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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

マルコムX 『投票か闘争か(The Ballot or The Bullet)』 その2

  

週間前の木曜日、私はワシントンDCにいた。そこでは、連中が公民権の法案を俎上に乗せるか否かを議論していだのだ。上院議員が会議を行う部屋の後ろには大きなアメリカの地図があり、黒人の分布図が描かれていた。南部を見てみると、そこではほとんどが黒人が密集する州であり、議会において議員たちが立ち上がって議事妨害を行ったりその他の手管を駆使して黒人に投票させないようにしている州だった。惨めなことだ。だが、それはこれ以上我々を惨めな気分にはさせない。それを惨めに思うべきは白人の方なのだ。黒人たちがあとほんの少し目を覚ませば、今すぐにでも自分たちを締め上げる万力を目にし、自分たちを押し込むバッグを目にし、現実にどんなゲームに参加させられているのかを目にし、そして新た戦略を練り上げるようになるだろう。

 

特定の地方や州での投票の権利を保証するよう改正された憲法に、アメリカの議員たちが違反しているという事実がある。そして憲法そのものが、その内部に人民の選挙権を侵害する州からの当選者を受け付けないメカニズムを持っている。新しい法律など必要ですらないはずだ。今議会にいるどんな議員も、人民の選挙権を侵害するような州および選挙区からやって来ている。そんな人間は議会からつまみ出されるべきだというのに。もしそうすれば、この国において本当に意味のある立法を行うのに障害になっているものを一つ、あなたが取り除いたことになる。だが実際にやってみれば、結局新しい法律なんかいらなかったということになるだろう。そうなれば、黒人が少数派ではなく多数派の地方と選挙区から黒人の声を代表する人物が当選し、資格のない議員たちに取って代わるからだ。

 

南部に住む黒人が満足な選挙権を持っていれば、ワシントンDCにいるディキシークラットの中枢、つまり民主党の中枢はその議席を失うだろう。民主党それ自体も力を失い、有力政党としては存在できなくなる。民主党がディキシークラットという派閥または要素を失えばそのまま民主党が大きな権力を失うことになり、南北戦争以来民主党が完璧な権力と権威を誇ってきた州で黒人に選挙権を与えることがいかに民主党の利益を奪うことになるかお分かりいただけるだろう。単細胞な奴でもなければ、もはやそんな政党に属する人間などいない。

 

もう一度言おう、私は反民主党ではないし、反共和党でもない、単純な反対主義者でいようなどとは思っていないのだ。ただ単に、彼らの誠意を問うているのであり、連中が守ろうともしない約束をしたことについて、その戦略がどんなものだったかを問うている。これからも民主党に権力を与え続けるなら、ディキシークラットにも権力を与え続けることになる。我が善良なる兄弟ロマックスにもそれを否定することはできないのではないだろうか。民主党に投票することは、ディキシークラットに投票することと同じだ。だからこそ、この1964年というのは、我々が政治主体として成熟し、その一票がいったい何のためかということを悟るべき時なのだ。票を投じることで何が得られるはずなのかということを悟るのだ。我々がそういう悟りによって票を投じてこなかったからこそ、今のような状況に追い込まれ、闘争に駆り立てられているというわけだ。投票と闘争、我々はその両方に駆り立てられている。

 

北部では全く違ったことになっている。意味はどうあれ、そこにはゲリマンダーというシステムがあるのだ。黒人たちがある地域に密集するようになると、政治力を持ちすぎるからといって白人たちがそこにしゃしゃり出てきて選挙区の境界を変えてしまう。「なんでそんなにしつこく白人、白人とまくしたてるんだ?」と思われる方もいるかもしれないが、事実それをやっているのは白人という人種なのでしかたがない。黒人が境界を変えたなんていう例は聞いたことがない。黒人はその境界に触れられる範囲に近づけないようになっている。それをやっているのは白人という人種なのだ。普段の白人というのは、あなたに満面の笑みを見せ、親しみを込めて背中を叩いてくれる、友達と呼びたくなるような人種だ。彼らは友情を示してくれるかもしれない、しかし結局はあなたの友達ではないのだ。

 

私が懸命になってあなたに印象づけようとしているのは、本質的には次のようなことだ。我々がアメリカにおいて直面しているのは分離主義者の謀略ではなく、政府の謀略である。議事妨害をしているのは誰も皆、上院議員たちであり、政府そのものである。ワシントンDCにおいて議事妨害をしているのは誰も皆、下院議員たちであり、政府そのものである。あなたの目指す道に障害物を置いているのは、他でもない政府の一員である。あなたが外国まで出向いて死を賭して闘おうというその政府は、あなたから選挙権を奪い、雇用や起業のチャンスを奪い、きれいな家を手に入れるチャンスを奪い、まともな教育の機会を奪う、その政府と同じである。雇い主の所へ抗議に向かう必要はない、この国の黒人への抑圧と搾取と侮蔑について責めを負うべきは政府そのもの、アメリカの政府である。それを連中に対し、いきなりぶつけてやろうではないか。政府は黒人を完全に失望させてしまった。この民主主義とか言われている代物は黒人を完全に失望させてしまった。白人でリベラルとかいう連中はどいつもこいつも、完全に黒人を失望させてしまった。

 

さあ、これをどうやって打破していけばいいだろう? まず、我々は友人を作る必要がある。新しい連帯を結ぶのだ。いかなる公民権運動においても、その解釈を新しくして、広げる必要がある。公民権というものを別の角度から見なければならない、内側から、そしてどうように外側から。黒人民族主義をその哲学とする我々にとっては、新たな解釈を与えることこそが公民権運動に参加する方法なのだ。古い解釈は我々を排除している。進入禁止というわけだ。だから我々は公民権運動に新しい解釈を与えよう、そこに足を踏み入れ、参加できるようにする、そいういう解釈だ。ぐずぐず、こそこそ、へこへこ、といった態度で白人にこびる連中については、我々はもはやそういう態度で居続けることを容認してやるつもりはない。

 

もともとこちらの持ち物だったはずなのに、それをくれてやるとか言う人間に感謝する義理などあるのか? もともとこちらの持ち物だったはずの部分だけをくれてやるとか言う人間に感謝する義理などあるのか? そこには何の前進もない。与えられている物は、あなたがすでに手にしていて当然の物だったのだから。それは前進ではない。私は兄弟ロマックスを、そして1954年のあの時を振り返るように意識を向けさせるというやり方をとても気に入っている。我々は1954年に自分たちがいた所にさえいない。我々は1954年から後退している。1954年のころより人種隔離はひどくなっている。1964年の今、1954年のころより人種間の敵対心は強くなり、人種間の憎悪は強くなり、人種間の暴力はエスカレートしている。どこが前進しているというのだろう?

 

そして今、あなたは若い黒人たちが台頭してくるという状況を目にしている。彼らは「もう一方の頬を差し出しなさい」などという戯言など聞きたくもないと思っている。ジャクソンビルでは、十代の少年達が火炎瓶を投げていた。黒人は今までそんなことをしてこなかった。新たな一手が講じられようとしているのがあなたにもお分かりだろう。新たな考えが生まれている。新たな戦略が生まれている。今月は火炎瓶、来月は手榴弾、そして2ヵ月後には別の何かが投じられる。投票か闘争か、生か死か。この死はそれが応酬的であるということを唯一の特徴とする。「応酬的」という言葉で私が何を意味しようとしているかお分かりだろうか? それは兄弟ロマックスの言葉だ。私はそこからこの言葉を借りている。普段の私は有力者と関わらないので大げさな言葉を扱うことがない。私が関わるのは平凡な人々だ。あなたは多くの平凡な人々と仲間になり、有力者たちから多くのものを奪い取ることができるだろう。平凡な人々に失う物は何もなく、そこには得る物しかない。そしてすぐにでもあなたに伝えてくれるだろう。「タンゴを踊るには二人の人間が要るのさ、僕が手を差し伸べ、君がその手を取る」

 

黒人民族主義を標榜する黒人民族主義者は、公民権運動のあらゆる意味について新しい解釈をもたらしており、兄弟ロマックスが示したように、機会の平等としてそれを掲げている。公民権運動が機会の平等を意味するなら、我々が公民権を求めることは正当化される。我々皆がやろうとしているのは、我々が投資を行うために資金を募ることだ。我々の母と父は汗と血を投資してきた。300と10年の間この国で働いてきたというのに、我々はびた一文その見返りを受け取っていない。びた一文たりともだ。あなたはこの辺をうろついている白人たちがこの国の豊かさについて語るのを容認しているが、しかしなぜこんなに早くこの国が豊かになったのかについて考え続けるだろう。この国を豊かにしたのは、あなたなのだ。

 

今この会場にいる周囲の人たちを見回してみてほしい。彼らは貧しい。我々は皆、個人としては貧しい。我々が一週間働いて手にする金はほんのわずかだ。だがここにいる皆の金を集めれば、たくさんのカゴをいっぱいにするくらいになるだろう。大変な富だ。もしあなたがここにいる人々の賃金を一年間分集めることができるなら、金持ちになれるだろう。普通の金持ちよりももっと金持ちになれる。そんなふうに考えたとき、アンクル・サムが金持ちになるために何を必要としていたかを考えてみていただきたい。その手で数えられるくらいではなく、何百万人もの黒人を使ったのだ。我々の母親と父親を使ったのだ。彼らの労働は8時間のシフトなどではなく、「暗くて周囲が見えないような」早朝から「暗くて周囲が見えないような」夜遅くまで働いたのに、その実りも得られず、白人を豊かにし、アンクル・サムを豊かにしてきた。これが我々の行なってきた投資であり、我々の行なってきた貢献であり、我々が流してきた血なのだ。

 

我々は無償で労働力を提供することだけではなく、自らの血を提供することもおこなってきた。連中が兵隊を求めていれば我々は真っ先に軍服に身を包んだ。白人が作り出したいかなる戦場にも、我々は屍を残してきた。今日アメリカの地に立つどんな人間よりもはるかに我々は犠牲をささげてきたのだ。どんな人間よりもはるかに貢献し、しかしはるかに少ない褒賞しか得て来なかった。公民権、黒人民族主義を標榜する我々がそれにより訴えているのはこういうことだ。「しかるべきものを今渡してもらおう。来年まで待つなどあり得ない。しかるべきものを昨日渡してもらおう、それでも遅いくらいだが」

 

ここでひとつ、あることを指摘しておこう。あなたが自分の手にすべきものを追い求めているのに、誰かがそれを手にする権利を奪い取ったとしたら、例外なくその人間は犯罪者だ。このことを確認してほしい。あなたの持ち物を手にしているなら、例外なく法律で保護された権利だと主張できるのだ。あなたの持ち物を奪おうと試みるなどということは、法律違反であり、誰がやろうともその人間は犯罪者だ。そしてこのことは最高裁の判決により示されている。人種隔離は法に悖る行為なのだ。

 

つまり人種隔離は法と対立する。つまり人種隔離は法を破っている。人種隔離主義者は犯罪者だ。連中に貼り付けるラベルはそれ以外にはない。あなたが人種隔離に反対するデモを行うというのなら、法はあなたの側についている。最高裁はあなたの側についている。

 

さあ、いったい誰が法の適用に反対をしているというのだ? 警察それ自体だ。警察犬をけしかけ警棒を振り回す。人種隔離に反対するデモをすればいつでも、それが教育における人種隔離であれ、住居における人種隔離であれ、その他あらゆるものにおける人種隔離であれ、法はあなたの側についており、あなたの行く道に立ちはだかる者が誰であれ、もはやそこに法の正当性はない。連中は法を破っているのであり、つまり法を体現してはいない。人種隔離に反対するデモを行えばいつでも、厚かましい連中は警察犬をあなたにけしかけてくる。その犬を殺せ、その連中も殺せ。はっきりとあなたに言うが、そんな犬は殺してしまえ。口を噤むつもりなどない、もし連中が私を明日牢屋にぶち込んだら、その犬を殺せ。それをやるまでは手を止めるな。ここにいる白人たちがそんな行動を目の当たりにしたくないのなら、大人しく引き下がって市長のところへ行き、警察に犬どもを引っ込めろと命令するように言ってもらいたい。それこそがあなたのやらなければならないこだ。もしあなたがやらないのなら他の誰かがやるだけだが。

 

こういう態度を取れないのなら、あなたの幼い子どもが大きくなった時、あなたを見て「恥さらし」と思うだろう。妥協を拒む態度を取れないのなら、あえて外へ出て暴力に訴えろと言いはしない。しかしあなたが暴力にさらされることなどないと言い切れないのであれば、あなたも暴力を手放すべきではない。私に暴力を振るわない人間に対して私は暴力を振るわない。だが私に暴力を振るう人間がいれば、私は怒り狂ってその相手に何をしでかすか分からない。そして全ての黒人もこのように考えるべきなのだ。法に則り、合法的権利に則り、道徳的権利に則り、正義とともにあるならいつだって、自分の信じるもののために命を賭けるべきだ。だが犬死はいけない。死ぬなら敵と刺し違えるのだ。平等というのはそういうことだ。人種など関係なく、物事は平等でなければならない。

 

 

マルコムX 『投票か闘争か(The Ballot or The Bullet)』 その3へつづく――