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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

君の代わりに その14

 

 月に入った京都の街を、僕と「彼女」は抜けて行く、祇園祭の賑やかさに泡立ち始めた通りには、観光客と思しき、街の空気から浮き上がった人たちが、キョロキョロとして歩いていた。そういう人たちの、顔、声、息づかい、体温によるいきれ、肌を湿らす汗、そいういうものが、僕にはハッキリと感じられている。なぜなら、僕と「彼女」は、その場にいる誰も彼もと、全く別種の人間になっていたからだ、そこにいるどんな人間とも、僕と「彼女」は共通項を持たない。僕も、おそらく「彼女」も、奇妙な高揚感と緊張感の中にいて、感覚は、あるいは感受性は、恐ろしいほどクリアだった。視覚も聴覚も嗅覚も触覚も、境界を保ちながら混ざり合って、僕は目で見たものに触れ、耳で聞いたものを嗅いでいた。

 「まるで、自殺しに行くみたい」

 ぽつり、「彼女」がそんなことを呟く。母親に会いに行く、押入れの奥に仕舞い込んであった小箱を開けるかのように、もう何年も目を向ける事のなかった部分を、直視する、それは「彼女」の欠損でありながら、「彼女」の人格を構築する基盤のようなものになってしまっていた、だから、「彼女」にとって母親に会いに行くということは、「彼女」がいくら平気な顔をしていても、まるでその基盤を壊して人格を崩壊させ、自殺を図ってしまうような気分にさせることなのだ。実際には、たいしたことはないのかもしれない、が、「彼女」はひたすら戸惑っている、予測がつかないのだ、予測がつかないことに対して、人は、どれほどの知性と豪胆さを備えていようと、戸惑い、恐れる以外にはない。

 電車からバスに乗り継いで、僕と「彼女」は目的地を目指す、「彼女」は明らかに緊張して、何も喋ろうとしない。その「彼女」の、不思議な種類の緊張が僕にも伝わってしまう、景色の見え方も、何だか普段とは違っていて、視界の中心が奇妙に膨張して浮き上がっているようで、窓の外を流れるそれは、まるで波をうつように通りすぎていった。

 「母親について、何も、いい思い出はないの?」

 じっと考え込んでいる「彼女」を、そのままにしておくほうがいいんだろうかと思いつつも、僕は、そういう質問をしてみた。「彼女」は混乱している、だから、その考えを整理するために、何か喋っておくという手段もありなのではないかと考えたからだ。案の定、「彼女」はしばらく黙っている、僕の質問を不快に思っているという感じではないが、まるで聞こえていなかったかのように、宙を見つめ、唇を軽く噛んで、物思いに耽っている。

 「特にないわ、かといって、悪い思い出も特にない。基本的に、あの人は無関心だったから、私にも、自分にも。寂しさと居心地の悪さが、抽象化されて漂っているような、そういう人格、それが私の母親だった」

 「そっか」

 ようやく喋った「彼女」に、僕は特につっこまないようにした、いったい、「彼女」にどこまで言葉にさせるべきなのか、それがよく分からない。

 「ただ、一度だけ……」

 促すでもなく、離れるわけでもなく、何とないニュートラルな状態でいた僕に、「彼女」の方から話し始める。

 「もう小さい頃だし、はっきり覚えてもいないけど、一度だけ母親がケーキを買って帰ってきたことがあったような気がする。どこかで食べて、それが美味しかったから、あんたも食べなって言いながら、私にそれを買ってきてくれたの」

 「いいと思うよ、特別じゃなくて、ありふれた感じだけど、そういうのが、逆にすごくいいっていうか」

 「自分が食べておいしかったっていう喜びみたいなものを、だれかと共有したかったのね。孤独で、自分を持て余していた人だったけど、そういう人間味みたいなものは、失っていなかったのかもね」

 「うん、そうだね」

 「でも、その思い出が、本当の思い出なのかどうかっていう自信はないの。子供の頃の私が、やっぱり寂しさのせいで、無理に作り出した記憶かもしれない」

 「そういうこともあるかもしれないけど、でも、やっぱり本当かもしれない」

 「それを確認する術はないわ、当の母親も、すでに心がボロボロになってしまってるから。変な記憶なの、何歳の時かも分からない、母親がどこでそのケーキを食べたのかも買ったのかも分からない、どんなケーキだったのかも分からない、母親のそのひと言と、なぜか、そのケーキを食べようとする私が握りしめた、銀色のフォークだけが、妙に鮮明に浮かび上がるの、変な記憶、私の頭の中にあるのに、常に外から降ってくるような、そういう思い出しかたしかできない」

 僕は、少し考えこむ、「彼女」のその記憶の正体に見当をつける、知識も何もなくて、思考は頭の中で空回りしていた。

 「たぶん、本当の記憶だよ」

 「何でそう思うの」

 「さあ、何となく」

 「そうであればいい、っていうことじゃないの」

 「そうかもしれない」

 「そのほうが良いのかしら」

 「そうであって欲しくないの?」

 「そうじゃなくて、その記憶が本当だろうと幻想だろうと、それが私にとって、どういう意味や価値があるんだろうっていうか」

 「……純粋に、君はどう思うの?」

 「どうって?」

 「つまり、意味とか価値とかよりも、そうあって欲しいのか欲しくないのか、そうだったら嬉しいのか嬉しくないのか、そういうことさ」

 ふっと我に還ったような顔で、「彼女」は僕を見つめてから、何だか気まずそうに視線を軽くそらし、僕の、あごのあたりにその視線を留めると、そのままじっと考えていた。

 「分からないわ、やっぱり」

 「自分の感情が?」

 「うん……でも、誰かが私のことを考えているっていうのは、やっぱり嬉しいことのような、気がする」

 僕は、戸惑っている様子の、ちょっとらしくない「彼女」の姿がどこかおかしくて、クスリと笑う。

 「何笑ってんの?」

 「いや、何だか、ようやく素直になってきたなと思って」

 「からかわないでよ」

 「お互い様だ」

 すねたようなそぶりで、「彼女」は窓の外へそっぽを向ける。僕はそれがおかしくて笑っていた。僕も「彼女」もいくらかリラックスすることができて、少なくとも「彼女」の顔からは悲壮感のようなものは消えていた。「彼女」はこれから母親に会うことを恐れていたし、僕はその恐れを感じ取っていた。僕に何が出来るのかは知らないが、僕はできるだけのことをしてあげるつもりでいる。「彼女」はどうなってしまうのだろうという思いと、「彼女」はやはり「彼女」のままで、何か憑物でも落ちたように、ケロリと言葉を話せるようになるのではないかという思いが、僕の頭の中で浮かんだり沈んだりしている。

 バスは山道へ入り、景色は流れている。まだ、景色は波をうっていた、やってくる波の向こう、茂る木々のぐるぐると回る緑に、僕は酔いそうになる。「彼女」には、この景色がどう見えているのだろう、僕は、「彼女」と同じ景色が見たかった、それを知る術はなくても、今、僕は孤独になりたくなかったし、「彼女」を孤独にしたくはなかった。「彼女」は僕の方を見てはいない、じっと、窓の外の、一枚の絵が繰り返される紙芝居のような、景色を見つめたままでいる。

  

君の代わりに その15へつづく――