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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

『君を想う、死神降る荒野で』 その10

 

 ――かえり、父さん。

 ハルミは幼かったころも、研究所の個室に帰ってきたクロガネをその言葉で出迎えていた。個室には幼い子供が暇をつぶせるようなものはなく、研究に関する書籍があるくらいだったが、ハルミはそういったものに強い興味を示し、クロガネがいない時間の大半を使って読みあさっているようだった。まだ幼かったせいでその理解は完璧ではなかったが、時々、難解な理論について自分の考えを述べてみせることがあり、クロガネを驚かせていた。

 「父さん、今日ね、面白い人に会ったんだ」

 「面白い人?」

 「ナルセさん」

 「……ナルセ」

 まだ研究所で働き始めたばかりのころだった。ナルセという男のことは知っていたが、何度か顔を合わせたことがあるだけで、まだちゃんと話をしたことはなかった。ナルセは、選りすぐりのエリートたちが集まる国立研究所の中ではかなり異質な存在だった。例えば、クロガネとキドは東京大学を卒業した後、修士課程をヨーロッパの大学院で、そして博士課程を特別待遇付きの国内機関で修了という経歴を持っていたが、ナルセはそうではない。貧しい家庭に育ったナルセは、華々しい経歴や待遇とも無縁のまま、どこかの地方都市にある大学で地道に研究を続け、そして突然湧き出たようにその成果を評価され、この研究所にやって来た男だった。そういうこともあって、あまりナルセに積極的に話しかける人間もいない。中にはエリートコースを歩んでこなかったナルセを蔑視するような者もいたが、それ以上に、多くの純粋培養型の研究者たちにとっては不気味で近寄り難い存在だったのだ。

 「ナルセさん、すごく優しいよ。それに、すごく頭がいい」

 「遊んでもらったのか?」

 「うん」

 いつになく嬉しそうな様子の息子を見ながら、クロガネは頷きを返してやっていた。まだ幼いが今までいろんな科学者に会った経験のあるハルミが言うのなら、おそらくナルセは本当に頭がいいのだろう。ちょうど良い機会かもしれない、とクロガネは考える。以前から興味はあったが、きっかけがつかめなかった、明日にでも、ナルセに話しかけてみようと思いながら、ハルミの話を聞いていた。

 

 「ナルセというのは君かい?」

 翌日、ナルセの研究室を訪れたクロガネは、目の前にいた同い年くらいの青年に尋ねてみた。突然の訪問だったが、ナルセは独特の人懐っこい笑みを浮かべてうなずく。

 「そうだけど。君は?」

 「失礼。クロガネというんだが、昨日、私の息子がお世話になったみたいで」

 「ああ、ハルミくんの」

 エリートコースに突然這い上がってきたというからどんな男かと思ったが、全くガツガツした雰囲気はなく、柔和で紳士的で、成り上がりの研究者というより小さなカフェの店主のような感じがする。

 「まあ、座ってくれよ。たいしたもてなしはできないけど」

 クロガネにイスを勧めると、ナルセは奥にあったコーヒーメーカーで淹れたコーヒーを、目の前のテーブルに、柔らかで丁寧な動作で置いてくれた。クロガネは、まるで本当にカフェにでも来たかのように錯覚しそうにすらなる。インテリアも素朴だがセンスのいい感じでそろえられており、妙に心地良くリラックスした気分になれた。

 「何か、僕がハルミくんに悪いことをしてしまったのかな」

 クロガネの目の前に腰掛け、自分のコーヒーをすすりながら、ナルセは半ば冗談交じりに尋ねてきた。その顔には、ずっと独特の人懐っこい笑みが浮かんでいる。両腕を広げて人を迎え入れるような雰囲気を備えているが、しかし同時に、その心の奥底までには他人を立ち入らせないような、世間から隔絶した孤城のような部分も持っていた。確かに、この男は天才肌なのだろうとクロガネは思う。研究者ではあるが、身にまとう雰囲気はむしろ詩人や芸術家のそれに近い。

 「いや、そうじゃない。ハルミは君に遊んでもらえてとても喜んでいたよ。今日は、お礼がてらここに寄せさせてもらったのさ。それに、前から君とは一度話してみたいと思っていたし」

 「僕と?」

 「そうさ。君は、何というか、その、他とはずいぶん違った経歴を持っているようだしね」

 それを聞いて、ナルセは小さく笑った。

 「何とも地味な経歴だけどね。別に地方の大学院からこの研究所に来たからといって、特別なことは何もない。君たちのようなエリートコースを歩んできた人のほうが、語るに値することを持っていると思うよ」

 「どうだろうな、鼻持ちならないヤツが多いんで、私としては食傷気味なんだが」

 「まあ、プライドが高いっていうのは良いことさ。人には嫌われても、そういう連中はけっこう努力家が多かったりするしね」

 「あるいは、努力家というのは性根の部分ではプライドの高い連中でもある」

 「はは。僕もそうかな。あまり表には出さないようにしてるけど、努力だけでここまで来たような所はあるよ、才能なんかこれっぽっちもない」

 「私も似たようなものだよ。人さまよりは恵まれた環境でやって来たが、自分に大した才能があったとは思わない」

 「意外だね、僕が大学院にいるときから、僕の研究分野で君の名前はけっこう知られてたけど」

 「環境が整っていた分、人より努力する余裕があったというだけのことさ。そのおかげで芽を出すのが早かったが、君のような人間は、時間をかけてでも追いついてくる」

 「光栄だね。僕は君に追いついたなんて思ってもいないけど」

 ナルセはまたひと口、コーヒーをすすった。その顔には、絶えず笑みが浮かんだままでいる。

 「ずいぶん謙遜するな、お互い」

 「その謙遜ってやつは、結局プライドの高さの裏返しさ」

 ナルセの言葉に、クロガネは笑いを漏らした。クロガネはすでに、ナルセを気に入っていた、思っていたよりもずっと親しみやすく、ハルミの言ったとおり頭も良さそうだった。能力が高いのに嫌味なところがないというのは、この研究所では珍しい。キドのようなヤツとは正反対だと思いながら、クロガネはナルセのしぐさなどを観察していた。

 「それで、君の研究テーマは何だい? 私の研究と近いことをやっているようだが」

 一番聞きたいと思っていた話題について、クロガネはそれとなく切りだしてみる。通常ではありえない出世をしてきた男が、いったいどういう研究をしているのか、非常に興味をそそられていた。それを聞いて、ナルセは少しだけ真面目な顔をした、そしてまたすぐに、あの笑みが浮かんでもとの表情に戻る。

 「僕の研究テーマか。何ていうのかな、ひとことで言うなら、人間の感情と、それと結びついた欲望の持つ、途方も無い動力源としての可能性について、なのかな」

 「人間の感情や欲望を物理的エネルギーに変換するエンジンの開発ということか?」

 「どうかな、まだそこまでいけるのか分からない。でも、人間の欲望というのは、明らかに過剰だろ? それが肥大し続ける限り、単に生存するだけなら全く必要ないものを、人間は際限なく求めてしまうんだ。ときには自分を破滅させてしまうほど、強烈な力で人間を行動に駆り立てる。欲望は人間の生を過剰にすると同時に、死も過剰にするのさ。こんな不条理な力が、どれだけ途方も無い潜在能力を秘めてるか、想像に難くない」

 「実際には、どこまで研究が進んでるんだ?」

 「今は、その力をどうにか制御可能にすることを考えてる。欲望の流れというのは、一定方向というより縦横無尽で、捉えどころがないんだ。これを上手いこと流れに乗せることができれば、あるいは何らかの形で実用化できるかもしれない」

 「氾濫する川の流れをどうやって制御するかということになると、あふれた水が流れこむような、落差のある箇所があればいいというわけだな」

 「そういうことだね。実は、精神医学研究をやってるキドという男と話したんだけど」

 「キドと?」

 「変わった男だね。正気なのか狂気なのかよく分からないよ」

 「確かに」

 「それはそれとしてだ、キドが言ってたのは、欲望の流れを制御するには欠落を利用すると良いってことさ。何かが欠落しているという感覚が生まれたとき、そこへ向かって欲望が流れこみ、それが欲望として意識されるようになる。上手く欲望を導いてやれば、利用しやすいようにできる可能性がある」

 「なるほど。それじゃあ、そういう方向で研究を進める予定なのか」

 「分からない。僕自身、キドの考え方をそのまま採用するかどうかは未定だよ。モラルに違反するような気もするんだ、人間の欲望を制御してしまうというのはね。そしてもう一つ、キドが言ってたことがあるんだけど……」

 そこで、ナルセの顔から笑みが消える。今度はさっきまでとは違って、もとに戻ることはなかった、ずっと、厳しい表情のままで、手に持ったカップの中のコーヒーのゆらぎを見つめている。その深い黒の中に、魅入られて、そのまま吸い込まれてしまいそうな雰囲気すらある、何か恐ろしいものと対峙しているかのような緊張感で、ナルセは考え事をしていた。

 「どうかしたか?」

 「いや、すまない」

 ナルセは我に返り、話を続ける。

 「キドは、欲望を制御するための最高の手段は、単なる欠落以上のものを利用することだと言うんだ」

 「欠落以上のもの?」

 「そう、欠落の中の欠落、あるいは、根拠のない、無限の欠落」

 「どういうことだ」

 「虚無――キドはそう言ってたね。人間には、理屈ではどうしても完全に説明できない虚無が存在していると。欠落は説明できるけど、虚無は説明できない。欠落は意識の中に浮かび上がるけど、虚無はまるで無意識に突き刺さっているかのように、人間の心の底知れないほど深い奥底の部分に沈んでいると」

 ナルセは相変わらず厳しい表情のまま黙っている。一方のクロガネは、その虚無という言葉に妙に惹かれるものを感じていた。そして、ナルセの研究にも。自分の研究している、人間の頭に浮かぶイメージを具体的な像に変換する装置と組み合わせれば、これ以上なく面白いものができるかもしれない。モラルよりも、科学者としての探究心がついつい先行してしまっていた。

 「もし、その虚無を利用出来るなら、確かにすごいことができそうだな。要するに無限の落差が発生するわけだから、まるで巨大な底なしの滝みたいなものだ。そこから発生するエネルギーもすさまじいものになるだろう」

 「そうだね。でも、僕はやっぱりモラルの問題を考えてしまう。本当はもっと人間の自然な力を利用するものを作りたかったけど。虚無というのは、どうも人間にとって自然でないものじゃないかという気がするんだ」

 「もったいないな。利用価値は高そうだが。ヘタをすると、未知の兵器すら開発できるかもしれない」

 それを聞いて、ナルセは慌てたように首を横に振った。

 「冗談じゃない。それは僕が望むものから一番遠い利用方法さ。兵器だけはごめんだ。自分の研究が人間を殺すために利用されるなんて、考えただけでもぞっとする」

 「そうか。それはそうだな」

 クロガネは同意を示しつつ何度もうなずく。だが、その考えはなおも虚無というアイデアに惹きつけられたままでいた。これこそが、自分がずっと求めていたものかも知れない――クロガネは密かにそんなことを考えていた。普通の人間として社会生活を送る、もはやあきらめ半分に、なしくずしに、自分をそうさせていた一方で、どうしても諦めきれないことがあった。それを、このアイデアは実現させてくれるかも知れない。それはたぶん、悪魔のささやきだった、しかし、クロガネは自分の魂などいくら売っても惜しくないと思っている。あの日から、自分はもはや死んだも同然なのだ。あの日、ハルミの母親が死んだ日から――たぶん、そのときに、自分も彼女と一緒に死んでいたのだ。

 

 

 『君を想う、死神降る荒野で』 その11へつづく――