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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その8

 "I love you"

 初めてヘイリーと寝た後、ベッドに横たわりながら、僕は目の前のヘイリーの顔を見てそう言った。それはとても甘い時間で、僕はヘイリーの口からも同じ言葉が返ってくるのだと思っていた。けれども、僕にとっては意外なことに、それまでずっとにこにこしていたヘイリーの表情が一瞬固まり、怪訝な様子で見つめられてしまう。

 「……えっと、なんだかアメリカの映画とかドラマとか観ると、よく言ってるし、それに、日常的に愛情表現をするっていうイメージがあるから、なんていうか、言ったほうがいいのかなって思って」

 少なくとも、なんだか変なタイミングでそれを言ってしまったことだけは察して僕は恥ずかしくなり、懸命に説明して取り繕う。

 「まあそうかなって思った。ちょっとびっくりしたけど」

 「びっくりした?」

 「だって、普通は会ったばかりの相手にそんなこと言わないから」

 「でも、僕らは単純に会ったばかりの相手じゃないと思うんだけど」

 「キスしてもセックスしても、それイコール"I love you"っていうわけじゃない。そういう感情に対してというより、それだけじゃなくて、もっと深い、"関係"に対して使う表現なの」

 ぼくは文字通りきょとんとする。僕の持っているイメージからすると、それはむしろ、もっと気軽な言葉だった、テンションの高いアメリカ人どうしが、そこかしこでアイラブユーと言っているような感じがする。

 「それを言うには、もっと時間かかるってこと?」

 「はっきりと決まってないけど、ただ、いきなり言うのは、ちょっと……なんていうのか、"too much"って感じ? そういう人もいないわけじゃないとは思うんだけど」

 「重い、ってことかな」

 「そう、重い。いい表現ね。そのとおり」

 「僕のこと、重いやつだって思った?」

 「そうね。いきなりこれなら、来週にはプロポーズされるんじゃないかと心配になった」

 ヘイリーは笑顔に戻って、僕を見つめる。

 「それじゃあ、例えば僕は君に、なんて言ったらいいんだろう」

 「別に、特に決まった表現はないわ」

 「日本人どうしなら、「好き」とか言うんだけど」

 「男性はあんまり言わないって聞いたけど」

 「確かにそうかな。あんまりそういう感じのこと、言われたくない?」

 「そんなことない。言われたほうがもちろん嬉しい」

 「うーん。じゃあ、"I like you"とかは?」

 ヘイリーの唇が動いて、くすりと笑いをもらす。

 「あんまり使わないけど。まあいいわ。カワイイ表現じゃない?」

 そう言いながら、ヘイリーは僕の頭をなで回す。

 "I like you."

 "I like you too."

 しばらく見つめ会ってから、僕らは同時に吹き出した、"I like you"という言葉の気軽さといい加減さによって、真剣さがバカバカしさにとって変わり、僕らはそれを笑いあう。もしかしたら、それは単純に"I love you"なんて言い合うよりも、ずっと僕らを幸せな気分にしていたのかもしれない。

 

 ヘイリーとの日々は、常にそういうギャップやすれ違いや勘違いの連続だった、ただ僕らが幸せだったのは、そもそもすれ違うことが当たり前であって、互いが同じ価値観や通念を持っているという前提でコミュニケーションをせずに済んだことだ。多くのカップルにあるように、すれ違いが終わりに向かう亀裂になることはなく、むしろそれは始まりであり、僕らはその始まりを、何度も何度も繰り返すことができた。僕らにとって、すれ違いはコミュニケーションの決裂点ではなくて出発点だった、その度ごとに、僕らはそれについて意見を交わし、最後にはその滑稽さを互いに笑い合う。僕らは、互いが同じであることを確認し続け、来たるべきその決裂を先延ばしにし続けるような、ありふれたコミュニケーションをすることはなかったのだ。

 一緒にいる期間が、決して長いとは言えなかったせいでもあるのかもしれないが、本当の話、ヘイリーと僕は、一度もケンカをしたことがなかった。僕らは別に特別温厚で辛抱強い性格というのではなかったが、落ついて他人の話を聞くタイプの人間どうしであり、そして、無理に合意を求めず、よく分からない議論はいつも冗談で締めくくっていた。ただ、考えるに、僕らは実際のところものすごく奥深い部分において、共通のものを持っていた、そして、それこそが、僕とヘイリーを単純な衝突から守っていたように思う。その僕とヘイリーに共通していたものとは、自分が何か、この世界から切り離されて存在しているという感覚だ。カフカが、どんな場所へ行っても、まるで外国人のように収まりの悪い、そういう人間が存在しているのだということについて書いているが、もしかしたら、僕らはそういう種類の人間なのかもしれない。ヘイリーは表向きには明るさと優しさを備えた、他人から好かれるような雰囲気の人間だったが、その奥底には、彼女を人々から遠くへ運び去ってしまうような、強い孤独の影が潜んでいる、ヘイリーが打ち解けることのできる人間は決して多くはない、ただ同じように、なんらかの強い孤独に取りつかれた人間でなければ、そもそも彼女の孤独に気づくことはできないし、もちろん本当に仲良くなることもできない。一方で僕は、どこでだれと一緒にいて、どんなアイデンティティを共有していても、全く他人と打ち解けることはない人間だった、ずっと幼い頃から自分が他人とは遠く離れた、孤独の領域で生きることを運命付けられた人間なのだということに感づいていて、すでに十代のどこか、多分高校二年生くらいのときだったか、僕は他人と通じ合えないのだという事実を受け入れ、他人から、群れから遠く離れ、自分は自分の感覚だけを信じて、自分のためだけに考えて生きていくのだという決心をしたのだった。そういう意味で、僕は常に、外国人のような存在だった、たとえ同じ場所で生まれ、同じ言葉を話す人々と一緒にいても、僕は決して、自分がそのことで無条件に彼らと何かを共有しているのだという感覚を、持つことがない。だから、僕とヘイリーはたぶん、全くおなじ種類ではないけれども、互いに自分を他人から遠ざけざるを得ないような孤独を抱え込んでいた、そのせいで無理に相手と同じであるということを追い求める必要がなかったし、その代わりに、僕らはそういった価値や意味ではなく、交感とか共鳴とか、そういうふうにしか呼びようのないもので、互いにつながっていたのだ。

 しかし、僕にとって、そしておそらく僕のような人々にとって、最も不可解なことは、なぜ、僕らのような限られた人間だけがこういう感覚を抱いてしまうのだろうか、そしてまた、なぜ、他の人々は、こういう感覚を抱かないのだろうか、ということだ。彼らのように多くの人々が世界の中に産み落とされたのに対して、僕はまるで、世界の外に産み落とされてしまったかのような感じがする、それは何か、生まれ持ったとしか言いようがないような、根源的で決定的な分岐であるように思える。彼らが当たり前のように抱いている、自分は世界の一部であるという感覚を、僕は決して持つことがない。もちろん、僕は亡命者ではなくて、はっきりと保証されたアイデンティティを持ち、帰属する場所を用意されているが、そんなこととは無関係に、それでもなお、まるで亡命者のようであり、あらゆる場所に置いて、外国人のような存在だった。それは別に与えられたアイデンティティを拒否しているのではなく、そもそも、拒否するとか受容するとかいうことは問題にすらならなくて、そこにあるのは、僕と世界の間の決定的な断絶、としか言いようがないものなのだ。でも、これは僕のごくごく個人的な見解にすぎないし、思い込みにすぎないとすら言えるのかもしれないが、しかし僕個人が確信していることがあった、それは、僕は全くの孤独というのではなく、そこには小さな、しかし確実な希望があって、それは、僕らが孤立しているがゆえに、多くの人々のように他人に鈍感になることで帰属や共有の感覚を得るのでなく、僕らは他人という存在を純粋なものとしてつかむことができる、つまり僕らのような人々だけが、その絶対的な距離の向こうにいるはずの、他人というものと、通じあうことがあり得るということだ。僕はそのことに、ヘイリーとの出会いを通じて、ヘイリーと過ごした日々の中で、僕自身の皮膚感覚によって、気付いたのだ。それはヘイリーが外国人であるからではなかった、それは入り口にすぎない、ヘイリーが外国人でなければならない必然性はなかった、ただ僕は、この出会いを通して初めて、他人というものが、一体どういう姿をしているのかということを、ようやく知ることができた、それは今までのような人間関係の中に埋もれたままであれば、決して見ることのできなかった景色だったということは間違いない。

 ヘイリーと過ごす日々の中で、僕は幾度となく眠りに落ちて、目を覚ます、そこにはいつもいつも同じ顔があって、同じ緑の瞳が僕を見つめ返していた、そこにはまったく純粋でむき出しの、まばゆいばかりの他人の姿があった、僕はヘイリーの頬に触れる、僕は確かに他人に触れていた、ヘイリーとしか名指ししようのない、その人の頬に触れていた、ヘイリーという存在、ヘイリーという名前、僕のそばにいた、あのコの体温、あのコの感触。

 

 ただ、僕はいったい、どこまでヘイリーのことを分かっていたといえるのだろうーーかなり、ある程度、全然? 分かっていると思っていた相手が分からなくなることはもちろんあるし、近くにいると思っていた相手が実は遠くにいることに気づくことももちろんある。そもそも他人というのは、決して分からないものであり、相対的ではなく絶対的な距離の向こうに存在している、と言うことはできるのだが、しかし僕らは誰もが、相手を分かるとか、相手に近づくとか、そういうことが可能だという考えを捨てることはできないし、それどころか、そういうことに幸せを見出したりする。いったい、分かるとか近づくとかいうのは、どういうことなのだろうか。なぜこんなにも、僕らは孤独であることを運命付けられているのだろうか。言葉が現実のものに触れることは決してできないのと同じように、僕らが他人について本当に語ろうとするとき、その言葉の全ては空疎に響き、ことごとく粉々に打ち砕かれるだろう。だが、それでも、他人の存在だけが僕らの現実なのだ。僕がヘイリーについて語る言葉の全ては、風に吹かれて溶けるように消えていく塵であり、誰かの耳に届くとき、それはもはや、人の歴史の、いつかどこかで観られた、ひとつの夢でしかない。それはひとつの詩としてしか存在することはできない、意味を回避しつつ、意味から自由であることを目指しつつ語るとき、それは詩以外にありえない。ヘイリーは意味ではない、ヘイリーとは僕の現実であり、だから、言葉のうえにおいては、ヘイリーは詩としてのみ存在し得るのだ。

 

 

 

物語のはじまるところ その9へつづくーー