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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最も純粋な子供達のために その3

  

 から上がり続けた気温は摂氏四十度近くまで達し冷房の効いていない教室は湿気をたっぷり含んだ熱い空気が漂い呼吸するのも不快なほどになっていたが桐原玲は汗一つかかず平然とした顔で机に座り担任の森岡健二を待っていた。便所に行くと言って教室を出て五分後に戻って来た森岡健二の顔の青白い皮膚の表面にはたっぷりと汗がにじんでいて小刻みに震える手で握っている紙切れは指先から染み込んだ水分で変形している。桐原玲と二人だけの教室に入った森岡健二は机を挟んで向かい合わせになった椅子にゆっくりとした動きで座るが隠しきれない緊張でかすかに口元が歪んでいた。

 桐原の進路志望シートを見せてもらったんだけど……。

 森岡健二は太く短い指でつまんでいた二枚の紙切れを机の上に置いた。一枚は生徒が志望する進路を書き込むためのシートでたいていの生徒は進学を希望する高校名を書いていたが桐原玲のそれは名前以外全て空欄になっている。もう一枚はこれまでの成績の推移をグラフにしたもので中学一年生の最初のテスト以来全て一位を示す点を直線で結んだそれは桐原玲がこの学校で並外れた成績を収めていることを表していた。森岡健二はちらちらと桐原玲の顔色を窺っていたがその顔は全くの無表情で机の上の紙切れに視線を落としているだけだった。

 もちろん先生は桐原になにか考えがあるんじゃないかと思ってるんだ。つまり身近にあるような高校なんかでは物足りなくて空欄にしたとか海外の高校に留学したいとか進学じゃなくて他にやりたいことがあるとか。

 森岡健二の言葉を聞きながら桐原玲は口元に冷笑を浮かべていた。

 別に。何もないよ。

 桐原玲の返事を聞いた森岡健二は驚いて顔を上げ今度は正面から桐原玲の顔を見つめる。

 何もないってどういうことだ?自分が将来何をしたいか分からないってことか?それならとりあえず普通科に進学したらいい。桐原くらい頭が良かったら医者でも弁護士でも何でもなれると思う。もしくは県内でトップの高校にでも進学しといて東大京大辺りを目指したらどうだ?世の中大学名が全てじゃないけどそういうとこなら将来の選択肢も広がるし入って損はしないと思うけどな。

 興味ない。

 興味ないっていうのは進学しないってことか?今の時代中学卒業して就職なんて大変だぞ。いいか桐原。お前は人よりずっと優れた頭脳をもってるんだ。それは間違いない。そういう才能は社会のために生かすべきだよ。桐原みたいな人間はそういうことを暗に人々から求められているんだ。

 それを聞いた瞬間に桐原玲は突然噴き出して笑い始める。

 やめろよ。先生。なあ。先生は生まれてからずっと凡人だっただろ?

 森岡健二は侮蔑的な態度に顔をしかめたが怒りだすことはせずに一呼吸して気持ちを落ち着ける。

 確かに先生はみんなの中で群を抜いて優れてたわけじゃない。でもな桐原。先生は自分の持っている能力を生かして社会人として今まで立派にやってきたつもりだ。いくら天才的な人間でも自分の才能を生かせなかったら結局なんにもならないんだよ。だから自分が将来何をしたいか真面目に考えなさい。今みたいないいかげんな態度で生きてたらお前も結局凡人で終わるぞ。

 悪いけどね。先生。それはいかにも凡人臭い発言だよ。この世の中は優れた人間を本当は邪魔だと思い憎んでるんだ。社会っていうのは平均的な人間しか求めてないんだ。なぜなら社会のシステムは平均的な人間を基準にして構築されてる。そのシステムに収まるのは程度の差はあれ平均的な凡人たちなんだ。システムが完成された時代ほど世の中の真の支配者は凡人たちってことだよ。俺は凡人の奴隷になって生きていきたいとは思わない。

 桐原。お前がいくら優れた能力を持っていようとも結局お前は神様じゃない。つまり大きな視野に立てばお前も一人の凡人なんだよ。だからもう少し冷静になってみるんだ。仮にお前が圧倒的に高い能力を持っているならその分周りに合わせることも簡単なことじゃないか。ちょっと肩の力を抜いて周囲のペースに合わせれば充分社会に適応できるはずだろ。

 桐原玲はその言葉を鼻で笑って一蹴する。

 なあ。先生。それは道化として生きていくってことでつまりとても屈辱的なことだよ。

 終始他人を見下すような不遜な態度の桐原玲にとうとう我慢できなくなったかのように森岡健二の表情が怒りで赤くなる。

 じゃあどうするんだ?お前がどんな風に考えていようとも最後には社会に出て金を稼がないと生きていけないぞ?今みたいなわがままなんかとうていまかり通らない。どこかで妥協しないとだめなんだよ。考え直すなら今のうちだ。そうじゃないと後でさんざん痛い目を見ることになるぞ!

 肩を震わせる森岡健二の呼吸が大きな音を立てていた。そのうち大人げなく取り乱したことに気付いた森岡健二はばつが悪そうに深呼吸をして気持ちを落ち着けてから本当に何もやりたいことなんか無いっていうのかと桐原玲に訊いた。桐原玲はうつむいた森岡健二の顔を見開いた目で覗き込み薄笑いを浮かべた。

 俺に何かやりたいことがあるとすればそれはこの世を荒野に変えることさ。凡人達を守っている全てのものを消し去るんだ。全てが無に帰したその荒野ではあらゆるものが意味と価値を失い個人は剥き出しの存在として対峙する。それは文字通り地獄だけどしかし同時に人々はゼロから新しいものを創造することができるだろう。社会の地獄は奴隷の天国なんだよ。先生。俺は非凡であるがゆえに奴隷だと言っただろ?だから俺はこの世を完全な荒野に変えたいんだ。俺はそこで自分を完全に解放してあらゆるものの創造主になるんだ。本当は今すぐにでもそうしたいと思ってる。今すぐ外へ出て目につく全ての人間の頭を撃ち抜いて殺しまくってこの世のありとあらゆるものは無意味で無価値なんだと教えてやりたいんだ。

 森岡健二は青ざめた顔で桐原玲を見つめていた。

 桐原。落ち着きなさい。お前は何かおかしな妄想に取り付かれてるんだ。思春期にそういう妄想に取り付かれてしまう人間もときどきいるけどそれはちゃんとコントロールしないとだめだ。そんなことを実行すれば自分も他人も不幸になるだけだぞ。

 残念だけど俺はとても冷静だよ。先生。俺の考えが妄想なら先生の考えも妄想に過ぎない。みんなと同じ妄想を共有してるかどうかの違いだけさ。現実が存在しているのはただ荒野の中だけだよ。そこでは全てが剥き出しの現実として存在しているんだ。

 森岡健二は困惑した表情で目をそらすとそういう考えは一旦わきに置いてとにかくもう一度自分の進路について良く考えてみるんだと呟くような声で言い桐原玲に退席を促した。

 俺はこの世の異物になりたいんだよ。先生。この世のあらゆる意味や価値とは無縁の存在として現れてこの世の全ての人々からそれを奪い取るんだ。そんな異物に出会った人々はもはや自分の身の回りに存在するいっさいの意味や価値を信じることなどできなくなる。そして人々は荒野に立ってこの上ない歓喜と絶望の中で叫び声を上げるだろう。俺が望んでいるのはそういうことだ。高校へ行くとか立派な社会人になるとか俺にはどうでもいいことなんだよ。

 そう言い残して桐原玲は教室を出て行く。後に残った森岡健二は首を傾げながらあいつは頭がおかしくなってるんじゃないか正直全く理解できないと呟き長いため息をついた。 

 

 

最も純粋な子供達のために その4へつづく――