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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その4

 めた夢に追われているような気分で炫士は帰り道を歩いた、夜は明け、朝はすでに過ぎて、日は一日の高みへ昇ろうとしていた。住んでいるマンションの入り口まで来たとき、壁に寄りかかっていた人影がこちらを目に止めるなり、すっと体を立てて、炫士の方へ手を振る。

 「元気か」

 そこにいたのは岐史だった、炫士はあいまいにうなずいて、何気もなく目をそらす。速彦や那美にくらべれば、岐史のほうがずっと良かったが、いずれにせよ会いたくない人物であることには変りない。

 「何だよ?」

 世話ばなしでもされると面倒で、炫士はにべもなく要件を聞こうとする。速彦とは反目し合い、那美とは他人のような距離があり、岐史が家族の中で一番ましとは言え、炫士はこの父親のことを好いてるわけでもない。尊敬も軽蔑もなく、親近感も嫌悪感もなく、長い時間一緒にいたが仲良くもない知り合いとか同僚とか、そういう感覚に近い。

 「ちょっと、国ケ崎に海でも見に行かないか?」

 「何しに行くんだ」

 奇妙な誘いだった、国ケ崎には岐史の実家があり、盆や正月などの里帰りでたまに連れて行かれた場所だが、数年前に岐史の両親とも死んでしまって、その葬式以来一度も訪れていない。

 「まあ、なんだか急にもう一度だけ行きたいと思ってな。これから病院に入ることになるし、これで最後になるかもしれん」

 そう言って、岐史は寂しそうに笑った。

 「別に、行きたかったら一人で行ったらいいだろ」

 「そう言うな。これからは一緒に出かけることすらかなわん」

 渋りながら、炫士は岐史と車に乗り込んだ。病気の岐史を助手席に座らせ、炫士がハンドルを握る。免許取り立てで不安だがどうせ先の短い命だから、と岐史が冗談を言う、炫士は笑わなかった。

 そのまま一時間、国ケ崎へ向けて炫士は車を走らせた、車内は静かで、ほとんどラジオだけが害のないおしゃべりを続けている。時々、岐史が炫士にあたりさわりのない感じで近況を尋ね、炫士はほとんどあしらうように、別に、とか、上手くやってる、というような答え方をした。昔通った道を走りながら、炫士は国ケ崎の海を思い出す。炫士は懐かしいというような感情を抱く人間ではなかった、言わば故郷というものを心に持っていない、実家のある場所は、自分を受け入れてくれる帰るべき場所というようなものではなく、ただ単に昔住んでいただけの場所にすぎない、自分は断ち切られ、浮遊したまま移動し続けるのだという感覚が、炫士の中にはある。ただ、国ケ崎の海は、唯一回想を誘う風景だった、たまに父親に連れられて行く、その海という場所は、幼い炫士の心をとらえる魅力を抱いていた。

 海の手前に停めた車を降りて潮のにおいを嗅ぎ、炫士は思わず目を細める。ぼんやりとした記憶へ現実の光景が流れこみ、やがて目の前に海が広がる。茫漠として、風はいるべき場所を持たずに漂い、青い色の重なりは無限へと続いて果てない。光を含んで揺れる柔らかい水面は人を優しく迎え入れるようでありながら、沈んでいく闇の暗さは人を冷たく突き放すようでもある。海は中立だった、帰るでも捨て去るでもなく、炫士はただ、そこで漂っていさえすれば良かった。

 砂浜へ降りる、小さな場所なのでめったに人は来ない、炫士と岐史の二人だけがぽつんとして、遠く開けた海に向かい立っている。炫士はじっと海を、空間と時間の純粋な広がりのような青色を、見つめて動かない。はるか昔から、神話の時代から、それよりもっと深い過去から、海は変わらずそうなのだろう、いや、それほど深い過去も現在も、海にとっては同じ瞬間の中にあるのだろう、そういう感覚が、炫士をとらえている。潮風の音が、耳元で爆ぜている。

 「炫士」

 岐史が名を呼ぶ、炫士は応えない。

 「炫士、母さんのことだけどな」

 炫士は黙っている、やっぱりそのことか、と思い、来るべきじゃなかったとばかりに舌打ちをした。

 「何ていうかな、母さんもいろいろあったんだ。子どもからすれば、産まれたとたんに母親が自分を置いてどこかに行くなんて許せないことかもしれない、でも、母さんは母親である前に、どうしても一人の人間でもある。自分自身の考えも悩みもあるだろう、やむにやまれず、子どもより自分を優先することもあるだろう」

 岐史の言葉を聞きながら、炫士は徐々にいら立ちを募らせていく。

 「別に、俺を置いていったことが許せないとか、そんなことじゃねえよ」

 「じゃあ、何で母さんにあんなことを言ったんだ」

 「知らねえよ」

 炫士はほとんどなじるように言い捨てる。うまく言葉が続かない、捨てられた子が母を恨むとか、そういう型にはまった憎悪ではないのだという確信だけはありつつも、じゃあそれがいったい何なのかということが、炫士にはよく分からない。強いて言うなら、那美が母親として君臨しているということが、自分に母親という存在がいることが、扱いきれない違和感として胃をむかつかせる。例えば速彦にとってそれは生まれ持っての当然だったのかもしれないが、自分にとってはそうではない。

 「そんなら聞くけどよ」

 炫士が岐史のほうを見る、岐史は覚悟めいた顔で、それに頷きを返す。

 「親父は知ってんのか? あの女が出て行って、そんでまたのこのこ戻って来やがった理由を」

 「それは……」

 岐史は言葉を濁す、それを見て、炫士はお見通しだとでもいうように鼻で笑う。

 「五年間、何してたか分かんねえぞ、そんなこと確かめもせずに、よく夫婦やってられるよな」

 いら立ちはますます膨らんで、炫士はわざと岐史の人の良さを踏みにじるような言い方をした。

 「それを知った所で、どうだというんだ。母さんは戻って来た、それはよっぽどの覚悟がいることだっただろう、だから父さんは黙って迎え入れることにした。何よりも、戻って来てくれたことが嬉しいじゃないか、父さんにも、速彦にも、そしてきっと炫士にも、必要な人が戻って来てくれたんだ。だったら、それ以外のことなんて、どうでもいいじゃないか」

 これ以上話しても無駄だというような顔で、炫士はため息をついた。結局のところ、母親という得体のしれない怪物に違和感を持っているのは自分だけだった、岐史も速彦も、何かそれが無条件の聖性や善性を備えているかのように扱う、だから、そもそも炫士とは根源的な認識が違う。那美が母親である前に一人の人間だということを本当の意味で理解しているのは、岐史でも速彦でもなく、自分だけだと思った。岐史と速彦は、那美をその聖なるベールで覆う、そして那美は、確信犯的にそのベールに身を隠し、その奥から勝ち誇った微笑を投げかけるのだ、と炫士は思った。

 「うんざりなんだよ、正直もう近づきたくない」

 「いったい何が不満なんだ。悪態をつくだけじゃなくて、自分の考えをもっとはっきり言ってみたら良い」

 それができれば世話はなかった、自分の状態を語るには、一般に家族について語られているどんな言葉も当てはまらない気がした。自分にとって母親は異次元からきた存在で、その母親を核としている家族に対して、自分は異物なのだという気がした。だから普通の家族を語るためのあらゆる言葉は、炫士の違和を語ることができない。

 「不満とかじゃない、ただ単に、居心地が悪いのさ」

 特に何も求めてはいないはずだった、だから不満ということすらありえない。

 「ただ、お前がどう考えていようと、お前は父さんと母さんの子どもで、速彦の弟だ」

 噛み締めるように、岐史が言う、だがその意図とは裏腹に、それがますます炫士の神経を逆なでする。炫士にとっては、岐史と速彦と那美と自分が、何か消し去ることのできない結びつきに取り込まれていることが、不気味でしかない。

 炫士は岐史と目が合う、俺はたぶんお前の子どもじゃないぞ、という言葉が寸前まで出かかる、なぜその可能性を二十年も突きつけられていながら、この男は那美と自分のそばにいられるのだろうか、炫士にしてみれば滑稽で情けないだけの岐史に対し、怒りと憐れみが腹の底でせめぎ合う。

 「もう帰ろう」

 その場にいることにそれ以上耐えられず、炫士は岐史を誘導するような仕草で車の停めてある方向に顔を向けた。

 「まだ良いだろう」

 そう言って、岐史は炫士の肩に手を置いて引き止める。

 「これ以上何の話もないだろう」

 「待つんだ」

 岐史がいつになく思いつめたような表情になり始め、炫士の肩に置いた手に力を込める。岐史は何か、近づく死を前にして、可能な限りのことを言い残そうとしているかのように見えた。その感情の圧力を炫士は不快に感じ、思わず強引に岐史の手を振り払ってしまう。炫士はそのままさっと背を向けて、その場を去ろうと歩き始めた。岐史がどんな顔をしているのかは見ようとしなかった、それを見ることを、炫士は嫌がった、だから振り向く素振りもなく、できるだけ早く車まで戻ろうと浜辺の砂を蹴るように進む。海は静かだった、波は沈黙したまま、優しい手つきで砂浜を撫でている、漂う風以外に、音を立てるものはない、寄る辺ない風の、孤独と自由が、耳元で爆ぜている。

 炫士は立ち止まらずにしばらく歩く、背後に気配はなかった、まるでその場から、岐史がいなくなってしまったかのように。一瞬、炫士は本当にそんなふうに感じて、思わず振り返り、驚く。岐史がいなかった、こつ然と、砂浜から姿を消している。影がにじんだ金色の砂浜が視界の手前で途切れ、あとは延々として広がる空と海が彼方で霞んでいる。何かに太陽の光が反射しているのか、綿のような粒が輝いて、炫士の目の前をゆっくり上りながら遠くへ流れていく。夢を見ているのかと思えて、炫士はぼうっとする、だが、同時に奇妙な重力が這い上がってきて、炫士はじわじわと視線を落としていく。

 ああ、と炫士は思わず声を上げた。岐史は消えたのではなかった、そうではなく、病のために突然倒れたのだった、炫士が視線を止めた先で、すでに意識を失い、砂浜に崩れ落ちて突っ伏していた。その存在が、ゆっくりと砂浜に飲まれていこうとするかのように、体は暗い重さに満ちて、身動きひとつしない。

 炫士は砂浜を走って戻った。自分が岐史を救いたがっているのかどうかは分からなかった、だが、失われていく人間の生命を前にする焦りの中に、来るべき一つの終わりに、静かな安堵を見出していたことだけは間違いなかった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その5へつづくーー