう言った。
「あ、じゃあね、ノリマサ君」
返事をする取り巻きたちの前で、ノリマサはアヤカに手招きをして近寄らせ、そのまま二人で帰っていく。学年で一番の美人だったアヤカとの関係を見せつけるようにするノリマサに、取り巻きたちはただただ羨望の眼差しを向けていた。ただ、そんな取り巻きたちとは違って、僕はいつもノリマサよりもアヤカを気にしていた。当時、僕の目からは、アヤカはいつも、まるで人質に取られているように見えた。確かに、アヤカにはノリマサを崇めるような気持ちもあったのかもしれない、だが、同時に、何だかいつも脅かされて怯えているような気配がそこにはあった。
その頃、僕らの学校を悩ませていた問題があった。それは、度々起こる窃盗事件で、財布とか、こっそり持ってきていたマンガとかCDとか、そういうものが、体育や別教室の授業でみんなが教室を空けた隙に盗まれてしまっていた。
「また盗まれたらしいよ、今度は一年生のやつがやられたんだって」
僕は聞いた噂を、そのままタカユキに伝える。
「ちょっと間が空いたと思ったら、やっぱりって感じだな」
「計算かな? あんまり短期間にやりすぎて、大きな問題にならないようにしてる」
「多少は頭使ってるのかもな。小賢しい」
「でもこれだけ連続して起こるってことは……」
「この学校の誰かが犯人だろうな。白昼堂々だし、外部の人間っていうことは考えにくい」
「誰なんだろうな」
「さあ」
「そんなにリスクを犯すメリットはあるのかね。財布はみんな警戒して持ち歩くようになったし、マンガやCDなんて売ってもそんなに大した金にならないだろ」
「単純に面白がってるのかもな。俺も小さい頃、万引きとかしてたけど、盗みのスリルはクセになりやすい。あとで親にばれて、死ぬほど怒られたけどな」
タカユキは笑いながら、腕をまくって、「ここを棒切れでさんざんシバかれたんだ」と僕に見せる。
「そういうのを面白がりそうなヤツが犯人ってことかな」
「もしくは……」
「もしくは?」
「リスクを負わずに済むヤツかな」
「そんなことが可能なのか?」
「仮定の話だよ」
そうは言いつつ、タカユキは何か考えがあるようにも見えた。
「あ、いたいた」
声がして振り向くと、そこにはアヤカがいた。いつものパターンだった。
「君たち、いっつもこの非常階段の下にいるよね」
「ここなら、他のやつらが来ないからな」
無愛想にタカユキが答える。
「また悪いことの相談?」
「むしろ悪い奴らについての相談だな」
「私も相談があったんだけど」
「相談?」
そう言って、タカユキが意外そうにアヤカを見る。
「そう。といっても、ソウスケにだけど」
「僕に?」
「うん」
アヤカは小さく尖ったあごを傾けて、軽くうなずく。そのしぐさに、タカユキは一瞬見とれたようだったが、それを隠すように視線を伏せた。
「英語のことかな」
「そのとおり! 分かってるじゃん」
アヤカが僕に相談しそうなことといったら、それくらいしかない。僕もアヤカも当時から英語を熱心に勉強していて、それだけなら成績は学年のツートップだった。
「僕がアヤカに教えられそうなことなんかないけど。成績も一緒くらいなんだし」
「勉強教えてほしいとかじゃないんだよね。ソウスケさ、英語で小説とか読んでみる気、ない? 私とソウスケで一緒に読んでさ、分かんないところとか、相談できるじゃん」
「ああ、そういうこと」
「そういうこと。どう?」
「いいと思うよ」
「あら、二つ返事」
「僕も、そういう勉強が必要だと思ってたから」
「さすが、ソウスケと私は気が合うよね」
「それは何より」
「何か『これ読みたい!』ってやつある?」
「いや、特に」
「じゃあ、私決めていい? 二冊目はソウスケに選ばせてあげるし」
「ああいいよ」
返事をしながら、根気が続くか分からないうちからもう二冊目のことを考えているのが、アヤカらしいなと思う。
「実はねえ、『ハリー・ポッター』か『グレート・ギャッツビー』のどっちかにしようと思ってるんだけど。でも『グレート・ギャッツビー』は難しすぎるかなあ」
「とりあえず一回、両方にトライしてみるっていうのができたらいいけどね」
「あ、じゃあ、一緒に読んでみようよ。私、実はすでに両方とも買っちゃったんだよね」
「気が早いなあ」
「こういうのは、迷ってるようじゃだめ。思い立ったがキチジツなの」
「まあ、それはそのとおりかもしれない」
「ていうか、実は持ってきてるんだよね」
「え、小説?」
「そう。貸してあげるから、両方読んでみて、どっちにするか決めようよ」
「勢いがすごいな……」
僕のその言葉を聞くか聞かないかのうちに、アヤカは手招きをして、教室まで行こうと言う。見えない縄で引っ張られているみたいに、僕は半ば強引にアヤカの後を追わされる。振り向くと、タカユキが苦笑しながらついてきていた。
教室に入ると、アヤカは自分のバッグを取り出してきて、中をごそごそやり始める。僕とタカユキはすぐ横に立って、その様子を見ていた。
「うーんっとねえ……」
アヤカがバッグの奥に手を突っ込みながら首をかしげる。
「どうかしたの?」
バッグをいったん置いて、今度は机の中をのぞきだしたアヤカに、僕は尋ねる。
「あれー? 確かに持ってきたはずなんだけどなあ」
「ないの?」
「うん」
アヤカはひどく困った顔をして、考え込む。
「絶対バッグの中に入れといたのに」
「……それって、まさか」
「えええ、うそ……」
何が起きたのかを察したアヤカは、さっきまでの元気を一瞬で失って、泣きそうなくらいにしゅんとした表情になってしまう。
「くっそ、マジかよ」
タカユキが怒りを隠さずに言葉を吐いた。
「どうした?」
僕らの様子を教室の隅から見ていたノリマサが近づいてきて、声をかけてくる。アヤカはうつむいて何も言わない。
「アヤカの持ってきた本が、盗まれたみたいなんだ」
黙っているアヤカの代わりに、僕が答える。
「おいおい、今度はアヤカがやられたってのかよ」
ノリマサがアヤカを見てそう言うと、アヤカは小さくうなずきだけを返した。
「探そう」
僕はノリマサとタカユキを交互に見ながら、つぶやく。アヤカの気落ちした顔を見ると、ふつふつと義憤が沸き起こってきた。
「探す?」
タカユキが僕の顔を見る。
「犯人だよ」
「落ち着けよ、ソウスケ」
怒りのトーンで言葉を発する僕を、ノリマサがなだめる。僕はそれに違和感を持って、ノリマサをにらんだ。「落ち着け」とはどういうことなんだろう、アヤカのこんな悲しそうな顔をみて、どうして落ち着けるんだ。ましてや彼氏なら、なおさらだろう。
「でも」
「まあ、もちろん俺も探すよ。目撃情報とか、犯人のうわさとか、そういうのがないか、聞けるだけのヤツ全員に探りを入れてみるからよ」
ノリマサの態度には、妙な余裕があった。まるで、自分なら犯人を見つけられるとでもいうように。
「そうだな」
僕はそう言うしかなかった。僕がここで何をしたって、確かに犯人を見つけられる見込みはない。なんだか拠り所がなくなって、ふいにタカユキを見る。タカユキもまた、どこか妙な態度を取っていた。鋭い目線で、ノリマサとその取り巻きたちを見つめていた。まるで、何かあいまいで隠されたものを、冷徹な目線で射抜こうとするかのように。どうやら、出来事の表面的な部分しか分かっていないのは、僕だけらしかった。
その日は結局、釈然としない気分のまま、帰途に着く。タカユキと一緒に歩きながら、アヤカのことについて考えていた。僕は、そしてタカユキも、ほとんど喋らなかった。けれども、僕の家の前まで来た時、急にタカユキが僕を見て口を開く。
「ちょっといいか?」
そう言いながら、タカユキは何かを警戒している感じだった、キョロキョロと周囲の様子をうかがってから、もう一度僕に向き直る。
「なんだよ」
「今日の事件のことなんだけど……」
「ああ、やっぱりムカつくよな。まさか英語の小説まで盗られるなんて。古本屋で小銭に変えられたら、何でもいいのかよ」
「まあそりゃそうだけどよ。俺はそんなことが言いたいんじゃない」
タカユキは真面目な顔をしていた。素直に腹を立てている僕とは違って、落ち着いていた。
「何かあるのか?」
そう言いつつ、僕はタカユキの腹に一物があることに感づいていた。事件があってからのタカユキの態度は、そうでなければ説明がつかない。
「俺な、犯人に目星がついてるんだ」
「え? マジか」
「ああ」
「誰なんだよ」
「大体わかるだろ。あんなことしそうなヤツなんて、学校の中にほとんどいない」
「それってつまり……」
「三年生だよ。あいつら、今までの金づるをいじめで自殺未遂に追い込んだせいで、他の手段を求めてるんだろ」
「でも、目立ちすぎるだろ。三年生が一年生とか二年生の教室の周りをうろうろしてたら、怪しまれる。とっくにバレててもおかしくない」
「あいつらが自分でやる必要なんかない。それぞれの学年で自分たちに従う奴らにやらせたらいいだけだ」
「そうすれば、自分たちはリスクを負わなくてもいい」
「そういうこと。バレても三年生が怖いから、そいつは名前を出さないだろ」
「なんだよ。マジで小賢しいな。でも、どうする? 先生とかに相談してみるか?」
「そんなことしたってダメだ。証拠がないし。ヘタに疑いかけたら、ややこしいことになるだろ。それに証拠があっても、大人は厄介ごとを避けたがるし、まともに動いてくれるかどうかわからない」
「まだはっきり確信できたわけでもないしな」
「だから、俺とお前で証拠を押さえようぜ」
「どうやって?」
「おとり捜査だ。金になりそうなものを学校に持って行って、やりそうなやつらにそれを見せた後、わざと机の中に放置しとくんだ」
「それならいけるかもしれないな。でも、その”やりそうなやつ”って誰なんだ?」
「決まってる。ノリマサたちだよ。三年生たちと繋がりがあって、学年中にネットワーク持ってる一番有力なグループといったら、あいつらしかいない」
「ノリマサ? でも、今日被害にあったのは、アヤカだぞ?」
「そこがよく分からないところだけどな。でも、怪しいのは間違いない。あいつらが誰かにマンガとか貸してくれって頼んで、実際持ってきたらそれが盗まれるっていうことが、一度や二度ならずあったみたいだし」
僕は、そこで黙って考え込んでしまう。正直言って、僕はこのときまで、ノリマサをそんなに悪いやつだと思ったことはなかった。タカユキと一緒にノリマサを疑い、その悪事を暴くことの中には、何か熱い正義と冷たい裏切りが共存しているように感じられた。
僕とタカユキは話し合って、結果、僕がちょうど読み終わっていた、当時人気のあったマンガをエサに使うことにした。まず、僕らはわざとノリマサたちのグループに見えるところで、そのマンガの貸し借りをやる。僕が渡したマンガ数冊をタカユキはカバンに入れて、そのまま置いておく。選んだのは、結局放課後だった、体育などの時間では抜け出すのが難しいし、先生たちに見つかればそれどころではなくなる。みんなが帰って人が少なくなった頃合で、タカユキと僕は用事があるふりをして、カバンを置いたまま教室を出た。そのまま廊下を挟んだ窓の外へこっそり移動し、窓枠に動画撮影状態にしたデジカメを固定して様子をうかがう。
「ホントにこれで上手くいくかな」
僕は作戦が単純すぎやしないか心配だった。といっても他にいい方法は思いつかなかったのだが。
「たぶんあいつらはやるよ」
「アヤカが被害にあったばかりなのに?」
「でも、あのマンガは人気があるし、けっこう高く売れる。だから、あいつらはチャンスがあれば盗みたいはずだ」
「いつ行動に出るか分からないぞ。まだ二、三人は教室に残ってたし」
「適当なこと言って誘い出して、全員で出たらいいだろ。そのすきに、他のクラスとかから仲間がうちに侵入して、誰もいない教室からマンガを盗み出せばいい」
「ああ、なるほど」
結果はタカユキの予想通りになった。ノリマサたちのグループと一緒に教室から全員が出て行き、身を隠した僕らの前を横切る。ほとんど間髪入れず、後から他のクラスの生徒が二人現れ、タカユキのカバンに手を伸ばす。
「よし、いいぞ」
相手の死角でデジカメのモニターを確認しながら、タカユキはつぶやく。連中はマンガを盗み出すと、それをふところに隠し、たがいに顔を見合わせてにやにや笑いながら、教室を去って行った。
「やったな」
僕はタカユキの肩を叩いて喜ぶ。だが、タカユキはデジカメを回収しながら、渋い顔をしている。
「いや、まだだ」
「もう証拠は押さえただろ」
「手下なんか捕まえてもしょうがないだろ。俺は、本当はこの機会にあの三年生の連中を痛い目に会わせたいんだ」
「どうするんだ?」
「追いかけるんだ。あいつらが三年生かノリマサと本当につながっているなら、絶対あのマンガをどちらかに渡すはずだ。それを動画に撮らなきゃいけない」
そのとき、僕は誰かが近づいてきているような気配を感じて、振り返る。
「あっ」
思わず声が出る。そこには、ノリマサたちがいて、ゆっくりとこちらに歩いてきていた。僕と同時にそれに気づいたタカユキが、素早くカメラをしまう。
「なんだそれ」
けれども、ノリマサはそれを見逃さなかった。
「ん、ああ、カメラだよ」
隠すと怪しまれると思ったのか、タカユキは正直に言い、「このあいだ家族で行った旅行の写真、ソウスケに見せてたんだ」と付け加えた。
ノリマサは一瞬タカユキを見つめたが、「ふうん」と言ったきり、特にそれ以上質問してくることもなかった。
「じゃあ、俺たちもう帰るし」
タカユキは僕を連れて、そそくさとその場を離れる。不自然な態度をとってしまったが、もたもたしているわけにはいかない。教室に入ると、マンガを盗まれたカバンを手にとって、急いで犯人たちを追いかけた。
「まずいな」
僕はタカユキの背中に向かってつぶやいた。犯人たちは校舎の裏手に回り、非常階段を上り始めていた。この最上階から建物の中に入れば、そこは三年生たちのグループがいるクラスだった。僕らはもっと学校から離れた場所での受け渡しを期待していたがそうはならないようで、このままうかつに犯人の後ろをついていけば、目立ちすぎること間違いない、そこを歩くだけでインネンをつけられてしまうかもしれない。そこでばれたら元も子もない。
「どうしようか……」
タカユキは犯人たちの影を追いながら考えていた。
「いちかばちか、非常階段から狙うか」
僕はそう提案した、三年生たちの溜まり場はクラスのベランダで、そこならば非常階段からこっそり様子をうかがうことができるはずだった。
「しょうがないな」
タカユキは同意した。せっかくここまで思い通りにいった以上、最後まで証拠を押さえたかった。僕らは最上階まで上がったあと、音を立てず姿も見せず、慎重に、踊り場のコンクリート壁にカメラだけを置いて角度を調整し、ベランダをフレームに収めた。
けれども、そこからベランダの様子をとらえるのは、どうにも難しいことだった。マンガを盗んだ犯人は確かにベランダの所にいるようで、聞こえてくる声からすると、たぶん三年生たちにそれを見せているようだったが、カメラの視界は犯人たちの背中をかすめているくらいでしかない。
「くそっ。やっぱりこれじゃだめだ」
タカユキはつぶやいて、抑えきれずに大胆な行動にでる。カメラの視点を高くしようと、あろうことか直接それを手に持ってかかげるようにする。
「おい、そんなことしたらバレるって」
僕は小声で注意する。タカユキの行動は、まるでこっちを見てくれと言っているようなものだ。
「バレたら全力で逃げるだけだ。このままじゃせっかくの現場を押さえられない」
タカユキはカメラを高く上げたまま動かない。アヤカへの恋心と上下関係への反抗心に突き動かされているタカユキは、ほとんど向こう見ずになっている。
「いくらなんでもーー」
そう言いかけた瞬間、僕はいきなり誰かに肩を掴まれ、関節を外そうとするかのような強い力で引っ張られる。
「うわっ」
不意をつかれたせいで、僕は転びそうになる。それでもなんとかバランスを保とうとしたが、こんどは顔に体当たりをくらってしまい、結局その場に崩れ落ちてしまった。一瞬、何が何だか分からなくなったが、いつのまにか僕の目の前で腹を押さえてうずくまっていたタカユキと、そこに立っていた数人の三年生たちを見て、ようやく事態を察した。
「ホントに撮ってやがる」
腹を殴られ地べたに転がったタカユキが落としたカメラを、三年生の一人が拾い上げて動画を確認している。
「気をつけろよ。使えねえやつらだな、オイ」
もう一人が、青ざめた顔の犯人たちを睨みつけ、その頭を平手で何度も叩いた。犯人の二人は涙目になり、へなへなとその場に座り込んでしまう。僕は正直、恐怖とともにそれを見ていた。僕らはいったい、どんな目にあわされるのか。痛みと屈辱への怯え。でも、怯えている時間はほとんどなかった、ほとんど振り向きざま、犯人たちを叩いていた三年生が、僕のみぞおちを蹴り上げたのだ。悲鳴をあげることもできず、というか息もできずに、僕は内臓を突き抜けて反響するような強烈な痛みで全身が麻痺してしまう。目には涙がにじんだ。
「こんなことしちゃだめだろう?」
そいつは笑いながら、僕の頭を何度も叩いた。みぞおちの痛みで体が痺れ、屈辱で感情が痺れた。その僕の目の前で、タカユキは何度も背中を蹴られ、うめき声を上げている。
「やめてくれ!」
僕は叫んだ。恐怖のせいで、タカユキが死んでしまうんじゃないかと思ってしまっていた。けれども三年生たちは顔を見合わせて笑い、今度は取り上げたカメラで僕は頭を小突かれる。
「謝れ」
三年生たちは、うつむいた僕の頭を靴の裏で踏みながら言った。
「すいませんでした」
考えている時間はなかった、蹴られ続けるタカユキを救うためにできるのは、プライドを捨てて、ありったけの嘲笑を受け止めることくらいしかなかった。
「なんだよ根性ねえな。そんなすぐ謝るなら、最初からやるなよ」
三年生たちは興ざめしたような顔をして、うずくまっているタカユキの胸ぐらをつかみあげる。ようやく許してもらえるのだろうか、と僕が期待した瞬間、カメラを持った三年生がいきなりその硬いカドでタカユキの鼻面を殴りつけた。僕は「うわっ」と思わず声をあげる。タカユキの鼻から赤い鮮血が飛び散った。勢いよく鼻血が流れ、あっというまに口の周りを濡らす。
「お前も謝れ」
タカユキは苦しい呼吸に喘ぎながら、目を細めていた。その瞳には葛藤が浮かんでいた。
「すいませんでした」
タカユキは冷静だった。冷静に、ここで意地を張っても、プライドも自分も友達も守れない、と判断していた。そのせいで余計に、彼の姿が痛ましい。
「声が小せえな」
そう言って、三年生はさっき殴ったタカユキの鼻をカメラでぐりぐりとやる。
「すいませんでした!」
タカユキは声を絞り出した。
「もうこんなことは二度としませんって言え」
「もう、こんなことは、二度と、しません!」
軍隊の新入りのような声で、タカユキは叫んだ。三年生たちは大笑いして、タカユキの目の前でカメラをコンクリートの壁に何度も投げつけて、めちゃくちゃに壊した。連中の笑い声を聞きながら、タカユキは目をふせる。その瞳は、屈辱と憎悪に燃えていたが、彼の感情の力は全て、それを抑え込むことにそそがれていた。
トイレの洗面台で、タカユキは血まみれの鼻と口をずっと洗っていた。赤く染まった水道水が、排水溝で渦を巻き、流れていく。血のにおいが広がり、それを嗅ぐたびに、僕はタカユキの怒りと悔しさを感じた。
「大丈夫か?」
互いにハンカチを持っていなかったので、僕はトイレットペーパーをロールごと外してきて、タカユキに手渡す。タカユキはそれを受け取り、ずっと無言のまま、何度か適当な長さに切っては顔を拭った。拭う度、紙は水で薄まった血をにじませて、形を崩す。鼻の、殴られた部分は紫色に腫れている。
タカユキの鼻血が止まって、僕らは校舎の外へ出る。外は晴れて明るい、さわやかな陽気、木々の葉は風とたわむれてささめき、校舎に迷い込んだ野良猫が柔らかそうなお腹を晒してうたた寝をして、校門の外には、近くの小学校から帰る子供たちの影がぽつぽつと横切っていく。人々はこういうのをのどかで美しい日と呼ぶだろう、けれども、外の景色がそうであればあるほど、僕らの惨めさは際立った。僕もタカユキも、全く喋らずに、とぼとぼと学校の外へと出て行く、僕らには、帰るということ以外何も選択肢はなかった。
「どうしたの?」
うつむき加減だったせいで気付かなかったが、いつの間にか、僕らの目の前には、通りがかったアヤカが立っていた。そして、その後ろにはノリマサもいる。
「いや、別に……」
僕はアヤカの視線からタカユキをかばうように立って何か言おうとしたが、何も上手いごまかしは思いつかなかった。
「別にって……タカユキの顔、何か腫れてない?」
タカユキは無言のまま、アヤカから隠れるように顔を背ける。そんな姿を、見られたいわけがなかった。アヤカは青ざめた顔で、心配そうにタカユキを見つめていた。
「なんていうかまあ、……転んだ、みたいな?」
あいまいに答えながら、僕はタカユキの反応を見る。タカユキは単にうつむいていた、アヤカに真実を伝えなければ何でもいい、といった具合で。
「別に、嘘つかなくていいだろ」
突然、ノリマサが口を開いた。僕は驚いてノリマサを見る。ノリマサは意外にも、真顔だった。普段の嘲笑的な態度ではなく、口元は真一文字に結ばれ、どこか苦しそうですらある。
「嘘ってどういうこと?」
アヤカがノリマサを見る。ノリマサは、ずっとタカユキに視線を向けたままでいた。
「三年生にやられたんだよ」
遠慮も躊躇もなく、ノリマサは言い放った。
「三年生に?」アヤカは驚いて、ノリマサと僕らを交互に見る。「どういうこと?」
「三年生が、盗みの犯人だっていう証拠を、カメラで撮ろうとして、見つかった。そういうことだろ?」
ノリマサはタカユキを睨んでいた。
「そうだ」
タカユキもまた、ノリマサを睨み返す。
「何それ? ホントに? ひどい! ちょっと、先生たちに言いに行こうよ」
「やめとけ」
アヤカの勇み足を、ノリマサが制止する。
「どうしてそんなこと言えるの? ノリマサは、二人の味方じゃないの?」
アヤカが、ノリマサを睨む。それはたぶん、普段彼に対して従順にしていたアヤカが、初めてはっきりと見せた反抗的態度だった。ノリマサはいらだった表情になったが、同時に、苦々しそうに唇を噛む。
「そんなことしたら、こいつらがもっとひどい目に遭うぞ。なあ、ソウスケ、お前にも言っただろ。三年生に対しては、目立ったことをしたらダメなんだ」
「……そうだな」
残念ながら、ノリマサの言うとおりだった。結局証拠は押さえられなかったのだし、告発してもさらなる暴力と屈辱を味わう結果になるのは目に見えていた。
「でも、でも……」
悲しそうな目で、アヤカはタカユキを見ていた。タカユキは何も言わず、顔を背ける。もはや彼にとっては、アヤカの同情は、屈辱の傷をえぐる刃にしかならない。
「もういい。行くぞ」
ノリマサが、アヤカの腕をつかんだ。アヤカは一瞬、その腕を引いて、抵抗するそぶりを見せる。アヤカとノリマサの目が合い、二人はしばらくそのままになる。ノリマサの目には、相手を支配しようとする意思がこもっていた。しばらくそれに抗っていたアヤカの目には、しかし徐々にあきらめの意思が表れる。そしてとうとう、アヤカはノリマサに引っ張られて、僕らの前を去っていった。アヤカは僕らから遠ざかりながらも、しかし僕らのほうを見ていた。けれど、僕もタカユキも、その視線を避けるために、彼女の方を見なかった。それに気づいたアヤカは、その視線をずっと低いところに伏せて、弱々しい瞬きを繰り返す。
そのとき、僕らは二人とも、三年生にあんなに簡単に見つかったのは、ノリマサが密告したせいなのだと気づいていた。だから僕らは、去っていくノリマサの後ろ姿を見ながら、それに強い強い嫌悪を感じていた。以来、僕らはノリマサと、卒業まで二度とまともに喋ることがなかった。たぶん、アヤカも何かを感じていたのだろうか、彼女もだんたんとノリマサと距離を置き始め、進級してクラスが別々になったのを機に、別れてしまった。
けれども、後々になって、僕はそのときのノリマサに顔に浮かんでいた、どこか苦しそうな表情のことを思い出すようになった。不条理に対するひどい無力感に、突き放されたようなどうしようもない悔しさを味わっていたのは、きっと僕ら三人だけではなかったのだ。力に抵抗しようとしてあっさり打ち砕かれた僕とタカユキ、力に対して鈍感で受動的であるだけだったアヤカ、力に服従することで代償としての虚勢を得ていたノリマサ。子供の頃に、もっとひどい体験をした人間はたくさんいるだろう。けれども、教訓を引き出すのに、必ずしも特別で過激な体験を要するわけではない。僕はそこから、自分たちが、教えられてきた物語の主人公でないことを学んだ。その主人公たちのように正義や公平さに守られていないし、その存在は何によっても保証されていない。僕らは、ただただ、無名で、無根拠な存在にすぎないのだ。自分たちを支えてくれる物語など、実は何ひとつ持たなかったのが、僕らなのだ。
僕らが何者でもなくなるように その8へつづく__
僕らが何者でもなくなるように その6
思いがけず、タカユキをアヤカに繋ぎ、ノリマサをタカユキに繋ぐ、なんていう役どころを担ってしまった。
どちらもなんとなくやりにくい話だったが、僕はとりあえず、先に話を聞いていたし、かつ、どちらかといえばやりやすい、アヤカのほうへ話をもっていくことにする。
「どうしたの?」
電話に出ると同時にそう聞かれたものの、アヤカの声は自然な感じだった、僕が急に電話をかけたことを、おかしいとか思っている様子はない。
「この間は、ひさしぶりに会えてよかった」
「そうね。ソウスケは相変わらず、マイペースな感じだね」
僕の変わらない性格についての言及は、急に電話をかけたことも含んでいるような感じだった。
「せっかく再会したけど、全然話せないままお開きになった」
「なっちゃったね」
「もう少し話したかったけどね」
「ちょっと短すぎた」
僕はなんとなくノリマサの名前を出すのを避けていた、それはもちろん、彼女も同じ感じだっただろう。
「そこで提案だけど、今度『サンビ』で昼飯でも食べないか?」
サンビ、というのは『サン・ビクトル』の略で、僕らの地元の学生の溜まり場になっていたカフェというか喫茶店の名前だった。少し古くなった今ではかつての常連が利用する店に変わっているらしいので、誘うならそこがうってつけだと思った。けれども、アヤカから返ってきたのは、僕の想定とは少し違う答えだった。
「『サンビ』もいいけど、私ね、ちょうど今日、他の店で晩御飯食べる予定だったの」
「じゃあ、また今度にする?」
「いいよ、ソウスケも行こうよ」
「そっか、それじゃあ」
「ブライアンも一緒だけど」
「え?」
僕はちょっと困った。アヤカの夫も一緒だと、なんとなくタカユキのことは言い出しにくくなる気がする。
「あれ、嫌なの」
「いや、そうじゃないけど。邪魔にならないかな」
「私たちはむしろそうしたいけど。いっつも二人で食べてるわけだし、たまに他の人と一緒になるのは歓迎するよ」
一瞬迷ったけれども、僕は申し出を受けることにした。本当は僕とアヤカで食べているところにタカユキを呼ぶのがベストかと思っていたのだが、別にどこかで機を見て、アヤカにその話をしたってかまわない、と考え直す。
僕は時間と場所を聞いて電話を切った。スマホの画面を見つめながら、何となく、屈託のない少女だった彼女の声に、今は微妙な翳りが表れていたような気がしていた。気のせい、と言えるかもしれない範疇ではあったけれども、僕もタカユキもノリマサもそうであるように、アヤカにも十年という時間の経過があったのだと想像せざるを得なかった。
指定された居酒屋へ行くと、すでにアヤカとブライアンはカウンターに座り、焼き鳥とビールで乾杯していた。アヤカは手を振って僕を招き、ブライアンは柔和な笑みで「こんにちは」と僕を迎える。僕にとってのアヤカは中学生のころのアヤカで、それが今、夫と一緒に並んで座っているのは妙な光景にも思えた。
「元気そうだね、この間もそんなこと言ってたけど」
「再会のしきりなおしね」
「いろいろあったって感じかい? この十年間」
「そうねえ、留学して、働いて、結婚して。私、昔と変わったかな?」
「全く同じってわけにはいかないけど、正直、そんなに変わってないように見える」
あらためて対面すると、アヤカの持つ雰囲気は実際に昔と変わっていないと感じた。
「そう? それは嬉しい」
「嬉しい?」
「私はむしろ、変わらないことを目指してたから。世の人はみんな、自分を変えたいと思って生きてるみたいだけど、私は、向き合う環境の方を変えながら、その中でもずっと、このまんまでいようとしてきたの」
「自分っていうものへのこだわりが強いんだ、アヤカは」
話を聞いていたブライアンが、初めて口を挟んだ。
「その分、周りから浮いてしまうけどね」
確かに、アヤカは他の子達とは異質な存在だった、決して派手に振舞ったりするタイプではなかったが、ただそこにいるだけで、際立ってしまうところがあった。そんなアヤカと根底で通じ合うものがあって仲良くできたのは、同じようにどこか異質な、僕と、タカユキだけだったのだ。
「ただ、僕にはアヤカのような女性が良かったんだ」
ブライアンが、僕を見て言う。
「どうして?」
「日本人たちと話していると、みんな似たようなことばかり言う。まるでそれぞれが、示し合わせたかのように、物事に対して同じ意見を持っている。まるで一人を通して、日本人という集団と会話しているような気分になる。英語を勉強して英米文化に憧れている人達のほとんどですらそうだ。だけどアヤカは違った。アヤカは他人と違うことを考えるのを恐れない、だから、僕は日本に来て初めて、一人の人間と出会ったと思えたんだ」
「ちょっとブライアンの見解には、個人的な思い入れみたいなものがこもってるけどね」
日本人に対してなのか自分の評価に対してなのか、アヤカは気恥ずかしそうにフォローを入れる。
「僕は、どうしてもこの日本というものに、軸と言えるものを見出すことができていない。彼らが日本文化として誇っているものは、むしろ外国人から評価された分かりやすいものがほとんどだ。それは彼らが見つけたものというより、外国人の目で見つけられたものでしかない。人々の思考や行動にも、軸が見出せない。何かがあるようで、結局何もない。批判を加えてみても、いつのまにか、いったい何を批判しているのか分からなくなる。僕は日本文学を通してこの国に興味を持ってアメリカからやって来て、ずっと英語教師をやっているけども、長くいればいるほど、彼らを通して得たイメージが崩れ、この国のことがよく分からなくなる気がする。まるで底なし沼だ。だからこそ、そんな中でも軸を持っている、アヤカのような人に会って、ようやく安心できたんだ」
一息つくように、ブライアンはビールを飲み干す。
「ソウスケ、君はどう思う?」
ブライアンのその質問は、「日本人は皆同じ考えだ」と言われた後だけに、僕を試すような問いに聞こえた。
「そうだな、僕が思うに、その底なし沼こそが、日本の姿だ。だからその文化というのは、まるでその沼に浮かぶ泥の島のようにまばらなもので、ちゃんとした基礎の上に軸を持った巨大な大陸が作られているわけじゃない。君は島に実体を見出そうとするけど、じつは実体のない沼こそが実体のように振舞うのさ」
「そんな馬鹿な!」ブライアンは驚きの目を僕に向けた。「それなら一体、君たちは何によってアイデンティティを持ち得るというんだ」
そう言われて、僕は「戦争はアイデンティティを亢進させる手段だ」というノリマサの言葉を思い出した。もしノリマサの言葉を聞けば、ブライアンはどう思うだろう?
「正直よく分からないけど……それは静的なものじゃなく、むしろ動的なものによって確保されるんじゃないかな。みんなが何かに向かって動いている、というより蠢いている、その瞬間こそが、日本人に『我々』という意識を与えるんじゃないか。だから、彼らは常に蠢いていなければならない」
「じゃあ、君はどうなんだ? 君は、軸よりも動きを必要とする人間なのか?」
「僕は、少なくとも軸を求めている。でも、そのためには、意識的にアウトサイダーでいる必要が出てしまう。と同時に、どこかに所属する経験を通さないことは、個の成熟を妨げ、その軸をアンバランスなものにする。ここでは、そういう意味でのダブルバインドが、いつまでも個人の障害になり続けている。軸を求める人間はその矛盾を生きることになるし、そういう人間に出会うことすらまれだ」
「ふむ……」ブライアンは、焼き鳥を噛み締めながら、しばらく考え
ていた。
「私に言わせれば」ふと、アヤカが口を開く。「そもそもほとんどの日本人はその軸について考える必要がないんだと思う。自分たちとは違うアイデンティティを持った存在と、まともに向き合う必要に迫られずに生きてるから。自分が何者であるかということが保証されすぎて、その確かさを疑うことがない。だから、逆にそれがあいまいなまま放置される」
「確かに、そうかもしれないな。アヤカは、普通の日本人とは違っているからね……」
「ブライアン」
ブライアンが何かを言おうとした瞬間、とっさにアヤカが割って入る。たしなめるような口調に少し驚いて、僕はブライアンと同時にアヤカを見た。
「いけないのか」
ブライアンがそう言った瞬間、アヤカがブライアンの腕をつかんで首を振った。二人でしばらく見つめあってから、ブライアンは口をつぐんでビールの入ったグラスに指を触れる。僕にはいったいどういうことなのか分からなかったが、二人の間では合意ができたらしい。
「ちょっと、ブライアンが私のこといろいろ喋りすぎそうだったから」
アヤカは笑顔を見せて取り繕った。「そっか」と僕は答えたが、アヤカが何かを隠したことは明らかだった。
「トイレ行く」
その横でブライアンは肩をすくめて、席を立つ。何かあきらめたような気配が、その表情を横切った。
「なんかいきなり難しい話になっちゃったね」
ブライアンの背中を見送ってから、ため息混じりにアヤカがつぶやく。
「いや、興味深かったよ。普段はあまり、周りにいる人間と知的な会話をするチャンスもないし」
「長年日本にいるストレスが、溜まっちゃってるみたい」
「僕なら外国に長年いるとあきらめもつきそうだけど」
「彼は環境に合わせて自分を変えるよりも、自分に合わせて環境を変えることを望むタイプで、それに一度疑問や違和感を持つと、それをそう簡単には手放さない」
「言ってしまえば、欧米の男性の典型みたいなところがある」
「そうね」
アヤカは苦笑して、視線を落とす。
「いいじゃないか。従順であきらめの良い人間なんてどうせ退屈だよ」
「確かにそれが彼の良いところでもあるけど」
「けど?」
アヤカの表情が暗くなったのに気付いて、僕は聞き返す。
「正直、あんまりうまくいかなくなってきてる気がするの。最近の彼は、ささいなことでもいら立ってしまう感じ。だから今日は、二人よりも三人のほうが良いかと思って、ソウスケを誘ったみたいなところもある」
「さっきは君のことを褒めてた」
「もちろんお互いを嫌いになったわけじゃない。なんていうか、直感ね。嫌な流れが来てる感じ。こういうのは、無理に変えようとしてもうまく行かない」
「流れにまかせるってのかい」
「彼が勝手に流れていくだけ。無理に堰き止めても、爆発するでしょ」
「観念してるみたいだね」
「みくびらないで。ダメになるまでは、がんばるつもり」
アヤカは笑顔を作った。ただ、その笑顔のせいで彼女の寂しさが際立って、胸が痛む。僕は急に、彼女が昔からとても他人をひきつける魅力を持った人だったことを思い出す。
「そうだ。また一緒に飲まないか。改めて悩みも聞くよ。今度はタカユキも呼んでさ」
やや唐突な感じもしたが、ブライアンが帰ってくる前に切り出す必要があった。
「タカユキも?」
「うん」
僕は表情を変えずに答える。とにかく、それは別に自然なことだという印象を与えるために、注意を払っていた。
「……まあ、いいけど」
アヤカは僕をじっと見て返事をした。たぶん、僕の演技なんか見抜かれていたと思うが、アヤカはそこに特別な含意はないと読み取ったのだろう。
「約束だ」
役目を果たした安堵から、僕は妙に明るい声を出した。その滑稽さがアヤカをリラックスさせたのか、彼女の笑顔から暗さが引いていた。
「しかしまあ、時間って容赦なく過ぎてしまうもんねえ」
「あの頃にもどりたいのか?」
「そんなことないけど。何もかもが起こる前よりは、起こってしまったあとのほうが、ずっといい」
「多くの人は逆のことを言うもんだけど」
「少なくとも、私はそうね。今よりも、無知で無自覚な少女だったころについてのほうが、後悔することが多いもの」
そう言って、アヤカはグラスからビールをあおった。僕らが一緒だったころについても、アヤカはより多くの後悔を抱えているのだろうか。無防備で率直だったあのころとは違い、今のアヤカは、隠さなければならないことを隠しながら喋っているような気がした。
僕らが何者でもなくなるように その7へつづく__
僕らが何者でもなくなるように その5
どんなふうにアヤカに連絡を取ろうかと僕は考えていた。僕とタカユキと三人で飲みに行こうと言えば、なんでだと理由を聞かれるかもしれないし、かといってタカユキが来ることを黙っているわけにもいかない。しばらくああだこうだと考えていたが、結局、ストレートに提案してみることにした、理由は特にいらない、僕がそうしたいと思ったとでも言えばいい。タカユキがそう言っていると言えば妙な感じだが、僕がそう言う方がまだ自然だ。
ようやくそうと決めて、アヤカに連絡を取ろうと思った時、思わぬ横槍が入ることになった。突然、僕がちょうど手にしたスマホが鳴ったのだ。発信は公衆電話からで、首をかしげながら電話に出ると、なんだか疲れたような声のノリマサだった。
「ちょっとさ、迎えに来てくんねえか」
「迎え?」
第一声で何を言い出すんだ。
「いや、帰りの電車賃がなくってよ」
いい大人がそんなことになるもんなのかと思ったが、少なくともノリマサはいい大人とは言えなさそうだ。
「無一文なのか?」
「まあ細かいことはあとで説明するし、とにかくこっち来てくれよ」
あんまり会話を続けてもしかたなさそうなので、僕は迎えに行くことを承諾して場所を聞く。指定されたのは、警察署の前だった。
「ったく。まいったぜ」
待ち合わせの場所に立っていたノリマサは、特に悪びれる様子もなくそう言って僕を迎えた。
「どうした?」
「警察のやっかいになっちまったのさ」
僕はあきれ顔になってノリマサを見る。状況は、聞いていた噂以上に悪いのだろうか。僕のその顔を見て、ノリマサは気分の悪くなるような皮肉な笑いを浮かべる。
「いったい何をやったんだ」
「くだらねえケンカだ。安い飲み屋で偉そうなオッサンに絡まれて、言い合いになって腹が立ったから、顔面ぶん殴ったら大げさに倒れやがってよ。そんで警察呼ばれて、暴行罪で連れて行かれちまった」
「暴行罪って、逮捕されたのか?」
「まあな。いちおう保釈はされたんだけど。それで身元引受人になった親父に迎えにきてもらったんだけどよ、なんか説教してきやがって、そんでケンカになって、挙げ句の果てに無一文の俺をほっぽり出して、テメエで勝手に帰れって話になっちまった」
「それで、僕に電話してきたのか」
「そゆこと」
始めから終わりまで呆れてしまう話で、正直来なければよかったと思う。ノリマサに反省している様子はまったくなく、あっけらかんとしている。
ともあれ、しかたがないので僕はノリマサと連れ立って帰ることになった。駅のホームに立って電車を待つ間、手持ち無沙汰なので缶コーヒーを買う。ノリマサの分も買って渡してやると、別に感謝の様子もなく当たり前のようにそれを受け取った。
「しょっちゅう他人とケンカしてるのか?」
実際ノリマサは、どんな生活をしているのかと思い、それとなく質問を切り出してみる。
「たまに軽い言い合いくらいはするけどよ、さすがにぶん殴るのはまれだな。逮捕されたのは初めてだし」
ノリマサは愉快そうに笑う。僕は笑わなかった。
「まあ、親父が身元引受人になってくれただけ不幸中の幸いだ。なんせ、電話するのは三年ぶりくらいだったからな」
「親と連絡取ってないのか」
「もはやほとんどアカの他人さ。俺の体たらくが許せねえらしい。口を開けば偉そうな物言いで批判ばかりだ。これでもいちおう仕事はしてるってのに。結局、俺の方から縁を切ってやった」
「体たらく?」
「俺が稼いだ金をほとんどパチンコに使っちまって、ぎりぎりの生活をしてるのが気に食わないんだ。まあ、しょせん工場のライン勤めじゃあ、どのみちろくな給料はもらってない。そもそも、教師みたいなカタい仕事をやってる親父からすれば、俺の仕事自体が見下げたもんらしい」
「まあでも、いちおう自力でやっていけてるんだな」
「その感覚はないな。すでに泥沼につかってる気がする。仕事なんか毎日毎日同じことの繰り返しだ。そこには自己実現もモチベーションの行き先もない。コンベアを流れてくる同じパーツを眺め続けてると、俺の足元にも見えないコンベアがあって、こっそり破綻へと運ばれてるように思えてくる。そりゃあパチンコにのめり込みたくもなるぜ」
「何か明るい話はないのか?」
何を言ってもネガティブな流れになるので、だんだん会話をするのが嫌になってきていた。
「ねえなあ。だから俺は、いっそシナ人でも攻めて来ねえかなと思ってる。そしたら自衛隊に志願してよ、やつらを殺しまくって、俺は英雄になるぜ」
僕は当惑した、いきなり出た差別的な物言いに驚いて、ノリマサを見る。
「本気で言ってるのか?」
「へへ。驚くなよ。まあ、お前は真面目だからな。サヨク脳になってもしょうがねえ。でもな、俺は本気さ。今俺たちに必要なのは、戦争だ。戦争は、国民のアイデンティティを亢進させる最高の方法だ。戦後個人主義のせいですっかり希薄になった日本国家への帰属意識を、一気に復活させる方法はそれしかない」
「なんだよ急に。冷静になれよ」
「俺は冷静さ。ソウスケ、お前は自分を、自立した個人主義者だと思ってないか? バカを言うな、個人なんてもろいもんだぞ。自分だけで作り上げた基盤なんて、ちょっとしたことで簡単に壊れる。だからな、人間には『帰属』が必要なんだ。それを可能にするのが国家であり、ナショナリズムだ」
「それがお前の境遇を本当に救うことになるのか?」
「なるよ。というより、それしかない。俺を見てみろ、俺は孤立した根無し草だ。受け皿になる家族も共同体もない。あるのは日本国という、すべての日本人に与えられた故郷だけだ。世の中を見てみろよ、俺みたいな人間はゴマンといる。お前は恵まれてるから気づかないんだ。俺たちみたいな人間を一度に救えるのは、戦争と、ナショナリズムの高揚だけだ。俺は戦いの中で大義を与えられ、そのために生き、そのために死ぬことができる。それは、今の生活ではまったく不可能なことだ。単純労働とパチンコ依存が絶望的なことくらい俺も分かってる。だから、俺には、俺たちにはそれが必要なのさ」
ノリマサの目は爛々として輝き、妙な生気を宿していた。
「それは『俺たち』以外の価値を認めない、利己的な理念じゃないのか」
「ふん。ソウスケ、お前はちょっと頭がいいから、慢心してるんだ。追い詰められたり、救いようがなくなったりしてる人間は、お前が思ってるよりはるかに多い。だから、『俺たち全員』を救い上げる以外にない。そのために、天皇陛下が必要なんだ。全ての国民を、陛下に奉仕させる。他にも、例えば大企業が得た利益も全て陛下に捧げさせる。そして、陛下のご慈悲によって、民衆に施しを与える。天皇陛下による経世済民を行うのさ。そうすれば、俺のような人間でも、庇護と帰属と誇りによって生きていくことができる。そのためには、全ての国民の意識を、一つの意思へと統一させる必要がある。日本人は優れた民族で、それができる。韓国や朝鮮とは違うんだ。いずれ、全ての国民が気付くだろう」
普段こういう思想を面と向かって他人に語る人間を僕はあまり見たことはなく、うまく言葉を返せない。ただ、抜け道のない生活に閉じ込められた人間がよりどころにできる思想に、バランスのとれたものがどれだけあるだろうか、と僕は考えていた。
「それはそうと、ソウスケ」ひと通り話して満足したのか、ノリマサは自分から話題を変えた。「お前、金に余裕あるか?」
「金? いや、正直、余裕なんてない。翻訳なんてそんなにもらえるもんじゃないし、そもそも執筆は一銭にもなってない」
「まあそうだろうな」
「生活が苦しいのか?」
「へへ。まあ生活も苦しいんだけどよ、そうじゃなくて、ちょっと入り用なんだ」
「入り用? 何に使うんだ」
「使うっていうか、すでに使っちまったんだ」
「借金か」
「そう、保釈金が払えなくてな。いちおうちゃんとした団体に立替えしてもらえるんだが、早めに返さねえと、余分な手数料が取られちまう。ちょっとの金でも、俺には大事だ。親父も、身元引受人にはなったけど、俺のために金は出さないってきっぱり言いやがったからな」
「それで、当てはあるのか」
「正直、金のありそうな知り合いはいない。たった一人を除いては」
「たった一人」
「俺たちのよく知ってるあいつさ」
「……タカユキのことを言ってるのか?」
「そのとおり」
ずいぶん無理な話だった、ついこの間、あんな場でケンカを売るという最悪のことをしたばかりのくせに。ノリマサの顔には、余裕とも嘲笑とも取れる笑みが浮かんでいる。ノリマサは、こういうときに悪びれたり気後れしたりしない神経をしているのだ。
「どうやって頼むつもりなんだ?」
「そこで、お前にお願いがあるんだよ」
僕は薄々、ノリマサがわざわざ僕を呼んだ理由に感づいてきた。実を言えば、ここからノリマサの家まで、電車を使わず歩いて帰るのは無理な話ではなかった。
「僕に仲介をしてくれってことか」
「まあそういうことさ。ソウスケから頼んでくれれば、あいつもちょっとは話を聞くだろう。そこで俺も、昔のよしみってことで、金の無心をお願いするから」
「うまくいくと思うか?」
「俺にとっては大金でも、あいつからしたらたいした金じゃないだろ。ずいぶん儲かってるみたいだし」
そういう問題じゃないと思った。ノリマサは少しずれている。正直、断ろうかと考えていたが、僕はふと、タカユキがノリマサとの対話を試みていたことを思い出した。
「どうなるか分からない。けど、話はしてみるよ」
僕は僕自身の判断をしなかった。タカユキが断れば、それでいい話なのだと思った。
「悪いな」
ノリマサはにやついていた。たぶん、本心では申し訳なさなど感じてはいないだろう、と僕は思う。
ちょうどそのとき、僕らが待っていた電車がホームへ入ってくる。会話が途切れたことに安堵を感じながら、僕は車両の中の乗客たちの顔を見つめていた、彼らの誰もが、どこかしら不機嫌な顔をしている。
僕らが何者でもなくなるように その6へつづく__
僕らが何者でもなくなるように その4
あれこれ話してからどうにか最終的にはノリマサを帰らせた後、いちおう会場に戻った僕を、タカユキは一人で待っていた。
「待っててくれたのか?」
タカユキがうなずく。
「すまなかったな、世話かけて」
「まあ、あの状況でノリマサをどうにかできるのは、僕以外にはいなかっただろうし」
「そうだろうな」
少し寂しそうな笑みを浮かべて、もう一度タカユキがうなずく。パーティーはすでに終わり、部屋のテーブルや飲み物たちが、片付けを待っていた。
「僕も帰ったほうがいいかな」
「……送ってくよ」
タカユキは自ら運転する高級車の助手席に僕を案内し、そのまま会場を後にする。僕が知っているような車より格段に快適な乗り心地で、今と昔のタカユキの生活の違いが、こういうものの一つ一つに表れているのだと感じた。
「もう少し、違う感じになることを期待してたんだけどな」
ぽつりと、タカユキがため息のように言葉を漏らした。
「ノリマサも、だいぶ状態が良くないっていう噂を聞いてたけど、あんなひどい振る舞いをするなんてな」
僕はそう答えたが、タカユキの言った「期待」という言葉がひっかかっていた。ノリマサの近況から言っても、そもそもタカユキとノリマサの関係から言っても、ろくな結果にならないのは目に見えていたはずだった。
「まあいいよ。俺があいつを呼んだのが間違いだったのは明らかだ」
「仲直りでもしようって考えてたのか?」
「もう十年以上前のことだ、今さら仲直りもなにもない。今となってはどうでもいいことだし」
「じゃあいったい? 単に「みんな呼ぶならあいつも」っていう体裁だけで呼んだのか?」
「……なんていうかな、今なら、もう少し大人として話せるんじゃないかって思ったんだ」
タカユキは軽く唇を舐めてそう言った、その言葉の真実らしさを僕は推し量ろうとしたが、タカユキはそれをかわすように横の窓に視線を向けた。
「残念だけど、あいつはなにか、昔のまま成長してないふうだったな」
「というよりも、余裕がない。自分の思い込みや感情が直接行動に出てる感じだった。見下されてると思えばそう思い込むし、腹が立てばただ単に怒る。自分の考えや感情を距離感を持って見る、精神的な余裕がない。だから、昔の出来事に対して、距離感を保てない、昔のまま変わってないように見える。あれじゃあ大人としての話しはできないな」
「うわさでは、人生が上手くいってないみたいだけどな、ノリマサは」
「そんなにひどいのか?」
「さあ、僕もうわさで聞いただけだから」
「思い通りにならないことが多いほど、世の中への呪詛は強くなるのが常だからな」
「特にあいつみたいに、昔はいろいろと上手くいってた人間ほどそうかもしれないな。昔が上手くいってた分、昔のプライドの中で生きようとしてしまう」
「まあ……」言いかけて、タカユキは一瞬ためらう。少し息を吐いて、もう一度口を開く。「俺もある程度いろんな人間を見てきたけど、金のなさは、人をみじめにさせるところがある、人をおかしくさせるところがある。それを体験したことのない人が、そう思っている以上にな」
ノリマサは、僕らが一緒だった中学時代、まさにみんなの中心的存在だった。スポーツ万能で、常に周囲のリーダー格として振る舞い、とにかく目立っていた。どこか粗暴な雰囲気も備えた彼は、半ば同級生たちを恐れさせ、服従させるような力を手にしていた。もし僕らのクラスが、ある日突然無人島に隔離されたなら、ノリマサは独裁者として振舞うことができただろう。だが、そこで大きく育った尊大な自己イメージのせいだろうか、ノリマサは高校を出てから、仕事が長続きせず、職場を転々とし、今や金に困るぎりぎりの生活をしているらしかった。
「ノリマサの生活がとことんみじめだとしたら……」
「確かに、あいつを呼んだのは思ってた以上に大失敗かもしれない」
僕はふと、ノリマサはなぜ姿を現したのだろうかと思う。そんなみじめな状態なら、かつての同級生に会おうなんて思うだろうか。あるいは、みじめだからこそ、僕らに会おうとしたのだろうか。
「まあいい。この話はやめよう」
タカユキがため息をついて言った。
「タカユキはうまくいってるか?」
話題を切り替えようと、僕はわざとそういう聞き方をした、仕事だけでなく、生活全部をひっくるめて、という意味を込めて。
「おかげさまで、仕事は好調だよ。企業からのアプリ制作の受注も、途切れることなく入ってきてる」
「仕事以外は?」
「不自由はないよ。衣食住にも、女にも困らない」
「充実してるわけだ」
「充実というのはどうかな。派手な金遣いや女遊びっていうのは、やればやるほどむなしくなるというか、自分が乾いていくような感じがある」
「飽きたのか?」
「派手な遊びには最初から興味がない。女遊びもやってるうちに馬鹿げたゲームに思えてくる。金遣いや女の数を承認の道具にする連中はずっとそういうことができるのかもしれないが、俺はそうじゃないみたいだ」
「じゃあ今は仕事にやりがいを見いだしてる感じか」
「やりがい? 俺は仕事に自己実現なんて求めちゃいないよ」
「じゃあいったい?」
そういえばそもそもどうしてタカユキが会社なんてやりだしたのか、僕は知らなかった。彼は別に、そういう野心を持った子供ではなかったのに。
「まあ、金が欲しいんだ」
「金? どうして。そんなに金に執着するやつだったっけ?」
タカユキの言葉は僕にとって意外なものだった。僕の知っているタカユキは、俗な考えから距離を置くようなタイプの人間だったからだ。
「俺の根本は昔と変わってないよ。さっきも言ったように、金持ちになって他人から崇められたいわけじゃない」
「じゃあどうして」
「俺は昔から、不公平だとか不平等が嫌いだった、それは知ってるだろう」
「ああ」
そういう点は、特にタカユキが世間の人間と違っているところだった。彼は一般的な差別とかだけでなく、年齢による上下関係さえも嫌う珍しい人間だった。「全ての人が個人として対等に認められなければならない」という徹底した平等主義者なのだ。それが、ノリマサも含めた周囲とのトラブルを引き起こす要因にもなったのだが。
「だから金が欲しいのさ。金は唯一、人を平等にすることができる。巨大企業の白人の社長が使おうが、貧しい黒人の少女が使おうが、同じ額面の金は金として平等に機能する。なぜなら金はこれほど身近にありながら、同時に超越的な存在でもあるからだ。共同体と共同体の間をかくも自由に行き来する。俺たちの手の中にありながら、途方もない外部をそこに秘めている。ソウスケ、平等を実現するには、何が必要か分かるか?」
「どうかな……例えば不断の理想主義とか? ルーサー・キングみたいな」
「それは、あくまで理想だ。俺が言っているのは、装置としての何かだ。いいか、平等を実現するには、超越者の存在が必要なんだ。『神のもとに平等』という言葉が表すようにな。超越者の存在なしに、平等は人々の観念とならない。超越者の視点を媒介して初めて、人はあらゆる階層に隔てられたものをフラットに並べて見ることができる。けれど俺たちはそういう意味での神を持たない。日本の神々は、閉じた共同体の内部の神だから、人を平等にしない。じゃあ、いったい何が俺たちの神になりうるか?」
「それが、金だって言いたいのか?」
「そのとおりだ。金は神だ。途方もない外部としてのな。現代に生きる俺たちは、『金のもとに平等』になり得るのさ。近現代を通して、どうしてこんなに男女や人種や異性同性愛なんかの差別が是正されてきたのかといえば、資本主義が徹底して、人々の意識の奥底まで根を張ったからじゃないかという気すらするよ。明治の日本で四民平等が実現したのも、元は資本主義への適応のためだったし、そう思わないか?」
「たとえそうだとしても、金は結局、新たな格差や不平等を作り出しているだけのように見えるんだけど」
「それは金というより、経済の分配システムの問題だ」
「金というものの性質の中にこそ、分配システムの欠陥を生み出す要因があるようにも思えるけど。そもそも、タカユキが金を貯めることが、その分配システムの問題を解決することになるのか?」
「ならないよ。俺にできるのは、自分を救うことだけだ。俺は、俺を捕らえようとする不公平や不平等から救われたいだけだ。人は他人を救うことはできない。可能なのは、自分を救うことだけだ」
「なんだか宗教家みたいな言い方だな」
「そうさ。俺は『拝金主義者』なんだ」
半ば冗談で半ば本気なタカユキの言い方に、僕はあいまいな笑いで答える。僕らが会わなかったこの十年くらいの間に、タカユキはあれこれ考えてきたのだ。その特異な思想は、彼が抱えてきた困難に、彼なりに折り合いをつけようとした結果なのだと思う。あのとき以降、タカユキは、僕らからどこか遠く離れたところへ行こうとしているように見えていた。
「タカユキ」
僕はひとつ、質問したいと思っていたことを思い出した。
「なんだよ」
「タカユキが僕らに会おうと思ったのは、懐かしさのせいではないだろう?」
彼の思想と、今彼がやっていることと、そして僕らに再会することは、矛盾していた。タカユキの平穏な場所は、過去にそれをかき乱したノリマサやアヤカから切り離されたところにあるはずだ。だからそこに懐かしさなんかあるはずがない。
タカユキは言葉につまる。そこで初めて、自分がその問いに対するはっきりとした答えを持っていないと気づいたかのように、視線はずっと宙を見つめていた。
「そうだな……確かにそれは懐かしさじゃない。俺はただ単に、そこに何か決定的な忘れ物を置いてきた気がする。とでも、言えばいいんだろうか」
独り言のように、タカユキが言った。もうすぐ、僕の家が近づいていた。その会話は、行きつくべき十分なところまで、続けられそうになかった。
「頼みごとがあるんだ」
別れ際、ぽつりと、タカユキが切り出した。ハンドルを握る手の指が、やや落ち着きなく動いている。
「なんだよ、改まって」
「アヤカと、連絡を取ってくれないか」
「アヤカと?」
「ああ。アヤカと、話す機会を作って欲しいんだ」
思ってもないような頼みだったが、別に断る理由はなかった。けれども、なんで今さら、タカユキはアヤカと話をしたいのだろうか、と僕は思う。かつて、タカユキはアヤカに想いを寄せていた。ノリマサのせいでそれが叶うことはなかったけれども、アヤカもその想いは知っているはずだった。タカユキが直接連絡を取れば、変に警戒されてしまうかもしれない。かといって、タカユキも今このタイミングでアヤカをどうこうしたいなんてまさか思っていないだろう。ともあれ、僕はその頼みを引き受けることにする。僕にとってもその過去は、消化不良のまま残り続けている。タカユキと、ノリマサと、アヤカの間で、もう一度それを揺り動かすとすれば、いったい何が起きるのだろうか。
僕らが何者でもなくなるように その5へつづく__
僕らが何者でもなくなるように その3
「ソウスケ!」
パーティー会場に現れた僕を、タカユキは目ざとくも一瞬で見つけて名前を呼び、肩を抱いてきた。
「久しぶり」
そう返した僕のあいさつは、どこかぎこちない。タカユキに会うのが久しぶりすぎて、なんだか初対面の相手に人見知りするような感じになってしまう。パーティーの雰囲気に対する気後れもあった、カジュアルな服装の人々が飲み物片手に談笑しているくらいで、だいぶ砕けた感じだったが、それでも、こういうのに僕は馴染まない性質だ。対して、タカユキは堂々とかつ自然に振舞っている。昔のタカユキだって別にこういうのが好きなタイプではなかったはずだが、会社をやりながら場数を踏んだのだろうと想像する。
「何だ、陰気な感じだな。アメリカのパーティーアニマルですら、見るだけでうつ病になりそうな顔してるぞ」
「そこまでひどい顔してないだろ、さすがに」
それを聞いて、タカユキは大きな声で笑った。冗談のセンスは昔と変わらない感じだった、けれども、笑い方は昔とは違った。タカユキは昔より体格も声も大きくなっていた、たぶん彼の仕事がそうさせたのだろう。僕はそう思いながら、改めてタカユキを見る。むろん、タカユキはタカユキだった、そういった変化を除けば、昔と同じ親友がそこにいる。
「どうだ。楽しめそうか?」
タカユキはパーティー会場を片手を挙げて指し示す。会場は、タカユキの会社の新しい支社オフィスの向かいにある、レストランを貸し切ったものだった。
「いや……どうかな」
僕はちらりとタカユキが示したほうを見る。当たり前だがタカユキのビジネス関係者がメインのようで、快活そうな人々がなにやら僕にはあまり分からない業界のことを喋っている。
「そうだろ」
ははは、と声を出してタカユキは笑った。続けて聞くと、僕はその笑い方に違和感をおぼえた、そして、正直あまり好きではないと思った。昔のそれと違う笑い方は、もしかしたらタカユキが昔と違う人間になろうと無理した代償なのではないかという気がしたのだ。別に暗いやつではなかったが、こんなふうに人前にしゃしゃり出たり、集団や組織の先頭に立つような性質ではなかった。
「そうだろって。お前が呼んだんじゃないか」
「まあまあちょっと待てよ。アヤカとかノリマサとかも呼んであるんだ。そのうち来るだろう」
「ノリマサも?」
「ああ」
そう答えたタカユキの態度は平然としたものだった、平然としすぎていた、つまり、何かをごまかしていた。アヤカを呼ぶのは自然な話だったが、ノリマサに、いまさらタカユキが会いたいとも思えない。それに、ノリマサとアヤカが会えば、そこに何らかの気まずさが漂うはずだ。それなのに、タカユキはあえてノリマサを呼んでしまった。
「来るのか? ノリマサは」
「……まあ、来ないかな」タカユキの態度は、結果には頓着していないといった調子だった。「けど、呼ばないのもどうかなって話だろ」
「そりゃそうも言えるだろうけど……」
僕は、それ以上追求しないことにした。どのみち、タカユキの真意は分かりそうにない。
「どうだ、最近は。相変わらず金にならなそうなことをやってるのか?」
タカユキは、僕が小説を書いたりしていることについて尋ねていた。僕は英語が得意なので翻訳の仕事などで生活費を稼ぎながら、出版するあてもない小説を書き続けている。
「金が目的ならもっと別のことをやってるよ」
「そんなら何が欲しくてやってるんだ」
「そりゃあ……」
言葉に詰まる。何が目的かということが、僕の場合はっきりとはしていなかった。地位にしろ名誉にしろ金にしろ、ちゃんと何かを欲しいと思っている方が結果は出やすいのだろうが、僕の動機はその点不明確だった。初めは、自分は会社などから与えられる仕事にやる気を見出せる人間ではなくて、創作的なことにしか情熱を持てまい、という気持ちでやりだしたことだったが、今では何かもう、意地でやっているような気もする。
「まあ何でもいいや。意志を持って何かやろうというだけで立派だよ。そういう人間が希少な時代だからな」
何も言えなくなった僕にタカユキは助け舟を出す。僕はどう答えても居心地悪いように感じて、とっさに話題をすり替える。
「立派といえばタカユキのほうじゃないか。東京に行って十年、いつのまにか会社を起ち上げたと思ったら、今やこんなに成功してる」
「まあな」
「だいぶ世の中に貢献してるよ」
タカユキはあまり、というか全く、誇らしげな様子を見せず、ただ生返事だけをする。いささか妙なリアクションだった、褒められるのが嫌というより、後ろめたいことを探られているかのように、タカユキは視線をそらして首をかしげた。
「世の中に貢献? どうかな。俺は流行りの経営者みたいに会社を大きくすることが”日本を元気にする”ことにつながると主張するみたいな趣味はなくて、その点、極めて個人的な目的でやってる」
「個人的?」
タカユキはさっきまでの快活な調子ではなく、ずいぶん冷めた調子で話していた。それを見て、他のビジネス関係者と話していた時や、僕に最初に応対していたときのタカユキには、いくらか作った部分があるのだと僕は確信する。
「まあ、なんていうかな……」
その時、僕とタカユキは同時に、こちらへ近づいてくる一組の男女の姿に気付いた。
「元気してた?」
そう言って、女性のほう、アヤカは僕の肩をぽんとたたく。その様子を、タカユキは少し目を細めて見ていた。
「まあ、相変わらずさ」
「だよね。そういう顔してた」
そう言ってアヤカは微笑んだ。その自然なやりとりの感じに、僕は安堵する、タカユキと違って、アヤカは昔と何も変わっていないようだった。
「タカユキも、元気?」
アヤカはタカユキに手を振る、その仕草も、昔のままだった。
「ああ」
タカユキは笑顔を作って答える。ただ、そこには僕に応対したときとは違うぎこちなさがあった、それはタカユキだけじゃなくて、むしろアヤカとタカユキ、その二人の間にあるぎこちなさだった。
「えっと、二人に紹介しとかないとねーー」
そう言いながら、アヤカは後ろを振り返った。僕とタカユキの視線は、おのずとそこにいた男性のほうへと向く。
「これ、私の夫」
アヤカの紹介を受けて、その白人男性は「はじめまして」と言って、僕らに微笑みかける。体格は良く、華奢なアヤカと並ぶとなおのこと大きく見える。人懐こい笑顔だったが、その目には思慮深い雰囲気が漂っていた。
「ブライアンと申します。よろしく」
少々うやうやしい感じだが、その言い方から、かなり日本語が流暢なのが窺えた。ブライアンはこちらに手を差し出し、僕らはその求めに応じて握手をする。タカユキは、ブライアンを観察するように、二度ないし三度くらい、その顔をちらちらと見ていた。アヤカは大学で留学したり日本でも外国人の友達を作ったり、活発に動きながら英語を熱心にやっていたようだが、今はアメリカ人男性と結婚して生活している。
「うわさには聞いてたけど、ーー結婚したんだね」
一瞬、「外国人と」という言葉を付け足しそうになって、僕はそれを飲み込んだ。ブライアンのいる前でそれを言うのは、失礼にあたる気がした。
「結婚なんかできない女だって思ってた?」
「そうだね」
「正直じゃない」
アヤカは口を開けて笑う。
「いや、もちろん冗談だけど」
「だけど?」
「まあ、自分の考えとかをはっきり言うタイプだから」
もう一度アヤカは声を出して笑った。
「そうね。なかなかそれを受け止められる男はいないよね。それができるのはこのブライアンくらい」
言いながら、アヤカはブライアンの腕をなでる。どこか誇らしげで見せびらかすかのような態度は、外国人と結婚した日本人女性の典型のように見え、僕はそのことに違和感をおぼえた。アヤカは基本、自分らしさをはっきり持っていて、何かの威を借るようなタイプではないはずだった。けれども、何か自分を、実際とは違う、または実際以上の人間に見せようとする、そういう違和感がそこにはあった。
「そのおかげで、アヤカといると退屈しないよ」
ブライアンは柔和な笑顔でそれに応じ、アヤカをそっと抱くように肩に手を置く。
「幸せそうじゃないか」
タカユキが二人の間に割って入るようなタイミングで声をかける。表情は優しげだが、その言い方には相手を突き放すような響きがあった。
「タカユキだって、私なんかよりずっと見事にやってるじゃない」
微妙な冷笑の雰囲気を感じ取ったのだろう、アヤカはタカユキの言葉に正面から応じるよりも、相手の話題にすり替えることを選んだ。
「そう見えるか?」
「そりゃあ……そう見えない方が不自然だけど」
「表面的にはな。実際にはいいことばかりじゃない。華やかな部分以外はだいたいみんな隠そうとするし、あえてそうしなくても隠れてるもんだ。不思議なもので、華やかな部分は人々の意識の表にあらわれ、そうでない部分は意識の底に沈む。意図せずとも、自然とそうなってしまうのさ」
タカユキは視線をそらし、会場を埋めるパーティーの参加者達を眺める。その冷淡な表情は、意識の底の何かの存在を覆い、同時にそれ以上その話題を続けることを拒んでいた。
「まあ、何はともあれ、順調そうでよかった」
「ああ」
そっけない返事だった。タカユキは、自らの成功と躍進を祝うイベントを開催していながら、直接その話題に触れることを嫌がっているようだった。それなら、なぜ、僕やアヤカを呼んだのか、タカユキは、それについて語って欲しいのではなく、ただその成功を見て欲しいだけだったのだろうか。それは、決してわかりやすい感覚ではない。
「何よ。ずいぶん陰気じゃない」
その態度に苛立ったのか、アヤカが急にストレートな物言いをする。それを聞いたタカユキは、一瞬はっとしとたようになり、急にそれまでとはうって変わって、鷹揚な笑いをもらした。余裕のある表情に戻り、その顔をアヤカに向ける。
「いや、悪かったな。普段から、他人にはあまり順風満帆みたいな顔をしないようにしてる。無用な嫉妬を招きやすいんだ、こういう仕事をやってるとな。まあ、一種の癖みたいになってる」
「別に嫉妬なんかしないよ。昔の友達の成功くらい、素直に喜べるって」
「ついついそうなるんだ。そういう意味じゃない、つまり悪気はない」
タカユキはずっと同じ表情で微笑みかけ、アヤカは腑に落ちない感じを見せつつも、その言葉にうなずきを返した。タカユキの態度には、どこかうさんくさい感じがあった。少なくとも、さっきのネガティヴな物言いのときのほうが、嘘がないように見える。
「タカユキ」
「ん?」
「ちょっと、昔とは変わっちゃったね」
タカユキが、一瞬、言葉に詰まっているのが僕にはわかった。目を細めて、アヤカを見つめる。アヤカには、何気ない物言いの中で、鋭く本質を突くような、独特の才覚があった。その一言は、彼女の感情のトーンや抑揚によって、特別な重みを帯びていた。タカユキは、平静を装う表情の裏で、かすかに動揺していた。何か自分が昔とは違うことを、いくらかは感じてはいたのだろう。でも、具体的に、何が、どう違うのだろう? それを、アヤカの直感も、僕の思考も、タカユキの自覚も、とらえきれていなかったのではないだろうか、と僕は思う。タカユキは言葉を探していた、その姿は、ひどく孤独なものに見える。
「俺はーー」
ようやく、タカユキの唇が動き、言葉を発しようとする。けれどもその瞬間、僕ら全員の耳に聞こえてきたのは、会場の入り口で、ガラスのコップが床に落ちて砕け散る音だった。
会場の話し声がいっせいに止み、全員が物陰から様子をうかがう小動物のように、視線を音が聞こえたほうに向ける。そこには、一人の男が立っていた。鼻梁の通った作りの良い顔だが、やや頰がこけすぎている。顔は紅潮して、目はかすかに充血している。男は、たぶん酔っている、会場の多くの人が、彼の顔からそれを読み取った。
「ーーノリマサ?」
声を発したのは、僕だけだった。アヤカもタカユキもそれがノリマサであると気づいていたはずだった、それなのに、何も言おうとはしない。いや、僕にはもちろん分かっている、二人とも、強い驚きのせいで、身がすくんでしまっていたのだ。よもや、僕はこの三人の再会が実現することがあろうなどとは思っていなかった。タカユキはどうせ来ないだろうと思ってノリマサを招待したのだろうし、アヤカも、彼が来ると思っていたら、ここへ出席していたかどうか怪しい。ノリマサは、名目上の招待客であり、実質上の招かれざる客だったのだ。
「おっと。すまんすまん」
悪びれもせず、シニカルな笑いを唇に浮かべながら、ノリマサはすぐ隣にいた参加者にぶしつけな態度でわびる。自分が落としたコップの破片を片付けようとするそぶりすら見せない。一目見ただけで、様子がおかしいのが分かった。
「タカユキ!」
遠くからタカユキを見つけたノリマサが、品の悪い大きな声で呼ぶ。
「……完全に失敗だったみたいだな、あいつを呼んだのは」
嫌な空気を感じ取ったタカユキがぼそりとつぶやいて舌打ちし、足早にノリマサへと近づいていく。だが、タカユキがノリマサの正面に来た瞬間、ノリマサはいきなりタカユキの胸ぐらをつかみ、血走った目でにらみつけた。全くおかしなノリマサの行動にやばさを感じた僕は、急いでタカユキの後を追う。ここ何年かのノリマサの素行について悪い噂だけは聞いていたが、どうも想像していたよりひどい状態のようだった。
「冗談だよ、冗談。びびんなよ」
突然ノリマサは笑い出し、タカユキの胸ぐらから手を離す。異様なノリマサの行動に緊迫した会場の中で、その笑い声が気味の悪いくらいによく響く。
「どうした。いったいどういうつもりだ?」
落ち着いたトーンだったが、タカユキは苛立ちを隠そうとはしていなかった。
「どういうつもり? いやいや、てっきり社長様が俺みたいな落ちぶれ者を呼びつけて、見下してらっしゃるのかと思ってよお」
ノリマサは卑屈な笑いをもらして、へりくだるように頭を下げて上目遣いでタカユキを見上げる。
「別にそんなつもりはない」
「へえ! そうじゃなけりゃ、純粋に俺を招待してくれたってのか? 昔の同級生だから? 俺に会いたいから? おいおい、とんだ嘘つきだな。本当は見せつけたかったんだろ? 今のお前の成功を、見せつけて、憎い憎いこの俺をはいつくばらせたかったんだろ?」
「落ち着けよ。酔ってるのか?」
「確かに酔ってる。ここに来る前にしこたま飲んできたからな。けど、俺は落ち着いてるよ。俺は自分が何を言ってるのか分かってる。なあタカユキ、お前、俺に復讐に来たんだろ? じゃなきゃ、今さら帰ってこないだろうしな。でもな、そんな必要はないんだ。俺はとっくに、底辺の人間だ! これ以上みじめにはなりっこない」
この場にいる全員が、唖然としてノリマサを見ていた。いきなり現れて、聞く耳を持たず、個人的なことを大きな声で一方的にまくしたてる姿に、僕ですらどうしていいのか分からず困惑してしまっている。
「少し静かにしてくれ。ノリマサ、俺は別に復讐とか、そんなこと考えてない」
「考えてない? おいおい、じゃあ、お前は、俺をお友達だと思ってここへ呼んだのか?」
タカユキは、じっと、ノリマサを見ていた。何も言葉を発しない。タカユキは、答えを探しているよいうよりも、答えを回避しようとしているように見えた。そのタカユキに、ノリマサが笑い声をあびせる。
「やっぱり図星じゃねえか」
皮肉たっぷりのいやらしい言い方だった、タカユキを追い詰めてやろうという意図が、はっきりと表れていた。このままだと不毛なやりとりが続くだけだった、だから、僕はいちかばちかで、タカユキとノリマサの間に割って入ろうと前に出る。
「ノリマサ」
間合いを測るような意図で、僕はノリマサの名前を呼んだ。
「おう、ソウスケじゃねえか。相変わらず勉強ばっかしてんのか?」
酒臭い息を吐きながら、ノリマサが言う。中学時代にやたら成績の良かった僕を、ノリマサはからかっていた。
「ずいぶんな勢いじゃないか。まるで、この場にいる全員が敵みたいな態度だな」
ノリマサの言葉から、多少は余裕のありそうな気配を感じ取った僕は、冗談めかして言ってみる。
「そりゃそうさ。だってこの連中は、どうせタカユキの取り巻きみたいなもんだろ」
「タカユキの仲間だからって、お前の敵ってわけじゃない。少なくとも僕は、ノリマサの仲間でもある」
「ははは! お前も俺のせいでひどい目に遭ったってのに? お前はヒトがいいから、バランスを取ろうとするんだな。疲れる生き方だろう」
「僕は僕でしかないから、他の生き方は知らない」
僕はおどけたように肩をすくめる。ノリマサの表情はいくらか崩れ始めていた。少なくとも、さっきまでタカユキを攻撃していたときとは違う顔をしている。
僕はその後もノリマサと会話を続け、どうにか彼を外へ連れ出すことにした。会場から出るとき、僕は一瞬アヤカのほうを見る、アヤカはブライアンの陰に隠れるように立って、こちらを遠慮がちにのぞいていた。きっと、ノリマサに見つかりたくはなかったのだろう、それを察した僕は、そっとノリマサからの視線を遮るような位置を歩いて、ノリマサを外へ誘導していった。
せっかくの同窓会だったけれども、完全に興が冷めてしまった。何もかもが消化不良で、何もかもが混乱してしまっていた。そこには、そのままにしておけない何かがあるように思えた、僕らそれぞれの間に、それぞれの中に。そして、この再会は、決してこれで終わることはなかった、僕らの関わりはもっと複雑に絡み合い、僕ら全員を、後戻りできない場所まで、押し流してしまうことになったのだ。
僕らが何者でもなくなるように その4へつづく__