最も純粋な子供達のために その16
桐原玲がインターホンで自分の名を告げると黒塗りの自動ドアが音を立てて開く。エレベーターで五階まで上がり部屋のドアをノックすると陰りのある表情の白澤明歩が出迎えた。
久しぶりだな。
白澤明歩は何も答えずに桐原玲を部屋の奥まで案内する。
どうかしたのか?あれ以来何も話してない。電話にも出ないし。
自分達の両親にスワッピングをさせ父親を殺した時から白澤明歩は桐原玲と口を利いていなかった。
俺が怖くなったのか?
白澤明歩は首を横に振って桐原玲をソファに座るよう促す。
そんなんじゃない。私の中で気持ちが整理できてないだけ。
俺があんなことをしたのは間違いだったと思うか?
分からない。あれが私にとって何だったのか全然解釈できてない。だからあなたと上手く話ができそうにないの。
そのうち楽になる。きっと。
そうだといいけど。
なぜあの男を自分で殺さなかった?
なぜ殺さないとけなかったのか分からなかった。
あの男が死んでも別に何でもないということを確認するためだ。お前は俺が殺すのと全く同じようにあの男を殺すことができたはずだ。
私は泣いてたわ。
悲しかったわけじゃないだろ?
そうね。悲しくなかった。嬉しくもなかった。
じゃあなぜ泣いたんだと思う?
私の中で何かが崩れて消えていったから。それは私の上にとても重くのしかかっていたけど同時にあまりに長い時間を私はそれとともに生きて来たから。
その何かというのはつまり家族だろ?
それだけじゃない。それがあることで生まれて来た全てのもの。私の全部であって全部でないもの。私の一部であって一部でないもの。それが一瞬で崩れて消えていった。
それはすなわちそこから明歩が解放されたってことだ。
分からない。それが解放なのかそれとも喪失なのか。それが私には分からない。
解放だよ。俺には分かる。あまりに急激に訪れたから気付かないだけだ。今に少しずつ体が軽くなっていくだろう。
白澤明歩はそれには何も答えなかった。
明歩。お前には音楽があるし俺もいる。それはお前が家族とは無関係に手に入れたものだ。
それはきっと私がその何かから避難して逃げ込むための場所だった。今はそれが私にとってどういう意味を持つことになるのか分からない。
そうか。でもそれはつまり今までは避難場所でしかなった音楽とかについて自由になって考えることができるようになったってことだ。
桐原玲はそう言って部屋の隅に置かれたアップライトピアノを見やる。
何か弾いてみてくれよ。もう何年もお前のピアノを聴いてない。
白澤明歩は顔をかすかに赤くして躊躇していた。
相変わらず俺の前で弾くのは恥ずかしいのか?
ちょっとね。
聴きたいんだよ。ついでに言えば音楽に対してどういう態度を取ればいいのか分からないならそれにとりあえず触れてみるといい。触れながら考えるんだ。
桐原玲は昔そうしていたのと同じようにピアノのある位置に背を向けてソファに座り直す。白澤明歩はそれを見て笑いながらピアノの前に座った。やがて訪れた静寂に身を委ねるように目を閉じて白澤明歩はピアノを鳴らす。そして両手の位置を定めてから一呼吸置いてジョン・ケージのDreamを弾き始めた。不安定な旋律の中にきらめくような美しいイメージが浮かび上がりそうになるがそれは明瞭な形を得る前に幻のように消えてしまう。
Brava!
演奏を終えた白澤明歩に桐原玲が賞賛の拍手を送る。
すごいじゃないか。それに演奏の幅がずいぶん広がった。
桐原玲は素直に感激した顔で白澤明歩を褒めちぎった。
ずっとこればっかりだから。昔も今も。
今それが無くなったとしたら自分は何をすると思う?
分からない。これ以外の何かなんて想像したこともない。
じゃあやっぱりそれを続けるべきだ。それは単なる避難場所である以上の価値をもってるんだよ。
そうかな。
そうだよ。
白澤明歩はじっとピアノの前で内省的な面持ちになって何かをたぐり寄せるかのように和音を奏でる。
作曲はやってないのか?
どうしてそんなに私に作曲をさせたいの?
明歩はそれをすべき人間だと思うから。
どうして?
さあ。明歩がピアノを弾く時はいつも何かを探し求めて演奏しているような感じがするからかな。単純にピアノを弾いてるんじゃなくてそれ以上に深い所まで掘り下げようとしてるように見える。
それはたぶんそうなのかもしれない。いくら掘り下げても何も出てこないけどね。
指先で鍵盤を撫でながら白澤明歩は指先を動かしてビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビイを弾き始める。軽快な音を奏でる白澤明歩はだいぶリラックスした様子でその口元には笑みが浮かんでいた。
もっと深くまで掘り下げろよ。絶対に何か出てくる。良いアイデアが出ないからってそれは才能が無いってことじゃない。何かきっかけをつかめば変わるよ。そしたらきっと良い曲が作れるようになる。
他人の曲を弾くのに飽きたらそうする。
白澤明歩はそれ以上その話をするのを拒むかのように黙ってピアノを弾き続けた。桐原玲はその音に耳を傾けながら窓の外を眺めている。遠くを流れる川は空の色より青が深かった。
まだそのピアノ使ってるんだな。
桐原玲が唐突に思い出したかのように言う。
そうね。
新しいの欲しくないか?
特にそう思ったことは無いかな。
買ってやるよ。
別にいいよ。
そうさせてくれ。俺がそうしたいだけなんだ。
お金は?
たっぷりある。俺がこれから用済みだと思う金は全部明歩にやるよ。
そこで白澤明歩はピアノを演奏する手を止める。
ねえ。
何だ?
あなたいったい何をするつもりなの?
俺がやりたいことをやるだけだ。
また人を殺すつもり?
そう。できるだけたくさん。生ゴミを処理するように。無感動に。不条理に。
白澤明歩が振り返って凛とした顔で桐原玲をにらんだ。
やめて。
強い口調でそう言われた桐原玲は意外だというような顔で白澤明歩をじっと見つめる。
そんなことして何になるの?
そんなことをしないで何になるんだ?
たくさんの人が無意味に死なずに済む。
俺はたくさんの人を無意味に殺すつもりなんだ。
どうして?
全てが無意味で無価値だと示すために。
そんなことしなくてもいいじゃない。友達と始めた仕事が上手くいってるならそれでたくさんお金を稼いでから気ままに暮らすことだってできる。
それは俺にとってはくだらないことでしかない。そんなことがいったい何になる。
それなら他に面白いことを探せばいい。
俺には明歩にとっての音楽みたいなものはないんだよ。明歩には音楽があって俺にはそれがない。
やってみないと分からないでしょ。玲はすごく頭が良いんだから何だってできるはず。
やってみなくても分かるんだよ。俺は頭が良いからな。俺にとってはこの世の全てのものが見え透いた浅薄な存在でしかない。そんなものに興味なんか持てない。
じゃあどうしてあなたは私と一緒にいるの?
今まで流暢に喋っていた桐原玲が突然言葉につまる。白澤明歩から顔を背けて窓の外を見ながらじっと考え込んでいた。
それなら私も無意味で浅薄な存在でしかないはずでしょ。
桐原玲はそれに自嘲で答える。
……正直な話よく分からないんだ。俺は明歩を無意味な存在だとは思ってない。
あなたが今から殺そうとしてる人たちについても特別な感情を抱いてる他人が存在してるはずじゃない?
それはまた別の問題だ。俺はそういう感覚も無意味だと考えてる。
……もうこの話は止めとくわ。でも最後に一つだけ。私はあなたにここにいて欲しいと思ってる。だから私はあなたを引き止めたい。
桐原玲はしばらく沈黙していた。慎重に言葉を選ぼうとするかようにかすかに唇を動かして目を閉じる。
ごめんな。明歩。その言葉は俺を説得することはできない。
白澤明歩は大きく深くゆっくりとため息をついた。その後は二人とも何も言わずに黙ったままだった。
なあ。
桐原玲がようやく呟いた言葉は小さな綿のように部屋を漂って消えていった。
何?
ピアノ。弾いてくれないか。
何の曲がいいの?
しばらく考えてから桐原玲はバッハのカンタータ第百四十七番をリクエストする。白澤明歩は悲しそうな笑顔でいいよと答えてピアノに向かった。桐原玲はソファに仰向けに寝そべって目を閉じてその演奏を聴いていた。身動き一つせず呼吸すら忘れたかのように音も立てず文字通り全身の神経を集中させて静かにその音に耳をすましていた。