最も純粋な子供達のために その7
桐原玲と白澤明歩が売春相手を探すのはたいていが出会い系サイトだった。プロフやSNSを使って誘いをかけるような人間は小賢しいことをしそうで敬遠していたし街角で直接声をかけるのもリスクが高いと判断した。売春相手として選んでいたのは定職についていて気弱で大人しくお人好しな中年くらいの男で家族がいれば理想的だった。そういう男なら相場以上の金を払うことができて面倒なことを言わず社会的な立場があれば売春行為を他人に口走る可能性も低いからだと桐原玲は白澤明歩に説明した。自分の行為を世間から隠したがっていて知的レベルも平均的で新しい情報に疎い人間を探せばある程度は効率的にそういう中年男を見つけることができるというのが桐原玲の読みでそれは実際のところ上手くいっていた。桐原玲は出会い系サイトを介して送られて来るメールの文面から男の性格を判断して選別しその後の数回のやり取りで売春相手として適しているかどうかを決める。白澤明歩は桐原玲を完全に信頼しており選ばれた客について特に疑義を差し挟むことも無くそのままホテルの部屋に行ってセックスをしていた。
ただその日待ち合わせ場所に現れた客はやや神経質そうな雰囲気を持った男で多少不安を感じた桐原玲は今日は俺が後を付けて行くし何かあったらすぐ連絡しろと言って白澤明歩を男の所へ送り出した。
倉橋さんですか?
白澤明歩にそう話しかけられた男は一瞬おびえたように体をぴくっと動かしてから目の前に立っている少女に気付く。中年らしい脂肪の付いた体型で大きな綿ぼこりを頭にのせたような髪型の男は伏し目がちに白澤明歩の顔を観察してから満足そうに薄い唇の端を上げた。
うん。そうだよ。……かわいいね。
ありがと。
あまり女を褒め慣れてないのが明らかに見て取れるにもかかわらず男は自分が気の効いた言葉を使うのに慣れた人間であるかのように振る舞い君みたいなかわいいコだったらもっとお金を払ってもいいなあと言った。
ホント?そうしてくれると嬉しい。
白澤明歩はすっかり上手くなった作り笑顔を見せて小さく飛び跳ねる仕草をする。先のはねた長い黒髪が肩の上で愛嬌たっぷりに弾んだ。
うーん。明歩ちゃんがたっぷりサービスしてくれたら考えるよ。
じゃあがんばる!
白澤明歩が媚びた表情で男を見上げるとその男はだらしなく表情を崩して今日はいっぱいお金もってるからねと笑った。
ホテルの部屋に入るなりキスをした男は小刻みに震える手で白澤明歩の胸をまさぐると子供がダンスでもしているかのような不器用な動きで服を脱ぎ始める。裸になった男は汗ばんだ手で白澤明歩の太ももを撫で回してからパンツに指をかけてもったいぶった動作でずり下げていく。白澤明歩が恥ずかしがるような演技をすると男は得意顔になり小さいペニスを固くして体を起こしそれを見せつけるように仁王立ちになる。
ねえ。生で入れさせてよ。
だめ。
なんでだよ。サービスしてくれるって言っただろ。
要求を拒否された瞬間に男は突然高圧的な態度になり声を荒げた。白澤明歩は警戒するように後ずさりしながら脱がされたパンツを元に戻そうとする。
そういうのはサービスって言わない。お金で体を売り買いする時にはちゃんとルールがあるの。ごめんね。
なんだと!
中学生から諭すような態度を取られたことに憤慨した男は顔を赤くして白澤明歩に襲いかかり襟首をつかむとそれを引きちぎろうとするかのように無茶苦茶に引っ張り始めた。男が自分を無理矢理犯そうとしているのだと悟った白澤明歩は突然パニックを起こし悲鳴を上げて暴れ男を突き飛ばした。そのまま入り口まで走ってドアに体ごとぶつかりながら音を出して外に待機しているはずの桐原玲に合図する。恐怖で震える指をどうにか制御して鍵をつかんで開けようとした瞬間後ろから多いかぶさって来た男に押し倒されてしまった。必死で抵抗しても大人の男の力で軽々と押さえつけられて身動きが取れず白澤明歩は涙声でわめくだけだった。乱暴に小さな胸をわしづかみにされながら再びパンツを引きずり下ろされてしまったとき白澤明歩は急に抵抗するのをやめておとなしくなる。
わかった。生でいいよ。でも乱暴しないで。
従順になった白澤明歩にそう言われた男は勝ち誇ると同時に安心したような表情になり白澤明歩を押さえつける手を緩める。白澤明歩はが体を起こして男のペニスをつかみ優しくしごきながら顔を近づけそれを口にふくんで舌先でなめまわすと男は恍惚とした表情で喘ぎ荒い息を漏らしていた。すっかり油断した男の様子を見た白澤明歩は突然男の亀頭に歯を立て力を込めて噛むと同時に睾丸を思い切り殴りつけた。強烈な痛みで絶叫した男が床に倒れて転げ回っている隙に白澤明歩はドアの鍵を開ける。男は苦痛にうめきながら顔を起こし憎悪のこもった怒りの形相で白澤明歩をにらみつけていた。その男の視線の先でゆっくりとドアが開く。
エロジジイ。
そこに入って来た桐原玲が男を見下ろしていた。怒りに震える男が何か叫ぼうとしたがその前に桐原玲が飛びかかり男の顔面を蹴り飛ばして笑う。男の鼻から血が噴いて肉が裂けた唇からも流血する。やがて男が動かなくなるまで暴行を繰り返してから桐原玲は男の財布から金を全部抜き取りその場を後にした。
タクシーに乗った二人は白澤明歩のアパートの近くで降りてそこから歩いて帰った。夜の住宅街の道を歩く人は他に誰もおらずそこはとても静かで遠くから飼い犬の鳴き声が聞こえるくらいだった。立ち並ぶ民家の中に台所の窓が少しだけ開いた家があってそこから遅い夕食を準備する人影が見え煮えたシチューのにおいが漂ってきていた。桐原玲の隣でうつむきながら歩いていた白澤明歩がふと顔を上げ口を開く。
ねえ。
うん?
私たち捕まったらどうなるのかな。
心配なのか?
……ちょっと。
そうか。
玲は心配してないの?
別に。心配してもしょうがないと思ってる。
そうだね。
やめたくなったのか?
白澤明歩は桐原玲の顔を見つめながら首を横に振る。
お金いるでしょ?私たち。私たちが自由に生活するために。ささやかだけど。でも。そのささやかな自由のために。
でも体を売るのはあまり好きじゃないだろ?
なんて言ったらいいんだろ。セックスが終わるたびにすごく疲れてしまうって感じかなあ。
……そのうち必ず何とかするよ。きっと他の方法で金を稼げるようにする。
白澤明歩は黙ったままうなずく。二人はそれ以上会話を続けることなく歩いていた。
桐原玲はベッドに横たわり白澤明歩が演奏するゴルトベルク変奏曲のアリアに耳を傾けていた。ピアノに向かう白澤明歩の後ろ姿に見とれていた桐原玲は演奏が終わって振り返った白澤明歩と目が合って微笑む。
家族と別れてどれくらいになる?
……またそんな質問。最近そういうの多くない?
知りたいだけだよ。何度も言うけど。
変なの。
訊かれたくない質問だってことはつまり明歩にとって重要な部分についての質問だってことだよ。
だから知りたいってこと?
そう。
白澤明歩は照れ隠しでもするかのように笑いポップスのフレーズをご愛嬌とばかりにいくつか弾きながら質問に答え始める。
そろそろ半年くらいかな。親から離れて暮らし始めてから。
もう戻りたくない?
もちろん。
家族を憎んでる?
……憎いっていうのとは違うかな。
どんなふうに?
まあ。なんていうか。家族がいなかったら良いのにと思う。
世の中には家族がいなくて不幸だと主張する人間もいるけど?
その人は幸せな家族というのが普通だと思ってるからでしょ。
自分の場合は違う?
違う。私は家族がいない方が幸せだと思う。
俺に言わせればそもそも家族なんか存在してないというのが真実だけど。
どういうこと?
言葉どおりさ。家族は存在しない。
でもみんなそれが存在するものとして生きてる。
家族が存在しないという事実を実感できない?
たぶんそうかな。誰もがそうじゃない?
俺は違うよ。
どうして?
俺がもし家族の存在を信じてたら俺は明歩が父親に体を売ることを許さない。
それを聞いた白澤明歩の表情が曇った。ピアノを弾く手を止めて膝の上に置き固く拳を握って押し黙る。
つらいのか?
白澤明歩は首を横に振る。
そうじゃない。何か奇妙な感じがするだけ。
……いつか証明してやるよ。家族が存在しないってことを。
…………
そしたらきっと楽になる。明歩。そのときお前は自分を苦しめているものから解放されるんだ。
桐原玲の言葉に白澤明歩は小さくうなずいてみせたが結局それ以上は何も喋ろうとはしなかった。
次の日の夕方になってから歩いて自分の家の前まで戻った桐原玲はそこにスーツを着た二人組の男が立っているのに気付いて立ち止まる。口ひげを生やした横柄な態度の中年の男と眼鏡をかけた三十代半ばくらいの知的で落ち着いた雰囲気を持った男の二人組だった。桐原玲がその場から離れようと踵を返した瞬間眼鏡をかけている方の男が声をかけてくる。
桐原玲だな?
桐原玲は眼鏡の男と目が合うと同時にこれから自分に何が起こるのかを悟ったかのように自嘲的な笑みを浮かべる。横柄な態度の男が見下したような態度で返事しろと叫ぶ。二人組が自分に近づこうとするより早く桐原玲は突然走り出してそこから逃げた。
全力で走る桐原玲がやって来たのは家の近くを流れている川の前だった。眼鏡をかけた方の男は足が早く桐原玲が追いつかれるのは時間の問題でしかなかった。桐原玲は観念したようにそこで立ち止まる。そしてポケットから白澤明歩や売春相手の連絡先とメールの記録が残っている携帯電話を取り出してその川の中へ放り投げた。そこへ眼鏡の男が追いついて来て桐原玲の前に立ちもう一度呼びかける。
桐原玲だな?
それにうなずきを返した桐原玲は再び自嘲とともに眼鏡の男を見て両腕を差し出す。眼鏡の男はその落ち着き払った態度に驚いたような顔をしたが桐原玲がそうしたのと同じようにうなずきを返した。その後ろから今度は口ひげの男が息を荒くしながら追いついて来る。
クソガキ!
罵声とともに殴り掛かろうとした口ひげの男を眼鏡の男が静止する。
その必要は無いですよ。もうこいつは逃げたりしません。
冷静な態度でそう言われた口ひげの男は眼鏡の男をにらみつける。
偉そうに言いやがって。俺の方が何年先輩だと思ってんだ。
先輩とか後輩とかそんなのは今関係ありません。こいつをいたずらに殴ったりする必要がないのは明らかです。
口ひげの男は眼鏡の男をにらんだまま舌打ちした。そして桐原玲に侮蔑的な視線を浴びせてからどこかへ歩いて行こうとする。
そんなら責任持ってそのガキしょっぴいて来いや。
口ひげの男の横柄な言葉に眼鏡の男は返事をせずに桐原玲を見てその手を取る。
行こうか。
桐原玲はその言葉に再びうなずいてから眼鏡の男に導かれて家の近くまで戻りそこに停めてあった車に乗り込んだ。
警察署はすぐそこだから。
眼鏡の男は相変わらず落ち着いた口調だった。桐原玲は自分の唇の端がかすかに震えているのに気付きどうにか平静を保とうとそれを抑えることに集中していた。ガラス窓の向こうで日が沈もうとしていた。幾何学的に設計されたかのように丸い太陽とそこからまっすぐ放射される金色の光が桐原玲の目に映っている。桐原玲は誰にも聞こえない声できれいだなと呟いてから静かに目を閉じた。