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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

『君を想う、死神降る荒野で』 その14

 

 野、その地面をそっと指先でほじくって小さな穴を空けると、そこに《機械》を挿入する。ゼロシキは瞑想するように目を閉じて、ゆっくりと想像力を解放していく。穴からはスルスルと芽が生えてきて葉を広げ、さらに伸びる茎が次第に太く硬くなっていったかと思うと、ミシミシと音を立てて枝が無数に分かれ広がっていく、太陽の光を絡めとるように大きな葉が現れ、鳩の群れが飛び立つように空一面を覆う。たちまちのうちに、そこには巨大な樹がそびえ立っていた。灰色の荒野に突如現れたあまりに瑞々しい生命力を湛える樹の下で、坐禅を組むように腰を降ろしたゼロシキは、うっすらと開いた目で、はるか正面に屹立する東京ヘブンズゲイトの塔を見据えていた。飛び交う死神たちが、くるくると宙を旋回し、戸惑うようにその樹とゼロシキの様子を伺っている。

 「心配するな、いつもと同じ様にかかってこい」

 そう言いながら、ゼロシキは真言でもさずけるかのように両手をかざし、死神を呼び寄せるように掌を開いてみせた。死神たちはそれに誘われるまま、大鎌を振りかざし、一直線にゼロシキの首をめがけて襲いかかってくる。ゼロシキは全く動じることなく、かざした手をひらりと返して《機械》を操る。がさ、がさ、と音を立て、風もないのに枝が一本一本、意思を持ったかのように揺れ始める、そして枝から振り払われるかのように数枚の葉が落ちてきたかと思うと、宙を飛ぶ死神めがけ、弾丸のように降り注ぐ。尋常でない強度を持った葉の一枚一枚が死神たちの体を貫通し、そびえる樹をぐるりと取り囲むように、蜂の巣になった死神たちがぼとぼとと落ちていった。

 「まあまあだな」

 調子は確かに戻っていた。《機械》は忠実にゼロシキの想像力を反映し、異様なイメージを具体化しながら、そこに鮮やかと言えるほどの生命力を吹きこんでいった。以前と全く同じかといえばそうではないが、少なくとも違和感はほとんど無くなっている。虚無に深く潜っていくように、ゼロシキは静かに呼吸をしながら《機械》を動かす、風も吹かない荒野で、巨大な樹からはらはら落ちた木の葉が渦を巻いて周囲を駆け巡った。

 木の葉が舞い、煙にいぶされた蚊のようにぼとぼとと切り刻まれた死神たちが落ちてくる。周囲に固まっていた死神たちがあっというまに処理されてしまい、満足したようにゼロシキは樹を消して、《機械》を元の形に戻して立ち上がった。しかしその瞬間、背後から忍び寄る死神の気配を感じたゼロシキは、《機械》を構えながら振り返る。大鎌を振りかざした死神の姿を視界に捉えたゼロシキが攻撃しよう体勢を整える、だがそれより早く、横から現れた刃がその死神を真っ二つにした。

 「大丈夫?」

 崩れ落ちた死神の向こうに、人影が現れる、そこに立っていたのはタチバナだった。ゼロシキに話しかける機会を待っていたのだろうか、少しためらいがちに、どこかおびえているかのようにも見える落ち着かない表情で、ゼロシキの顔色をうかがっている様子が見て取れた。ゼロシキは、タチバナのそんな態度がなんとなくうっとうしいような気がして、眉間にしわを寄せる。

 「もう話さない、と言ったはずだ」

 何よりも、話しかけられたくなかった。タチバナが、ゼロシキの虚無を薄れさせる原因になっているのは間違いなさそうだった。虚無を生きるゼロシキにとって、その虚無が自分の中で圧倒的な強度を持っていることこそが自分の存在を肯定する力になっているような気がしていた。だから、その虚無を弱めるような人間を遠ざけて置く必要がある。そう確信した今、ゼロシキにとってタチバナの存在は邪魔でしかない。妙な親愛の情など、持つべきではないのだ、安らぐことはできない、心を惑わすものなど全て振り切って、どこまでも突き進むしかないのだ。

 「でも……」

 憎しみでも吐き捨てるくらいに冷たいゼロシキの態度に困惑しながら、タチバナは言葉をつまらせる。ゼロシキは目も合わさず、踵を返し、《機械》を振りかざしながらまっすぐ新たな戦場へと歩いて行ってしまう。タチバナはその場に立ち尽くし、あまりに急で、あまりに不条理なゼロシキの豹変が理解できず、悲しそうな顔でため息をついていた。

 

 

 戦場を歩く、ゼロシキの前には日常的な戦いの光景が広がっている。必死で《機械》を振り回し戦う少年たち、常に不気味な笑いを仮面の空洞に浮かべながら大鎌で少年たちの首を斬り落とす死神たち、そして築かれていく死神の残骸、少年の死体、折り重なるその山が、戦場のあちらこちらに。普通の人々には非日常的だろう、しかしゼロシキをはじめとする少年たちにとっては、これこそが日常の光景だった。毎日、毎日、繰り返されていつ果てるともない。際限のない死が連なって蝶番のようになり、そこに少年たちの生がぶらさがってギイギイと音を立てている。やることが単純なのはすごく良い、虚無の深淵に身をひたしながら、絶えず絶えず死神を殺し続ける、そうすれば何も考えなくてよかった、そのことが与えてくれる充足感は、自分を支え突き進ませてくれる力になっていた。はじけるような《機械》と大鎌の衝突音、断裂した死神の体、刈り取られて宙を舞う少年たちの首。荒野、血と、肉と、虚無。完全なる間違いとして生まれてしまった自分、この世に存在してはならない異物として大地に投げ落とされた自分。この地獄だけが、そんな自分の存在を肯定してくれるのだ。

 ――お前さえ生まれてこなければ……!

 頭の中で声が響く。その正体は分からない、ただ、その声はずっと前から小さく反復し続けており、徐々にはっきりとした輪郭を表すようになってきている。幻聴か、あるいは頭の片隅に残っていた記憶のカスのようなものだろうか。ゼロシキの耳に、それは不快感と、そして心地良さを与えてくれた、その声は、ゼロシキの心の、いくらかの虚無をかき立ててくれるのだ。

 ――お前さえ生まれてこなければ……!

 もう一度、声が響いた。ゼロシキは一人、荒野の上を歩く、《機械》を高く掲げ、達観した慈愛のような虚無を振りかざし、密集する死神たちの雨雲のような群れへと突っ込んでいく。《機械》はなまめかしく、ぬらぬらとした粘液を垂らしながら、ミシ、ミシ、骨と肉が伸びていく音を漏らしながら、幾重にも分裂して伸びていき、先端で開花して化け物の口になりガタガタと歯を鳴らしていた。頭の奥で、声と同時にキラリと鋭い光が閃いた、直線的な、裂け目のような三日月。瘴気のような、高熱のガスのような、虚無が奥底から噴き出してくる、その快感に身を震わせ、退廃と死に魅入られた両目をぱっくりと開いたゼロシキが雄叫びを上げる。唸りを上げて化け物の口が死神たちに襲いかかる、ばりばりと寒気のするような音をさせ、太い牙が死神たちの頭を食い散らかし、あちらこちらに吐き捨てていった。

 ――虚無よ、もっと溢れてこい、俺を飲み込んで、地獄の底まで連れて行け。俺はお前そのもの、お前こそが、俺の全てなのだ。

 死神たちの体を食い散らかし、ゼロシキは地獄の中を進んでいく、この世の全てが地獄に変わればいい、自分がこの世に受け入れられることが、もし仮にあるのだとすれば、きっと、この世の全てが地獄に変わったその瞬間だけなのだ。

 

 

 戦場には、徐々に厚く重い雲が、腐れ落ちる屍肉のように垂れこめていた。昼だというのに周囲は夜の始りのように暗くなり、東京ヘブンズゲイトは雲に遮られ地上からは見えない。塔の周りを駆け巡るように、真っ白い亀裂が駆け巡る、稲光、発狂した千の野獣の咆哮のように荒野を突き抜けて、その場にいた全員が思わずたじろぎ耳を塞ぐほどの轟音とともに、地上へ向けて電撃の巨塊を叩き落す。耳だけでなく、まぶたの裏を焼くほど明るい閃光に目もくらまされ、それまで戦っていた少年たちも死神も、一瞬動きを止めてしまう。異様な雰囲気が漂っていた、落雷した箇所を遠目に見ながら、ゼロシキはただならぬ気配を感じ、これまでにないほど警戒しながら、じっと動かず、《機械》を構えたまま静止していた。

 ――何か、おかしい……

 突如、そこにブラックホールでも出現したかのような、妙な感覚があった。何かがいる、そして、そこには強烈な虚無が、周囲の全てを引きずり込むように暗い暗い虚空のような口を開けて待ち構えている。確かに、何かがいる、そして、それは確実にそこからやって来ようとしている。ゼロシキは、東京ヘブンズゲイトの真下に現れたその気配の正体を探ろうと目を凝らす、が、それは全く己を隠そうとするような性質のものではなかった。

 「おい、なんだよあれ!」

 戦場にいた少年たちが、口々にそう叫ぶ。その声は、得体の知れない怪物の出現に怯え、震え上がった少年たちの華奢な肉体から搾り出されて弱々しく、戦意を失いかけていることを悲しいまでに表現してしまっていた。あぜんとして、少年たちはアホみたいに口を半開きにして、ただ、その姿を見上げているしかなかったのだ。そこいたのは、死神だった。轟音と閃光が消えると同時に、渦潮のようにうねる白装束をたなびかせ、巨大な死神が立ちはだかって、戦場で戦う少年と他の死神たちを見下ろしていた。

 ――ヤバイな。

 気配だけでも、その死神が尋常ならざる戦闘能力を持っていることが分かった。胴体は一つだったが、首は八つに分かれてそれぞれが独立して蠢き、一つ一つの顔は、他の死神とは異なった意匠の仮面をかぶっている。鬼や悪魔や鳥獣を模したトーテムのような仮面には、それぞれ別種の霊力でも宿っているように見える。腕はなかった、胴体からデタラメに触手のようなものが何本も垂れ下がり、茨のようなトゲが、皮膚病患者のようにボツボツとした突起となって生えていた。どんな死神にも動じたことのないゼロシキでも、さすがに身がすくむほどの、圧倒的な怪物だった。だがそれも無理はない、ゼロシキは気づいていた、あの、トゲの全てが、死神の大鎌、つまり、《機械》として機能する武器なのだと。

 ……………………………!

 少年たちの悲鳴が聞こえていた、それは初め、その死神の存在感に怯える声だったのだが、すぐに、雨のように降り注ぐ鮮血と雹のように叩きつけてくる肉片という地獄のような光景に対する絶叫へと変わっていった。もはや勝負にならなかった、突然現れた八つの首の死神は、大蛇のように這いずる触手を自在に動かし、その刺からから予想も付かないような攻撃を次々に繰り出し、逃げ遅れた少年たちを、ボロ雑巾でも切り裂くようにバラバラにしてしまう。その惨劇を目の当たりにしながら、ゼロシキはぶるりと背筋が震えるのを感じた。それは、まともに戦えば死ぬかもしれないという、この戦場で初めての恐怖であり、自分の能力の全てを解放できるという、この戦場で初めての興奮でもあった。何よりかき立てられているのは、おそらく虚無だった。その死神の、奈落のような虚無に、ゼロシキの持つ虚無が共鳴していたのだ。

 ――分かるぜ、お前もそうなんだろ?

 八つの首の死神は、他の少年たちを虐殺しながらも、ずっと、ゼロシキから目を離さなかった。ゼロシキと死神は互いに惹かれ合っていた。互いに、というのは違うかもしれない、正確には、そこに渦を巻き始めていた、時空の裂け目のような、完璧な虚無に惹かれ合っていた。触手が、ゼロシキを包み込むように広がり、地面をえぐり、肉の収縮する音をさせて這いずる。ゼロシキは《機械》を構え、それを相手と同じ様な、無数の触手へと変形させる。もはや、ゼロシキの虚無は今までにないほど深化していた、《機械》は自分の指先より軽く、自在に動かすことができる。じりじりと近づく死神を目の当たりにしながら、ゼロシキは自分の背筋を走りまわる震えを何度も何度も感じていた。雑草でも払いのけるように、八つの首の死神は、他の死神を巻き添えにすることなど意にも介さず触手を振り回して少年たちを血祭りに上げ、ゼロシキを攻撃する体勢を整えていく。ゼロシキも全神経を集中して、虚無と想像力を解放し、来るべき衝突の瞬間に備えていった。

 「さあ、戦おうか」

 ゼロシキは扇のように触手を展開させ、死神めがけて襲いかかる。死神もまた、太いしめ縄のような触手を波打たせて、ゼロシキを迎え撃つ。互いの触手がムチのようにしなって風を切り、激しくぶつかり合い絡まり合う。周囲はあっという間に絡まり合う触手が広がっていき、さながらツタに覆われた森林のようになる。ゼロシキはトゲの間を縫って触手を食い込ませ、死神を締め上げていく、死神も黙ってはおらず、無数のトゲを器用に操って刀や斧や鎌に変え、ゼロシキの触手を切り刻もうとしていた。ゼロシキは触手から狼の口のようなものを無数に枝分かれさせ、その死神の繰り出す武器に噛み付いて動きを封じる。狂気にとりつかれた画家が妄想したグロテスクな地獄絵のような光景の中で、ゼロシキと死神は膠着状態になり、にらみ合う。正直、ゼロシキはこの死神に勝てるかどうか分からなかった、というより、おそらく負ける可能性のほうがどちらかといえば高いと見積もってさえいる。だが、不思議と、死に直面することから逃げようという感覚はなかった、そんなものよりも、深い深い虚無の底へ落ちて行く快感のほうが、はるかにまさっていたのだ。死神の触手が、押さえつけるゼロシキの《機械》の下で、ゆっくり、ゆっくり、マグマのように、氷河のように、ムカデの足のように、イナゴの大群のように、蠢いていた。

 「これはマジで――」

 ヤバイ。ゼロシキがそう言いかけた瞬間、死神の触手が震え、爆発したようにゼロシキの《機械》を弾き飛ばし、縦横無尽に駆け巡り始める。触手は地面を打ち鳴らし、宙空を裂いて飛び交い、天を覆って、あらゆる方向から襲いかかってくる。ゼロシキは必死で戦場を駆け巡り、触手を鋼鉄のムチに変えて、死神の攻撃をいなしながら防御するが、常に紙一重で逃れているにすぎず、次の瞬間には、内蔵をえぐり出されて死んでいるかもしれないという予感が頭の中にこびりついていた。

 勝ち目はない――

 ゼロシキは、それを認めざるを得なかった。この八つの首の死神の戦闘能力は想像以上で、はっきり言って度を越してしまっている、ゼロシキはもはや防戦一方で、それもかつてないほど必死にさせられていた、それどころか、この死神はまだ余力を残していて、なぶりものにされているような感じさえある。負ける可能性が高いどころではない、死神の攻撃は毎秒毎秒苛烈さを増していき、これでもかというくらいにその実力差を見せつけてくる、もはや、敗北は必死だった。周囲では、憐れにも逃げ遅れ、死神とゼロシキの戦いに巻き込まれて惨めに犬死していく少年たちの、切り刻まれた血と肉が飛び散り続けていた。

 ――もしかしたら、この死体と肉片の中に、タチバナも混じっているかもしれない。

 一瞬、そんなことを考えてしまう、冷たい氷の軛のような死の圧迫に精神も肉体もがんじがらめにされたゼロシキは、頭の中でタチバナの笑顔を思い浮かべてしまった。

 ――何で、こんな時に俺は、あいつの顔を……?

 それが命取りだった、ゼロシキの操る《機械》がずしりと重くなり、死神の攻撃を防ぐタイミングが遅れてしまう。受け流しそこねた触手がしなり、ゼロシキの腹を痛打して、その体ごと弾き飛ばす。ゼロシキは血と嘔吐物をまき散らしながら、宙を飛び、ほとんどきりもみ状態になりながら地面に叩きつけられてしまった。全身を突き刺すような痛みに、呼吸もままならず、震える手で、頭を押さえる。手のひらには血がべっとりと付いていた。泥水に放りこまれた鯉のように口をぱくぱくさせるが、体の奥までしびれて全く言うことをきかず、針の穴を通る風ほどの空気も吸い込むことができない。朦朧とする意識の中で、自分にできるのは、死を覚悟することだけなのだと悟り始める。

 ――俺は、最強の兵士だったんじゃないのか?

 頭上を、死神の触手が覆っていた。ゼロシキはそのすき間から天を仰ぎ、死の訪れを待っている。今まで、自分を満たしていた力が、傷口から流れる血液と一緒に失われていくような気がしていた。じめじめとした虚無が、全身を包み、ゆっくりと地面の中へと引きずり込んでいく。その虚無は、きっとこれまでにないほど完璧な、美しい漆黒だった。きっと、今、《機械》を使えば、もっと強い力が解放できただろう、でも、すでにもう、体が動かなくなっていた。自信が崩れ落ちていく、《機械》が与えていてくれた力、それによって得られた充実感が消え、もはや自分には何もないのだという感覚だけが、無数の蟻が全身の肉を食いちぎっていくように、ゼロシキをさいなんでいた。

 ――俺は、虚無だ。俺には、何もない……

 全てが失われ、ゼロシキはただの虚無になった。存在してはいない、存在してはならない。受け入れてくれる場所など、この世界のどこにもない。孤独を超えて、無として、いっさいの正しさから見放された間違いとして、そこに産み落とされてしまった。誰にも求められず、誰にも知られず、剥き出しのまま、真っ暗な荒野に置き去りにされている。しかし唯一の救いは、その虚無そのものだった。全てを与え、全てを奪い去った今、虚無は、どこまでもゼロシキを受け入れてくれた。虚無に包まれ、頭上を死神の触手に覆われ、精神も肉体も闇に沈んだゼロシキは、うっすらと目を開ける、明るく輝く白い光が見えた、天から柔らかく降り注ぐそれは、夢ともうつつともつかない。ただ、ゼロシキは、もう目を開けなくていいのだと思う。

 ――さあ、殺せ……

 目を閉じ、体を硬くしたゼロシキは、薄れていく意識の中、どこからか気付かないうちに流れてきていた、耳をくすぐるように聞こえてくる歌に耳をすましていた。聞き覚えのある歌、どこで聞いたのだろう、と考えてみる。

 ――この歌は……

 それは、東京ヘブンズゲイトで耳にしたあの歌だった。はっとして、ゼロシキはもう一度目を開ける、いつの間にか陰鬱に垂れこめていた雲は晴れ、はるか頭上に東京ヘブンズゲイトが見えていた。そして、頭上を覆っていた触手も、いつの間にか視界から消えている。いったい何が起こっているのか確認しようと、釘でうちつけられたかのように自由の効かなくなった体をどうにか起こしたゼロシキの目の前で、呆然としたように、八つの首の死神が立ち尽くしている。信じがたいことだったが、どうやらその死神もまた、聞こえてくる歌に魅入られている様子だった。わけが分からず、ゼロシキはじっと死神の様子を観察していた。死神はすっかり戦意など失っているようで、もはやゼロシキの事など全く見ていない。しばらくそのままでいた死神は、やがて触手を白装束の中に折りたたむようにしまい込むと、突然、くるりと塔の方向へ向き直る。そしてゆっくりとした動きで浮かび上がり、そのまま天に召される霊魂のようにふわふわと空中を漂いながら、東京ヘブンズゲイトの方へ、吸い込まれるように消えていってしまった。

 

 

 ゼロシキはしばらく動くことはできなかった。しかし体の痛みや麻痺は、強烈な打撲のショック状態から生じたもののようで、時間がたつと徐々に薄らいで回復していった。長時間ごつごつとした荒野に横たわっていたせいで背中が痛くなり、まだずぶ濡れのモップのように重くだるい体を半ば嫌々ながら起き上がらせる。腕や足首をひねってみる、特に違和感はなく、幸いにも骨が折れたりひび割れたりといったひどいダメージが残っている感じでもなかった。戦場は静かだった、周囲には死神の残骸と少年たちの死体の断片が散乱し、生き残ったものは全て命からがら逃げてしまっている。屍肉をついばむカラスが戦場の至る所に群れをなして、時々、かあ、かあ、と間の抜けたあくびのような声で鳴き、それがずいぶんはっきりとした輪郭のある音で響くので、いっそう静けさが際立つ。空を見上げる、ゼロシキの目には高く澄んだ青色が映り、そっと絵筆で撫でたような白い雲が漂う、今までの戦いと、死屍累々とした地上とは、ずいぶんギャップのあるのどかな光景だった。秋の台風の後のような、透明感のある空には、太陽の光を受けてきらきら光る東京ヘブンズゲイトが浮かんでいる。

 ゼロシキはまたしばらくそこでぼうっとしてから、ようやく立ち上がることにした。戦場は本当に静かだった。誰もいない、そしてもう歌も聞こえてこない。もしかしたら、自分はすでに死んでしまって、死後の世界にでもいるのだろうかとすら思える。まき散らされた血と肉と、それを食うカラスの群れ、あまりに生々しいが、しかし空の美しさや静けさのせいで、あまりに現実感のない光景だった。ふらふらと、ゼロシキはそこを歩いて行く、何もない荒野、虚脱感、そしてほのかに柔らかく暖かい、虚無。突然現れた、自分よりはるかに高い戦闘能力を持った死神は、今まで自分を有頂天にしていた万能感を粉々に打ち砕いてしまった。それだけに、いっそう虚無は心地良くなったが、しかし、ずっと自分の中で燃え盛っていた戦意と殺戮の衝動が、ふっと薄らいで消えてしまったような感覚になっている。

 ――俺はいったい、ここで何をやっているんだ?

 急に、そんなことを考えてしまう。何の記憶も持たず、戦うことだけで自分の存在を正当化していたゼロシキは、そのバランスが強固に見えていて実は危ういものだったと気付かざるを得ない。荒野の上、ゼロシキは、実のところ、どこを目指すわけでもなくさまよっているだけだった。

 ――俺には、何もない。俺は、誰でもない。

 体をひきずるように、おぼつかない足取りで、ゼロシキはそれでも歩みを止められない。立ち止まると、その場に崩れ落ちて、そのまま動けなくなってしまいそうだった。東京ヘブンズゲイトの中であの歌を聞いたせいか、あるいはタチバナに出会ったせいか、いずれにせよ、ゼロシキは少しずつおかしくなっていた。タチバナを突き放すことでそれが解決したかに見えたが、それでも結局は以前の自分とは異なっている気がする。今回の敗北は、自分が抱え始めた問題を露呈させたにすぎない。自分が、自分の中の何かが、少しずつ崩れているのだろうか、ゼロシキは自問してみる。いや、たぶんそうではない。そうではなくて、今まで崩れていた自分の中で、何かが築きあげられ始めてしまったのだ。そしてそれはあまりに弱々しいせいで簡単に崩れてしまうが、しかし元のように、平静な虚無へと還ってはくれないのだ。ひどい苦痛だった、自分の中に芽生えてしまったそれを取り除きたかったが、結局どうすることもできそうにない。甘く、冷たく、陰鬱で、暗い、虚無。ふるさとのない自分の、唯一のふるさと。根拠のない自分の、唯一の根拠。ゼロシキは少しずつ、それを失っていた。頭が狂いそうだった、救いなどない、絶望に沈むことも、希望にすがることもできない、全身をやけどした人間が砂漠で水を求めているかのように、ゼロシキはそこをさまようことしかできないのだ。

 その時、遠くに人影がちらついていることに、ゼロシキは気付いた。

 ――誰か、いるのか……?

 こんな戦場で、逃げることもなく、しかも生き残ることのできる人間が、そうそういるとは思えない。だが、それは間違いなく人の姿で、東京ヘブンズゲイトの真下に立ち、じっとそれを見上げている様子だった。誰だろう、と思って目を凝らす。徐々に近づくにつれ、ゼロシキはその人影の正体をつかみはじめる。その誰かは、他でもないタチバナだった。いったい、こんなところで何をやっているんだろうかと思い、ゼロシキは遠くからじっとタチバナの様子を観察していた。さっきは、あまりに態度が冷たすぎたかもしれない、ふいに、ゼロシキはそんなことを考えてしまう。もしかすると、謝ったりすべきなんだろうか。一瞬だけそう思ったが、ゼロシキはそれを打ち消すように首を横に振る。そんなことをしてどうなるというんだろう、自分が求めるべきなのは、何かを築き上げることではなく、完全な虚無へと、もう一度帰って行くことなのだ。ゼロシキは気を取りなおして、タチバナをまた観察する。妙に真面目な顔をして、耳に手を当て、東京ヘブンズゲイトを見つめたまま動かない。普段のタチバナとは、明らかに様子が違っている。いよいよ怪しいと考え始めたゼロシキの耳に、タチバナがぶつぶつと何かを喋っている声が届いてきた。

 ……chanson…………porte……peut-être…………docteur………médecine……………la mort……………………machine

 明らかに日本語ではなかった、断片的に単語が聞こえるだけだったが、何か、ゼロシキには分からない言葉を呟いている。フランス語のようにも思えるが、ゼロシキに確信はない。見てはいけないものを見てしまったような気がして、ゼロシキは思わずその場に身を伏せた。明らかに、独り言ではなかった、耳のあたりに通信機器を装着しているようで、何らかの目的を持って会話をしていることは間違いない。だが、ゼロシキにはそれが何語なのかすら分からなかった。ゼロシキがそこに伏せたままどうするべきか迷っているうちに、タチバナは会話を終えたようだった。東京ヘブンズゲイトを見上げ、しかし何をするわけでもなく、しばらくすると、すっと背筋を伸ばして歩き始め、足早にそこから去って行ってしまう。

 ――何なんだ?

 ゼロシキは首をかしげ、遠くからその後姿を見送っていた。確かに、妙なところの多い少女だったが、しかし今までとはまた種類の違う、不可思議な部分を見せたタチバナに戸惑う。他の少年たちとは違って記憶が残っているということ、高い戦闘能力、そしてさっき目撃してしまったばかりの、謎の会話。自分の虚無をかき乱すということ以外にも、タチバナについては警戒しておいたほうがいいのかもしれない、とゼロシキは思う。いずれにせよ、普通の少女ではない。何より、自分にとって良い影響をもたらす存在ではなかった。もっと、いや、完全に、タチバナとは距離を置く必要がありそうだった。少なくとも、やはり以前のように気安く会話するわけにはいかない。ゼロシキは一人でそんなことを考えながら、徐々に体力の戻ってきた体をもう一度起き上がらせると、今度はまっすぐに兵舎を目指して歩き始める。帰ったら、十分回復するまでゆっくり休もうと思った。また、戦場へと戻るために。戦場で、もう一度、完全な虚無を取り戻すために。自分には、他に何もないのだ。戦いの中に全てがある。再び、あの八つの首の死神とあいまみえることがあるのなら、全力をもってぶつかっていこうと決意していた。そこが死に場所になるのなら、それこそが自分の本望ではないかと思いながら。

 

 

 

『君を想う、死神降る荒野で』 その15へつづく――