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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その7

 "Wake up. It's already 10am."

 羽毛のような柔らかいふわふわとした感触が、鼻先をなでているのを感じて、僕は目を開ける。長い髪を下ろしたヘイリーが、僕の顔を覗き込んでいた、髪の毛が薄絹のカーテンのように揺れ、朝の光を解きほぐして柔らかい綾を作り、それが僕のまぶたをくすぐって心地よい目覚めを与えてくれる。ヘイリーの髪の毛は、アジア人の僕のそれよりも細く柔らかい。無造作に手ぐしを入れると切れてしまうので、それをなでるときは、とても丁寧にする必要がある。

 「おはよう」

 僕が眠たげな声で言うと、ヘイリーは微笑んで、僕の鼻先にキスをする。何の変哲も無い休みの日の朝の、僕の家の中の光景だった、ただその中に、ヘイリーがいる。僕はベッドから上半身を起こして、部屋から部屋へ歩き回るその姿を目で追っていた、ヘイリーのいる風景は、まるでこの家の全てを違ったものに見せる。突然外国からやって来たその闖入者は、ついこの間まで両親がいなくなった後の僕だけの孤独な世界だったその家に、そよ風のような幸福感を振りまいていた。この家に孤独を反復させ堆積させていた自動化されたシステムのような空気の流れが、ヘイリーの存在一つで変わってしまった。あれから僕らは何度か会ったりするうちに、こんな感じで互いの家を行き来する関係になったのだった。

 キッチンのほうから、甘い匂いがしてくる。朝食にするために、ヘイリーがパンケーキを焼いていた。ヘイリーは料理しながら鼻歌を唄っている、最初は流行りのポップスだったが、そのうちヘイリーのお母さんの作った歌になった、彼女の歌、ヘイリー・ベイリーの歌。シンプルで楽しい歌だった、いいかげんで、思わずくすりとしてしまうような。この歌を聴いた人は、ヘイリーが愛され満たされて生きてきたと信じるのではないだろうか、実際のところはどうであれ。のそのそと起き出した僕は、ヘイリーを手伝うためにキッチンへ入った。手伝うと言っても、皿を並べるとか道具を片付けるとかくらいの話だったけれども。

 "Enjoy."

 できあがったパンケーキを、ヘイリーが僕の前に置いた。ふわふわとして、表面はきれいなキツネ色、それはもう見事に焼き上がっていて、その上にはブルーベリーのジャムとホイップクリーム、そして本物のブルーベリーも乗せてある。

 「おいしい」

 本当においしかったので、僕はそう言いながら子供みたいにパンケーキを頬張った。

 「もしブルーベリーがもっと安かったら、自分でジャムを作りたいんだけど」

 日本でフルーツを買うと高いということについて、ときどきヘイリーは不満を漏らした。外国で暮らしたことのない僕には全く比較のしようがなかったが、ヘイリーが作ったブルーベリージャムでこの絶品パンケーキが食べられないのは残念だということだけは確かだ。

 「本当においしい。どこで作り方覚えたの?」

 「お母さんから習った。生地の作り方から、焼き方の、細かいタイミングまで、全部」

 しばしば、ヘイリーは母親の話をした。ジェイムズやアリスにもそういう所があったが、彼らはしょっちゅう家族のことを話題にする。それは仮に僕が両親を亡くしているということを差し引いても、不思議な感じだった、日本人の友達や恋人といるときに、両親の話題が出ることは、彼らがそうするのに比べたらずっと少なかった。ただ、アリスとジェイムズと比べても、ヘイリーが母親の話をする回数はとても多かったし、それより不思議だったのは、これほど母親の話をするヘイリーが、父親の話は全くしないことだった。父親よりも母親のほうが子供との距離が近いというのは多くの家族において見られることだったが、いささかそのギャップが大きすぎる気もしていた。

 「お母さん、料理が得意だったの?」

 僕は会話を続ける、父親のことは、遅かれ早かれ聞くことになるだろう、くらいにしか思っていなかった。

 「そう。母親の趣味みたいなものだった」

 「こんなおいしいパンケーキを作れるんなら、たいしたもんだよ」

 「そうでしょう?」

 ヘイリーが頻繁に母親の話をすること自体はけっこうなのだが、僕にとって困ったことは、それを聞くたび、聞けば聞くほど、僕の罪悪感が積み上がっていくということだった、何度もヘイリーと会って、親密になってしまうことで、僕はその母親からのプレゼントだったストールを返すタイミングを完全に失ってしまっていたのだ。そのことは、僕とヘイリーが一緒にいるという生活が、どこかで借り物の現実であるかのような感覚をもたらしている。この生活は僕がこっそり盗み取ったもので、ストールを返すことで、何もかもが、夢から覚めたかのように、消え去ってしまうような気がしていた、これほどヘイリーと親密な関係になっても、未だにこんなのは僕の今までの人生からすれば現実離れしているという感じがある。

 パンケーキを食べ終えると、僕らはキッチンを片付けた、ヘイリーがいつも料理をするので、皿洗いは僕の仕事になっている。その後は、二人でソファに座って日本のバラエティ番組を見ていた、日本語がかなり流暢なヘイリーでも、お笑いなどの理解は難しいようで、僕には少しベタに思える所や、普通は日本人が面白さを見出さないような所で笑ったりしていたし、一方で、僕が笑う時には、ヘイリーにはそれがどうして面白いのか直感的には分からないらしい所がちょくちょくあった。しばらくだらだらと過ごしてしまっていたが、別にとりわけテレビを見たいというわけではなく、僕らは単に手持ち無沙汰の時間を潰していただけだった。僕らは、アリスからの連絡を待っていた。

 

 「やっぱり行かないみたい」

 ようやく来たアリスからのメッセージを見て、ヘイリーがつぶやく。

 「行きたくないのかな?」

 「嫌いなんだって」

 「何が?」

 「その、ジェイムズの友達の人」

 僕ら三人は、ジェイムズから彼の友達らしき人がやるコンテンポラリー・ダンスのパフォーマンスを観に行かないかと誘われていた。僕もヘイリーもその友達と面識はなかったが、アリスは一度だけ会ったことがあるらしく、「なんか嫌い」だと思っているようだった。感覚的に判断する所が彼女らしい。

 「なんで?」

 「うーん。よく分からない。どんな人なのか私も知らないし……。ただ、ジェイムズは、その人に気があるみたいなんだよね」

 「ええと、それは、アリスが嫉妬してるってこと?」

 「そうじゃないと思うんだけど。まあ、アリスのことだから、よく分からない。ていうか、きっと自分でも分かってないと思う」

 「どうしよう?」

 「私は、どっちでもOKだけど」

 ヘイリーは(そしてジェイムズやアリスもそうだったが)、けっこう「どっちでもいい」という言い方をする。僕が刷り込まれたステレオタイプによれば、欧米人というのは常にはっきり意思表示をする人々だったのだが、わりかしゆだねたり譲歩したりもするらしい、もちろん必要なときには、はっきりと意見を述べるのだが。

 「そうだな。ジェイムズが好きでアリスが嫌いだっていうのは、いったいどんな人なのか見てみたい気もする」

 「私もちょっと気になってる、実は。ジェイムズはイケメンだからけっこうもてるけど、あんまり他人にそういう興味を示すことは多くないから。どんな人なのか、見てみたい」

 「よし、それじゃあ行こうか」

 「うん。せっかく誘ってもらったしね」

 ジェイムズの招待に応じることで合意ができると、ヘイリーはすぐにアリスに「気が変わったらいつでもおいで」とメッセージを送った。点けっぱなしのテレビから「わあ」と歓声が上がったのでそちらを見る、照明をたっぷり浴びた有名レストランのステーキがアップで画面に映し出されており、ソースと絡み合う油がきらきら輝きながらしたたっているのを観て、タレントたちがめいめい「食べたい食べたい」と連呼している。

 「日本のテレビは、食べ物と動物のことばっかりやってる」

 あくまで素直な感想といった感じで、ヘイリーが言う。

 「僕は日本のテレビしか知らないけど」

 「だいたい何時みても、そんな感じ。日本人は食べ物と動物が大好きなのかな」

 そう言われて、僕は首をかしげる。あんまり日本人がそういう人たちだと思ったことはない。

 「みんなで共有できる無難な話題というのを突き詰めていくと、その二つに絞られるのかもしれない」

 ぱっと思いついたことを、僕は答える。昔なら流行りの歌とか野球とか、そういうものもあるいはそうだったのかもしれないが、今はそういう時代じゃない。例えば家族がみんなで観られる番組なんて、かなり限られてくるだろう。

 「ああ。そうかも。日本のテレビはチャンネルが少なくて、みんなが同じものを観てるもんね」

 これほど人々の嗜好が細分化されていく時代にあっても、みんなで共有できるものを求め続けるという、人々が持つある意味滑稽な本性を、食べ物と動物が象徴している気がした、そしてその滑稽さの奥に浮かび上がる、孤独を解決できない人々の無自覚な寂しさを、僕は見つめていた。ふと、ヘイリーに辛辣な言葉を浴びせた老人のことを思い出した、彼は、もはや手のつけられないほど、無自覚な寂しさにその精神を蝕まれていたのかもしれない。

 

 会場は、普段はサブカルやアート系の音楽をメインでやっているクラブだった。以前に世界的に有名なノイズ音楽のミュージシャンのライブを観に来たことがあったが、けっこう久しぶりなので、僕はきょろきょろとして、微妙な内装の変化を見つけたりする。基本的な造りはどこにでもあるクラブという感じだったが、ステージがちょっと高い所にあるので、後ろの方からでも演者がよく見える、その両サイドには、そびえる二体の守護神の巨像のような、どでかいスピーカーが積み上がって、観客を迎え撃つように凝視して立つ。開始の五分ほど前に会場に入ったのだが、すでに多くの人でごった返していた。友達どうしの内輪的なパフォーマンスになるのかとばかり思っていたが、意外にもそういう雰囲気ではなく、いろんな人たちが観客としてそこにいるようだった。

 「なんか人、多いね」

 はぐれないように、僕はヘイリーのそばをキープしながら、ジェイムズを探して会場を移動する。

 「そうだね。その友達って、けっこう有名な人なのかな」

 知り合いどうしで固まっている人たちもいたが、一人だけとか、僕らみたいにカップルで来ている様子の人もけっこう多い。会場は薄暗く、ジェイムズは見つからなかった、しょうがないので、ステージが見える位置をキープして、パフォーマンスを観ながら探すことにする。僕がステージを眺めている間、ヘイリーは隣に立った中年の女性から話しかけられ、なにやらそれに応じていた、フランス語なまりの英語のようで、僕には何を言っているのか全くわからない。モノクルをかけて、真っ赤なスプリングコートを着ているやたらおしゃれな女性は、たぶんアート関係の仕事とか、もしくは大学教員とか、そういうことをしている人にも見える。

 「なんだか、やっぱり注目されてる人らしい」

 中年女性との会話を終えたヘイリーが、たったいま聞いた内容を僕に説明してくれる。その女性は、どうやら日本を旅行中の雑誌記者らしく、気鋭の若手ダンサーである『カルロス・アレナス・クセナキス』(もちろん三人トリオというわけではなく、これが彼のフルネームだそうだ)、つまりそのジェイムズの友達のパフォーマンスを半ば取材がてら観に来たらしい。

 「何人なの?」

 「アメリカ人だけど、お父さんがキューバ系で、お母さんがギリシャ系だって」

 僕の頭の中で世界地図が展開して、想像が海を越えてぐるぐると駆け巡る。日本人どうしだと父親が北海道出身で母親が沖縄出身とかでも驚くのに、特にアメリカ人と話していると、それぞれの人が持つルーツのスケールの大きさにめまいがしそうになった。

 会場で控えめに鳴っていた音楽が止まり、照明がふっと落ちる、パフォーマンスの始まりを知らせる合図だった、雑談に興じていた人々のざわめきが、徐々に、収まって、みんながステージに視線を向ける。観客席もステージも、しばらく真っ暗なままだった、隣の観客の呼吸音が聞こえるくらいに沈黙がはりつめたとき、ステージの奥から、不意にゆらゆらと揺れる白熱球が灯り、それが、じわじわとこちらへ前進してくる。そのうっすらとした光の奥に、上半身をむき出しにした半裸のダンサーの姿がぼんやりと浮かび上がっていった、暗黒からにじみ出た液体のようなダンサーは、コードにつながれたその白熱球を手にぶらさげて、猫背になり、舞踏のような不気味で緩慢な動きで、闇を這うように蠢いていた。その演出は、闇をめぐる日本の美意識に想を得ているようにも見える。ようやくステージの中央まで来たとき、ダンサーはその白熱球を天井にかかったフックに結びつけた。暗闇に慣れてきた僕の目は、その浅黒い肌に覆われた金属的な質感をした筋肉でできた肉体の、異様なまでにくっきりとした無数のユニットからなる建築物のような構造をとらえていた。ステージの両端にある巨大なスピーカーから、非常にかすかで繊細なノイズ音が聞こえて来る、そしてダンサーは、その白熱球の周りをぐるぐると回るように踊り始める、硬い筋肉が、体を動かす瞬間だけ鞭のようにしなって闇を切り裂き、白熱球の光の中へと現れる、灯りから遠い部分は闇へ隠れ、近い部分だけが観客の視界に入り込んだ、腕が、顔が、脚が、闇の中から現れては消え、消えては現れ、ダンサーの全体像は、観客の想像力の中で構築されてはそれを拒むように溶け出し、ぼやけながらも強度を増していく。白熱球はダンサーの動きに影響されて振り子のように揺れ、ダンスのスピードが加速するに従ってどんどん不安定になっていき、全くランダムにステージへ光を落としていた。激しく踊りだしたダンサーは点滅する発光体のようにめまぐるしく照明の中へ出入りして、その姿を注視する会場には、ダンサーの荒々しい息遣いが響く。やがてそのスピードが頂点に達した瞬間、突然にダンサーはステージの中央へ這い出し、嘘のようにぴたりと動きを止めた。完全に魅了された観客たちの視線の中で、揺れる白熱球に照らされたその完璧な肉体を構築する筋肉が、音を立てるダンサーの呼吸とともに上下して、その汗によってぬらぬらと光っていた。そしてそのまましばらく静止した時間が続いた後、白熱球はふっと消えて、そこにはただ奥へ奥へと引きずられるような闇が残るばかりだった。

 パフォーマンスはそこで終了し、圧倒されて興奮した観客から長い長い拍手が送られる。

 「なんだか期待以上だった」

 感動を隠さずに僕は言った。

 「うん。あんまりコンテンポラリーのダンスって観たことなかったけど、面白かった」

 拍手しながらヘイリーが答える、イベントが終わったので、周囲の観客たちがぱらぱらと帰り始めていた。

 「ジェイムズはどこにいるんだろう」

 「そうね。もっと空いてるイベントだと思ったから、簡単に見つかるって予想してたのに」

 僕らはきょろきょろしながら、観客が片付くのを待った、たぶんジェイムズも僕らを探していることだろう。けれども、なかなかジェイムズは見つからなかった、観客の中にはまあまあの数の白人男性が混じっていたので、いつも日本人の人混みの中にいるときのようには目立たない。

 「来てないのかな」

 意外とそんなことかもしれないと思いながら、僕はつぶやく。

 「まさか。招待したのはジェイムズだし、大事な友達のパフォーマンスだし、来てると思うけど」

 「だよねえ」

 と言いつつ、これだけ見回しても見つからないので、本当にそうかもしれないと思ってみたりする。

 「あっ」

 短く声をあげて、ヘイリーがステージの横のあたりを指差した。そっちを見てみると、そこに固まっている関係者みたいな人たちに混じって、僕らのよく知るジェイムズの姿があった。ジェイムズはなんだか自分の存在を持て余したかのように、控えめな位置に立って、パフォーマンスを終えて関係者たちの前に現れたカルロス・アレナス・クセナキスを見つめていた。カルロスはさっと関係者全員の顔を確認しながら両手を挙げて来場に感謝するような動きを見せると、その中の一人だった眼光鋭い老紳士の所へ行って、軽いハグを交わす。たぶん、一番の重要人物なのだと思われる。

 「なんだかもじもじしてるみたいだな、ジェイムズは」

 「好きな人の前では”奥ゆかしい”感じになっちゃうのかな」

 カルロスを見つめるジェイムズの目には、どこか相手を恐れるような弱々しい光が灯っていた。

 「じっと見つめてばかりだね」

 "Yeah, he's in looove."

 ヘイリーがおどけて肩をすくめる。

 「どうしよう。待っとく?」

 「いいよ。行っちゃおう」

 ジェイムズをひやかすような感じで、ヘイリーは遠慮なく彼に近づいていった、僕もとりあえずその後を追う。

 "Hi!"

 近づきざま、ヘイリーがひじで軽くジェイムズをつつく。

 "Oh, hey."

 ほとんど上の空で、ジェイムズが返事をした、まるで僕らが現れたことになんの感動も示さないかのように。

 「ずっとここにいたの?」

 自分の存在をいちおうアピールするかのように、僕はヘイリーの後ろから顔を出して尋ねる。

 「パフォーマンスが始まる前に君たちのことを探そうかと思ったんだけど、予想より人が多くて。それに、ちょっとした仕事もしないといけなかったんだ」

 「仕事?」

 「パフォーマンスの写真を撮ってくれって頼まれたんだ、カルロスに」

 そう言って、ジェイムズは首から下げた一眼レフを僕らに見せる。大学で美学を専攻していたジェイムズは、趣味で写真をやっていた、その腕はほとんどプロ級で、彼のインスタグラムにはまあまあの人数のフォロワーがいる。彼がアリスやカルロスのような芸術家タイプの友人たちと交流があるのもそのせいだった。

 「こういう写真、確かに得意だもんね」

 ジェイムズはモノクロ写真だけを撮り続けていて、光と影による表現にかけては抜群のセンスを持つ。カルロスからこのパフォーマンスの撮影を頼まれたというのは、よく分かる話だった。

 「まあ、他の写真よりは。モノクロのやつばっかり撮ってるし」

 ジェイムズは謙遜してはにかんだが、やはりカルロスが気になるようで、何度も視線がそちらへ流れていた。

 「話しかけないの?」

 ヘイリーがあごでカルロスを指しながら尋ねる。確かに、友達のわりに、ずいぶん遠慮をしている。

 「あんまり邪魔したくないんだ」

 ジェイムズは僕らに微笑んで見せたが、秘めた感情は隠しきれず、顔に一抹の寂しさをのぞかせてしまっている。カルロスはたぶん、彼の中で重要度の高い自分から順番にあいさつを交わしているように見えた、つまりジェイムズの重要度は、それほど高くないらしい。その場にいる人々の全てとそつなく会話をこなしていく姿は、ダンサーとしての才能だけでなく、社交術においても抜け目のなさを感じさせる、一部の人間が持っているような、常に多くの人々に囲まれるという才能ーーそういうものも、カルロスは持ち合わせていた。

 "Hey, thanks for coming."

 そのうち、ようやくカルロスはジェイムズの前に現れ、ジャガーが獲物を捕らえるような豪快かつしなやかな動きで、ジェイムズをハグする。今までの気弱な表情がぱっと明るくなり、ジェイムズはカルロスを見つめた、その視線は、魅入られている人間のものに間違いない。カルロスは黄金比でデザインされたかのように美しい顔と体を持っている、誰もがその姿に、目を奪われてしまうことだろう。ジェイムズはすぐに、カルロスに撮影した写真を見せはじめた、彼はまるで恋愛下手な女性が、自分を利用する男性に尽くしてしまうのと同じように、好きな男性に媚びて、気に入られようとしてしまっているみたいだった。その姿に僕は、なんだか嫌なものを見てしまったような気にさせられる。

 "Oh, they're my friends."

 ほとんどそっちのけにしていたことを悪いと思ったのか、急にジェイムズが僕らをカルロスに紹介する。

 "Hi, did you like it?"

 社交辞令として、カルロスは僕らにパフォーマンスの感想を尋ねる。その顔に浮かんでいる社交慣れした笑みは、確かに初対面の人であっても惹きつける力を持っている。でも、僕はその裏にある、他人に対する徹底的な無関心を見逃さなかった。社交欲の強いタイプのほとんどは意外と他人に対して鈍感なものだが、カルロスの場合は芸術家気質も加わって、ある意味では他人から最も遠い所に立っているような人間だった。

 "Oh yeah, it was excellent!"

 ヘイリーが感想を述べるが、だいたいそういうコメントを聞き慣れているのだろう、カルロスはそつない感謝を示しながら、それ以上ヘイリーや僕と会話を続けようとはしない。その表面的な人当たりの良さの奥には尊大さが見て取れる。彼のように才能がある人物の多くにはそういうところがありがちなものだとは思ったが、要するに、カルロスは自分より優れていないと見なしたものを心のどこかで軽蔑する、そういうタイプの人間だった。

 "Hi, Carlos!! how are you?"

 そのとき、横からモデル風の女性が現れ、カルロスに身を寄せるようにしながら話しかけてきた。美人だが、その立ち振る舞いにはあまり品性のようなものはない、才能ある芸術家の男の周辺をうろつくタイプの女だと、すぐに分かる。しかしカルロスは満面の笑みとハグで応え、そのまま女性の腰に手を回して、だいぶ馴れ馴れしい感じで会話を始めてしまう。それを見て、僕は妙な感じがした、さっきのジェイムズとのやりとりにも、そこにはかすかな性的アピールのにおいがしていたので、カルロスもゲイなのだと思ったのだが、その女性に対してもまるで同じような、性的なやりとりの雰囲気が漂っている。少なくとも、カルロスはジェイムズが自分に好意を寄せているのを知っているはずだったし、カルロスもまた、ひどく思わせぶりな親密さを見せていたはずだった。しかしそのジェイムズが見ていることなどまるで意にも介さず、というよりもはや眼中にすらなく、カルロスはその女性の耳に、ほとんど唇が触れるくらいの距離から何かを囁いたりする。ひどく甲高い、下品な笑いが女性の口から漏れた、ジェイムズの気持ちを考えると、全く見たくない光景だ。カルロスには、他人の気持ちに対する異様なまでの冷淡さがあり、同時にそれをカバーしてあまりある、社交の能力を備えてしまっている。ひどく鈍感で残酷な男だと思った、どうしてジェイムズは、こんな男のことが好きなんだろう、僕はそんなことすら考えたが、しかし、カルロスはその残酷さを正当化してしまうほどに美しく、強い精力を振りまいて、人々を魅了してしまう。

 

 「もうちょっと、ジェイムズと喋ってくれてもよかったのにね」

 イベントからの帰り際、ヘイリーがジェイムズに向かって言う。結局カルロスはジェイムズに再びかまうことはなく、そのままあの女性と一緒に控え室まで引っ込んでしまったのだった。

 「いや、いいんだ。彼は忙しいから。ちょっと話しかけてくれただけでもありがたいよ」

 ジェイムズには恨み言を言うような様子は全くない、それどころか、カルロスをかばうような口調ですらある。

 「でもさ、あの人、ジェイムズに気があるの知ってたはずでしょ? もうちょっと気を遣ったらいいのに。あんな見せびらかす感じで、つまんない女と仲良くしちゃって」

 僕はヘイリーの意見に賛成だった、ただ、見せびらかすというのはカルロスの意図にはなくて、彼は単に、他人の気持ちに極端に鈍感なだけだと思った。

 「彼はそういう"exclusive"な関係を求めたりはしないのさ。別に、一回か二回そういう"カンケイ"になっても、カルロスはそこに特別な意味を与えたりしない」

 僕はそこでようやく、カルロスがバイセクシャルだったのだと気付いた。ジェイムズと彼の間で一回か二回は、そういう"カンケイ"が結ばれたらしい。でもそのことはたぶん、カルロスからすれば、ジェイムズはあの下品な女と同じような扱いなのだということを意味するだろう。

 「あっちこっちで、そういう相手を捕まえてるやつってことなの?」

 「奔放なのさ。彼は誰のものにもならない。そして、誰も彼のものにはしない。自由だけがカルロスを捕らえてる。"monogamy"への執着なんて、彼にはないよ」

 「ジェイムズはそれでいいの?」 

 「僕はただ、カルロスが好きなだけだ」

 「うーん。そんなのって、……ねえ?」

 急に、ヘイリーが同意を求めてくるが、僕はただ、あいまいに首をかしげただけだった。正直言えば、それはカルロスとジェイムズの意思の問題だと思っていた。ただ多くの女性は、そういう奔放な性のありかたと、それをジェイムズが受け入れてしまっているということに納得がいかないのだろうし、ヘイリーのその気持ちを、想像できないこともない。もしかしたら、アリスもまた、そういう理由でカルロスを嫌いだと言っていたのかもしれない。

 「まあ、嫉妬がないのかって言われたら、それは嘘になるよ」

 「やっぱり」

 「でも、カルロスにとって、"exclusive"な関係というのは弱さの証なのさ。強い人間は、気のおもむくままに、相手を求め続けるというのが、彼の持論なんだ」

 「ずいぶん"masculine"なのね。強さへの"obsession"なんて、過剰に男性的な感じがする」

 「カルロスは、そういう意味ではかなり男性的だよ。むしろ、その過剰な「男性性」が、彼をバイセクシャルにしている気もする」

 「そういうもんなの?」

 「いや、僕も分からないよ。自分がLGBTだからって、他のLGBTのことが理解できてるわけじゃない。でもとにかく、カルロスは文句がつけられないくらい自由で美しい。そんな理屈では、彼を捕まえられないよ」

 僕は全く、二人の会話には入れなかった。今までそういう人たちの存在についてまともに想像したこともない自分が、ちゃんとした意見など持ち合わせているわけもなかった、二人の会話に入れるような知識も考えもない。少なくとも僕が感じることができたのは、”ノーマル”と考えられている男女間の交際については、ノーマルであるがゆえにスタンダードや規範がそれとなく多くの人に共有され、人々は大なり小なりそういうものに従いつつ恋愛をするのにたいして、彼らのそれは、社会的通念と言えるほどにはっきりした交際のスタンダードがなくて、そのあいまいさと人間臭い感情の間で、ジェイムズは揺れ動いているということだった。

 「でも、まだ彼を追いかけるつもり?」

 ヘイリーは、どうしても納得いかない様子で尋ねる。たぶんジェイムズは飽きられて利用されているだけだったし、第三者の視点から見れば、ヘイリーの意見は正しい。

 「まあ、彼に魅力を感じている間はそうするよ。そばで見られるだけでもいいんだ。あれだけ美しくて才能のある人間と、僕は知り合いになったことはない」

 そう言いつつも、ジェイムズの表情にはひどく疲れたような雰囲気の寂しさがつきまとっていた。あまりに遠く、手の届かない距離にあるものを求めて、その切望に夢中になることで感情を支配されてしまい、自らの心身が弱っていくことに気づかない、そういう人間の表情をしている。けれども僕は、ジェイムズの気持ちを想像せずにはいられなかった、明日、もしヘイリーが僕を嫌いになって、どこかへ去ってしまったとしたら、僕は、ジェイムズとまったく同じ表情になるのかもしれない。遠く美しいものが与えるその喜びは"ravishment"であり、それは奪うことによって恍惚を与える、それは与えたものを奪うのではなく、人が以前から持っていたものを根こそぎ奪うことによって、恍惚を与えるのだ、だから、遠く美しいものを失った人間は、文字通り全てを失う、失うことで今までの自分に戻ってしまうのではない、それを失ってしまえば、人は、二度と元の自分の戻ることはできないのだ、そのとき初めて、自分が以前とはまったく異なった人間になってしまっていることに気づくだろう。

 

 

物語のはじまるところ その8へつづくーー