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Teoreamachineの小説ブログ

『君を想う、死神降る荒野で』 その22

 

 ……、お兄ちゃんがいたの。二つ年上で、小さい頃はすごく元気がよくて、あっちこっち遊んで回ってる感じの子供だった。反対に、私は引っ込み思案で、あんまり外に出て遊んだりはしなかった。親が厳しかったっていうのもあるかな、それに治安も悪くなってるから、あまり女の子は活発に遊びまわっちゃいけないって言われてた。だから私は、たいていいつも一人で家の中にいて、外で遊ぶお兄ちゃんたちを窓から見てるかんじだったの、自分も男の子だったら良かったのにって思いながら。でもね、お兄ちゃんは、そんな私の気持ちに気づいてくれて、時々、私を連れて遊びに出てくれた。最初は親から止められたけど、お兄ちゃんは、ずっと俺がそばについてるから心配ないって説得してくれて、だから私は、そんなに長い時間は外にいられなかったけど、その間だけは、思いっきり遊びまわることができた。もちろんお兄ちゃんと一緒だから、男の子っぽい遊びが多かったけど、それでも楽しかった、町中や公園を駆けまわって、高いところから飛び降りたり、野良犬みたいに転げまわったり。

 それでも私はとても大人しかったし、ちょっとだけ変わった子供だったから、同級生からからかわれることもあったの。じっと我慢して、それも耐えられずに泣いてしまうこともあったりしたかな。お兄ちゃんはそれを見つけると、私にワケを問いただすの、「どうした?」「誰にやられた?」って。最初は黙ったままの私が、ようやく涙声で説明すると、「俺にまかせろ」ってひとことだけ言って、特にひどいやつには仕返ししてくれた。そんな感じで、とても頼りになるお兄ちゃんだったから、私は大好きだった。小さい頃は、いっつもお兄ちゃんの後ろを付いて回ったなあ。でも、時々、やっぱりお兄ちゃんも男の子だけで遊びたいから「付いて来るな」って言われちゃうの。すると私はすねて、家にこもってしくしく泣いてるんだけど、遊びから帰ってきたお兄ちゃんはいつも私のところにやって来て、「明日は遊んでやる」って言ってくれた。それで私は、すぐに機嫌を直すの、お兄ちゃんは、必ず約束を守ってくれるって知ってるから。いつまでも、頼りになる、優しいお兄ちゃんでいてくれるって、私は無邪気に信じてた。子供だったから、その時目の前にあるものが、ずっとそこにあるってことを信じようとしてしまってたの。

 お兄ちゃんが少しずつおかしくなるまで、そんなに時間がかかったわけじゃない。中学生になったころから、お兄ちゃんはだんだん口数が少なくなっていった。小学生の時はほとんど休まずに学校に行ってたのに、急に学校を休みがちになっていった。それだけじゃない、時々、傷だらけになって帰ってくることもあった。どうしたの、って聞いても、いつも「うるせえ」って言うだけで、そのまま部屋にこもってしまう。悲しかった、けど、ほとんど口も利いてくれなくなって、だから、私にはどうしようもなかったの。

 お兄ちゃんはますます内向的になっていって、とうとう学校に行かなくなってしまった。あんなに元気だったのに、もう他人に目も合わさず、口も利かない。私はどうしていいか分からなかったし、両親もそうだった。何が原因だったのかなんて分からない。中学生になって急に他人との関わり方が分からなくなってしまったのか、誰かにいじめられたり、ひどいことされたのか、それも全然知らない。お兄ちゃんは、結局何も喋らなかったから。それから、お兄ちゃんはずっと部屋に引きこもるようになって、食事も部屋で取るから、もう家族の誰もろくに顔を見ることすらできないくらいになってしまった。

 そんなある日、お兄ちゃんの部屋から何か騒いでる声が聞こえたの。何かと思ってそっちをのぞいてみると、お父さんがお兄ちゃんを部屋から引っ張り出してた。お兄ちゃんは嫌がってたけど、お父さんは怒鳴り声を上げながら無理矢理どこかへ連れていこうとしてる感じだった。恐ろしくなって、お母さんにしがみつきながら、聞いてみたの、お母さん、お兄ちゃんをどこに連れていくつもりなのって。

 「セイシンビョウイン」

 お母さんはそう言った。子供だった私にはそれが何なのか分からないから、何それって聞いたの。すると、お母さんは、お兄ちゃんはちょっとだけ頭がオカシクなっちゃったから、センセイに診てもらって、それでオクスリをもらって、セイジョウに戻してもらうのって答えた。なぜだか分からない、でも、その時、私は鳥肌が立ったの、お母さんの顔に、全然人間味が感じられなくて、まるで死神の仮面みたいな表情をしてた。そして、連れて行かれそうになるお兄ちゃんと、一瞬目が合って、ゆっくりその口が動いてるのが見えた。

 ――助けてくれ。

 はっきりとは聞こえなかったから、私の勘違いかもしれない、でも、私には、お兄ちゃんがそう言ったように聞こえたの。でも、怒鳴り声を上げるお父さんと、死神みたいなお母さんが怖くて、私は完全にすくみあがってしまって、何もできなかった。ただ、震えながら、目に涙をためて、連れて行かれるお兄ちゃんを見つめてただけだった。

 私は、もう二度とお兄ちゃんは帰ってこないんだと思ってた、でも、そうじゃなくて、お兄ちゃんはほんの二週間くらいで退院してきた。妙に穏やかな顔をしてた、今までずっとイライラして、ほんのささいなことにも焦りながら、怒りをまき散らして、でもそのくせ、本当は何も無くて、空っぽな感じだったのに、帰ってきたお兄ちゃんは、まるでその焦りや怒りだけを取り除かれてしまったみたいに、穏やかで、でもやっぱり空っぽだった。昔みたいな優しさも、跡形もなくなってた、ただ、それが唯一プログラムされた表情だとでもいうように、無意味で薄っぺらい笑みを、ずっと浮かべてるの。お父さんとお母さんは喜んでた、やっとお兄ちゃんがセイジョウに戻ったって。口数は少なくて、ほとんど黙ったままだったけど、部屋にも引きこもらなくなったし、学校へ行かない代わりに勉強も自分でしてた。でも私には、それはセイジョウには見えなかった。セイシンビョウインへ行く前より、ずっとずっとおかしくなってるようにしか見えないの。

 どうしても怖くて、お兄ちゃんに話しかけることはできなかった。お兄ちゃんも、決して誰かに話しかけようとはしなかった。それから、お兄ちゃんは部屋に引きこもる代わりに庭に出て、一日中じっとしゃがみこんでることが多くなったの。一度、何をやってるんだろうと思って、家の物置の陰からその様子をのぞいてみたことがあった。お兄ちゃんはしゃがんで、足元をじっと見つめてる、何かなって思って、よく見ると、そこには蟻の巣があるの。その周りを、本当に小さな、ごま粒みたいなアリが、どこにいったら分からない子供みたいにうろうろしてた。お兄ちゃんは、ポケットからナイフを取り出すの、そして、信じられないくらいの精密さで、その刃の先を、一匹のアリの、首の節になってる部分に突き刺してた。そのまま、きれいに、アリの首を切り落として、その頭がころん、ころん、て地面に転がるの。お兄ちゃんは、薄っぺらい、空っぽな笑いを浮かべたまま、その作業を何度も何度も、日が暮れるまで繰り返すの。本当に、高度な技術で作られた機械みたいに、あんなに小さなアリなのに、全く同じ角度で同じ場所を同じように切り取って、同じサイズの頭がころん、ころん、て地面に転がるの。背筋が凍りつくって、みんなよく言うけど、私が本当にそう感じたのは、後にも先にもその時だけ。あまりに怖くて、逃げ出すこともできなかった。ただ、お母さんが晩ご飯ができたってお兄ちゃんを呼びに来るまで、私はそこから全く動けなかった。

 そして、とうとう最後に、事件は起こってしまった。一学期の終り、小学校最後の夏休みの始りの日、学校から帰ってきた私を迎えたのは、明らかに異常だと分かるくらいの静けさだった。空気は張り詰めて、でも、妙に生臭かった。いつもと違うのはすぐに分かった、玄関のドアを開けた私は、直感で中に入ってはいけないと悟ったの。でも、逃げることはできなかった、そこに何があったとしても、逃げてしまうほうがもっと怖かった。そこで逃げたら、私はもう二度とこの家に帰れなくなる、自分でもなんでそこまで理解できたのかは知らないけど、私は事態を正確に感じ取ってた。結局、中に入ることも、外へ逃げ出すこともできず、バカみたいに玄関の開いたドアの横に立ったままだった。

 「早かったね」

 ぬうっとした動きで、沼から浮かび上がるように、家の奥の暗がりから、お兄ちゃんが現れてそう言った。親しみのこもった声、だけど、その顔に浮かんでるのは、空っぽな笑みだけ。手には出刃包丁を握りしめて、手や腕やシャツは血だらけで、顔の下半分まで真っ赤。何か喋ろうと口を動かすたび、窓からかすかに入る日の光で、あご全体に塗りたくられた血がぬらぬらと光ってた。

 「思ったより難しいね」

 何が? なんて聞くことはできなかった。お兄ちゃんが何をしているのか、よく分からなかったけど、その時私の頭の中を横切っていたのは、あの、寒気のするほどの精密で切り落とされる、無数のアリの首が、ころん、ころんって転がるところだった。

 「こんなナマクラの包丁ではだめだね。骨が邪魔して、アリみたいにはいかないなあ」

 震えてる私を見て、お兄ちゃんはほほ笑みかけてきた、無意味な、絶えがたいほど無意味な笑顔だった。

 「心配いらないよ」

 優しい声、全くの嘘で、空っぽで、音だけで気持ちのこもらない、優しい声だった。

 「お前は殺さない。僕はお前を愛しているからね。絶対に殺さない」

 私は、玄関のドアの横のに立ったまま、声も出さずに泣いてた、目から、涙を流すだけの、そんな泣きかただった。

 「でも、あいつらは許せないだろ? 僕をセイシンビョウインに連れて行きやがったんだ。絶対許せない。あのアリみたいに、きれいに首をちょん切って、庭にぽいって捨ててやるつもりだったのに。上手くいかない。上手くいかないんだよ、チクショウ、チクショウ。殺すところまでは良かったんだ、でも、それ以上は全くダメダメだ。あああああ、俺はなんでこんなに無力なんだ、こんなやつらの首なんか、スパスパ切り落とすくらい、難しくないはずなのに。俺はどうしようもない、カスだな、カス。人生マジで何にも上手くいかない、何も上手くできない、子供の頃からくだらないやつだったけど、今は最高にくだらないカスみたいな人間だ。そう思うだろ? なあ? なあ? なあああああああああああああ?」

 私には、もう迷いはなくなってた。もう、戻る場所はない、だから、後は全力で逃げ出すだけだった。お兄ちゃんが私を呼ぶ声が聞こえてたけど、絶対に振り返らなかった、走って、走って、できるだけ早く、できるだけ遠くへ、一度も行ったことのない、どこか知らない街まで行けるように、私は自分の持ってる体力の残ってる限り、走り続けた。

 誰かの通報でやって来た警察に追いつめられて、結局お兄ちゃんは家の二階から飛び降りて、頭から地面に落ちて死んでしまった。私はどこか知らないところで迷子になって、結局は施設に保護されたの。そして、心理カウンセリングっていう名目で私を診察したドクター・キドに見出されて、結局兵士になった。私は、ひどい虚無に取り付かれてしまったせいで、圧倒的な兵士としての素質があると認められたのね。一つ教えてあげる。ドクター・キドはね、ここにくるコたちの記憶を、無理矢理上書きしてるんだよ。そうやって、みんな死神に親を殺されたというふうに思わせてる。例えば事故で死んだとか、実際にはそうじゃない場合もね。キドは他のコたちと同じように私の記憶を書き換えようとしたけど、なぜか全く上手く行かなかったみたい。それが、私に記憶がまだはっきりと残ってる理由。私は死神じゃなくて、実の兄に両親を惨殺されたの。だから、きっと私の虚無は人より強くて、そして記憶が残ってるせいで、私の感情はひどく不安定なの。

  

 

『君を想う、死神降る荒野で』 その23へつづく――