物語のはじまるところ その11
それから、いくらかの日がすぎた、その夜の後の日も、その夜の前の日と変わらず、僕とヘイリーはそれまでの二人のようであり続けた。僕らは、少し他の恋人たちと違っていた、二人の間には、ひと言も話し合われることなく暗黙の了解となっている、不思議な距離感があったのだ。僕もヘイリーも、そのとき互いに、他の誰よりも親密な関係にありながら、しかしそこに、それがつかの間の夢のような瞬間であることを、それぞれの胸のうちで理解していた。うたかたの、恋愛という戯れを、その喜びを、享受する。
「父親のことを、誰かに話したのは初めてだった」
ある満月の夜、ぽつりと、ヘイリーは呟く。
「どうして僕に?」
「どうして、だろう」
ヘイリーは首をかしげたが、たぶん僕らには分かっていた、ヘイリーが僕に、今まで誰にも言わなかった父親の話をしたのは、僕らの間にあった、距離のおかげなのだ。誰より近いところにいて、でも同時に、その間に絶対に埋まることない距離を介在させたせいで、ヘイリーはまるで置き土産のように、その思い出を僕に託すことができたのだ。常に過去へ過去へと流れて消えていく思い出、忘れるための思い出。ヘイリーがいつか僕の前から消えたとき、僕が、ヘイリーが、それを忘れることができるようになるため、とでもいうように、ヘイリーは、自らの忘却を、僕の手に残したのだ、僕とヘイリーだけの、つかの間の夢の中に。目が覚めたとき、僕の手のひらの上には、まるで一輪の花のような、忘却だけがそこにあることだろう。
「あなたは特別な人。今までのどの恋人とも違って。他の誰とも違って」
僕の目を見つめながら、ヘイリーが言う。
「本当?」
「うん」
「嬉しいよ」
たぶん、ヘイリーは本当にそう思っていてくれたのだと思う。僕らはその距離を隔てて一緒にいたせいで、恐れることなく、向こう見ずなほどに、親密な関係に飛び込むことも可能だったのだ。
気がついたとき、いつの間にかヘイリーが涙を流していた。
「どうしたの?」
僕は驚いたが、むしろそれだけに、ヘイリーの気持ちの昂りを抑えるような柔らかい口調で聞く。また発作が起こったのかもしれないと思い、僕は心構えをする。
「ううん。大丈夫」
ヘイリーは僕の心配を察したかのように首を横に振って答える。
「でも、涙が」
僕はヘイリーのほおに触れる。涙が、指先を濡らした。
「本当に大丈夫。ただーー」
「ただ?」
その言葉をつぶやくまでに、ヘイリーは何度もためらい、浅く呼吸を繰り返し、そして一度、深呼吸をして、またためらう。
「ただ、私はやっぱり、どうしても、いつかは帰らなきゃいけないんだって、そう思ったの」
僕はそれに沈黙で答えた、そうすることしかできなかった。いつかはそうなるだろうと分かっていながら、それについて考えることを避けて、さらには愚かしくも、それがずっと続くかもしれないという期待すら抱き始めていたのだ。だからそのことを突きつけられたとき、僕は答えるべき言葉を、何も持っていなかった。
「……うん」
まるで聞きわけのよい子供のような返事だけが、僕が搾り出すことのできた言葉だった。言わなければならないことを、ちゃんと口に出したヘイリーのほうが、僕よりよっぽど大人だった。
「私はまるで、二つの人生を生きてるような気がする。ここでの生活は仮りの人生で、まるで私が本当に持っていた人生を中断させてるような気がするの。本当に向きあわないといけないこと、本当にしないといけないことを、海の向こうに残してきてしまった。この生活も、私にとって大事なものだけど、でも、私の本当の生活は、別の場所にある」
ヘイリーの言うことはよく分かったし、それはその通りなのだと思う。でも、僕のことはどうなるんだろう。僕の存在は、ヘイリーの仮の人生の一部でしかないのだろうか。いや、そんなことは分かりきっていることだった、それは望んでもどうしようもない。僕はヘイリーの夢の中に、ふらりと迷い込んだにすぎない。けれども、僕にとって、はたしてヘイリーは夢なのだろうか。まるで夢のようなものとして始まった関係は、ヘイリーと言葉を交わすたび、ヘイリーに触れるたび、どうしようもない現実として、僕の心と体を縛り始めていたというのに。
「人生に仮も本当もないよ、それは全部、ひとつの人生だ」
真実を語っているようで、無力でむなしい響きのある言葉でしかなかった。
「言いたいことは分かるけど。でもね、そんなことよりもーー」
「そんなことよりも?」
「お母さんを、このまま一人にはしておけない」
僕はそこで、ヘイリーを手放さなければならないことを、認めるしかなかった。あのストールをくれた母親、ヘイリーにとって、最も根源的で切り離せない繋がりが、そこにある。海を越えた向こうにこそ、ヘイリーの人生があった。自分がどれほどまでに国や言語の縛りから自由な気になっていたとしても、その繋がりの中にある幸福を必要とする相手を目の前にして、なにができるというのか。僕はただそれを、一時的に、いやしくも、盗み取ったにすぎないというのに。全てを、返してしまうときが来ていた。僕が見ていた、これまでにないくらいに美しく、幸せな夢から、覚めなければならない。僕はヘイリーを抱きしめながら、固く目を閉じる、まるで少しでも長く夢を見続けようとするかのように、まるでもっと深い眠りの中へ逃げ込もうとするかのように。けれども、僕のまぶたの裏には、ただ深い霧のような、暗闇が広がっているばかりだった。