誘惑の炎、存在の淵 その1
炫士は孤児のように、夜の街を歩いた。孤独で、寄る辺なく、何者でもない。あるいは孤児になるために、炫士は夜の街を歩いた。街の中を歩いているのに、突き放されて、その視線はまるで外からもたらされたのように、人々を観察している。十一月の終わり、肌に触れる空気は冷たく、夜の八時、閉まりかけている店々からの明かりの中を歩く人々は、ややうつむいて、何か後ろめたいような顔つきで、道に落ちた自らの影を見つめている。
炫士は女を探していた。風景の一部のような人々の中から、同じ孤児のように歩いている女、あるいは孤児になるために歩いている女、ひと晩だけの相手になる女を。炫士は舞い降りた一羽の鷹のように胸を張り、うつむく人々の間を歩く、まるで己が、その場を支配する者であるかのように。
「こんばんは」
どこか街の雰囲気から遊離したような、所在なさ気な女を見つけて、炫士は声をかける、鷹揚な笑みを浮かべ、まるで古い友だちであるかのような口調で。背の高い炫士は、女の進路にかぶさるように立ち、見下ろすような格好になる。炫士は何か、女性を魅了する天性のものを持ち合わせている、美しい容貌、高雅な立ち振る舞い、そして奥底に秘めた、炸裂する炎のような暴力。包みこむような優しさと懐の深さの奥で、今にも女の首を絞め殺しそうな凶暴の怪しさがちらちらと踊っている。平々凡々とした装いの女は、突然声をかけてきた相手を警戒しているのにどこか魅入られたような表情で、落ち着いた口調でぽつりぽつりと語られる炫士の話にうなずいている。
「寒いね」
いくらか会話をした後で思い出したように言って、炫士は女に同意を求めて微笑みかける。女の優柔不断な性格を表すような、どこか焦点の定まらない視線が揺れ、その珊瑚色の唇が、夜の街の、闇と光の移り変わりの中で、力なく開いて、ゆっくりと閉じる。炫士は微笑んだまま、落ち着いた態度で女の反応を待っている。トラックが一台、車体を軋ませながら通り過ぎる、女が何か言ったが、その声はかき消されてしまった。
「ちょっと飲みに行かない? ここにいても寒いし」
炫士の誘いに、女は黙ったまま、控えめなトーンに染められた髪に指先を触れさせていた。
「行こうよ」
全く反応できないような、柔らかく素早く抜け目ない猫のような動きで、炫士が女の手をとる。強引とは呼べないようなかすかな力で、その手は女をどこかへ連れていこうとしていた。誘惑の底へ崩れ落ちるように、女は抵抗するそぶりを見せることすらできず、その手に引かれるまま、おぼつかない足取りで、炫士の後について夜の街を歩くのだった、孤児のように、あるいは孤児になるために。
「あれは何の音?」
女が聞く、炫士が答える。
「あれはアブラドリの鳴き声だ」
部屋のガラス越しに聞こえる、鳥の鳴き声を模した信号の誘導音に、二人は耳を傾ける。
「アブラドリ?」
「都会の夜の空を飛んでる鳥さ。カラスにそっくりだけど、頭とクチバシがやけにでかい。闇の中をぐるぐると旋回して、はぐれた子供とか、こっそり捨てられた赤ん坊とかが泣いているのを見つけると、ガタガタと空気を震わせながら降りてくる、そして、そのクチバシで、子供の頭をすっぽりと飲み込んで、そのまま首から食いちぎって持って行ってしまうのさ」
「やだ、怖い」
あきらかに作り話なのに、低く落ち着いた炫士の口調には妙な説得力があり、女が震える。
「大丈夫さ、はぐれさえしなければ」
そう言って、炫士は女を抱きしめる。
「あなたがちゃんと守ってくれるのね」
「そうじゃない、自分からさ。自分からはぐれさえしなければ、アブラドリに頭を持って行かれることはない」
女はよく分からないという顔をしている。炫士は女の耳を塞ぐようにその顔に両の手のひらを添えてキスをすると、少しずつ乱暴になっていく手つきで服をはぎとるようにして裸にさせる。
炫士は女をベットに押さえこむようにして、性行為を始める。炫士の奥底に潜んでいた暴力が、膜を破ってせり出してくる、目つきは鋭くなり、ほとんど女を睨みつけるように見下ろしていた。怯えたような女のあえぎ声が部屋に響く、アブラドリの鳴き声はもう聞こえない。仰向けになった女に挿入したまま、炫士は女の体を持ち上げ、座位になり、のけぞった女の首を、炫士は大きな羽根のような両手で支えるようにかばう。女の首は細い、炫士は頚椎の感触を確かめるかのように、首の後側に指先を這わせる、このまま骨をへし折りたいという衝動が、激しい濁流のように下腹部から指先の方へと沸き上がってくる。いつもこんなふうに女に声をかけてホテルに連れ込んでいるのは、いったい何のためだろう、と炫士は思う。炫士は単なる女好きではなかった、というより、女性を嫌悪している。炫士を勃起させているのは、愛情ではなく、むしろ怒りや憎しみだった。上品さや優しさよりも、性欲を剥き出しにして転げまわっている女を見たかったし、そういう女にかきたてられる憎悪や攻撃性が、炫士を興奮させるのだった。
殺してやる、という声が、嘔吐のように口元まであふれてくる。部屋は真っ暗で、カーテンは開けっ放しだった、青や白や黄色の人工的な光が、外から入ってきて、影のような肉体をぼんやりと浮かび上がらせている。太い親指が、小さな喉仏にかかっていた。徐々に力がこもって、白い爪の先がゆっくりと肉に埋まっていく。頭を下げ、息を吐く、抑えつけられた破壊衝動で痙攣しているかのように、炫士は果ててしまうまで体を動かし続けるのだった。
「あれは何の音?」
女が聞く、行為の後でもはや興味を失ったように天井を見上げている炫士が、しばらく黙ってから答える。
「あれは、アブラドリだな」
「さっきと全然違う音じゃない」
それは、ガラスの割れるような音だった、だから、女はそう言った。
「鳴き声じゃない」
「じゃあ、何の音?」
「アブラドリが、鏡に突っ込んだ音さ。アブラドリは自分の姿を見ると、ひどく怯えると同時に、その姿を強烈に憎むんだ。だから、自分の鏡像に敵意を剥き出しにして、その巨大なクチバシを構えると、とんでもないスピードで突っ込んでいく、そして鏡に激突すると、その勢いで自らの首をへし折り、地面に落下して、馬鹿みたいに死んでしまう」
それから炫士は目を閉じて黙ってしまう、女が何か二つ三つ質問したが、炫士は何も答えない。耳をすます、窓の外は嘘のように静かで、何も聞こえてこない。深夜、音を失った世界で、信号の光だけが点滅を繰り返している。