Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最も純粋な子供達のために その4

 

 

 課後教室から出た桐原玲は非常階段を降りた所に立っている白澤明歩を見つけて微笑んだ。

 待ってたのか。

 別に。

 一緒に帰るか?

 うん。

 それから二人は川沿いの道をほとんど言葉を交わさずに歩いて白澤明歩の住むアパートの一室へとたどり着いた。四つだけ部屋のある二階建てのアパートのその部屋は1LDKで白澤明歩だけで住むには少し広かった。余計なものが置かれていない部屋で目を引くのは二つくらいしかなくて一つは真白い壁にかかったクリムトのレプリカで殺風景な空間に金色の背景と色とりどりの花で飾られた少女の肖像が浮かび上がっていた。もう一つは小さなアップライトピアノで白澤明歩は食事と売春と桐原玲と会う時間以外はほとんどそれを弾いて毎日を過ごしていた。

 何か弾いてくれよ。

 やだ。

 恥ずかしいのか?

 だってちゃんとピアノ習ったことなんかないし。全部独学だもん。他人に聞かせるようなもんじゃない。

 でも俺はお前のピアノはすごく上手いと思うよ。

 玲に見られてると緊張するし。

 好きなんだよ。俺はお前のピアノが。

 白澤明歩は言葉では何も答えず黙ったままピアノの前に座ると返事の代わりとでもいうように二つ三つと柔らかいタッチで和音を奏でる。

 何でも良いよ。お前の好きなドビュッシーでも弾いてくれ。

 ……あっち向いてて。

 桐原玲は優しい笑みを浮かべてうなずくと白澤明歩に背を向けてソファに腰掛けた。一瞬の間を置いて白澤明歩がゆっくりと呼吸をする音が聞こえその後から少し遅いテンポのアラベスクの演奏が始まる。目を閉じた桐原玲は物音一つ立てないよう配慮するかのようにじっと動かずそれに聞き入っていた。演奏が終わると桐原玲は白澤明歩のほうへ向き直り拍手をする。白澤明歩はやめてよと言いながら照れくさそうに笑っていた。桐原玲がソファから立ち上がりピアノの前に座ったままの白澤明歩に近づいて後ろから腕をまわして抱きしめ耳の辺りをそっと愛撫するようにキスをする。白澤明歩は心地良さそうに目を閉じて桐原玲の腕に触れた。

 どうしてそんなに音楽が好きなんだ?

 分かんない。でも他に好きだと思えるものは無いし。

 それでいつもピアノを弾いてるのか。

 そう。他にすることないから。

 自分で作曲したいと思ったことは?

 別に。

 本当か?

 ……実はちょっとだけやってみたことあるけど。

 弾いてみろよ。

 だめ。結局上手くいかなかったから。

 どうして?

 どこかで聞いたことのあるような音楽しか出てこなかったもん。しばらく試行錯誤してみてもどうにもならなかった。

 もう少しがんばってみろよ。

 最近もときどきだけどやってるよ。でも結果は同じ。きっと作曲する人ってそうせずにはいられないやむにやまれない衝動みたいなのがあるんだよ。私にはそういうのがないんだと思う。ちょっとやってみようかなっていうくらいの気持ちでしか作曲してみたことないし。

 自信がなくて遠慮してるだけじゃないのか。

 同じことだよ。私にはそういう自信のなさを乗り越える衝動がないってこと。

 そうかな。俺はお前にはそれができると思ってる。

 らしくないね。そんなお世辞言うなんて。

 本当にそう思ってるだけだよ。

 白澤明歩はそれには何も答えずに耳から首筋を伝う桐原玲の唇の愛撫に身を任せていた。桐原玲の手が胸の辺りを愛撫し始めると白澤明歩は体をよじらせて桐原玲の肩にしなだれる。白澤明歩が桐原玲の顔を見上げて何かを喋ろうとするかのように唇を動かす。桐原玲はその気持ちを読み取るかのように微笑んで白澤明歩の唇にキスをした。

 

 

 桐原玲と白澤明歩は裸でベッドに寝転んだまま薄暗い部屋の中で手探りするように互いの指先で互いの肌に触れている。白澤明歩はその敏感な耳で桐原玲より早く外を降るかすかな雨の音に気付いた。それに聞き入るように目を閉じた白澤明歩は桐原玲の手を握る。桐原玲は白澤明歩の指をなでるようにしながらその手を握り返して話しかけた。

 なあ。

 何?

 初めて自分の父親にレイプされたときどんな気分だった?

 白澤明歩はその質問には答えずに黙ったまま身をこわばらせていた。

 怖かったか?

 ……やめてよ。そんなこと訊かないで。

 握った手を離して白澤明歩は寝返りを打ち桐原玲に背を向ける。

 知りたいんだ。お前がどう感じたのか。

 言いたくない。

 思い出すとつらいのか?

 やめてって言ってるのに。

 桐原玲は小さくしかし深く長く息を吸いゆっくりと吐く。

 ごめんな。

 白澤明歩はじっと目の前の壁を見つめているだけだった。

 でも分からないんだ。お前がどう感じたのか。俺はお前じゃないから。

 知る必要なんかないでしょ。なんでいきなりそんなこと訊くの?

 知りたいんだ。

 悪いけど。言いたくないから。

 長い沈黙が続いて二人はただ雨の音だけを聞いていた。雨だれの音が飛び込んできて部屋の空気をかすかに震わせそれは波紋のように広がりゆっくりと溶けて消えていった。

 怖かったか?

 白澤明歩の呼吸を読み取るかのようにその背中を見つめながら桐原玲は低く落ち着いた声でほとんど答えなど求めていないかのような態度で再びそう言った。白澤明歩は壁を見つめたまましばらく何かを考えている様子だったがやがてゆっくりとうなずいてみせた。深呼吸しようとした白澤明歩の喉があふれてくる涙のせいで詰まったような音をさせる。桐原玲は互いの肌が隙間なくぴったりと触れるように白澤明歩の背中に自分の体を寄せた。

 ごめんな。

 ささやくような優しい声で桐原玲が言う。白澤明歩は肩を震わせ声を殺して泣いていた。いつのまにか周囲には闇が落ちてきていた。夜が来たな。桐原玲はそう呟きすすり泣く白澤明歩の髪をずっと撫でていた。

 しばらくしていつのまにか泣き止んでいた白澤明歩が寝息を立てているのに気付いた桐原玲は髪を撫でていた手で今度はその頬を撫でてやる。部屋の中はとても静かで白澤明歩の小さな呼吸の音がよく聞こえていた。

 おやすみ。

 桐原玲は再び優しい声でささやいて目を閉じた。全てが闇の中に溶けて消え何も見えなくなる。朝が来て目を開けたらきっとそこには新しい世界が広がっているだろう。桐原玲はほとんど音にならないような言葉で独り言を呟いて自らもまた眠りに落ちていった。

 

 

最も純粋な子供達のために その5へつづく――