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Teoreamachineの小説ブログ

マルコムX 『投票か闘争か(The Ballot or The Bullet)』 その4

 

うこの国で座り込みのデモをやめる時が来ている。何人かの貧乏白人上院議員、北部と南部の貧乏白人どもには、ワシントンDCに座り込みのデモをやってもらえば良い。そのうち、我々が公民権を手にすべきだという結論に至ることだろう。私に対して私の権利について語る白人など一人もいない。兄弟たちよ、姉妹たちよ、絶対に忘れるな。もし国会議員たちと大統領告示がわざわざ白人への自由を与るように仕向けられていないのなら、立法、告示、最高裁判決が黒人に自由を与える必要などはないはずなのだ。白人に知らしめてやろう。この国が自由の国であるのなら、この国を自由であるがままにさせるのだ。もし自由の国でないのなら、それを変えなければならない。

 

我々は誰とでも、いつでも、どこでも、共に歩むだろう。本当に妥協無く問題に取り組み、敵が暴力を用いない限りこちらも暴力を用いず、しかし暴力を用いるならこちらも暴力を用いる、そんな人々と。我々はあなたと共に有権者登録を求める運動を行い、あなたと共に家賃不払い運動を行い、あなたと共に学校をボイコットしよう。私はいかなる種類の人種統合も信じない。それを気にかけてさえいない。どうしたってあなたがそれに納得することはないと分かっているからだ。死を恐れるがゆえにあなたはそれに納得しないだろう。死を覚悟しなければならないのは白人に向かっていこうとする、そして実際に向かっていく時だ。ミシシッピで、ここクリーブランドで、貧乏白人どもがそうであったのと同じくらいの暴力を用いることになる。しかし現段階では、我々はあなたと共に学校システムにおける人種隔離に反対する学校のボイコットを行っている。人種隔離の学校システムで学べば、子供は心に傷を負った状態で卒業することになる。これはつまり、黒人ばかりだからという理由で学校が人種隔離されているということではない。人種隔離学校とは、その学校がどんなものであれどうでもいいという人々によって支配されているということなのだ。

 

私が何を言わんとしているか説明させてほしい。隔離された地域またはコミュニティとは、そこに暮らす人々が外部の人間に政治と経済を支配されたコミュニティのことである。隔離コミュニティの白人居住地域のことをそう呼んだりはしない。黒人居住地域ばかりが隔離コミュニティとされてしまうのだ。なぜか? 白人は自分たちの学校、銀行、経済、政治、その他全てについて自由に運営していくことができる。だが連中はあなたのものまで自分たちの自由にしてしまうのだ。誰かの支配下にあれば、それは隔離されているということになる。そこにあるものの中で最低最悪のものしか得られなかったとしても、ただあなたが自分のものを持っているというならば、それは隔離されているということを意味しない。自分のものを自由にできなければならない。白人が自分たちのものをそうしているように、あなたは自分のものを自由にする必要があるのだ。

 

人種隔離を無くすためには、何か最善の方法かご存知だろうか? 白人は統合よりも分離を恐れている。隔離はあなたを白人から引き離すことを意味するが、しかしそれは白人の司法権の範疇から出るのに充分な距離ではない。それに対して、分離とはあなたが完全に離れてしまうということを意味する。だから白人は黒人が分離してしまうままにさせるのではなく、先手を打って統合させようとするのだ。だから我々はあなたと共に、人種隔離学校システムに反対しよう。それは犯罪であり、想像しうるどんなやり方においても、欠陥のある教育に晒された子供たちの心を完全に破壊してしまうようなものなのだ。

 

最後になったが、ライフルとショットガンについての大論争についてひと言っておかなければならない。政府が黒人の生命と財産を守る気も、その能力もないと露呈した地域では、すぐに黒人が自らを守るようにすべきだということだけ、私はすでに述べておいた。憲法改正案の第2条において、あなたも私もライフルやショットガンを持つ権利を与えられている。これはライフルを手に入れて軍団を組織し白人を狩りに行けという意味ではなく、あなたは権利を持った状態にあるということなのだ。つまり、あなたの行為は正当化される。それが違法ならば我々は違法なことは何もしない。もし白人が黒人にライフルやショットガンを買うなと言うならば、そのときは政府にやるべきことをやってもらうとしよう。

 

言いたかったのはそういうことだ。寄ってくる白人にマルコムの言うことについてどう思うかなどと訊かれてもまともに取り合うことはない。年老いたアンクル・サムは「君が『アーメン』と言おうとしているかどうか私が考えていると思うかい」などとあなたに尋ねたりしない。そうではなくて、彼はあなたの中から黒人奴隷「トム」を見出そうとするのだ。ライフル・クラブのようなものを組織して、外へ標的を捜しに行けと言っているのではない。あなたが人間であるならば、1964年という今この年に、白人たちに分からせてやるべきなのだ。アメリカが政府を運営する上で求められる仕事を遂行せず、何十億ドルもの金を防衛費につぎ込んでいるにも関わらず我々が払っている税金に見合う保護を与えないのなら、我々が一発の弾丸に12ドルか15ドルかそこらの金を使うということを受け入れるのにやぶさかではないはずだ。外へ出て誰かを撃ち殺そうなどと考えてはいけない。だが、我々が足を運び書に親しむ教会を連中が爆撃したとき、また兄弟姉妹、とりわけここにいる誰か、何人かは議会からの栄誉賞としてもらったメダルをぶら下げているようだが、このくらいの肩幅で、このくらいの胸囲で、このくらいの筋肉をつけている誰かに対して冷酷な殺戮が行われたとしよう、それが成人ではなく、白人が祈れと教えたその神に祈っていた四人の幼い女の子に対して行われたとしよう。我々がそのとき目の当たりにするのは、そこにやって来た政府が犯人を見つけられないという光景だけなのだ。

 

なぜアメリカはアルゼンチンのどこかに潜伏していたアイヒマンを発見できたのだろうか。南ベトナムで2、3人の米軍兵士を使って誰かにちょっかいを出させて、その反撃によって兵士たちが殺されるように仕向けてから、アメリカは戦艦を送り込み、南ベトナムに干渉を始めた。また、キューバにも軍隊を送り込み、自分たちが自由選挙と呼ぶやり方を押し付けた。この年老いた貧乏白人どもこそが、自国で自由選挙を行っていないというのに。

 

あなた方が二度と私の姿を見られないようなことが起きたとき、つまり朝起きたら私が殺されるといったようなことが起きたとき、私は一つの言葉を残して死ぬだろう。「投票か闘争か、投票か闘争か」

 

1964年の黒人がふらふらとして何人かの貧乏白人上院議員たちが、黒人の権利について話が及んだ時に議事妨害を行うのをぼんやり眺めているようなことがあれば、我々はその恥ずかしさに顔を背けて伏せてしまうだろう。1963年のワシントン大行進というかつてなかった出来事について我々は語り合う。1964年にはさらなる出来事があってしかるべきだ。

 

そして今回、黒人は去年と同じようなやり方はしない。「勝利を我らに」などと歌いはしない。白人のお友達と馴れ合ったりしない。以前と同じメッセージを書いたプラカードを使いまわしたりしない。往復切符を持った人間のように同じ所をグルグル回ったりしない。手にしているのは前進するための片道切符だ。もし白人たちが非暴力の軍隊に押しかけられたくないと思うのなら、お仲間に議事妨害を止めるよう伝えればいい。

 

黒人民族主義は一刻の猶予も許さない。大統領であるリンドン・ベインズ・ジョンソンは民主党の長でもある。彼が公民権を支持しているというなら、来週にでも上院議会にいってもらいその所信を表明してもらおう。いや、今すぐにでもそうしてもらいたい。そして南部のお仲間の批判もしてもらおう。今すぐに、道徳的な姿勢を見せてもらわなければ。今すぐだ、猶予は許されない。選挙まで待とうなどと考えるなと彼に伝えよう。我が兄弟姉妹たちよ、彼が煮え切らない態度を取り続けるならば、この国にはある条件が整うようになるだろう。その条件とはアメリカに生まれる特殊な気候のことで、その気候は撒かれた種を地表から目覚めさせ、その頂に今まで誰も夢にも見なかったような花を咲かせるのだ。1964年、その花は「投票か闘争か」という姿で咲こうとしている。

 

 

聴衆の皆様、ご静聴ありがとうございました。

 

(了)