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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

君の代わりに その17

 

 「日記、書いてるの?」

 窓際のテーブルでノートパソコンを広げてカタカタやっていた僕に、「彼女」が話しかける。「彼女」は、何でもないふうを装いつつも、ずっと青ざめた顔をして、心はここにあらずという感じで、あまり良い状態とは言えなかった。僕の方を見ているが、目を合わすことは恐れているかのように、視線は遠くに遊離して、常にブレて定まらない。真っ黒いシャツのそでを、落ち着きなく指先でいじりながら、古い映画の病弱の婦人のように、力なく息を吐いている。

 病院からの帰り道も、旅館に戻ってからも、「彼女」はあまり喋ろうとしなかった、そして、僕もあえて喋ろうとはしない。「彼女」は動揺していた、そして、情けない話だが、僕はどうしてあげたらいいのか分からない、つくづく、自分は幼稚だと思わざるを得ない。僕も一緒に、動揺してさえいる、日記を書いても、それが、僕が「彼女」の代わりに「彼女」について書いているものという前提がありながら、もはや、いったい誰が誰のことを語っているのか、つかめなくなっていた。

 「まあ、これが僕の仕事になってる以上は、とりあえずであっても、書いておかないとね」

 しばらくの間を置いて、僕は「彼女」の質問に答えた。「彼女」は、特に感慨もなく、ああ、そう、とため息のように頷く。

 「疲れてる?」

 それからまた沈黙が続き、気まずい雰囲気になりかけたところで、僕は苦し紛れにそんなことを聞く。

 「ちょっとね、どうやらそうみたい」

 弱々しい声だった、強がろうという気概など、微塵もない。

 「もう、寝たほうがいいかな」

 変に遠慮がちな態度で、僕は言う。つい昨日まで、だいぶ打ち解けてきて、まるで友達みたいになっていた僕と「彼女」は、また初めて会った瞬間に逆戻りしたかのように、よそよそしく、ぎこちなかった。

 「そうね」

 やはり、「彼女」の声はため息のように漏れるだけだった。僕はノートパソコンを閉じて、たいして眠くもなかったけど、横になることにする。白くて柔らかいふとんに身を投げ出すと、仰向けになって、天井を見つめ、ゆっくりと息を吐く。旅は、終わろうとしていた、いつ、どんなふうに終わるとも「彼女」は明言していなかったけど、たぶん、これ以上ここにいることはできないだろうし、これから別の場所に行く可能性もなさそうだ。しかし、いったい「彼女」はどうするのだろう? 何も解決してはいない、解決するかもしれないという期待を、潰しただけで、あとはどうしようもない、言葉を失った女性が、独りぽつんと残るだけ。そして、僕は? たまたま「彼女」からの依頼のおかげで多少のお金を得て食いつなげても、これからどうなってしまうのだろうか。たぶん、僕がやっているこの仕事では、満足のいく収入を得られることはないだろう、僕は自由になったけど、結局は崖っぷちまで追い込まれている、これは自由の代償か、あるいは、自由を捨てる代償によって、僕は生存するべきなのか。社会は、なぜ人を自由にしないのだろう、社会は、なぜ、「彼女」が喋るべき言葉を与えないのだろう。人が社会を破壊したいと思うのは、こんなときなのだろうか、ならば、なぜ、この社会は、こんなにも安穏として、のうのうと、生きながらえているのだろうか。なぜ、みんなは、僕のように自由を求めないのだろう、なぜ、みんなは「彼女」のように、誠実な苦しみのなかで言葉を失わないのだろう。僕は独りだ、そして、「彼女」も独りだ、互いが、別々の孤独の中にいる。僕の、他人の代わりに書くという行為は、その孤独に、どこまで深く入っていけるだろう。たぶん、結局は、その入り口で立ち尽くしてしまうだけなのだ、他人は、他人でしかない、僕には絶対に理解不可能で、絶対に支配不可能なもの、それが他人というものなのだ。ならば、僕はいったい何をやっているのか。目を閉じて、三つ数えて、目を開ける、僕はそれを繰り返す、目を開けるその度に、この世界が、ばらばらになってくれていれば良いと願いながら。そして、僕と「彼女」は、荒野の上で再開するのだ、孤独や自由といった言葉が、もはや意味をなさないような、そんな荒野の上で。

 ふと、「彼女」の気配がして、僕はそちらに目をやった。無表情のまま、わずかな間だけ、僕を見つめ、そして「彼女」は、僕の横に敷かれたふとんに横になる。沈黙が重くて、なんだか居心地が悪い。互いに横になり、僕も「彼女」も、天井を見つめたままでいる、僕は目が冴えて眠くはない、たぶん、「彼女」も、ホントは眠くなどないのだ。

 「ねえ」

 ぽつりと、「彼女」が口を開く。ひどく憂鬱な口調で、沈黙は和らぐことなく、さらに重苦しい、息が詰まりそうなくらいの雰囲気になる。

 「何だよ」

 「別れた恋人のこと、忘れられそうにない?」

 「まだそんなこと聞くのか」

 「答えてよ。別に、からかうつもりなんかないし」

 「分からない」

 「分からない?」

 「確かに、ずっと頭には残ってるけど、ホントにヨリを戻したいとか、そんなふうに思ってるのか、分からないんだ」

 「じゃあ、これから忘れていくの?」

 「どうかな」

 「ずっと忘れられなかったら? 私が母親にそうしたように、いつか、会いに行ったりするの?」

 「しないよ」

 「何で?」

 「何でって、会いたいというほど、強い思いじゃないんだ。バカみたいだけど、なんか中途半端なんだ」

 「バカみたいなの? そういうのって」

 「だってそうだろ、前にも後ろにも、進めなくなってる。忘れるかヨリを戻そうと頑張るか、ホントはどっちかしかないはずなのに」

 「そうね。確かにバカみたいね」

 「やっぱり、僕のことからかってるだろ」

 「違うよ、そうじゃない、だって、私もそうだったんだから、母親に会いに行くことも、切り捨てることもできなかった」

 「僕の問題は、君のやつほど深刻じゃない。きっと、そのうち、どうでもよくなる」

 「そうかな」

 「そうだよ。結局、慣れてしまうんだ、そういう痛みに。ある意味利口で、ある意味バカなのさ、人間ていうのは」

 「彼女」は黙る、何か、考えているかのように。ぼんやりとした間接照明の光が、僕と「彼女」を照らしている。互いに、互いの姿を見てはいない、ずっと、天井ばかり見ている。

 「ねえ」

 また、同じような調子で、「彼女」が話しかけてくる。だから、僕も同じように返事をする。

 「何だよ」

 「その恋人と、もう一回セックスしたいって思う?」

 「変なこと聞くなよ」

 「答えて」

 「したいんだろうか……。たぶん、したいんだろうな。なんか、自分でもバカみたいだな、まあ、笑ってくれ」

 でも、「彼女」は笑わなかった。沈黙の中で、「彼女」が唾を飲み込む音が聞こえた。

 おもむろに、「彼女」がふとんから体を起こした、そして、急に僕の顔を見つめる。

 「どうした?」

 「彼女」が、じっと僕の顔を見たままでいる、なんだか思いつめているが、その表情に力は無い。

 「目、つぶってて」

 「は?」

 「いいから、横になったまま、目をつぶって」

 妙に強い口調で言われて、僕は言われるがままに、ふとんに横になったまま、目をつぶる。そのそばで、ごそごそと「彼女」が動く物音が聞こえていたかと思うと、どさっ、と僕の腰のあたりに重い物が乗った感触があった。

 「おい――」

 「いいから、じっとしてて。絶対、目、開けないでね」

 ほとんど怒ったような声が、僕の頭上から聞こえる、「彼女」が僕の上に馬乗りになり、僕を見下ろしているのだ。衣擦れの音がした、目をつぶった僕の上で、「彼女」がシャツを脱いでいる。

 「想像して」

 「何を?」

 「あなたの、別れた恋人のこと」

 僕は言葉を失う。何だ? いったい「彼女」はどうしてしまったんだ? 僕は困惑して、この状況をどうすればいいのか分からない。僕は「彼女」を拒絶したくはなかったが、どう考えても、おかしなことをやっている。

 「そう、動かないでね」

 わけもわからずじっとしている僕の、上着を脱がせた「彼女」は、僕の裸の胸に、そっと唇をはわせる。冷たくて、柔らかい、濡れた感触が、ゆっくりとみぞおちの辺りまで降りていった。同時に、「彼女」のなめらかな肌が、僕の腹の上をすべっていく。

 「私を、あなたの恋人の代わりに使って欲しいの」

 「何でそんなことを?」

 僕は目をつぶったまま、「彼女」のおかしな要求に抵抗する。

 「いいから、お願い」

 「でも……」

 「黙って。これも、あなたの仕事。だから、私の命令は聞いてもらう」

 「彼女」の指が、ためらいがちに僕の体を伝いながら、僕の下着にかかる。そこで、僕はとうとう「彼女」の手首をつかんだ。

 「やめろよ」

 「いやだ」

 まだ、「彼女」は僕の下着をつかもうとしていた、だから、僕は自分の腕に力をこめて、その動きを制止する。

 「やめろ!」

 僕は叫び、そして同時に目を開けた。目の前には、僕の上に馬乗りになった「彼女」がいる、黒い下着姿で、唇を噛み、僕をにらみつけていた。僕と「彼女」は、そのまま見つめ合う、「彼女」は興奮して、肩が動いてしまうくらい、獣のように、荒く息をしていた。

 「落ち着けよ」

 「私は落ち着いてる」

 「嘘つけ」

 とうとう押し黙った「彼女」の腕から、徐々に力が抜けて行く、それを確認して、僕はようやく、握りしめて拘束していた「彼女」の手首を解放する。唇を噛んだままの「彼女」はうつむいて、じっとしている、荒くなっていた呼吸はだんだんとペースがゆっくりになっていった。だが、次の瞬間、僕の腹の上に、ポタポタと暖かいしずくが落ちてくる。「彼女」は泣いていた、顔を紅潮させ、泣き顔を僕に見られないようにふせたまま、声を押し殺して、震えている。僕は何も言うことはできず、しばらく、その姿を眺めているしかなかった、必死でこらえ、手で顔を覆っていても、少しずつ、「彼女」の涙が僕の上に落ちてきていた。僕にはどうすることもできなかった、どうすることもできない情けない自分をぶん殴りたいと思うくらいに何とかしてあげたくても、僕にはどうすることもできない。僕は体を起こし、せめて、「彼女」を抱きしめようと思って手を伸ばした。だけど、僕の手が「彼女」の肩に触れた瞬間、「彼女」はまるでおぞましいものを払いのけるかのように、激しい動きで、僕のその手をはじき飛ばす。そしてそのまま床に落ちていた自分のシャツを拾い上げ、立ち上がると、「彼女」はトイレに駆けこんで、部屋が振動するぐらいの音をさせてドアを閉めてしまった。僕は呆然としていた、「彼女」に弾かれた手が、痺れるくらいに、ひどく痛んでいる。トイレに閉じこもった「彼女」の嗚咽を聞きながら、僕はしびれた手を押さえていた。どうしようもないほど恥ずかしかった、自分の浅はかさが、嫌で嫌でしかたなくなる。いったいどうして、僕は、「彼女」に何かをしてあげられるなんて思ってしまったんだろう、ひどい思い上がりじゃないか、そんなの。ひどく残酷なことだけど、僕らは誰でも良いということが常態的な世界で生きているのに、誰の代わりにもなることができないのだ。

 

 

君の代わりに その18につづく――