Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最も純粋な子供達のために 最終回

 

 かな日々が続いていた。特別なことは何も起きない。気分が苛立ったり落ち込んだりすることも無かった。白澤明歩自身も特別なことは何もしなかった。朝起きてピアノを弾いて食事を取って気が向いたら散歩に出かけそして家に戻ったらまたピアノを弾いて眠りにつく。そういう日々だった。

 白澤明歩はニーノ・ロータロミオとジュリエットを弾いていた。平穏な日々に身をゆだねるように白澤明歩は静かな曲を好んで演奏していた。どんな音もおろそかにせず一つ一つの音を大事にしながらピアノを鳴らす。その演奏は音楽というものが単なる全体ではなく一つ一つの多彩な音によって作り上げられているという事実そのものだった。深い海の底に潜っていくかのように白澤明歩はゆっくりとした呼吸でピアノを演奏しその音の中に自らを沈めていった。

 演奏が終わったとき来客を知らせるインターホンの音がした。白澤明歩は来客に心当たりはなかったが一瞬の間を置いてから受話器を取る。

 はじめまして。加藤龍成といいます。

 白澤明歩は受話器の向こうから聞こえたその名前を知らなかった。

 突然お邪魔してすいません。私は桐原玲の友人です。彼は私の仕事を手伝ってくれていました。

 何も答えずに白澤明歩はじっとしている。あえて黙っているというよりただ単純に何も言えなかった。

 桐原玲がこんなことになってしまってとても残念で悲しいことだと思ってます。

 加藤龍成はゆっくり落ち着いた声で喋っていた。それはまるでインターホンの向こうにいる白澤明歩の表情や呼吸を言葉を交わすことなく読み取っているかのようだった。

 実は今日ここに来たのは桐原玲からあることを頼まれていたからなんです。

 受話器の向こうから数人が重たい者を運んでいるような物音が聞こえた。

 桐原玲は自分がこうなることを分かっていました。だからそうなった時にあなたに贈り物を届けて欲しいと言われていたんです。

 白澤明歩は何を言って良いのか分からず戸惑い結局黙ったままだった。

 今からあなたの部屋に届けてもらいます。たぶん私はあなたに会う必要はないでしょう。だからもう帰ります。私は桐原玲という男をとても気に入っていたし尊敬していました。しかし彼はこの世で生きていくにはあまりに頭が良くあまりに純粋だった。私は彼のことを決して忘れないでしょう。そしてきっとあなたも同じ気持ちだと思います。

 受話器の向こうで静かな呼吸の音が次第に離れていくのを感じた白澤明歩は思わず声を発して呼び止めた。

 待って。

 返事はなかった。しかし受話器の向こうには確かに加藤龍成の気配が残っていた。

 ありがとう。

 白澤明歩がそう言うとしばらくの沈黙が訪れる。そして受話器の向こうにいた加藤龍成が静かに去って行く足音が聞こえた。

 

 

 部屋に届けられた贈り物とは一台のグランドピアノだった。静かな部屋の中で白澤明歩はじっとそのピアノを眺めていた。もうずっと長い時間そのピアノに触れることなく部屋の中を歩き回ってはソファに座りそのピアノをまた眺める。ずっと目にたまっていた涙は流れることなくその代わりに口もとに微笑みが浮かび始めていた。白澤明歩は穏やかな気分のままだった。夜になるとピアノのそばにソファを置いて寝そべりその日はそのまま眠りについた。そして朝になって目を覚ましたとき同じようにそこにあったピアノを見て微笑みを浮かべる。

 おはよう。

 白澤明歩は独り言を呟く。そしてピアノに近づいてつやのある黒い表面をなでながら椅子に座った。蓋を開くと朝の光の中で真白い鍵盤が輝いていた。白澤明歩はその鍵盤に指先だけをそっと乗せる。そしてそれからしばらく優しい声で鼻歌を歌いながらピアノを鳴らすことなくほんのわずかに指を動かしていた。

 

 やがてその指の動きを止めて微笑むと確信に満ちたような表情になり鍵盤に指を落とす。そしてそのまま流れるように指を運んでピアノを演奏し始めた。誰も聞いたことのない音がその指とピアノからあふれ出していた。白澤明歩は目を閉じて自らの奏でる音に耳をすましながら一つの音楽を完成させていく。それは白澤明歩の手によって初めて生み出された音楽でありそしてこの世の誰も聞いたことのない音楽だった。白澤明歩はその曲に題名を付けた。二人で始めよう。それがその曲の名だった。