Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

誘惑の炎、存在の淵 最終回

 とり、炫士は家の中に立っていた、どこを見回しても、子供の頃からの記憶がそこに染み付いている、懐かしむとかそういうことに関係なく、炫士がそれを受け入れようと拒否しようと関係なく、ただただ、その記憶は頭の中に絶えず浮かび上がって来る。においや手触りが、そこに染み付いている、炫士の体にも、染み付いている。何か、悪いことだけではなかった気がする、良い思い出もあった気がする、だが、炫士はどうにもならない衝動によって、それを押し流してしまった。奇妙な悲しさと寂しさが、奥底からわき上がってきて、その感情が炫士の唇を震わせる。孤独が張り詰めていた、この家のどこにいても、息苦しかった。

 出ることも残ることもできず、家の中をさまよっていた炫士は、玄関の三和土に置かれていた、灯油の入ったタンクを見つけた。しばらくじっとそれを見つめて、炫士はおもむろにそれを抱え上げる、まだかなりの量が残っていて、容器の中で重い液体が揺らぐ音が聞こえた。

 タンクを抱えたまま、炫士はリビングへやって来る、そしてまず、目についたソファに、炫士は灯油を撒いた。そのソファには、テレビを見るときにいつも腰掛けていた、炫士はそうしていたし、岐史も速彦も那美も、そうしていた。部屋の中に、灯油のにおいが充満していく、嗅覚が異様に敏感になっていて、炫士はそのにおいに何度もむせ返った、カーペットの一面に灯油を撒き、カーテンに向かって残りの灯油をぶちまける、その作業はどこまでも淡々としていた、炫士は何も考えてはいなかった、なぜ自分がそんなことをしているのかも考えようとしない、ましてやその結果がどうなるのかなど、なんら関心の対象にはならなかった。

 炫士は台所からマッチを見つけて戻ってくると、リビングの窓を開けて、庭へと解放する。リビングの真ん中へ、わずかに灯油が残ったタンクを置いて、注ぎ口に丸めた新聞紙を差し込む。部屋は灯油のにおいに満たされていた、今まで絶えず浮かび上がってきていた記憶が、そのにおいによってかき消されていく。炫士はマッチを一本取り出して、火を点ける、かすかに燃えるの火の中心は、一瞬たりとも留まることなく揺らぎ続け、しかしどこまでも白く明るい。そのマッチの火を、炫士は柔らかい新聞紙に与える、ゆっくりと深呼吸をするように、新聞紙は火を吸い込んで燃え上がり、したたる滴のように、灯油の中へと落ちていく。

 炫士が庭へ降り、家から離れて振り返る、その瞬間、部屋を満たしていた灯油に触れた火が、赤々と輝いて破裂し、部屋の中のものを全て覆い尽くすように燃え広がった。ソファを溶かし、カーペットの上を這いずり回り、カーテンに喰いついてずたずたに引き裂く、木でできたドアや壁を、太い爪で握りつぶすようになぎ倒し、その奥にあったものを次々と捕らえて踏みにじる、家中の床を走り、階段を駆け上がり、大蛇のように柱に巻きついて、そのまま締め上げるように芯まで焼き尽くし、家をゆるがし悲鳴を上げさせる、窓ガラスを叩き破り、這い出した炎の舌は、夜空まで喰おうとするかのように、家の外を覆っていた闇を舐めまわした。

 炫士は恍惚として、その光景に見入っている、炫士はこの瞬間、何もかもを忘れてしまっていた、那美は生きている、速彦も生きているかもしれない、秋姫を傷つけて、速彦を傷つけて、那美を傷つけて、それでも、何一つ解決しなかった、ただ単に、自分が逃れられないということに、打ちのめされただけだった、これから、その責めを負うことになるだろう、無力な己を、どうしようというあてもない、それでも、炫士は全てを忘れて、その光景に見入っている、祈りだけを知る無神論者のように、炫士は炎を崇めた。炫士は、まるで自分が、家を焼き尽くしている炎になったように錯覚していた、炫士はそこにいなかった、圧倒的な炎の力が、炫士の存在を飲み込んで押しつぶした、炎だけが、幻のような家を飲み込んで、燃え盛っている、炫士は家を喰った、そして、夜を喰った、家が叫び声を上げる、それは夜を突き抜けて、どこまでも高い空へと放たれ、反響し続けた。

 遠くから、サイレンが聞こえてくる、ここへ向かって、パトカーか、消防車か、サイレンが聞こえてくる、だが、そのサイレンは、いっこうに近づいては来ない、炫士の周辺を、遠く、ぐるぐると回るように、夜の中で鳴り続ける――。

 

 

 ふわふわと蛍のように空をただよう火の粉が、炫士の瞳に映っていた、その火の粉はそこに区切られた時間と空間があることを忘れさせる、まるで、何千年という昔から、そこでそうしていたのだというように、火の粉はただよっている。炫士は翼を広げるように、両手を広げた、このまま、どこへでも行ってしまえるだろう。だから、海へ行こうと思った、時間と空間の純粋な広がりが無限に連なる、何もない場所へ。