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Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ その9

 "I, I... I can't breathe."

 僕は夜中、隣で寝ていたヘイリーの激しい呼吸の音で目を覚ました。重度の喘息みたいに、塞がれた胸に必死で空気を送り込もうとあえぐ、さも苦しそうな音が何度も何度も聞こえてくる。明らかに異常な事態を察した僕は、慌てて部屋の明かりを点ける。

 「ヘイリー?」

 僕の呼びかけに、何度も何度も大きな呼吸の音をさせ、胸を詰まらせながら、ヘイリーはどうにか"I can't breathe"とだけ答えた。ベッドに横たわりうずくまるヘイリーの、額にそっと触れてみる、肌には冷たい汗がじっとりと滲んでいて、顔は息苦しさのせいなのか真っ赤になっている。喘息かと思ったが、普段のヘイリーには全くそういう所はなかった、あるいはパニック障害かとも思ったけれども、確証はない。あまりに突然のことだったので、全くどうしていいのか分からなかった、このまま治らなかったら救急車を呼んだ方がいいだろうかと思い、枕元に置いてあったスマホの位置を確認する。ヘイリーは必死で呼吸を求めてあえぎ続けている、僕はその顔をできるだけ優しく包むように、手のひらを額から頬へと移動せさる。すると、ヘイリーは塞がれてしまった胸を押さえていた両手のうち、片方をゆっくりと動かす、そして溺れた人間が投げ入れられた浮き輪をつかむような必死さで、僕の手を握りしめた、ぶるぶると震えているその手は、ひどい量の汗で濡れてしまっている。どうにかヘイリーを助けたいのにどうしていいのか分からなかった僕は、せめて少しでも気分が落ち着くかもしれないと思い、ヘイリーの手を握り返すと、横たわっているヘイリーのすぐそばに寝そべり、降りかかる重苦しさからその体をかばってやろうとするかのように、背中からヘイリーを抱きしめる。それでもしばらくは、ヘイリーの乱れた呼吸音が続いていた。僕は必死でヘイリーに体を密着させ、ヘイリーの両手をそれぞれ自分の両手で握りしめ、ヘイリーの頬に自分の頬を合わせた、ヘイリーの体温が伝わって来る、全身が汗ばんでいて、僕は頬に湿り気を感じる。何が起こっているのかは全く分からない、確認するすべはなかった、もしかしたらヘイリーにも分からないのかもしれない、僕は祈りを捧げながら嵐が去るのを待つ無力な人のように、ただただ、ヘイリーの体を抱きしめて、その回復を待つ。

 ゆっくりと、ゆっくりと、気まぐれな恐竜のように、窓の外を時間が横切っていった、それにつれて、必死で僕の手を握りしめていたヘイリーの手から、徐々に徐々に、力が抜けていく。ヘイリーは一言も喋らなかった、けれども、その呼吸音は次第に静かになり、リズムを取り戻していった、今までとは全く違って、力の抜けてしまったその手が、何度か僕の手を握りなおす。ヘイリーは落ち着きつつあった、僕も安堵して体の力が抜けるのを感じ、ヘイリーの首筋に顔を埋めるようにして、まだ汗ばんでいるその肌に唇をつける。蛍光灯の冷たい光の下で、金色の細い髪を乱れさせ、すっかり顔色の青ざめたヘイリーの姿は、とても痛々しく、なんでこんなことが起きたのか分からない僕は、その理不尽に、ただただ己の唇をかむ。

 

 「大丈夫?」

 ベッドの上に座って、両手でコップを持ち、僕が汲んできた水をちびちびと飲んでいるヘイリーに声をかけた、ヘイリーはこちらを見ずに、目を閉じて、力なく、一度だけうなずきを返す。深くゆっくりと、取り戻した呼吸が逃げないように心配しているみたいに、一回一回、慎重に息を吸って、吐く。ヘイリーはしばらく、口を開こうとはしなかった、僕もあえてそれを求めることはなく、ヘイリーの横に座って、その体を抱きしめ、頭をなでて、額に唇を触れさせる。汗は引いていて、肌はひどく冷たかった、僕は毛布をつかんで、お互いの肩にかけ、包み込むようにする。何が起きたのかは分からず、僕もそしてヘイリーも混乱したままだったが、少なくとも、事態はとりあえず落ち着いたのだということだけは間違いない。

 ひどく長い時間をかけて、ヘイリーがコップの水を飲み終える。

 「もう一杯、いる?」

 僕がそのコップを手にとって尋ねると、ヘイリーは小さく首を横に振って、立ち上がりかけた僕の膝に手を置く。自分のそばにいてくれ、ということらしい。ベッドの脇にコップを置いた僕は、ヘイリーの横で居ずまいを直しながら肩を抱いてやった、ヘイリーは相変わらずのゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、力なく、僕の肩にしなだれる。ヘイリーはじっと、何かを考えているように見えた、目を閉じて、小さく口を開けて、気をぬくとまた乱れてしまいそうな呼吸を、なんとか繋ぎ止めている。そのまま、たぶん、長い時間が経った、僕もヘイリーも、まるで世界のあらゆる場所から孤立してしまった空間であるかのような、ぽつんとした部屋の中に二人、じっとしたままでいる。ヘイリーの呼吸は、ようやく平静を取り戻していた。落ち着いたことを確認する作業であるかのように、ヘイリーはひとつ、唾を飲み込む。僕は、こぼれ落ちる滴のような、言葉の気配を感じた、血色の戻ったヘイリーの唇が、誰の目にも留まらなかった野草の花のつぼみのように、小さく、ゆっくりと開く。

 「私のーー」

 ずっと黙っていたせいで、その声はかすれていた。

 「ん?」

 できるだけ優しく、無理をさせないように、僕は聞き返す。

 「私の、お父さん」

 「お父さん?」

 「私の、お父さん。死んじゃったの」

 「え?」

 「私の、お父さん。死んじゃったの。銃で、撃たれて。死んじゃったの」

 唐突に、本当に全く唐突に、ヘイリーはその話を始める。それは、僕が初めて聞くヘイリーの父親の話だった、そして、それは、僕が最後に聞くヘイリーの父親の話だった、つまり、ただ一度だけ、ヘイリーは、僕に父親の話をしたのだ。

 

 

物語のはじまるところ その10へつづくーー