Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

物語のはじまるところ 最終回

 京に着いたのは昼前で、夜の飛行機の出発まではまだかなり時間があった。

 「海が見たい」とヘイリーが言う。僕らはすぐに駅で行き方を聞くと、そのまま電車とバスを乗り継いで、太平洋が見える砂浜まで向かう。

 その道中、僕らはずっと無口なままで、砂浜に着いても、僕もヘイリーも何も喋らず、ただ、とぼとぼ、砂浜を踏んで海まで歩いていくばかりだった。晴れた日の、高く澄んだ青空が広がり、薄衣のような白雲がゆるやかにたなびいて、視界のはるか彼方へと溶け込んでいる。波は、ゆっくりと砂浜に寄せて、悲しみを誘うほどに静かに優しく引いていくことを、幾度も幾度も繰り返す。波の白い泡立ちは、まるでためらいの中へ失われていく言葉たちのように、耳に触れないほどのささめきを残して消える。そして海は、遠くへ行くほどに青色の深みを増して、わきあがるどんな悲しみも受け入れないほどに、あまりに穏やかで茫漠としている。そこにはいかなる区別もないような、いかなる区別も消してしまうような、無限の平面があるだけだ。まるで今まで生きて死んできた全ての人々が話してきたあらゆる言葉を飲み込んで、そこに込められていた意味も感情も、何もかもを等しく忘却の中に包んでしまうような、そういう海だった。ヘイリーは、コートのポケットに手をつっこんで、僕の前を、ゆっくりゆっくり歩いている、どんな場所をめざすこともない、不確かな、ただ進んでいるということだけに理由のある歩み。僕はひとり立ち止まって、海の彼方へ視線を遣った、この遥けさを越えたところに、ヘイリーの生まれ故郷がある。この海が隔てているものなど、ただの幻想にすぎないと知っている。知っているのに、なぜ、僕とヘイリーは別れてしまうのだろう。なぜ、これが別れで、ここに悲しみがなければならないのだろう。ヘイリー、僕の生きる世界の、外で生まれた人。ヘイリー、僕の生きる世界の、外からやって来た人。ヘイリー、僕の生きる世界の、外へと帰っていく人。

 「ヘイリー」

 唐突に、僕はヘイリーを呼び止める。少し大きな声が出てしまい、ヘイリーは驚いたような顔をして振り返る。

 「ん?」

 一瞬、思わず言葉につまった僕を見て、ヘイリーが聞き返す。

 「……ヘイリー」

 「どうしたの?」

 「これ、返すよ」

 僕はストールを取り出し、ヘイリーに見せる。

 「あっ」

 短く声を上げて、ヘイリーがそのストールを手に取る。

 「よかった、帰る前に見つかって。お母さんからもらった、本当に大事なやつだったから、嬉しい。見つかって、本当によかった」

 本当に嬉しそうに、ヘイリーは重苦しかった雰囲気など嘘のように笑顔を浮かべて、じっと、そのストールを見つめ、愛おしそうに手のひらでなでている。

 「違うよ」

 「えっ」

 喜ぶヘイリーとは正反対の、思いつめたトーンの僕の言葉に、ヘイリーが顔を上げて、こちらを見る。

 「違うって、何が違うの?」

 「見つけたんじゃない」

 「見つけたんじゃないって、だって、これ、私がなくしたやつ」

 僕の言っていることがまったく理解できない様子のヘイリーを見て、僕は唇を噛む。いっそ、嘘をつき続けて、ごまかしてもよかったのかもしれない。何食わぬ顔で、僕はそれを返すことができただろう。でも、僕はそれを選ばなかった、これが僕の不実から始まった、うたかたの夢なのであれば、僕は、せめて最後に、真実を呼び戻す。これを美しい思い出にするために、嘘をつき通すことを、僕は望まない。

 「見つけたんじゃない。盗ったんだ」

 「盗った?」

 けれども、その真実は、今までの僕とヘイリーの関係を、まるでひとつの、嘘だったかのようにしてしまう。始まりがどうあろうと、その関係は真実だった、それなのに、僕が始まりの真実を語ることで、それが嘘になってしまうのが、ただただ、悲しかった。

 「あの日。僕はヘイリーのストールを、本棚から手に取ると、そのまま、自分の部屋のクローゼットの中へ隠してしまったんだ」

 「……どうして?」

 じっとこちらを見つめるヘイリーと、視線を合わせることなどできなかった、僕はうつむいて、何度も言葉につまりながら、どうにか言葉を絞り出す。

 「もう会えないかもしれないと思ったんだ。あのときの僕にとって、ヘイリーは、あまりに遠い存在だった。僕はあのときすでに、ヘイリーに魅了されてしまっていたのに、僕はヘイリーをつなぎとめるために、何もすることができなかった。だから、まるで愚かな子供みたいに、ヘイリーのストールを盗んでしまうことで、どうにか、つながりを残そうとしたんだ。それが、どんなに馬鹿げたやり方であっても、僕は、それ以外の方法が思いつかなかった」

 ヘイリーは、じっとそれを聞いたまま、そこで動かずにいた、僕が返したストールを手に握ったまま、何も言わない。僕はヘイリーの顔を一瞬だけ見て、怖くなり、また目をそらす。そこにあるのが怒りなのか、呆れなのか、判別ができない。

 「正直に、また会いたいって言えばよかったのに」

 ようやく、ひとつためいきをついて、ヘイリーが僕に言葉を返す。それが僕に対する失望を表しているようで、僕はうなだれ、そしてうなずく。単純に、そう言えたらどんなによかっただろう。けれども、あのときの僕には、それはまるで、覚めていく眠りの中で、夢を現実まで連れて行こうとするようなものだったのだ。

 「ごめん」

 僕に言えるのは、ただその言葉だけだった、「ごめん」ともう一度、肩を落としたままで、僕は繰り返す。

 「いいわ。ゆるしてあげる」

 ヘイリーは、笑顔になってそう言い、そのストールをふわりと首にまいてみせる。僕の目の前で、もう一つ、別の場所にある青空が広がった、はるかに遠いどこかの青空、ヘイリーが生まれた場所に広がっていた青空。ヘイリーが、この世界の、外から来た人へ戻ってしまったかのようだった、僕はこの瞬間、永遠にヘイリーを失ってしまうのかもしれない。

 ふいに、空から聞こえた音のほうを、僕とヘイリーは見上げる、青空の中を、ぽつんとして飛行機が飛んでいる、今日の夜には、あんな飛行機に乗って、ヘイリーは、海の向こうへ帰ってしまうのだ。

 「ありがとう。楽しかった、幸せだった」

 ようやく、ヘイリーの顔を見ることができた僕は、胸の内に痛みを感じながら、その言葉を伝える。

 「私も。本当に楽しかったし、幸せだった」

 ヘイリーは笑顔だった、遠く高くとりとめもなく広がる海と空の青色の中に立った彼女の、金色の髪が、そよぐ風でふわりと揺れている。僕らは幸せだった、ならば、どうして僕らはこれから別れようとしているのだろう? 僕とヘイリーの間にある、虚構の境界線が、いったいなんだというのか。それぞれが生きようとする場所を隔てる距離だけが問題なのだろうか。なぜ異なる言語や肌の色や国籍が、僕らに、別々の人生の位相をあたえることができるのか。なぜ僕らの生き方が、そういう条件に枠をはめられた、定型的な物語でしかないというのか。まるですでに語られた物語をなぞるように、僕らは生きなければならないというのか。全ての物語は、僕らの生き方を抑圧するためにしか、存在していないというのか?

 ヘイリー、ヘイリー、僕は君を、失いたくない。

 

 「そろそろ、行ったほうがいいかな」

 ヘイリーが時間を確認する。日はすでに傾き、空は赤くなっていた、沈む太陽が、地平線を溶かして、空と海を同じ色に染めている。太陽の沈む瞬間、詩人のランボーが、そこに永遠を見た瞬間。夜が来る、僕らを隔てようとする、夜が来る。僕は何も答えない、僕は、もっと別のことを言わなければならない。

 「どうしたの?」

 黙っている僕の顔を、ヘイリーが見つめる。遠く高くとりとめもなく広がる海と空の赤色の中に立った彼女の、緑色の瞳が、彼方からとどく光で輝いている。

 「ヘイリー」

 僕は僕の今までの人生の中で、最も強い決意に満ちていた、ただ、ひとつの言葉を言うために、今この場所で僕は、それほどの決意を必要とする。ヘイリーは、僕の言葉を待っている。僕が何を言おうとしているのか、知っているのだろう、ヘイリーは、柔らかい、優しい笑顔をしている。もうためらいはない、これは、言葉を理解しなかった子供が、初めて確信を持ってひとつの言葉を発する瞬間のように、僕がひとつの、最初の言葉を手にいれる瞬間、その最初の言葉とともに、そこから全ての語りが始まる瞬間。

 僕は、たったひとつの、僕の言葉を言うために、ヘイリーの目をまっすぐ見つめて、口を開く。

 

 "I love youー"

 

 むかしむかしーー? いや、今この瞬間に。あるところにーー? いや、この場所にーー僕と、ヘイリーがいる。

 

 今この瞬間、この場所に

 僕と、ヘイリーがいる