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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

君の代わりに その13

 

 しばらく、というか、けっこう長い間、「彼女」は実際にそうすることを躊躇していた。母親に会いに行く、と宣言はしたものの、無理もないかな、もう子供の頃から、ずっと避け続けてきた相手なのだ。旅館でだらだらしたり、四条三条界隈をぶらぶらしたり、ちょっとした観光地へ出かけてみたりするが、肝心の母親のところに行く素振りはない。

 母親が精神病院にいる事情は、「彼女」も聞いた話でしか知らないと言う、もともと精神的に不安定で、体を売ったり男に依存したりしながらギリギリのところで生きてきた母親は、徐々に心を病み始め、抗鬱剤を飲んで通院していたが、症状は悪化、さらに若年性アルツハイマーの気が出てきて、精神が荒廃し、とうとうある日、歓楽街の入り口に全裸で座り込み、意味不明のことを叫んでいたところを保護されて、結局入院してしまった、ということらしい。数年前、「彼女」がまだ喋れたころの話で、生活保護を受けていた母親の、担当ケースワーカーが、どういうルートでか「彼女」の連絡先を調べ、連絡してきたということだった。

 「いい気味だ、ってその時はちょっと思った」

 母親の惨状について、「彼女」はそう言った。

 「やっぱり憎んでたんだね」

 「憎んでたっていうのはやっぱり違うかな。別に、こっぴどく虐待されたとかじゃなくて、単に育児放棄に近い形で、あの人はまともに私を扱うことができなかったっていうだけ、とことんだらしない人間だったの。そうじゃなくて、私はあの人が嫌いで、軽蔑してた。一番好きになれず、尊敬できない人が、たまたま一番近いところにいたっていう感じ」

 「親だからこそ、じゃなくて、たまたまだった?」

 「そう、たまたま。親と自分は全く別の人間で、そこに、世の中の人たちが信じてるような、無条件の絆や愛みたいなものはないっていうことを、私は人生のかなり早い段階で気づいてしまったから、反抗期の中学生みたいに、親を憎むことはしてなかったと思う」

 「でも、いい気味だっていうのは、いくらかの憎しみが無いと出てこない感情だろ」

 「どうかな。確かに、私は完全に母親と自分を切り離すことができてないのかもしれない」

 「そうだよ、だって、もし完全に切り離せていたら、母親に会いに行こうなんて、思うはずがない」

 「確かにそうね、でも、それが私自身の問題なのか、そういう絆を必然とみなす通念にそうさせられてるせいなのか、それは分からないけど」

 「あるいは両方」

 「単純な答えね、答えのようでいて、それは答えじゃない」

 「じゃあ、質問を変えよう。これから母親に会いに行くのは、自分と母親を切り離すため? それとも、何らかの絆を見出すため?」

 僕にそう聞かれた「彼女」は、じっと黙っている。物事を上手く考えられなくなってしまったかのように、ぼんやりと、視線を宙に放って動かない。

 「君が望んでいるのは、どっち?」

 何時まで経っても喋ろうとしない「彼女」に、僕はさらに質問する。「彼女」はそれでもずっと考えている、あるいは、考えていない。

 「……望んでいるとか、いないとか、そういう問題じゃない、と思う。私にできるのは、母親に会ってみて、何かが起ころうと、何も起きなかろうと、その結果を受け入れるだけ」

 「それなら、どうして君は決心を付けられないんだ」

 この数日間、「彼女」は母親の所へ行こうとしないだけでなく、その話すらしなかった。このままではいけないと思った僕が、それとなく母親のことを切りだして、ようやく得たのが、その母親の境遇及び精神病院にいる事情についての情報だった。

 「たぶん、怖いの。母親に会うことそのものが、じゃないわよ? そうじゃなくて、それが私にとってどうでもよくなった過去の出来事のように思っていても、ホントは、私の意識の奥底で、それがとてつもなく大きな問題になっていることだったらどうしようって考えるの」

 「深層心理、みたいな?」

 「そうよ、意識の上では平気でも、実は、みたいなことだったら、私はどうなるんだろうって思うの」

 「それは、自分でそう思うから、そういう深層心理の問題が作り出されてしまうんじゃないの」

 「でも、それが作り出されてしまえば、それが私の現実になってしまう。だから、もう分からなくなるのよ、そう思っているせいでそうなっていることだろうが、思ってなくても深層心理でそうなっていることだろうが、そのことで、何かの結果が引き起こされてしまえば、どちらにしろ、それが私の現実になる」

 「難しい悩みだな」

 「ちょっとでもそれを考え始めた時点で、すでに手遅れよ」

 「でも、やめておくっていう選択肢は、ないんだろ?」

 僕にそう言われると、「彼女」ため息をついて、窓の外を見る、いつの間にかアジサイは散って、にぎやかさは遠ざかり、庭の緑が、穏やかなささやきのように、部屋の中に届いていた。

 「覚悟を決めなよ」

 僕は「彼女」にせまる、これ以上引き伸ばすのは、たぶん、「彼女」にとってよくないことのような気がした。普段は他人の意思決定に干渉することを控える僕だったが、今までとは違う弱さや曖昧さや優柔不断さを見せている、らしくない「彼女」を、このままにさせるべきではないと思い、あえて決断を促す。

 「……ついてきてくれる?」

 「彼女」の目が、僕をのぞき込む。真っ黒い服とコントラストをなすヘーゼル色の瞳は、あいかわらず美しい。

 「もちろん」

 僕は、ちょっと大げさなくらいにうなずいてみせる。「彼女」はほほ笑み、ほとんど聞こえないくらいの声で、「ありがと」、と呟いた。

 

君の代わりに その14へつづく――