Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 その10

 士は、またしばらく元の生活に戻っていた、夜の街をうろついて、女たちに声をかけ、上手くいったり上手くいかなかったり、面白かったり退屈だったり、そういう生活を再開する。家族とはもちろん、秋姫にも会わなかった、これだけ三人を貶めるようなことをしておいて、もう一度だけでも会うような機会があり得るのだろうかとさえ思う。会おうが会うまいが、どうしようもないことには変りない、無視すればするほど、無意識のように湧いてきて足元に絡みつき、こちらから入り込んで汚せば汚すほど、肌に染み付いてくる。那美から産まれた身体で世界を感じ、世界に触れ、岐史と速彦に植えつけられた言葉で世界を語り、世界を求める、それが自分なのだということを、炫士は認めるしかない、ほとんどすべての人間が、当たり前のこととして疑いもなくそうするように。だが、炫士にはどうしてもそれができなかった、表面的な部分ではなく、根源的な部分において、自分が自由になり得るということを、どうしても求めようとしてしまう。ある人は自分の身体を様々なやり方で傷つけようとするかもしれない、ある人は外国語の中へ逃げ込んだり自分の言葉を変えようとするかもしれない、だが、炫士にはそういう発想はなかった、もっと直接的に、直感的に、自由を求めようとしていた。そんな炫士にとって決定的な問題となっているのは、方法がないということだった、だから、どうしても過激にならざるを得ず、むやみやたらに、他人を傷つけてしまう。秋姫を傷つけてみても、結果は変わらなかった、もがけばもがくほど、沼に引きずり込まれ、はまり込んでぬけられなくなるような気がする。

 

 しばらく気ままに生活しようとする炫士だったが、何度となく、そういう炫士を放っておかないのだとでもいうように、携帯に速彦からの着信があった。炫士はそれを無視し続けていたが、この一ヶ月くらい速彦は執拗に繰り返し電話をかけてきている。何かが、速彦を怒らせている、ちょっとした用事なら、連絡が繋がらなければあきらめもするだろうが、この執拗さは、速彦が感情的になっている証拠だ、と炫士は思った。思い当たるのはもちろん、秋姫のことだった、炫士が自分にしたことを、速彦に打ち明けたのなら、速彦は絶対に炫士を許さないだろう。だが、秋姫の性格からして、それは考えにくいことだった、秋姫は深刻なことであればあるほど、それをひた隠しにしようとする、まるでそうすることで、何も起こらなかったのだとでもいうように、それは表沙汰にすることではないのだというように、自分の心の奥底に、無理矢理押し込めてしまう。ましてや、自分から他の男を求めてクラブをうろつき、昔の恋人だった義理の弟に抱かれたなどと、速彦に打ち明けるはずがない。それに、もしそんなことを知ってしまえば、速彦の怒りはこんなものではないだろう、速彦は潔癖な人間で、おとなしい秋姫の処女性や慎ましさを、己が女性に求めるままに信じているのだから。秋姫がそんなことをするなどというのは、速彦の想像を超えている、想像を超えた事実を突きつけられた速彦の混乱は計り知れないだろう、その時、速彦は炫士に対してありったけの憎悪を爆発させるだろう、いつもためらいがちに炫士に向けられていた怒りは、その抑制を突き破るだろう、兄であるとか弟であるとか、そういう境界を無効にして、剥き出しの感情で対峙しようとするだろう。

 

 炫士は夜の街を歩く、たった一人、ぐるぐると人の多い通りを巡って、風景の底へと沈んでしまう人々の群れに手を差し入れ、一杯の水をすくい上げるようにぽつぽつと声をかける。炫士は歩みを止めなかった、動き続けていないと飲まれてしまうような気がした、止まった瞬間に、自分が何者であるかを思い出してしまいそうだった、動き続ける勢いの中で、誰でもない誰かとして、他人に出会おうとしていた。ただ、今までと勝手が違うのは、自分が速彦に追われているような気がすることだった、街を歩きまわっているときに電話が鳴ることもあったが、そうでなかったとしても、常にその影が、ひたひたと背後から迫っているような感じがする。自分が苦しめた秋姫の顔がたびたび頭に浮かんで、そのことが余計に、速彦の存在を際立たせている。夜の街の闇の中に、速彦の影が染み込んでいる、その忌々しさに、炫士は苛立っていた、速彦の影のせいで、夜の街の何処を歩いていても、常に自分が何者かであるということを思いだしてしまう、もはや、ここで炫士は孤児になることができなくなっていた、炫士は速彦の弟であり、那美の子どもだった。暗い山道に綾かかる茂みをかき分けるように、炫士は人ごみを縫って歩いた、迫ってくる速彦の影を、どうしても振り払いたいのに、それは炫士の動きをものともせずに張り付いてくる。炫士は妙に焦っていた、それをどうすることもできない自分を、持て余すしかない、速彦と那美の存在が消えてしまえばいいのに、と思う、岐史のように肉体的に死ぬというのではなく、それが存在するということを、現在からも過去からも、拭い去ってしまいたい。焦りといら立ちが炫士の顔をこわばらせ、威圧的で強引な声かけをくり返してしまう。

 「おい」

 炫士は目の前を歩いていた女に、いきなり言葉を投げつけた。女が驚いて、不愉快そうな顔でこっちを見る。

 「暇そうだな」

 相手のことなど無視して、炫士は自分の感情に流されるままの態度でしゃべりかける。

 「急いでるんで」

 女は目をそらし、身を守るように前かがみになって、早足で逃げようとする。

 「嘘つくなよ」

 「やめてください」

 「は? 何も悪いことしてねえだろ。お前が暇そうだから声かけてやってんだぞ」

 単なるやつあたりでしかない言い草に、女は恐怖を感じた様子で、人ごみへ向かって走りだそうとする。

 「逃げんなよ。俺が何したっていうんだ」

 炫士は素早く女の腕をつかんで無理矢理引き寄せ、耳元に顔を近づけ脅すような言い方をする。

 「何するんですか!」

 つかまれた腕を振りほどこうと、女が体を左右に揺さぶって抵抗するが、炫士はそれをあざ笑うかのように、その腕をねじり上げてしまう。女は悲鳴を上げて、顔を地面に向けて崩れ落ちそうな格好になる。

 その様子を、通行人の男がしばらく見ていた、何が起こっているのか、しばらく考えていたようだったが、やがてこれは明らかにおかしいと思ったのか、ゆっくりと炫士のほうへ近づいて来る。

 「――ちょっと、あなた何をやってるんだ」

 誠実そうな男で、憎むべき所はないような人柄に見える、おそるおそる、今ここで働かさなくてはならない正義感を、忠実に体現しているだけだった。だが、炫士はもはや、他人に対して必要な感性や判断を見失いかけていた、相手が誰でどんな人間でも、それは炫士にとってはどうでもよくなってしまっている、男のことなど何も見ていない、障害物をどかすように、目も合わさず、瞬間的に身をひるがえし、男の腹を蹴り上げる。

 「あっ」

 男は短く呻いて、みぞおちに入り込んだ蹴りで悶絶して、膝から地面に崩れ落ち、舌を出して苦痛にあえいだ。炫士は笑った、笑いながら女を突き飛ばし、通行人をかき分けて走り出す、通りにそって、ぐるぐると街をさまよいながら、遠くへと移動する、だが、炫士の笑いはすぐに消え、いったい自分は何をやっているんだという内省が始まってしまう、以前にクラブで強引に秋姫を連れだそうとした幼稚な男と、同じことを自分はやっている。闇に忍び込んだ速彦の影が一面に広がり、走っていく炫士の足の裏にねばねばと張り付いて糸をひくようだった、その時ふたたび、電話が鳴る、炫士は電話に触れない、ポケットにつっこまれたそれは、走る炫士と共に移動する、止まっていようが走っていようがもちろんそれは変わらない、だが、炫士はあえて滑稽を演じようとするかのように、自覚もなく、鼓膜を叩くように鳴る音から逃げようと、夜の街を抜ける、街のあちらこちらで、速彦が自分を探しているような気がした、建物のすき間から、行き交う車の窓から、すれ違う人々の視線の奥から、ありとあらゆる場所に乗り移った速彦の目が、自分を見ていた、その視線から逃れようと、炫士は走り続ける、息が上がり、激しい呼吸の音を漏らしながら、夜の街の隅から隅を転げまわる、だが、その目は至る所にあった、その目は、炫士の内側から炫士を観察していた、全身をめぐる血液の中から、臓器の奥から、速彦の目が、自分を見つめている――。

 炫士は疲れきっていた、息を吐き、獣のように歯を剥いて、低い声でうなり、街の中にぽっかりと空いた空洞のような公園へとやってくる。夜なので全く人気はない、それが、今の炫士を落ち着かせてくれた。その公園の中ならば、つかの間でも速彦の目を避けられるように思えた。

 呼吸が落ち着くと、さっきまで鳴っていた電話の着信履歴をチェックしてみる、電話をかけてきたのは、速彦とは全然関係の無い知り合いだった。炫士は笑い声を上げる、何をこんなに逃げ回っているのだろうと思う、結局すべてが、自分一人の考えの中で起きていることにすぎない、秋姫も速彦も、今は目の前にいないというのに。だが、予感だけは消えなかった、この街のどこかで、速彦が自分を探している、それはほぼ間違いなかった。次に速彦と会ったとき、いったい何が起こるだろうか、と炫士は考えてみる、速彦は、きっと自分に対して今までにない憎悪を感じているのだろう、それは自分も同じだった、お互いに、お互いの存在をこの世から消したいと思っているだろう。少なくとも、炫士はそうだった、互いに兄弟として生まれるべきではなかった、全くの他人であったならば、互いの存在を許容できただろう、だが、二人は兄弟なのだ、自然はその気まぐれな残酷さによって、二人を同じ母親から産まれさせてしまった、炫士が誰かの子どもであることを、絶対的な運命にしてしまった。炫士がその運命から必死で目を背け、己の両眼をえぐりたいほどだと思ったとしても、自然は平然としてそこにある。偶然の結果が、運命として炫士を拘束している、その馬鹿馬鹿しさは、救いようがない。たぶん、自分は那美と速彦という人間そのものが憎いのではないのかもしれない、と炫士は思う、母だから那美が憎いのであり、兄だから速彦が憎いのだ、ならば、この憎悪は解決しようがない、自然は、自分が加害者になることを許してくれない、誰もが原因に突き動かされた結果としてしか存在できない、誰もが憐れな被害者になってしまう。

 炫士は帰ることにした、歩いて行く夜の街の、深い闇々の中から、速彦の視線が浮かび上がってきている、ならば背景の闇そのものは、那美の目だろうか、その瞳孔の、虚空の深さが、炫士を誘っているようだった。自分は、すっかり街の中での居場所を失ってしまった、と炫士は思う、あるいは居場所だと思っていたものが、結局そうではなかったということが、はっきり見えてしまった、孤児のように街をさまよい、名前のない女たちを漁ることでごまかしていたものが、すっかりあらわになってしまった。結局自分はありふれた繋がりの中でしか存在していない、にもかかわらず、説明のつかない衝動によって、直情的にそれを拒み続けている。

 ――どうすることもできない。

 ひときわ強く、その言葉が炫士の頭の中で響いた。頭の周辺を駆け巡る理屈がいかにそれを無駄な抵抗だと説明しても、炫士はその衝動を押さえこむことができない。むしろ衝動こそがその理屈の主だった、那美と速彦と岐史と自分の関係についてのあらゆる理屈が、その衝動に従属している。関係と衝動が真実であり、理屈はその影でしかない。もうあれこれ考えるのはやめようと思った、後は関係に衝動をぶつけていくだけだった、その結果何が起きたとしてもかまわない、何も起きないよりましだった。

 

 

 炫士は地下鉄の駅のホームに立った。そこに立ったまま、何本かの電車を見送った。炫士はそこで、速彦を待ってみることにしたのだった、その駅は速彦の職場の最寄りで、通勤時には必ず通るはずだった。自分を追い回す速彦の視線を、そこで迎え撃とうと思った、逃げ回るほどに、それは強迫的になる。電話に出る気もかける気もなかった、速彦の予期していない形で対面し、不意をつきたかった。

 そのまま、さらに何本かの電車を見送る。速彦は現れなかった、今日はもう帰ったのかもしれない、そう思って、炫士は周囲を見回した。人もまばらなホームに、一人、女が電車を待っていた、背筋を伸ばして立っているが、少し疲れたような気怠い表情で、じっと正面を見つめる瞳が揺れ動いている。とても美しい顔をしていた、毎日のように街を歩き回っていても、めったに出会うことのないくらいの女だった。アナウンスが聞こえてくる、快速の電車が通過します、当駅には停車いたしません、そう告げていた、視線の向こうから光が飛んできて、押し出された風がホームを吹き抜ける、やがて巨大な質量の電車が音を立てて突っ込んでくる、炫士はそれを見つめながら、その電車が自分の体を粉砕する所を想像してみた、圧倒的な力が、自分の存在を消し潰してしまう、その想像に、不思議な解放感を覚える、自分が死ぬということではなく、圧倒的な力に消し潰されるということに、戦慄と安らぎを覚える。

 女もまた、目を細めて電車を見送っていた、吹き抜ける風で長い髪の毛が扇を開くように舞い上がり、毛先を踊らせたかと思うと、突然に力を失って元の位置へ落ちて行く。炫士は少し考えてから、一歩を踏み出す、声をかけてみようかと炫士は迷う、以前の自分なら、何も迷わず声をかけただろう、だが、速彦の視線の幻影に囚われてしまった今、それをいくらやったところで、自分は何も得られない。自分の目の前で、世界が閉じようとしていた、こじ開けたくても、その方法がない。

 ――――。

 何か、聞こえたような気がした、それは通過する電車の騒音にかき消されて、耳には届かない、だが、炫士はその声に注意を惹かれる。

 振り向こうとした瞬間、炫士は肩をつかまれた、反射的にその肩を動かして、それを振り払う、そして顔を向け、その手の主の姿をとらえる。

 「――炫士」

 そこには速彦が立っていた、自分のほうが先に相手の姿を見つけたはずなのに、炫士よりも速彦のほうがずっと驚いた表情をしていた。理由は簡単だった、この遭遇を、炫士は予期していて、速彦は予期していなかった。

 「何だよ?」

 嫌に冷静な態度で聞く炫士に、速彦は驚いた表情のまま一瞬考えこむようなしぐさをした。

 「……こっちのセリフだ。こんな所で何やってる」

 「たまたま通りかかっただけだ」

 速彦は首を傾げる、こんな所にたまたま炫士がいるというのは、どう考えても不自然だった。

 「まあいい。それより……何で電話に出ない?」

 今自分が何を言うべきか思い出し、速彦が尋ねる、その言葉には自ずと力がこもった。

 「どうせ、俺にとってはロクな用事じゃないだろ」

 予想通りの炫士の反応を、速彦は鼻で笑ってあしらう。炫士は、いったい何の用事なのかと再び考えてみる、秋姫のことだとは考えられない。

 「お前、母さんになんてこと言うんだ」

 ああ、そっちのことか、と炫士は思う。

 「何のことだ」

 「とぼけんなよ。お前、母さんのこと、この世で一番醜い生き物だとか言ったらしいな」

 それを聞いて、思わず炫士は吹き出してしまう。

 「それを、何でお前がわざわざ俺に言ってくるんだ。そんなことで何回も電話してきやがって」

 「俺が言うしかないだろ。父さんが死んだ今、お前をちゃんと注意できるのは、俺しかいないんだからな。お前はその場で感情的にそんなことを言ったのかもしれないけど、母さんに対してあまりに侮辱的な言葉じゃないか。俺はそれを見過ごすわけにはいかない」

 「おいおい、勘弁してくれ、とうとう父親気取りか。俺は本心からそう言ったまでだ、事実そうだと思ってる」

 「お前が幼稚だから、俺がお前の親父みたいにふるまわないといけない」

 「お前が、俺のことを幼稚だと思い込みたがってるんだろうが」

 「そんな子どもっぽいこと言い散らかしといて、いっぱしの大人のつもりか」

 速彦がなぜこんなに自分に対してこだわるのだろうか、と炫士は考える、弟を嫌悪して排除しようとしながらも、同時に拘泥してあくまで家族内の周縁に引き止めようとするのは、明らかに矛盾した行動だった。速彦は那美と炫士という個人のことなど見てはいないのだ、と炫士は思う、速彦は常に、父と母と弟と、兄である自分という、閉じられた集団内の力学にしたがって動いている、言ってしまえば、自分を兄というポジションに置かなければ、自分がどう振舞って良いのか分からないのだ、集団に自分を定義してもらうことでしか、自分自身と、そして自分と他人との関係を、とらえることができない、だから、母と弟を、どうしても手放すことができない。ここで自らを父親というポジションに移行させようとしていることことが、その動かぬ証拠だった。そのことに気づいた炫士の頭の中に、邪悪な考えが浮かんでくる、速彦を追いつめ、壊してしまうのは、もはや簡単なことだった。

 「悪かったよ、ごめんね、パパ」

 悪意の塊のような笑みを浮かべて、炫士は速彦をパパと呼ぶ。

 「そうやって人のこと馬鹿にした態度をとり続けるんだな。でもそんなのはな、お前自身の、余裕の無さと幼稚さの裏返しでしかないぞ」

 少なからず当を得た言葉に挑発されるように、炫士は笑いを止め、速彦を睨みつける。だが、すぐに、その顔には薄笑いが戻ってきた。

 「じゃあね、パパ、炫士くんが良いこと教えてあげるよ」

 「いいかげんに――」

 言いかけた速彦を、炫士が手のひらをかざして制止する。もう何もかも壊れてしまえ、と炫士は思う、行き着くところまで、行ってしまえ。

 「まあ、とりあえず聞いてよ、パパのお嫁さんいるでしょ、秋姫っていう女。あの女ね、昔、炫士くんの彼女だったの」

 「何を言ってる?」

 突拍子も無いことを言いだした炫士に、速彦の表情が強張る。

 「ホントだよ。炫士くんと秋姫は、おんなじ中学に通ってたんだ、こっそり付き合ってたから、みんな知らないかもしれないけど」

 「お前、本当にいいかげんにしろよ。嘘でも、そんなこと言っていいと思ってるのか」

 「でもさ、パパはおかしいと思わなかったのかい? 炫士くんと秋姫ってさ、明らかによそよそしい態度とってただろ? そのくらい、気づいても良かったのに」

 速彦が黙り込む、いくら鈍感な速彦とはいえ、秋姫の人見知りな性格を差し引いても確かにあまりによそよそしい態度をとっていたことに思い当たり、炫士の言葉に何と返していいのか分からないようだった。

 「びっくりしたよ、パパが秋姫をお嫁さんだって言って、炫士くんの目の前に連れてくるんだもん。それでね、炫士くん、パパのこと嫌いじゃない? だからさ、炫士くん、何したと思う?」

 速彦は何も答えない、答えられない、炫士の喋っている荒唐無稽な話を、ただ聞いていることしかできない。何も証拠はない、ただの侮辱にしか聞こえない、だが、速彦は黙って聞いている、潜在的に、そんなことがあるかもしれないという不安を、自分でも気付かないくらい深い意識の底で、抱えていたのかもしれない。

 「パパのお嫁さんね、ホントはパパのものになるのが嫌だったのかな? だから夜にクラブに通って男漁りしてたみたいだね。だから炫士くんね、パパのお嫁さんに声かけて、セックスしちゃった」

 「ふざけるな!」

 速彦が叫んで炫士の胸ぐらをつかむ、炫士はあえて抵抗しなかった、薄ら笑いを浮かべながら挑発し、速彦の自尊心を根こそぎ奪い取ろうとする。

 「ただ単に二人でセックスしただけじゃないよ。炫士くんね、パパのお嫁さんが、パパのものにも、炫士くんのものにもならないようにしちゃった」

 胸ぐらをつかんでいる手に、ありったけの力がこもり、震えていた、速彦は顔を真っ赤にして目を血走らせ、歯をむき出しにして炫士を睨みつけていた、膨れ上がる怒りが、制御できないものになりつつあるのがはっきりと分かる、それなのに、炫士は挑発をやめない、全てを取り返しの付かない結果に向けて、押し出そうとしている。

 「炫士くんね、お友達を呼んでね、パパのお嫁さんと三人でやっちゃった。後ろから前から、パパのお嫁さんに、おちんちん入れちゃったの――」

 その瞬間、速彦が叫び声を上げる、制御できない怒りが、炫士の目の前で破裂した、まともな言葉にならない叫びと共に、速彦の拳が飛んできて、炫士の頬を殴り飛ばす。炫士は顔を弾き飛ばされてのけぞる、口の中が切れ、すぐに血が溢れて舌や歯をベトベトに濡らし、その血液がよだれに混じって、痛みで上手く閉じることの出来なくなった口からだらだらとホームの床の上に垂れていった。激しい痛みで、口の中がうずいていた、だが、炫士はその痛みに妙に嬉しい気分になってきて、笑いを漏らす、痛みが、真実となって響いているような気がした、その痛みが、自分を孤絶した場所へ連れていき、その痛みが、その場所で無根拠な存在となるはずの自分の根拠となって繋ぎ止めてくれるような気がした。続けざまに、速彦の蹴りが飛んできて、炫士はそれを腕と胴で受け止める、骨を軋ませるような痛みが腕を突き抜け、炫士は血にまみれた口の奥で喘ぐ。速彦は激昂で肩を震わせ、荒く息をしていた、怒りは治まらない、速彦は感情の奴隷になったかのように、炫士に対する攻撃性を吐き出そうとしていた、もはや相手を殺してしまうまで、それが治まらないのだというように。速彦が再び拳を振り回す、それが炫士の鼻先をかすめ、たまらずうつむいた炫士の鼻から血が溢れ、真っ赤な鮮血が飛び散った。炫士は笑う、痛みが、体を突き抜けていた、血まみれになった顔を手でぬぐいながら、止まらなくなった笑いを押しとどめることもせず、ただひたすらに笑う。自分でも何を笑っているのか分からなかった、速彦に対する笑いでもなく、自嘲でもない、痛みと共に、純粋な笑いが脳を突き抜けているかのようだった。怒り狂った速彦は、攻撃の手を止めようとはしない、訳の分からない言葉で罵りながら、炫士の方へと向かってくる、炫士は笑っていた、そのおかげで、ひどく冷静に、速彦の動きをとらえていた、だから炫士にとって、反撃するのはたやすいことでしかない。次の瞬間、速彦が力まかせに振り回す拳をかわした炫士は、バランスを失いそうになる速彦のこめかみ目がけて、鋭い一撃を叩き込んだ、それまで暴れていた速彦の動きが急に止まったかと思うと、糸を切られた操り人形のように、ホームの上に崩れ落ちてしまう。怒りの奴隷になっている速彦はなおも動き続けようとして、こめかみを押さえながら、がくがくと震える膝を押さえ、立ち上がろうと体を起こす、だが、炫士は容赦なく、その顔面に強烈な蹴りを浴びせてしまう。肉の弾ける音がして、速彦はそのまま背中からホームに転がった。さっきまで優勢だったのが嘘のように、速彦はうつろな目で体を震わせ、鼻と口から流れる血で顔面を濡らしているのに、それでも必死に起き上がろうとする。激しく息をしているせいで、口の周りに真っ赤な泡が噴き出して溜まっている。炫士は、その速彦へ向かって、ゆっくりと歩いて行く、後は、とどめをさすだけだった。

 ――電車が来ます、白線の内側までお下がりください。

 アナウンスが聞こえた、炫士は笑う、速彦が、圧倒的な力に潰される瞬間を想像した、その力によって、肉体と一緒に、存在の事実が消えてしまうことを想像した、何もかも、消えてしまえばいい、炫士は思った、速彦は必死に体を起こし、立ち上がろうとしている、炫士はその瞬間をただ待っていた、線路の消える闇の奥から光が飛んできて、押し出される風が一瞬でホームの端から端を吹き抜ける、警笛を鳴らし、巨大な質量の塊が迫ってくる、後は簡単だった、必死で立ち上がる速彦をあざ笑うかのように、ほんのわずかな力で、速彦を線路の方へと押し出した、もはや力を失っていた速彦は、よろめきながら、バランスを崩して、迫ってくる電車へと吸い寄せられるように、よたよた後ずさりをする、炫士は笑い声を上げた、そしてそのまま踵を返して走り出し、ホームを駆け抜ける、その瞬間、あの美しい女と目が合った、女は世にもおぞましいものでも見たように、瞳孔を広げ、釘付けられたような視線で炫士を見つめていた、逸らそうとしても逸らすことができないという視線だった、炫士はその女の横を通り過ぎ、跳ぶように階段を上がる、金属をねじ切るような、激しいブレーキ音が聞こえ、女の悲鳴がホームをつんざいた、炫士は振り返らない、何が起きたのかは確認しなかった、ただ、地下から、駅の外へと向かって、一直線に這い上がることだけに集中していた、速彦は死んだのだろうか、それは分からなかった、炫士はひたすら走り続けた、立ち止まってしまえば、粉々になった速彦の体から洪水のようにあふれる血によって足元をすくわれ、そのまま再び地下へと引きずり込まれてしまうような気がした、だから炫士はひたすら走り続けた、今自分がやるべきなのは、このまま全てを悲惨な結末へと向かって押しやることだけだった、結果がどうなるかは分からない、それは自分が決められることではない、だが、能うる限り、自分は徹底的に加害者になるのだ、そう思いながら、炫士は、地上へと駆け上がる、明かりに照らされていた地下よりはるかに暗い、闇の底のような夜の地上へ、炫士は戻って来たのだった。

 

 

誘惑の炎、存在の淵 その11へつづくーー