物語のはじまるところ その2
"I'll miss you, フジサン"
東京方面へ向かう新幹線の中で、ヘイリーが車窓から見える富士山に向かってつぶやいた。僕はヘイリーの横顔を見つめる、金色の髪に反射した柔らかい光が、タンポポの種のようにふわふわとその周りを漂っていた。ヘイリーはとても日本語が流暢なのに、その時発した「フジサン」という言葉は、なぜだかはっきりとした英語なまりを帯びていた。ヘイリーは思い出したようにカバンの中をさぐってから、「そっか、もうスマホはないんだね」と言う。その言葉を聞いて、僕は寂しさに胸を締め付けられる、あんなに何度も僕と連絡を取り合ってきた電話を、昨日、ヘイリーは解約したばかりだった。もう、僕がそこに電話をかけても、ヘイリーがその明るい声で応えてくれることはなくなってしまったのだ。そんなふうに思うと、さっきヘイリーがつぶやいた「フジサン」という言葉の発音までが感傷的に響く。ヘイリーが自分の国に帰ってしまえば、あんなに勉強した、あんなに流暢な日本語を、これから少しずつ忘れていってしまうのかもしれない。
代わりにカメラを取り出して、ヘイリーは新幹線の窓から何度か富士山の写真を撮った、特に構図にこだわるでもなく、それは一見無造作な動きだったが、しかし一回一回のシャッターを、噛みしめるように押している。
「ねえ」
急に、ヘイリーが振り返った、はるか遠い南の海のように透明な緑色の瞳が、僕を見つめる。
「ん?」
「富士山はどうして富士山っていうの?」
たまにヘイリーは子供みたいな質問をしてくる、純粋な気持ちから、ほんの少しだけうまく答えられない僕をからかうような気持ちから。僕の横で眠るときは、ときどき"Tell me a story"なんていうふうに、僕に物語をせがんだりもした、僕は日本の昔話だとか、ときにはアドリブでこさえた話だとか、そんなことを物語りして、寝る前なのにけっこう必死でそんな要求に応えてあげたものだった。普段のヘイリーはちゃんと自立した人間という感じなだけに、急に子供っぽくなった姿が僕は愛おしくて、つい一生懸命そんなことにこたえようとする。
「かぐや姫の話は覚えてる?」
「うん。おじいさんが竹から見つけてきた女の子が、美しく成長したけど、最後は月に帰っちゃう話でしょ? 」
「そうだね。でも、あの話はそれで終わりじゃないんだ」
かぐや姫の出てくる竹取物語は、僕がヘイリーにしてあげたそんな物語の一つだった。
「かぐや姫に去られた帝は、別れ際にかぐや姫から不死の薬をもらったんだ。でも、帝は二度とかぐや姫に会えないことが悲しくて、そんな世の中で生きながらえてもしかたがないと嘆いて、その薬を焼いてしまったのさ。その場所が、あの山の頂上だったから、富士山は不死の山、つまりフジサンになったとか、そんなふうに聞いたことがある」
「あら、そんな話だったんだ。どうして前は最後まで話してくれなかったの?」
「おとぎ話として語られるとき、その部分は話さないのが普通なんだ」
「どうして?」
「どうしてって……考えたこともなかったな」
答えに窮する僕を、またヘイリーがじっと見つめている。透き通った緑色の瞳は、僕が知る限りこの世で最も美しいものだった、それを見つめ返すと、僕はまるで明るい月の上に浮かんでいるような気がしてくる、虹彩の模様はまるでクレーターのようで、思わず僕はそこにウサギの姿を探すのだった。
「その方が面白いでしょ、ドラマとして」
「子供向けに話すなら、ドラマチックじゃないほうが良かったのかもしれない」
「私はそのほうが印象的で、良いと思うけど」
「僕もそう思う」
うなずきながら、僕は、物語はいったいどういうふうにして、細部を変えられたり省略されたりするんだろう、とふと思う。竹取物語こそは、書かれた物語の中で最も古い物語であり、その原型になった羽衣伝説こそは、日本の物語の中で最も古い、原初の物語だったという。たくさんの人に語られながら、まるで川の上流から下流へ転がる石が、しだいに角が取れて丸くなるかのように、物語は、より多くの人に受け入れられやすい形になるのだろうか。川原で綺麗に丸くなった石を拾って眺める時、僕らは、その石が最初はどんな形をしていたかなんていうことに、普段は想像をめぐらすことはしない。そして、例えば僕がその綺麗な丸い石を拾うように、物語の起源に想像を巡らしてみたとき、その最初の形が持っていた個性や情緒や思想やドラマみたいないびつさ、受け入れ難さに触れることの、痛みや喜び、その尊さみたいなものを、どこまで感じることができるだろうか。僕は、原初の物語の中へ自分を投影し、また、原初の物語を自分の中へ投影する。なぜ、これが原初の物語だったのだろうか? あるいは、なぜ、これが原初の物語として残っているのだろうか?
「ねえ」
ヘイリーが、再び僕の顔をのぞきこんでいた、緑の瞳。
「ん?」
僕も再び、同じように応える。
「もう一つ聞いてもいい?」
「何?」
「もしあなたが、その帝だったらーー」
「だったら?」
ヘイリーは、なんだか意味ありげに間を置いてみせる。別に意識してやっているふうでもないが、ときおり見せるこういう演出のつけかたに、僕はついつい乗せられそうになる。
「その薬、焼くと思う?」
僕は文字通り、その質問に何も答えられなかった。間違いなく、ヘイリーは僕たち二人のことを念頭に置いて聞いたのだろう、まるで気まぐれないたずらのような感じの質問だったのに、僕は射抜かれたように体の、そして心の動きを止められてしまった。僕がその男だったら、僕がもしヘイリーにこのまま二度と会えないとして、ヘイリーが僕に不死の薬をくれたら、僕はそれを焼くだろうか、そして黄金の薄絹のような髪を透かしてこちらを見つめる緑色の瞳は、いったいどんな答えを期待しているのか、そのどちらの答えも、すぐには出てこなかった。何となく逃げるように視線をそらし、しだいに遠ざかる富士山の頂を見る、青い空へゆっくりと溶けていく煙のように、白い雲が漂っていた、もし本当にその薬を焼いた男がいたとするなら、その遙か時間の彼方でその男が見ていた景色は、ちょうどこんな感じだったのだろうか。
「もし、その薬を飲んだとしたら、僕は永遠に生きて、もう一度彼女に会う方法を見つけ出すことができるかな?」
「それは、あなた次第じゃない?」
「もし、その薬を、あの遙かに高い山の頂で焼いたとしたら、その煙を、彼女はさらに高い月の上から見つけてくれるだろうか?」
「それは、もしかぐや姫が、気まぐれみたいにして、地上の様子をながめていたら、その煙を見つけるかもね」
「どうかな……、僕はたぶん、その煙はかぐや姫から見えるところまで届かない思う」
「どうして?」
「この世の中で、最も高いところに手が届く帝であっても、この世の外に対しては、全くの無力だからさ。この世の中で完全な存在であっても、その外側では、何でもない存在でしかない」
「じゃあ、あなたはその薬を焼かずに飲んで、永遠に生きて、かぐや姫にもう一度会おうとするの?」
「僕はーー」
そのとき、いったいヘイリーに対して何と答えたのか、実のところどうしても思い出せない。ただ、忘れてしまったというのではない、心に強いショックを受けてその記憶にバリアを張られてしまった人のように、その答えが、僕の意識の奥深くに沈んでしまっているのだ。
その答えを思い出すためには、もっと他の、いろんなことを思い出さなければならないような気がする。僕自身と、ヘイリーと、僕とヘイリーのことを。
ただ僕の記憶にはっきりと浮かんでいるのは、富士山の頂を霞める煙のような雲と、暖かい光をふくんで輝く綿毛のように柔らかい金色の髪と、そして、遙か南の海のように透き通る緑の瞳だった。屈託ない明るい声で僕に物語と答えをせがむ、彼女、ヘイリー・ベイリー。