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Teoreamachineの小説ブログ

セルバ・ラカンドナの第6宣言 その4

 

 我々の見る祖国メキシコ

 

次は祖国メキシコについての見解をお話しする。思うに、我が国は新自由主義に支配されている。すでに説明したように、指導者たちが国を、祖国メキシコを破壊しているのだ。低劣な指導者たちの仕事とは、人々の幸福に心を尽くすのではなく、代わりに資本家たちの幸福を気にかけることになっている。FTAのようなルールづくりがいい例で、多くのメキシコ人小作農民、零細生産者は農工業を手がける巨大企業に食い物にされ、終いには貧しいまま抜け出せなくなるだろう。巨大多国籍企業と競争する力のない労働者と零細企業者も同様だ。しかし巨大多国籍企業がやって来ることに口をはさむ者などいないし、逆に感謝する者さえいるだろう。そして賃金は低下し、物価は上昇する。地方、産業、国内商業などメキシコの経済基盤のいくつかは手ひどく壊されてしまい、買い叩かれることが確実なガラクタしか残らないのだ。

 

それらは我々の故郷にとって酷い侮辱となる。食料を地域で生産できなくなり、大資本家が売るものだけになる。良質な土地は政治家たちの手助けする詐欺行為によって略奪されている。それら地域で起こっていることはポルフィリオの時代と同じだが、今ではアセンダード(大農場主)の代わりにわずかな外国のビジネスマンがいて、小作農民たちから紛れもなく詐取を行っている。以前は信用と価格を保護していたのに、今は単なる施しがあるだけで、時にはそれすらないこともあるのだ。

 

工場閉鎖にみまわれた都市の労働者たちはといえば、雇用がない状態で放置されるか、さもなければ資本家たちがいわゆるマキラドーラを始める。外国からやって来た連中は、長時間の労働に対してスズメの涙くらいの金しか払わないだろう。もはや金などないので、人々が必要とする商品の価格は高いとか安いとかそういう事とは無関係になる。かつて中小企業を営んでいた者は巨大多国籍企業に買収されてしまい、もはや廃業状態だ。零細企業を営んでいた者については同様に消えてしまったか、ひっそりと巨大企業のために働いている。巨大企業はひどい搾取を行い、小さな子供たちですら働かせる。合法的に権利を要求しようと労働組合に参加してみれば、賃金の低下や自分の時間や利益を奪われることに耐えろと言われてしまう。もしそうしなければ、企業は閉鎖を決定し、どこか別の国へと移転してしまうからと。後に残るのは"ミクロチャンガロ(個人商店)"と呼ばれる政府の経済施策で、都市労働者たちは路地の隅っこへ追いられガムやテレホンカードを売らされる。つまり、都市においても同様に経済の絶対的な崩壊が起きているのだ。

 

そこで起こっていることは都市も地方も同様で、人々の経済活動がとことんめちゃくちゃにされているということだ。多くのメキシコ人たちは故郷の土地を離れなければならなくなり、もう一つの国アメリカで仕事を探すことになる。アメリカではあまり良い扱いなど受けられず、搾取され、迫害され、軽くあしらわれ、殺されることすらある。卑劣な政府が課した新自由主義の下では経済は発展しなかった。実際は正反対と言えるほどに、地方では物資が不足し、都市では仕事が無くなっている。そこで起こっていることは、メキシコという所が、金満家の白人たちに代表されるような外国人たちの富のために人々が働く場所になったということだ。ここにあなたが生まれてくれば、泡沫のような生と死があるだけだろう。だから我々が言うように、メキシコはアメリカに支配されているのだ。

 

それだけではない、新自由主義はメキシコの政治家階層及びそこに属する政治家たちもまた変化させた。彼らは店舗の雇われ従業員のようになり、手当たり次第の物を相当な安値で売りさばくために何でもするようになったのだ。すでにご存知のように連中はエヒード(農業用共有地)や地域共有地を売ってしまおうと、憲法27条を無効にする法律改正を行った。サリナスとその取り巻き連中は、それが地方とその小作農民にとって良いことなのだと吹聴し、そんなふうにして優雅な暮らしを手に入れたのだ。果たしてその結果はどうだろう? メキシコにおいて地方はこれまで以上に悪い状態になり、小作農民はポルフィリオ・ディアスのころよりもっとひどい詐取を受けている。しかも連中は外国人への売り物を求め、この期に及んでさらなる民営化を進めようと言うのだ。国の保護によってこそ企業は民族の幸福を守ることができるようになるというのに。連中が言うには、企業は充分に機能しておらず、近代化される必要がある、そうすればもっと良い売り物になるはずだということらしい。しかし発展と引き換えに、1910年の革命で勝ち得た社会権が今人々に与えるようになったものは悲しみ……そして忍耐だ。連中はさらに、国境は開かれるべきで、そうすれば全ての外国資本が入ってきて、メキシコの産業は立ち直り、物事は良い方向へ進むだろうと言う。しかし我々の目に明らかなのは、国内に産業は無く、そんなものは外国人たちが食い散らかした後で、そこで流通している物はかつてメキシコ国内で作られていたものに比べて粗悪だということだ。

 

メキシコの政治家たちはペメックス(メキシコ国営石油会社)を売り込みたがっている。石油は全てメキシコ人の共有財産だが、ただ一点において人々は相剋しており、一方は全てを売り物だと考えるが、一方はほんの一部だけを売り物にすべきだと考えている。政治家たちは社会保障、電気、水、森林、その他全てというように、メキシコに何も残らなくなるまでとことん民営化を遂行しようとしており、このままでは祖国が荒野または世界中から寄って来た金満家たちの娯楽の場となってしまうだろう。我々メキシコ人は彼らの召使いとなり、彼らのお恵みに頼るようになり、粗末な家に住み、ルーツを失い、文化も失い、終いには故郷も失うだろう。

 

結局、新自由主義はメキシコを、メキシコ人の故郷を抹消してしまいたがっているのだ。政党はそれを守ろうとしないばかりか、彼らは率先して外国人、特にアメリカ人の世話になろうとする。彼らこそが、我々を欺き、全てが売り物にされている中で我々の目を逸らさせている張本人であり、後は金を持ってどこかへ消えてしまうだけの連中だ。いま存在している政党の全てがそうだ。いくつかの政党だけがそうだということではない。これまでに満足のいくように政治が行われてきたかどうかを考えてみればいい、そこにあるのは盗みと騙しがあっただけではないか。政治家たちがいつでも良い家に住み、良い車に乗り、贅沢をしている様を考えてみればいい。それでいて、なおも政治家たちは我々に感謝を求め、再び票を入れさせようとする。連中の言葉に表れているように、政治家とは明らかに恥知らずなのだ。なぜなら実際のところ連中が抱えているのは愛郷心などでなく、銀行口座だけなのだから。

 

麻薬密売と犯罪の数も非常に増えてきている。ときに我々は犯罪者というものを歌や映画に出てくる姿そのままに考えてしまう。犯罪者の中のいくらかはそういう感じなのかもしれないが、実際の犯罪者というのは別物だ。実際の犯罪者は良い身なりをして往来を闊歩し、留学の経験があったり、優雅なふるまいをしたり、こそこそ隠れたりはせず、高級レストランで食事をしたり、新聞の紙面を飾ったり、パーティを開けばとても素晴らしい着こなしを見せたりする。彼らの言うとおり、彼らは”名士”であり、役人、上院下院の議員、省庁の大臣、大実業家、警察署長、将軍だったりすることさえある。

 

我々が言いたいのは、政治が何の役目も果たしていないということだろうか? いや、そうではない。我々が言いたいのは、前述したような政治が、何の役目も果たしていないということなのだ。先住民のことなど顧みない政治は、無用の長物でしかない。先住民たちの声に耳を塞ぎ、注意などいっさい払わず、選挙のときにだけすり寄ってくる。連中は世論調査で誰が勝つのか分かりきっているので、もう実際の投票などして欲しくないとさえ考えたりする。あれもやる、これもやると約束だけして別れを告げ、また会おうと口にはするが二度と会えた試しはない。会えるとすれば既に大金をせしめた後にニュース登場するときくらいで、しかも連中は法に守られ裁きを受けることはない。そして同じ政治家たち自身が、法を作っているのだ。

 

そこには別の問題があるのだ。メキシコ憲法は隅々に渡って歪められ変えられてしまった。もはや、かつて労働者たちの権利と自由を内包していたころの面影はなく、今では新自由主義者たちが莫大な利益を稼ぐための権利と自由を内包している。司法は新自由主義に仕えるために存在し、彼らの裁量は新自由主義者を後ろ盾するためのものばかりで、金のない物は不公平な扱いを受け、投獄され墓場に送られる。

 

こういった新自由主義者たちの狼藉の数々について、メキシコ人の中には自らを組織して抵抗運動を開始した者がいる。

 

我々のいるここチアパスから遠い土地でも、我々は先住民たちの姿を見る。彼らは自律性を築いており、自らの文化を守り、自らの土地、森林、水を大切にしている。

 

地方で働く人々、小作農民たちが組織を作り、地方への信用と支援を求めて行軍を行い、数を増やしていく。

 

都市の労働者たちは権利を奪われ仕事が民営化されていくのを容認せず、ほんのわずかな財産が奪われないように、祖国のあるべき姿が奪われないように、抗議とデモを行う。実際に電気、原油、社会保障、教育などのようなものは、すでに奪われてしまっているのだ。

 

学生たちは教育が民営化されていくのを容認せず、自由で人々の求めに応じた科学的な教育のために闘う。高い学費を要求されたり、馬鹿げたことを学校で教えられることなどごめんだと思い、分け隔てない教育が受けられることを求めているのだ。

 

女性たちは自分たちが女性であるという理由で装飾品のように扱われたり辱めや軽蔑を受けたりするのを容認せず、女性であるということに対する尊敬を求めて組織を作って闘う。

 

若者たちはドラッグや自分たちのあり方への迫害によって無価値であるかのように扱われるのを容認せず、自らの音楽、文化、反逆をもってその存在を示威していく。

 

ホモセクシャル、レズビアン、トランスセクシャル、その他様々な生き方をする人々は、他人と違った趣向を持っていることで異常者や犯罪者のように扱われ、侮辱、軽蔑、虐待、さらには殺人といったような行為の被害者になることを容認せず、自分たちの組織を作り、多様性への権利を守ろうとする。

 

司祭と修道女あるいは部外者と呼ばれる金持ちでもなく隠居でもない人間たちは、組織を作り先住民たちの闘争に協力してくれる。

 

社会活動家たちは、搾取を受ける人々、大規模なストライキや労働運動、市民集会、小作農民による運動に参加する人々、ひどい抑圧に苦しむ人々、年老いてなお屈しない人々、そういう人々のために全身全霊をかけて闘う。そして彼らは闘争を探し出し、正義を求めて様々な組織を立ち上げる。左派支援組織、NGO、人権団体、政治犯や政治的暗殺の標的、あるいは左派思想についての出版活動を保護する組織、教師と学生たちの組織、社会闘争、あるいは政治的軍隊組織でさえも。彼らは沈黙を拒むだけの存在ではなく、多くを見て、その中で生き、闘ってきたために、知識も豊富なのだ。

 

我々の祖国メキシコを見渡してみれば、我慢の限界に達し、屈服せず、自らを身売りすることを拒む人々がたくさんいる。尊厳を持った人々のことだ。こういう人々を見るのはとても嬉しく、幸せなことだ。これら全ての人々にとって新自由主義に勝つことは決して容易ではないが、しかしおそらく我々の故郷を政治家や資本家たちの行うひどい盗みと破壊から救い出すことは可能だろう。我々がずっと語ってきたこの”我々”という言葉の中に、きっとこういった反乱を起こす人々が含まれるようになっていくはずだ……

 

 

セルバ・ラカンドナの第6宣言 その5へつづく――