Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

『君を想う、死神降る荒野で』 その37

 

 「……その歌、いったいどこで聞いたんだ?」

 ある日、ハルミが歌を口ずさんでいるのを耳にしたクロガネが、驚いた顔をしながらそう尋ねた。

 「どこだろう。分かんない、でも、ずいぶん前から知ってる歌だね、本当にもの心ついたときから、ときどき僕の頭に浮かんできて、ついつい口ずさんでしまう」

 クロガネの反応に首をかしげながら、ハルミが答えた。

 「そうか」

 クロガネは黙り込む。なぜ、ハルミがその歌を知っているのかと思いながら。それは、どこか遠い国の民謡で、ユキが好きだった歌なのだ。それは別に有名な歌というわけでもなく、たまたまどこかで耳にするというようなものではない。もしかしたら、まだお腹の中にいるときに、そして生まれたばかりの頃に、ユキが歌って聞かせていたのだろうか、そして、それをこんなにもはっきりと憶えているなんてことがあるのだろうか。クロガネは、ユキのことを思い出していた。部屋の窓辺に立ち、暖かい太陽の光を、ほとんど見えない目に感じながら、か細くて、でも芯のある、透き通った、美しい声で、誰に聞かせるわけでもなく、その歌を口ずさむのだ。ハルミの顔を見る、そこに、はっきりとユキの面影が浮かんでいた。そこにユキがいるような気がして、その記憶の、甘くて鮮やかな痛みに、思わず胸を押さえてしまう。

 「不思議な歌だよ。とても懐かしくて、このメロディを思い出すたび、僕にはどこか、帰るべき場所が、自分を無条件に受け入れてくれる、そんな場所があるような気になるんだ。それがどこかは分からない、でも、僕はとても幸せなんだ」

 やはり、その歌をハルミに教えたのはユキなのだろう、とクロガネは思う。そのメロディは、ハルミに母親の影を思い出させるのだ。ほとんど抱きしめられることなく、触れられることなく、そんな時間を持てるその前に、消えてしまった母親。そうであるために、ほとんど完全に純粋で抽象的な、美しい母親の影。実際のユキとは同じようでいて違う、ハルミの中の偶像。もちろん、ユキは素晴らしい人間だったが、完璧ではない。だが、ハルミの中では実体をもたない存在で、そのせいで、常に完璧でいられたのだ。ハルミは、どこまでも不幸で、そして同時に、どこまでも幸福な子供だとクロガネは思う。

 「誰にでもあるのかな、そういう感覚って」

 ふいに、ハルミが尋ねてくる。

 「そういう感覚?」

 「自分が、いつでも帰ることのできる、幸せな場所があるという感覚だよ」

 「……どうかな」

 「父さんには、ないの?」

 「分からない」

 「でも、ここにはいつも帰って来てる」

 「そうだな」

 「どうして?」

 思いがけない質問に、クロガネは面食らったようにきょとんとした表情になる。

 「どうして……そんなの考えたこともなかったな」

 「きっと、ここには僕と、そして母さんがいるからだよ」

 「……不思議なことを言うヤツだな」

 ハルミは笑みを浮かべていた。その顔に、ユキの面影が重なる。その笑顔は、あまりに美しく、そしてまぶしく、クロガネは目を細めた。それは、その瞬間もそうだったし、その記憶を思い出すときには、いつも全く色あせることなく、鮮明で、その場にハルミとユキがいて、自分にほほ笑みかけているのだと錯覚してしまうほどだった。

 「ここが、父さんの帰る場所なんだよ」

 ハルミはまるで、クロガネの抱える孤独をすべて見透かし、それを受け入れ浄化するような言い方をする。奇妙な感覚だった、まるで、仏や神のような、自分よりはるかに大きな存在が、自分の全てを受け入れ、包みこみ、そしてほほ笑みかけているようだった。

 「帰る場所、か」

 「そうだよ、だから、僕はいつも、同じ言葉で父さんを迎えるのさ」

 「同じ言葉?」

 「そう、同じ言葉でね」

  

 

『君を想う、死神降る荒野で』 その38へつづく――