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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その8

 葬場からの帰り道、炫士は無言のままハンドルを握った、助手席には那美が座っている。那美と二人になるということは、できるだけ避けたいことだったが、速彦たちは帰る方向が違うため、結局そうならざるを得なかった。那美がハンドルを取るのは主導権を握られているような気分になるので、せめて、と思い、炫士は自らハンドルを握ることにしたのだった。炫士はまっすぐ前を向いている、風景など見ていなかった、ただすれ違う車の動きと、信号ばかりを注視して、目的地に着くという以外のことは考えない、那美と会話を交わすなど、もってのほかだった、身を固くして、視線を決して合わさない。

 「疲れたねえ」

 那美が言葉を漏らす、ぽつりとしたものだったが、それははっきりと炫士に向けられていた。たぶん何か声をかける機会をうかがっているのだろう、とさっきから炫士は感づいていたが、いざ言葉を向けられると、背中から冷水を浴びせられたような気分になり、心臓のリズムが乱れてしまう。炫士は黙っていた、まるで穢らわしいものに触れるのを忌むかのように、沈黙の奥へと隠れ、身を守ろうとする。

 「ねえ?」

 那美は反応を求めた、炫士は応えない。

 「炫士」

 那美は炫士を逃がそうとはしなかった。しっかりと炫士の顔をのぞき込み、言葉を発する。

 こんなふうにしていると、自分がつまらない反抗期の子どものような気がしてくる。たぶん、はたから見ればそうなのだろうと思う、ただ、自分の嫌悪の割り切れなさは、そんなもので説明できないと炫士自身は思う、この感情は心理学的なものではなく、とことん個人的なものなのだ。もし仮にその程度のものだったとしたら、それはせいぜい中学生のころに終わっているはずだった、やがて親を受け入れ、感謝するようになるという抑圧的で「感動的」な筋書きにはまる、月並みな大人にでもなっていただろう。もし自分からその嫌悪が消えるとすれば、どんな瞬間だろうかと炫士は考える、それは、たぶん、自分と那美が全くの他人になれた時だろう、一緒に過ごした時間が消え、戸籍が消え、家が消え、那美が母親だという事実が消える、街で偶然すれ違ってもその存在を気に止めることすらあり得ない、他人になるというより、それは、はじめから互いが他人だったということを意味する、その時、そこにはあらゆる感情の固着が発生する余地がなくなるだろう。

 「あきれた。こんな時までそんな態度なの」

 いくらかの嫌味を含んで、那美が言う。それは、もはや互いの関係が良好になることがないという予兆のように響く、岐史の死は、この関係性が変化しうる最後の機会だった、だが、この瞬間に予感されるのは、これから加速度的に関係が崩れて行く一方なのだろうということだった。

 「……親父には、話したのか」

 重苦しいトーンで、ようやく炫士が言葉を搾り出す。炫士は半ば意を決していた、もうこれ以上正面の問題を避けていてもしょうがない、壊れるなら壊れるで、とことん壊しきってしまえばいい、逃れられないなら逃れられないで、自分も他人も傷つけ尽くせばいい、あきらめるつもりも、自分がそこから自由であるかのように振舞うつもりもない、道化のように、その不自由に頭をぶつけ続けようと思った、額が割れ、血まみれになり、気を失うまで、徹底的に自分をその不自由に叩きつけようと思った。

 「何を?」

 「とぼけるな。分かりきったことだろうが。お前が五年間、どこで何をしてたのか、親父には話したのか」

 「炫士、あのね――」

 「まず俺の質問に答えろ」

 何か言い訳をしようとした那美の言葉を容赦なく遮り、炫士が迫る。表情には、憎悪と怒りがにじむ。

 「言ってない、何も言ってない」

 那美がため息をつく、そのため息には、炫士をたしなめるような雰囲気と、自己正当化がこもっていた。その態度にますます腹が立ち、炫士はハンドルを握る手に徐々に力を込める。

 「親父が死ねば片付くと思ったのか? お前の過去が、何もかも水に流されると思ったのか?」

 「そんなこと思ってない」

 「なら、何で言わなかった? 何で親父をそのまま死なせたんだ?」

 「それを言ったところで、どうしようもない。それはもう、お父さんとお母さんの間で、問題じゃなかったの」

 「お前が一方的に黙殺しようとしたんだろ。親父は関係ない、その沈黙はお前の企みだ、どんな問題も、黙っていれば表面化しない、そのうち時間の重なりの底に沈んで薄れて、忘れ去られる、どうせそんなふうに思って、目を背け、隠蔽しようとしたんだろ」

 「それを言い出したのは、お父さんのほうなんだからね」

 那美が動じている様子はなかった、炫士が言うことなど見すえていたかのように、不気味な落ち着きで助手席のシートに身を預けている。

 「何だと?」

 「帰ってきたばかりのとき、私は、お父さんに自分が何をしていたのか話そうかどうか迷ってた。でもね、お父さんがそれを察したみたいに、自分のほうからそのことを切りだして、何も言わなくてもいい、聞いても何も変わらない、だから、まるで何もなかったかのように、これから一緒に暮らしていこうって、そう言ったの」

 あ然として、炫士は那美の話を聞いていた。岐史の体たらくも、のうのうとしている那美も、もはや理解できなかった、言葉が出てこない、せり上がってくるいら立ちに、炫士は唇を噛む。死んだ人間に問いただすことはできない、だが、岐史は那美を赦したつもりだったのだろう、と炫士は思う、だとすれば、そんなものは赦しではない、岐史は、目の前の問題から目を背けたのだ、自分を現実から、那美から遠ざけ、日常生活の中に立てこもり、その世界が壊れないようにすることだけを、考えることにしたのだ。岐史自身は、そうすることで速彦や炫士や那美を守ったつもりなのかもしれない、父親としてそうするのが正しいと思ったのかもしれない、だが、実際に岐史が守ったのは、自分自身だけだった、そういった問題から自分が超然としていられるかのように振舞うことで、自分自身の世界の完璧さを守ったにすぎない、単なるナルシストにすぎない。岐史は、那美に、母に完敗したのだ、ひざまずき、那美の顔を見上げようともせず、靴を舐めるように、その足元を見つめ続けたのだ。そう考えて、炫士はこの瞬間、尊敬していなかったとはいえかすかな同情心を向けていた岐史を、完全な軽蔑の対象と見なした。

 「それで、親父が死ぬまで、結局何も言わなかったのか」

 「……それが、お父さんの望みだったからね」

 これまでにないくらいに耐え難かった、自分が岐史と那美の子であるということが、おぞましかった、自分は、この黙殺から産み落とされたのだ、この共謀された沈黙が、自分を宿した子宮なのだ。激しい怒りが、炫士の思考を殴りつける、子どもは母から産まれ、父のようになるのだという呪縛を、狂おしいほど否定したかった、それが子どもの運命なのであれば、自分は沈黙から生まれ、沈黙へと回帰していくことになるだろう、自分の生は、ひと続きの無となるだろう。再び、激しい怒りが炫士の思考を殴りつける、まるで壁を打ち破り、世界の外へと飛び出そうとするかのように。

 「親父だけのせいにするな。それを決めたのはお前らだろう。親父にそのことを話そうと思ってただと? 嘘をつけ。お前は言い出そうとする振りをして、親父がそう言うのを待っていただけだろうが。お前らは二人で示し合わせて、自分たちを家庭の中へと閉じ込めたんだ。何も見なくてもいいように目を覆い、何も聞かなくていいように耳を塞ぎ、一切の矛盾を追いだして、全てが予定調和になる場所へ引きこもっただけだろう。お互いが何者であろうと、自分の役割と居場所を保障してくれる家庭の中へ」

 「だからどうだって言うの? 炫士、私たちには、あなたと速彦がいたの。だから私たちは、それを選ぶ必要があったのよ。私たちはもはや、自分たちのことだけを考えていればいい存在じゃなかった。自分のことなんて、そこでは二の次だった」

 「今度は子どものせいか? お前はどうなんだ、お前の責任はどこへ行った。お前はいつでも被害者のつもりか? 自分が母親だから、自分はいつでも夫と子どもの被害者だから、自分は責任など負う必要はないってことか?」

 「そうじゃない。私がこの十五年、苦しまずに生きてきたとでも思ってるの? 炫士、被害者のつもりでいるのは、あなたのほうじゃない。あなたは自分が子どもだったことを盾にして、他人を責め続けてるけど、お父さんにも、速彦にも、私にも、それぞれの苦しみがあったのよ? あなたこそ、そのことを見ようともしない。自分だけが被害者で、自分だけが苦しんだような顔をしてる」

 「俺は別に自分を被害者だとは思ってない。あえて言うなら、俺は加害者だ、俺を苦しめているのはお前らじゃなくて、俺自身だ。俺はただ単にこの世に産まれてきたという事実によって、お前らと、俺自身を苦しめてる」

 苦しみ、という言葉をつい口走ってしまうが、それは適切ではない気がする、自分は苦しんでいるのではない、と炫士は思う、そうではなくて、ひたすら憤っている。

 「なら、今すぐそれをやめればいいでしょう。自分を受け入れなさい。そうするだけでいい、そうすれば、全てを赦せるようになる」

 「そんなことができると思うか? そこでお前が受け入れろと言ってる自分は、俺自身のものじゃない、それを受け入れることで、むしろ俺は全てを失うだろう、お前らが家庭に閉じこめられたのと同じように、俺はその自分から出られなくなるだろう」

 那美はため息をつく。何か言い出そうとためらっている様子で、時間をおいてから、ゆっくりと口を開く。

 「……炫士、ごめんね、確かにあなたを捨てるように、どこかへ行ってしまったことは悪かったと思ってる。赦してもらえないかもしれないけど、でも、その時の私は、そうする以外に道はなかった。私もきっとあなたと同じよ、私は、まだ自分でいられる可能性を、捨てたくなかったのかもしれない」

 「勘違いするんじゃねえ!」

 優しく自分を懐柔するような那美の口調に嫌悪感が噴き出し、衝動的に叫んでハンドルを叩いた、はずみでクラクションが鳴り、隣の車の運転手が驚いて炫士を見たので、炫士はそれを凄まじい怒りの形相で睨み返す。その運転手は慌てて視線をそらし、逃げるように速度を落として、炫士と並走しないようにする。

 「勘違いって……何が勘違いなのよ」

 驚いた那美が、今にも殴りかかってきそうな炫士から身を退きながら言う。

 「俺の苦しみが始まったのは、俺が俺を苦しめはじめたのは、お前がいなくなった後からじゃない」

 「どういうこと?」

 「それが始まったのは、お前が帰ってきた後からだ。理由がそこにあるとすれば、お前が消えたことが理由じゃなくて、帰ってきたことが理由だ」

 「何を言ってるの?」

 「お前は帰ってくるべきじゃなかった。俺の前に現れるべきじゃなかった。お前は、どこかへ消えたままでいるべきだった」

 「炫士、分からないわ。ちゃんと説明して」

 「分からない? ふざけるなよ、お前は自分が何をしたのか、本当は分かってるはずだ。お前は無知を装って、全てを何事もなかったかのように黙殺しただけだろうが。お前が無知だったとしても、それはお前の無罪を意味しない。本当は何もかも分かっているんだろ? 分かっていてもどうすることもできないから、あえて無知を装うことで、全てをコントロールしようとしただけだろうが」

 「いい加減にして。どうしても私を悪者にしたてあげたいのね。炫士、いくらそんなことを言っても、その悪者は、あなた自身が創りだしたものにすぎないのよ」

 「悪者? 俺に取ってのお前は、悪者じゃない――ただの母親だ。それは俺が創りだしたものじゃない、それは共有されたものだ、俺が息子であるように、あの男が父親であるように、お前は母親だ」

 だから逃れ難いのだ、と炫士は思う。それは悪者ではない、病巣ではない、だから、外科的に取り除くことができない。

 「……いったい、あなたの望みは何? 私が何をすれば、満足するっていうの? 炫士、私にはもちろんあなたを苦しめる意図はなかった、それどころか、私が帰ってくるのは、あなたにとって良いことだとすら思ってた」

 「結局、お前は俺の言っていることを理解しようともせず、自分自身の姿すら見ようとしないんだな。お前みたいな人間たちから見れば、俺はわがままで独善的に見えるんだろうが、本当の意味で独善的なのはお前のほうだ。俺はやっぱりお前を嫌悪してる、お前はこの世で最も醜悪な生き物だ、どんなに無知を装っても、それがお前の本当の姿だ」

 自分が帰ることで何をもたらすか、そんなにまで無自覚だったと那美が言うのなら、それはさすがに嘘だろう、と炫士は思う。那美はいつでもそうだった、自分は常に深刻なことの中心にはいないのだというふるまいを、今に至るまでずっと続けている。これは、私がひきこ起こしたことではない、これは、起こってしまったことなのだ、それが那美の論理だった。そこでは、誰もが平等に被害者になることができるだろう、だからこそ、炫士は自らを加害者だと見なそうとする。そこでは、誰もが那美の子どもになってしまう、速彦も、岐史も、那美の子どもであり被害者なのだ、炫士は加害者になることで、逆に自分を那美を上回る存在としてしたてあげようとする、速彦と、岐史と、那美――炫士はそれぞれを上回る存在になろうとしていた、能うる限りにおいて、三人を、徹底的に傷つけようとしていた。

 喪服のネクタイをゆるめ、炫士はハンドルを握り直す。ひどい疲労感だった、話せば話すほど、ディスコミュニケーションが折り重なっていく、もはや言葉は機能していなかった、それでも、車の中、一つの空間の中には、二つの身体が存在している、それは言葉ではどうすることもできないものだった、それでも何かを試みようとするならば、そこには何らかの形での肉体的な接触以外に方法はないだろう。

 炫士の目の前で、フロントガラスの向こうに現れる風景が凝固して目に貼り着こうと迫ってくる、だが、炫士はそれを振り払うようにアクセルを踏んで車を走らせる、視線を、その風景の奥へ奥へと突き刺していく、限り無く遠くの彼方まで入り込んで、無限の世界を見出そうとするかのように。

 何もかも、暴きだしてやる、炫士はそう思った。沈黙の闇の中へ覆い隠されてしまうことの全てを、燃え盛る炎のような光で、暴きだすのだ、まるで産まれた瞬間に母親の膣を焼き、黄泉へと向かわせた火の神のように、母の死をもって、自分の生をこの世に表すのだ、父と母は自分を無の中から生み出した、しかし、自分は無ではない、だから、無には回帰しない、何としても、この世に有らねばならない。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その9へつづくーー