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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その7

 史が死んだ。その死のあっけなさは、それについて充分に考えたり解釈したりする時間を与えてはくれず、ただ単に起こったことを受け入れるしかないというようなものだった。深刻な病を患っていたとはいえ、それは死の近さを連想させるような雰囲気を備えてはいなかった。その死の知らせを受け取った炫士に、悲しみはなかった、その死を意識していなかったとはいえ、まあそういうものだろうと思っただけだった。その喪失の大きさを測ろうとするよりも、その何でもなさをむしろ感じていた、誰が死んでも、世の中というものは昨日も今日も同じように回り続ける、自分自身が死んだとしてもそれは全く同じことで、人の死というのはそういうものだということのほうに、目が向くばかりだった。

 葬式にて、僧侶の読経の声を聞きながら、ならば自分にとっては何が変わるだろう、と炫士は考えてみる。自分を家族に繋ぎとめようとしていた父親が死ぬことで、自分は家族と縁が切れるのだろうかと問うてみて、そうではないだろうと自らに答えを返す。もしかすると、これで自分はもはや那美と速彦からほぼ完全に遠ざかり、もう二度と会わなくなるかも知れない、だからといって、自分がその中で生まれ育ったという痕跡は消えることはないだろう。それは速彦が死んでも、那美が死んでも、同じことでしかない。その繋がりの根深さと不気味さが、よけいに際立っただけだ。

 炫士は、視線の先に那美の姿を見とめる、何を感じ、何を考えているのか全く読み取れない、ある種の能面のような顔をしている、つまり、悲しい気持ちでいる人には那美が悲しんでいるように見えただろうし、無感動な人には那美が無感動でいるように見えただろう。黒い衣装に身を包んで、その対比が肌の白さと玉のような瞳の輝きを際立たせている、夫を失い、喪主を勤める那美には、奥底に――決して表には表れようとしない――妙に威風堂々としたものが宿っているように感じられる。那美は力を失い、何も持たない存在のようでありながら、その場の中心を、動かし難いものとして占めている。この葬式が、まるで岐史の棺と遺影ではなく、那美を中心にした磁場の中で動いているかのようだった。那美は、炫士と、速彦と、岐史の死の、中心を占めている。家族は、少なくとも炫士の目から見れば、四人をそれぞれ柱として成り立っていたのではなかった、那美がブラックホールのような中心として磁場を作り出し、その周囲を、自分と速彦と岐史が、吸い込まれるようにぐるぐると回っているだけのことなのだ。那美が帰って来る前は、自分と速彦と岐史は家族と呼べるものではなかったのではないか、という考えが、炫士の頭の中にあった。同じ家の中に、独立した三体の人間が暮らしている、そういう感覚だった。だが、那美が現れたことで、岐史は那美と結びつき、炫士と速彦はその同じ結びつきから産まれてきたのだということが、意識の奥深くに刻み込まれるような感じがした、あるいは、それまで気づかずにいられたことが、とどめてもとどめてもその隙間からあふれ出て、二度と目を背けられないような事実として浮かび上がってしまったような感じがした。

 那美のそばには、速彦と秋姫が立っていた。速彦は岐史の遺体が入った棺をじっと見つめている、表情にはその場にふさわしい重々しさがあり、今ここで悲しむべき悲しみをちゃんと悲しんでいるように見える。秋姫は相変わらず収まりの悪い存在感を持ってそこにいた、そして秋姫もまた、那美と同じような表情をしている、そこに積極的な感情の表出というものはなかった、悲しいといえば悲しい表情で、無表情といえば無表情だった。炫士はその秋姫を目で追ってみるが、秋姫とは全く視線が合わなかった、たぶん、意識して避けているのだろう、激しく肉体を絡みつかせながら何度も交わったにも関わらず、夜の街から出てここに現れた二人は、よそよそしい空気で互いを隔てたままでいる。ここで二人は、あいも変わらず、弟とその兄の婚約者という以外の何者でもない。

 やがて焼香が始まり、炫士は慣れない手つきでそれをやり過ごし、そして参列者に礼をする那美と速彦から少し離れたところに立つ。速彦の後ろには、ひかえめな様子で、秋姫が立っている。焼香をしていく参列者の流れの中で、その三人が、そして炫士も、浮き上がっていた、その他大勢と、そこから明らかに区別された結びつき、家族、那美と速彦と炫士、そしてこれからその一員になろうとする秋姫――儀式の中で、家族というその塊が、生々しい実体を持って炫士の目の前に表れてくる。今まで蜃気楼のように漂っていたものが、この儀式を通して、もはや否定する隙もないような完全体として組み上がるように思えてきて、炫士はだんだん気分が悪くなる。岐史が死んで、そんなものでは何も変わらないとタカをくくっていたことを後悔しそうになるくらい、自分が何も分かっていなかったような気がしてきた。何となくそこにある不気味なもの、という程度にとらえてきた繋がりが、突然実体化してきて、ほとんど直接的な恐怖感すら覚える。炫士は、その感覚を持て余すしかない、こんな違和感は、那美にも速彦にもないはずだと思う、もしそれがあるのなら、ここでこんなふうに平然としてはいられない。じゃあ、秋姫はどうなのだろうかと思って見てみるが、秋姫は相変わらず、感情の読み取れない表情で、こちらにはいっさい顔を向けずに、速彦に付き従うように参列者を見送っている。耐えられなくなって、炫士は三人から目を背け、岐史の棺と遺影の方を向く。ほとんど暴れだしたいような気分だった、遺影をたたき割り、棺から岐史の遺体を引きずりだして、それが単なるモノでしかないのだと叫びたかった、魂や人格などもはやどこにもない、父親など存在しない、那美と速彦と秋姫とそして自分は全くの他人なのだ、今ここで行われている儀式には何の意味もなく、滑稽の限りでしかないのだと、この場にいる全員に知らしめたかった。炫士は、秋姫の裸の姿を想った、この場の逃れ難さを思えば思うほど、なぜかその裸体は鮮明に浮かび上がる、白い肌、滑らかな線を描く鎖骨、小さな乳房、細い腕、柔らかい陰毛、そういうものが、家族の繋がりの実体感と呼応するように、非常な生々しさを持って、炫士の頭の中を満たしていく。今すぐにでも、秋姫を裸にして交わりたいと炫士は思う、今ここにある関係性など、全部無視してしまいたかった。そういう二つの衝動が湧き上がり、炫士はいてもたってもいられない、自分はこの場にこれ以上ないほどふさわしくない人間なのに、なぜここにいなければならないのだろう、と炫士は無益な問いを発し続けた。

 

 

 火葬場で岐史の遺体が焼かれ肉を失い骨だけになるのを待つ間、四人に会話はなかった、ただ、那美がぽつりと、ああ、いろいろ大変だった、と呟いただけだった。それぞれが自分の思いにふける静かな空間で、その言葉は煙のように漂い、いつまでも消えずに残っていた。那美自身は、岐史が死んでから葬式までのことを言っているだけだったはずだが、炫士にはそれが、那美が今まで岐史と関わってきた全てのことに対して言われているような感じがした、炫士が産まれた直後に自分がどこかへ消えて、五年経って戻ってきて以来、こうやって過ごしてきたことで積み重なってきたものが、この死によって浄化されたのだと那美が言っているように聞こえた。それが自分の一方的な解釈でしかないと分かっていても、炫士は妙に腹が立ち、この死によって浄化されるものなど何もない、岐史の死によってそういうことが起こるように見えるのはまやかしでしかない、むしろそれは、一つの呪いとして、残響のように炫士と那美と速彦の間に居座り続けるのだと思う。岐史が死んだことで、三人が自分にとっての岐史の存在と自分との関係を、それぞれ都合の良いようにとらえ始めるだろう、そのことで、岐史が実在していた時よりも三人の間のずれは広がるだろう、死者は消えない、何度となく、記憶の中に回帰してくるだろう、まるで家族のつながりもまたそうであるように。

 やがて火葬が終わる、肉が燃え落ちた灰の中に、岐史の遺骨が横たわっていた。その骨を、炫士はできるだけ何でもないもののように見なそうとする、不特定多数の死骸の中から、一組の骨を拾い集めてきたのだとでもいうように。もちろん、そんなことは不可能だった、それが岐史の遺骨なのだということは、炫士の頭からは消えようもない、その遺骨を通して、幼い頃に自分の頭を撫でていた手を思い出し、頭蓋骨の形の起伏に、面影を重ねてしまう。記憶が、すでに消え去ったものを追いかけ始めていた、炫士は、これから自分が死者まで相手にしなければならないことを感じていた、死者は距離と無関係に、心の中に浮かび上がるだろう、逃げ場はなくなる、だから、炫士がそこから逃れたいと思うほど、今まで以上にそれは困難なことになるだろう。

 二人一組なって、岐史の遺骨を拾っていく、炫士は那美と一緒に、黙々とその作業を行った。成人男性の大きな骨を、ひとつゆっくりと丁寧に拾って、骨壷に放りこむ、一瞬、炫士と那美の目が合う、その視線の邂逅は、那美がいま何を考えているのかを炫士に想像させずにはおかないが、炫士はかたくなにそれを拒んで、目の前の物質としての骨に意識を集中させる。箸の先を通して、岐史の遺骨の重みが伝わる、そして、一緒にその骨を拾う那美の力の加減が、一緒に伝わる。まるで遺骨と箸の描く三角形が、三人を深く結びつけているかのようだった。ありふれた儀式によって――むしろありふれた儀式だからこそ――その繋がりが自分の奥深いとこまで流れこんで刷り込まれていくような感覚があった。

 那美は淡々として、遺骨を拾い上げている、喪服から現れる白い手、指先で器用に動かされる箸、その先端、白い骨、那美の作法は厳かですらある、何か覚悟めいて、自らの喪の作業に他人を立ち入らせない雰囲気を備えていた。炫士が遺骨を拾い上げる心境と、那美が遺骨を拾い上げる心境は、まるで違っている、それを嫌悪し逃れたがっている炫士と、まるでそれが自分のためにとり行われているかのように遺骨に向かう那美――だが、そんな二人の違いなど全て霧消させるように、岐史の遺骨は二人を結びつけている、まるで他人のような、いや、他人である二人を、岐史が結びつける、他人である速彦と炫士と岐史を、那美が結びつける、他人である那美と岐史を、速彦と炫士が結びつける、他人である速彦と炫士を、那美と岐史が結びつける。黙々として、誰もがそれぞれの孤独と内省の中で作業に集中しているのに、誰もがますます深く互いに結び付けられていく。

 何もかもが、那美に飲み込まれていく、これからどうなるのかと考えたとき、炫士はそんな気がした、岐史が消えて、そういう引力が強まるような気がした、那美は別に自分に何かを強制したりするようなことはない、それをやろうとするのは速彦だろう、速彦は岐史の立場の穴を埋めようとするだろう、だが那美はただそこにいて、死者となった岐史を従えて、その磁場の中に炫士をとどめようとするだろう。しかし、炫士はそのことで、かえってそこから逃れられる可能性が見えるようにも思えた、那美の存在感がはっきりと顕在化することで、自分が囚われているものが何なのか見えれば、自分はそこに対して抵抗を示せばいい。今のようにやみくもにやっている、というよりもわけが分からず何も出来ないという状態から、一歩進めるのではないかという気がする、目の前にそれが浮かんだなら、ありったけの力と冷酷さを持って、それをめちゃくちゃにしてやろうと思う、自分は那美の子ではない、岐史の子ではない、速彦の弟ではない、寄る辺ない、無限の海をさまよう、一人の孤児なのだ。

 炫士は、思わず指に力を込める。箸の先で、もろくなった岐史の遺骨の破片が、ぼろぼろと崩れ落ちた。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その8へつづくーー