読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その2

 士は茶碗の中の白米の柔らかい粒を黒塗りの箸の先でつつきながら、正面に座った父親を見ていた。病のせいでやつれ、小さくなったように見える。白髪の、特筆すべきことは何もない、どこにでもいる中年の男、それが炫士の父親、岐史だった。本当に幼い頃には威厳を感じ、恐れていたこともあり得たのかもしれないが、少なくとも記憶にある限り、この男に父親らしさを感じたことはない。炫士より背が低く、おとなしい性格で、容姿が良いわけでも頭が良いわけでもない。映画俳優のような容姿を持ち奥底に凶暴さを秘めた炫士と、いったいどんな血のつながりがあるというのだろうか、親子という強制的な縁がなければ、きっとまともに話すこともないような種類の人間だった。炫士は無言のまま、再び茶碗へと視線を落とす。

 炫士の両脇に座った兄と母が、何かを喋っている。炫士と、そしておそらく岐史も、それを聞いてはいない。岐史の病の状態が悪く、もうすぐ入院することになるので、その前に全員で食事を、というのが、こうやって家族で集まって食卓を囲んでいる理由だった。普段は家族と距離を置いてめったに実家に寄り付かない炫士も、気が進まないとはいえこういう機会に顔を出さないわけにもいかなかった。だが、こんな家族的で陳腐すぎる有様は、普段夜の街を歩いて女を引っ掛けてばかりいる生活とはあまりにかけ離れていて、かえって現実感がない。

 ――炫士。

 自分の名を呼ぶ声に気づいて炫士が顔を上げると、自分のほうを見ていた那美と目が合った。

 「最近ふらふらとしてるみたいやけど、ちゃんと生活できてるの?」

 特にたいした答えを期待するふうでもなく、与えられた母親という役割を淡々とこなすような質問だった。ああ、と炫士は生返事をする。ありふれた中年の典型のような岐史とは違い、那美――この母親は一種独特な魅力を備えている。どちらかといえば美人の顔立ちで、いくらか古風な雰囲気もあり、疎外と孤独に諦念を抱きながら、しかし代償的な家庭の支配権を握って離さない、はた目には主婦の典型と見えるような存在だった。しかし、通常の母親のようにそういうあきらめを引きずって生きるのでなく、むしろ全身を、そのあきらめに委ねている。那美は、透明な抜け殻で、歪んで崩れている存在だった、破綻が、色気のようなものとして表れている。

 「でも、大丈夫なの? ……ほら、ねえ?」

 そう言って、那美はちらりと岐史を見やる。岐史は一瞬胃の痛そうな顔をして、炫士のほうを向く。

 「まあ、そうだな、なんていうか、大学、ちゃんと通ってるのか? 生活費とか、どうしてるんだ」

 遠慮がちに、岐史が聞いてくる。炫士はその言葉にいら立った様子を隠そうともせず、ああ、とまた生返事をした。那美は、大事なことや深刻なことは、自分の口で言おうとはしない、自分は身を安全な所へ隠し、肘で背中をつつくようなやり方で、厄介ごとは夫に預けるのが常だった。

 「炫士、もう少しちゃんと答えろよ」

 今度は逆の側から、速彦にそう言われる。だが、炫士は露骨に嫌な顔を見せるだけで、目線をあげようとすらしない。炫士は、特にこの兄と折り合いが悪い。真面目で物事を枠にはめたがる速彦は、規範や常識といったものから自由に振舞おうとする炫士に対抗心を持っていて、何かにつけて弟に対する優位を示そうと、常に親に同一化するような立場からものを言うのだった。

 「ちょっと勉強すれば単位なんか取れるし、金はバイトでなんとかしてる。俺は俺で勝手に何とかするし、心配いらん」

 速彦を突っぱねるような口調で、炫士が答える。

 「嘘ついてないやろうな? ふらふらして父さんと母さんに心配かけとったらいかんぞ」

 まともに大学に行かないことが人非人であるかのような物言いは、いかにも道を外れることを極端に嫌い、二十二歳で大学を出て市役所に勤めた速彦らしい。速彦は自分の考えに確信を持っているようで持っていない、速彦の意見の参照点は、兄であるとか年長者であるとか規範的であるとかそういうことで、そういったものに寄りかかって喋っている。一方で炫士はそういう根拠を持っていない、いわば孤児のような存在で、そんな二人が互いのことを理解できるはずもない。

 「親に心配って、お前が言う事やないやろ。いっぱしの大人みたいに偉そうに言うくせに、その実お前は親離れできてないな」

 「なんだと」

 睨みつけてくる速彦を、炫士が睨み返す、だが、その時にふと、二人の様子を不安そうな顔で見ている秋姫と炫士の目が合う。二人の間に、二人にしか分からない、微妙な気まずさを含んだ共犯的な雰囲気が漂う。速彦の隣に座っている秋姫は、速彦の婚約者だったが、炫士が昔付き合っていた元彼女でもある。そのことを知っているのは炫士と秋姫だけだった、中学時代にお互い初めて付き合った相手で、期間も三ヶ月程と短く、互いに別の高校に入ってから徐々に疎遠になり、そのまま別れた程度の関係だが、再会した時の驚きと当惑は並々ならないもので、この奇妙な関係性をどうしていいのか分からず、ただ単に二人とも全くの他人であるかのように振舞うだけだった。ゆっくりと、よそよそしく互いに視線を外す。秋姫の目の動きは落ち着かない、中学時代もそうだったが、どこにいても収まりの悪そうにしている女だった、いつも、どこか別の場所へ逃げ出したい、そういう願望を、心のどこかに抱えているように見えた。秋姫が炫士を見る視線には、気まずさの中に、閉じ込められた人間が救いを求めるような哀訴が浮かんでいる。

 食卓を囲む五人の関係は、いびつで、団らんとは程遠い。親兄弟婚約者という、それぞれに貼り付けられたラベルによって、成り立っているにすぎない。炫士の中には、嫌悪感ばかりが沸き立ってくる、どうということもない陳腐な光景、その陳腐さの裏に潜んだ、説明可能なようで不可能な家族の呪縛のようなものが、炫士に耐え難い不快感を与えている。どれほどこの父と母と兄から離れようとも、自分はこの父と母の子で、この兄とともに育ち、それが自分という人間の根底を形成しているのだという事実が、桎梏のようにまとわりつく様に、いらだちを覚える。

 「まあ、やめないか。二人ともいい歳になって、そんなにいがみ合うこともないだろう」

 遠慮がちに、岐史が兄弟を制止しようとする。

 「そうよ、今日はお父さんのために集まったんだから、たまには仲良くしなさいよ」

 那美が岐史の後に続いた、その顔には、他人を懐柔する力を持った笑みを浮かべている。それを見た速彦は、しぶしぶといった様子で居直り、姿勢を正す。那美の顔には、自分こそがこの家の支配者なのだという隠れた確信が潜んでいた、父も兄も、そして弟も、どんなことを考えていようと荒々しい態度を見せて争おうと、結局は自分の手のひらの上で踊るのだというような、そういう笑みを、那美は浮かべている。決して表に立たず、常に岐史の後ろに隠れるようにしながらも、実際には那美こそが、母であり、この家庭という奇妙な磁場の中心にいる。

 「しかけてきたのは兄貴だ、俺からは何もしてない」

 炫士は吐き捨てて、今度は岐史を睨む。そのいら立ちの矛先をいったい誰に向けるのが適当なのか、炫士には自覚がなかった。

 「子供みたいな態度取るんもいいかげんにしろよ」

 速彦が抑えられたものを吐き出すように再び食って掛かるが、炫士はそれを鼻で笑って取り合わない。速彦はまだ何か言おうとするが、自分を見ている那美の視線にたしなめられ、同じように炫士を鼻で笑って溜飲を下げる。

 「まあ、昔からケンカの多い兄弟だったしなあ。何にも喋らんよりは活気があっていいじゃないか」

 不恰好な形であれ、岐史はどうにかその場を治めるようなことを言い、力なく笑い声を上げてみせた。居心地の悪さを飲み込むように、炫士は黙々と飯を食う。いっそバラバラになればいいものを、と思うが、それは奇妙な調和を成している。誰かがそれを統べる複雑な技術を教えているわけではないのに、それは壊れることなく、あるいは、壊れているかどうかという基準の埒外にあって、消え去ることなく存在し続ける。まるで幻のようで、実体を持たないがゆえに、力づくで消滅させることも叶わない。そのことに薄ら寒いものすら感じるが、炫士は、いったい家族というものから、どんなふうにして自由になればいいのか分からない、というより、どんなふうに自分が自由でないのかも分からない。それは、たとえ無視したとしても、むしろ無視すればするほど、まるで無意識のように根を張り、自分をとらえてしまう。

 「炫士もずいぶん、無愛想になったものねえ。昔はお父さんにもお母さんにも、もっとなついてたのに」

 那美の表情には、相変わらず炫士に対する優位、自分が母であるという地位を暗に誇る笑みが浮かんでいる、その笑みは、何よりも炫士に虫唾を走らせるものだった。だから、炫士はつい感情的になる。

 「昔っていうのは、いつのことだ?」

 一瞬、那美の表情が曇る、しかしそれでもなお、炫士に対する優位を崩そうとはしない。

 「炫士が小学生くらいのときは、特になついてたでしょう」

 「それよりもっと前のことは、知らんくせに」

 全員の動きが止まる、そしてそれぞれが緊張に満ちたぎこちない動きで、炫士のほうを見た。

 「お前は俺が産まれてすぐどっかに消えて、そんで五年経って、のこのこ戻ってきた人間だろうが」

 那美は炫士を産んだ直後、家族の前から姿を消していたのだった、その間何をしていたのかということは、実際には炫士も速彦も、岐史も聞かされていない。だが、せいぜい、誰か他の男の所へ走り、その生活が年月を経て頓挫したため、恥も知らぬ態度で出戻って、元の家庭に収まったと考えるのが自然な筋だった。少なくとも産まれてからの数年を那美と過ごした速彦とは違い、炫士には那美が母親だという感覚はまるでない。そして、炫士の本当の父親が岐史かどうかも分からない。身を寄せるような男が出産後間もない那美にできるはずもなく、その前から関係があったと考えるのが自然で、だから、炫士がずっと父親として一緒にいた岐史は他人である可能性が高く、突然現れた他人のような那美のほうが、母親として、確実な血のつながりを持っている。そのことが、炫士の家族に対する感情を複雑極まりないものにしていた。

 「何を言ってるんだお前は!」

 速彦がテーブルに箸を叩きつけると同時に立ち上がり、炫士の胸ぐらをつかむ。速彦は母親に忠実だった、幼い頃に失われたそれを、懸命にたぐりよせようとするかのように。そして、炫士は母親のことなど意にも介していないように振舞う。母親の存在とは、速彦にとっては刷り込まれたものだが、炫士にとっては上書きされたものでしかないのだ。

 「何って、本当のことだろうが」

 胸ぐらをつかむ速彦の手に、炫士が自分の手をかぶせて押さえこむ。

 「今さら、何でそんなこと蒸し返すんだ」

 「今だからだよ。俺も十九歳で、もうすぐ二十歳だ、だから、今までお前らが覆い隠して、俺もガキの頃から見ないふりにしておいたことの全てを、何もかもぶちまけてやりたくなっただけだ」

 「ぶちまけてどうする」

 「さあね」

 「父さんの具合が良くないときだぞ、それでせっかく、みんな集まってるんやろうが、それを、お前は自分のふてくされた感情だけで台無しにするんか」

 「台無しにでもなったら良い。どうせこんなもの、全部嘘みたいなもんだろうが」

 その言葉が我慢の限界だった速彦は、問答無用で拳を振り上げる。

 「やめなさい!」

 岐史が叫んだ、それに反応した速彦は、その動きを止める。たぶん、速彦は本気で炫士を殴るまでの度胸はなかったのだろう、炫士の胸ぐらをつかんだまま、じっとしている。炫士はその速彦を、ただただ、冷ややかな目で見下している。

 その時、速彦の背後から、静かな動きで那美が現れる、唇を噛み、目の奥で怒りが凍りついていた。そのまま、炫士の前まで迫り、次の瞬間、落ち着いた、しかし鋭い動作で、那美が炫士の頬を張った、肌が弾かれる音が、ぴしゃりと空間を裂く。

 「出て行きなさい」

 憤るその声には、まだかなりの冷静さが残っていた、腹の底に隠したものをほとんど下卑たやり方でえぐられてもなお、那美は母親なのだ。この家に後から来て居座ったお前が、産まれてからの十八年間ここにいた俺に出て行けと言うのか――その言葉を飲み込んで、炫士はしばらく、那美を睨みつけていた、那美の目の奥で凍りついた怒りがゆっくりと溶けて、その本性が姿を現すのを待ち構えるかのように。だが、黒々とした那美の瞳の奥は、何か霧のようなものに覆われているか、あるいは、それは実体のない闇の深淵のようなものでしかなく、いくら目を凝らしても、全くの無であるとしか感じられない。

 やがて、半ば諦めたように、炫士はふんと鼻で笑い、家族に背を向け、部屋を出て行こうとする。敵意に満ちた炫士を注視する三人の後ろから、秋姫がこちらを見ていた、何か、怯えるような目で。だがその怯えは、荒ぶる炫士に対してではなく、炫士が突き放したその家庭に取り残されることへの怯えであり、秋姫はその外側にいる炫士に救いを求めるようにしていた。少なくとも、炫士にはそんなふうに感じられた。

 「炫士」

 岐史が、その名を呼んだ。速彦や那美とは違い、いくらかの理解と同情を、炫士に向けるような声だった。だが、炫士は振り返ろうともせず、確固たる足取りで、玄関のドアを、夜に覆われた外の世界へ向けて開け放つ。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その3へつづくーー