君の代わりに 最終回
「何してんの?」
とうとう僕の目の前に現れた「彼女」は、開口一番そう言った。僕は、ずっと待っていた「彼女」の登場に、ぽかんと口を開けてしまう。予期していなかったのだ、僕はそれまでのようにメールを送り続けていたものの、特別なことを何かしたわけではなく、このタイミングでいきなり「彼女」がこのカフェにやってくる理由など、何もなかった。
「久しぶり」
僕はどうにか笑顔を見せ、「彼女」にイスをすすめる。
「驚いた。あんなにしつこくメール送ってくるなんて」
僕のすすめに応じて、「彼女」が席に着く。あいかわらず全身を黒に包んで、頭にはつばの広いキャペリンの帽子が乗っかっていた。ヘーゼル色の瞳が、僕をまっすぐ見ている。僕と「彼女」が座るテーブルの横、窓ガラスの向こうにあるテラスで、バナナの木の大きな葉っぱが、風で、ふわふわと揺れていた。
「長い間無視されてて傷ついたよ。僕に会うのは、嫌だった?」
「嫌っていうか、会ってどうするんだろう、って感じ」
「別に、普通に話し相手が欲しいとかでもいいんじゃないだろうか」
「欲しくなかったし」
「今まで、何やってたの?」
「何も。特にやるべきことはなかったから」
「絶望してたの?」
「おおげさね。何をしていいのか分からなかった、という言い方なら嘘にならないけど」
「あっちにも可能性はなかったし、もちろんこっちにも可能性はない」
「そうね」
「せめて、僕にはいくらか期待してくれても良かったんじゃない」
「やっぱり違うって思ったの、あなたと喋るのと、外に向かって喋ろうとするのは」
「どうして」
「それが分かれば苦労はない。もしかしたら、私の潜在意識が、あなたを意図的に選んだのかもね。私が喋ることのできる、誰かを確保するために。そういう意味では、私は結局、誰とも喋れないの」
「何で僕だったんだろう」
「たまたま、そこにあなたがいたから。私の意識が、そういう誰かを求めていたときに、そういうのにうってつけだったのが、あなただったのかもしれない」
「いろいろ理由を説明してくれなかったっけ? 僕の文章がしっくりきたって」
「説明なんてアテにならない。起きたことに言葉を貼り付けていくだけだし」
「ホントは結局、偶然だったってことかい」
「偶然のほうがなお良いかもね、気まぐれって感じ」
「僕じゃないほうが良かったって思う?」
「別にそんなことないけど。あなたは、私が期待する役割は充分果たしてた」
「そりゃどうも」
一瞬沈黙があって、僕と「彼女」は同時にコーヒーをすする。
「だからこそ、もう会ってもしょうがないの」
「僕には、もう期待してない?」
「しちゃだめってことね。結局、自力で何とかしないといけないことじゃないかって思ってる」
「たぶん、僕は君のことをサポートできるんじゃないかって思うんだけど」
「何で?」
「何でって……君のことをいろいろ思ってるからさ」
僕の言葉をあしらうように、「彼女」が鼻で笑った。
「私のこと口説こうっての? あんなことがあったからって。私は別に、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「別に、僕もそういう意味で期待してるんじゃないよ。これでも、僕はけっこう君のことを気に入ってるんだ」
「前の恋人に未練たらたらなのに」
「もう、ユミの事は頭にないよ。もうあの娘は結婚したし、僕もそれをちゃんと祝福したから」
「彼女」は落ち着かない様子でコーヒーを飲んでいた。カップをテーブルに置き、帽子を脱いで、飛びはねた髪の毛をなでつける。
「どうしてあんなにメール送ってきたの? 一銭にもならないのに」
「君に会いたかったからね」
「何で会いたかったの?」
「何でって、単に会いたかったのさ。君こそ、何で僕に会う気になったんだ」
「そりゃ、あんだけずっとメール送られたらね。しつこさに根負けするわ……なに笑ってるの?」
「彼女」に言われて、僕はそこで初めて自分が笑っていたことに気づく。
「いや、何だか、よくあるカップルの馴れ初めみたいだから、『しつこさに根負けした』なんてさ」
「やっぱり口説くつもりなのね」
「悪いか」
「前の恋人が結婚しちゃったから寂しいだけでしょ、冷静になりなよ」
「僕は冷静だ」
「じゃあ、これで終り」
「好きなんだよ」
「やめて」
「本心だ。ユミより、君のほうがずっといい」
「そんなストレートに言うなんて、子供みたい」
「確かに、恋愛は得意じゃない」
ひとつため息をつき、「彼女」はあきらめたような笑いを浮かべて窓の外を見る。
「こんな、普通の人が相手だと言葉のひとつもまともに喋れない、社会適応性ゼロの女でもいいのかしら」
「問題ないよ。僕のほうこそ、全く不安定な収入しかない、いい歳こいて自由になりたがる社会適応性ゼロの男だけどいいんだろうか」
「私は、オーケーした覚えはないけど」
「強情だな」
しばらく、僕も「彼女」も沈黙していた。もう秋が来ていた、窓の外にあふれる光は、透明だった。通りを、母親と、小さな女の子が手をつないで歩いている。「彼女」は頬杖をついて、じっとそれを見つめている。
「――」
何か、「彼女」がぽつりと呟いた。
「え?」
僕は聞き返す、でも、その言葉は、僕に対して向けられた言葉ではないような感じだった。
「なんて言ったの?」
僕が聞き返したことに気づいていない様子だった「彼女」に、もう一度僕は聞き直す。
「何が?」
くるっとこちらに顔を向け、「彼女」がさらに僕に聞き返す。
「何か言っただろ、今」
別に、と「彼女」が首をかしげる。ホントに意識せずに呟いたのか、とぼけているのかは、よく分からない。でも、どこか、「彼女」は満足そうにしている。
「じゃあね」
おもむろに、「彼女」が立ち上がる。テーブルの上に自分のコーヒー代を置いて、立ち去ろうとしていた。
「待てよ」
僕は呼び止める、その一瞬、「彼女」のヘーゼル色の瞳と目が合った。
「まだ返事を聞いてないぞ」
「何の返事?」
「とぼけるなよ、僕の告白の返事さ」
「高校生みたいなこと言うのね」
「何とでも言え」
すねたように食い下がる僕を見て、「彼女」は笑っていた。
「考えとく」
帽子を拾い上げ、「彼女」が背を向ける。
「今日のこと、日記書くよ。僕が、君の代わりに書く日記だ」
僕は、「彼女」の背中に向かって言った。ぴたっと「彼女」の動きが止まり、ゆっくりと僕の方を振り返る。
「また、メールで送って」
そう言って、「彼女」は僕に笑いかけた。落ち着きと、透明感と、かすかな寂しさと、芯の強さ、「彼女」の笑顔は、秋に良く似合う、いい笑顔だと僕は思う。
「がんばって、いいやつ書くよ」
「そうね、いい日記だと思ったら、また会ってあげる」
言うと同時に、真っ黒いつば広のキャペリンをふわっとしたしぐさで頭に乗せると、「彼女」はカフェの外まで歩いて行く、すっと背筋を伸ばして、まるで秋の静かな光の中に溶けこんでいくように。
僕はその場に残って、ノートパソコンを開くと、「彼女」の日記を書き始める。今日会った「彼女」の、書かれていない日記を「再現」するというよりも、「彼女」の呼吸や言葉や思考の流れのようなものをつかんで、これから全く新しいものを書くというような心持ちでやる。今までより、すらすらと書けて、それでいて自然な感じがしていた、ほとんど推敲したりはしない、僕が本当に思うままに書けていれば、僕の頭の中にある「彼女」の姿と、必ずしも照らし合わせたりする必要はなかった。
ふと顔を上げると、さっき「彼女」が窓から見つめていた、若い母親と一緒にいる小さい女の子がこちらを見ていた。僕は笑顔を向けて、そちらへ手を振ってやる。女の子はきょとんとした顔で、じっと僕を見つめてから、母親に連れられ通りすぎていく。
その瞬間、さっき「彼女」が無意識に呟いた言葉が、頭の片隅で閃いたような気がした。僕は女の子を見送って、ノートパソコンに向き直る、そして、さっき閃いた言葉の方へ、その輪郭をはっきりさせようと、徐々に歩みを進めていく。正解があるわけではない、僕はそもそも「彼女」ではない。だからせめて、僕はその歩みの中でたどり着く、最も自然な言葉をここに記そうと思う。それが、僕にとって、「彼女」の代わりに書くということなのだ。
「上手くいったんですか?」
声がして、顔を上げると、目の前に顔見知りになったカフェの店員が立って、「彼女」のコーヒーカップを片付けていた。事情を話したことはなかったが、僕と「彼女」の間にある雰囲気だけは何となく察していたようだ。どうかな、という感じで僕は肩をすくめる。
「また来るよ」
日記を切り上げ、僕は「彼女」の残したコーヒー代に、自分の分をプラスして支払う。店員はお金を受け取りながら、お待ちしています、と笑顔を返してくる。
「今度は二人で」
僕は、同じように笑顔で答え、そう付け加えた。