Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その6

 

 いがけず、タカユキをアヤカに繋ぎ、ノリマサをタカユキに繋ぐ、なんていう役どころを担ってしまった。

 どちらもなんとなくやりにくい話だったが、僕はとりあえず、先に話を聞いていたし、かつ、どちらかといえばやりやすい、アヤカのほうへ話をもっていくことにする。

 

 「どうしたの?」

 電話に出ると同時にそう聞かれたものの、アヤカの声は自然な感じだった、僕が急に電話をかけたことを、おかしいとか思っている様子はない。

 「この間は、ひさしぶりに会えてよかった」

 「そうね。ソウスケは相変わらず、マイペースな感じだね」

 僕の変わらない性格についての言及は、急に電話をかけたことも含んでいるような感じだった。

 「せっかく再会したけど、全然話せないままお開きになった」

 「なっちゃったね」

 「もう少し話したかったけどね」

 「ちょっと短すぎた」

 僕はなんとなくノリマサの名前を出すのを避けていた、それはもちろん、彼女も同じ感じだっただろう。

 「そこで提案だけど、今度『サンビ』で昼飯でも食べないか?」

 サンビ、というのは『サン・ビクトル』の略で、僕らの地元の学生の溜まり場になっていたカフェというか喫茶店の名前だった。少し古くなった今ではかつての常連が利用する店に変わっているらしいので、誘うならそこがうってつけだと思った。けれども、アヤカから返ってきたのは、僕の想定とは少し違う答えだった。

 「『サンビ』もいいけど、私ね、ちょうど今日、他の店で晩御飯食べる予定だったの」

 「じゃあ、また今度にする?」

 「いいよ、ソウスケも行こうよ」

 「そっか、それじゃあ」

 「ブライアンも一緒だけど」

 「え?」

 僕はちょっと困った。アヤカの夫も一緒だと、なんとなくタカユキのことは言い出しにくくなる気がする。

 「あれ、嫌なの」

 「いや、そうじゃないけど。邪魔にならないかな」

 「私たちはむしろそうしたいけど。いっつも二人で食べてるわけだし、たまに他の人と一緒になるのは歓迎するよ」

 一瞬迷ったけれども、僕は申し出を受けることにした。本当は僕とアヤカで食べているところにタカユキを呼ぶのがベストかと思っていたのだが、別にどこかで機を見て、アヤカにその話をしたってかまわない、と考え直す。

 僕は時間と場所を聞いて電話を切った。スマホの画面を見つめながら、何となく、屈託のない少女だった彼女の声に、今は微妙な翳りが表れていたような気がしていた。気のせい、と言えるかもしれない範疇ではあったけれども、僕もタカユキもノリマサもそうであるように、アヤカにも十年という時間の経過があったのだと想像せざるを得なかった。

 

 指定された居酒屋へ行くと、すでにアヤカとブライアンはカウンターに座り、焼き鳥とビールで乾杯していた。アヤカは手を振って僕を招き、ブライアンは柔和な笑みで「こんにちは」と僕を迎える。僕にとってのアヤカは中学生のころのアヤカで、それが今、夫と一緒に並んで座っているのは妙な光景にも思えた。

 「元気そうだね、この間もそんなこと言ってたけど」

 「再会のしきりなおしね」

 「いろいろあったって感じかい? この十年間」

 「そうねえ、留学して、働いて、結婚して。私、昔と変わったかな?」

 「全く同じってわけにはいかないけど、正直、そんなに変わってないように見える」

 あらためて対面すると、アヤカの持つ雰囲気は実際に昔と変わっていないと感じた。

 「そう? それは嬉しい」

 「嬉しい?」

 「私はむしろ、変わらないことを目指してたから。世の人はみんな、自分を変えたいと思って生きてるみたいだけど、私は、向き合う環境の方を変えながら、その中でもずっと、このまんまでいようとしてきたの」

 「自分っていうものへのこだわりが強いんだ、アヤカは」

 話を聞いていたブライアンが、初めて口を挟んだ。

 「その分、周りから浮いてしまうけどね」

 確かに、アヤカは他の子達とは異質な存在だった、決して派手に振舞ったりするタイプではなかったが、ただそこにいるだけで、際立ってしまうところがあった。そんなアヤカと根底で通じ合うものがあって仲良くできたのは、同じようにどこか異質な、僕と、タカユキだけだったのだ。

 「ただ、僕にはアヤカのような女性が良かったんだ」

 ブライアンが、僕を見て言う。

 「どうして?」

 「日本人たちと話していると、みんな似たようなことばかり言う。まるでそれぞれが、示し合わせたかのように、物事に対して同じ意見を持っている。まるで一人を通して、日本人という集団と会話しているような気分になる。英語を勉強して英米文化に憧れている人達のほとんどですらそうだ。だけどアヤカは違った。アヤカは他人と違うことを考えるのを恐れない、だから、僕は日本に来て初めて、一人の人間と出会ったと思えたんだ」

 「ちょっとブライアンの見解には、個人的な思い入れみたいなものがこもってるけどね」

 日本人に対してなのか自分の評価に対してなのか、アヤカは気恥ずかしそうにフォローを入れる。

 「僕は、どうしてもこの日本というものに、軸と言えるものを見出すことができていない。彼らが日本文化として誇っているものは、むしろ外国人から評価された分かりやすいものがほとんどだ。それは彼らが見つけたものというより、外国人の目で見つけられたものでしかない。人々の思考や行動にも、軸が見出せない。何かがあるようで、結局何もない。批判を加えてみても、いつのまにか、いったい何を批判しているのか分からなくなる。僕は日本文学を通してこの国に興味を持ってアメリカからやって来て、ずっと英語教師をやっているけども、長くいればいるほど、彼らを通して得たイメージが崩れ、この国のことがよく分からなくなる気がする。まるで底なし沼だ。だからこそ、そんな中でも軸を持っている、アヤカのような人に会って、ようやく安心できたんだ」

 一息つくように、ブライアンはビールを飲み干す。

 「ソウスケ、君はどう思う?」

 ブライアンのその質問は、「日本人は皆同じ考えだ」と言われた後だけに、僕を試すような問いに聞こえた。

 「そうだな、僕が思うに、その底なし沼こそが、日本の姿だ。だからその文化というのは、まるでその沼に浮かぶ泥の島のようにまばらなもので、ちゃんとした基礎の上に軸を持った巨大な大陸が作られているわけじゃない。君は島に実体を見出そうとするけど、じつは実体のない沼こそが実体のように振舞うのさ」

 「そんな馬鹿な!」ブライアンは驚きの目を僕に向けた。「それなら一体、君たちは何によってアイデンティティを持ち得るというんだ」

 そう言われて、僕は「戦争はアイデンティティを亢進させる手段だ」というノリマサの言葉を思い出した。もしノリマサの言葉を聞けば、ブライアンはどう思うだろう?

 「正直よく分からないけど……それは静的なものじゃなく、むしろ動的なものによって確保されるんじゃないかな。みんなが何かに向かって動いている、というより蠢いている、その瞬間こそが、日本人に『我々』という意識を与えるんじゃないか。だから、彼らは常に蠢いていなければならない」

 「じゃあ、君はどうなんだ? 君は、軸よりも動きを必要とする人間なのか?」

 「僕は、少なくとも軸を求めている。でも、そのためには、意識的にアウトサイダーでいる必要が出てしまう。と同時に、どこかに所属する経験を通さないことは、個の成熟を妨げ、その軸をアンバランスなものにする。ここでは、そういう意味でのダブルバインドが、いつまでも個人の障害になり続けている。軸を求める人間はその矛盾を生きることになるし、そういう人間に出会うことすらまれだ」

 「ふむ……」ブライアンは、焼き鳥を噛み締めながら、しばらく考え

ていた。

 「私に言わせれば」ふと、アヤカが口を開く。「そもそもほとんどの日本人はその軸について考える必要がないんだと思う。自分たちとは違うアイデンティティを持った存在と、まともに向き合う必要に迫られずに生きてるから。自分が何者であるかということが保証されすぎて、その確かさを疑うことがない。だから、逆にそれがあいまいなまま放置される」

 「確かに、そうかもしれないな。アヤカは、普通の日本人とは違っているからね……」

 「ブライアン」

 ブライアンが何かを言おうとした瞬間、とっさにアヤカが割って入る。たしなめるような口調に少し驚いて、僕はブライアンと同時にアヤカを見た。

 「いけないのか」

 ブライアンがそう言った瞬間、アヤカがブライアンの腕をつかんで首を振った。二人でしばらく見つめあってから、ブライアンは口をつぐんでビールの入ったグラスに指を触れる。僕にはいったいどういうことなのか分からなかったが、二人の間では合意ができたらしい。

 「ちょっと、ブライアンが私のこといろいろ喋りすぎそうだったから」

 アヤカは笑顔を見せて取り繕った。「そっか」と僕は答えたが、アヤカが何かを隠したことは明らかだった。

 「トイレ行く」

 その横でブライアンは肩をすくめて、席を立つ。何かあきらめたような気配が、その表情を横切った。

 「なんかいきなり難しい話になっちゃったね」

 ブライアンの背中を見送ってから、ため息混じりにアヤカがつぶやく。

 「いや、興味深かったよ。普段はあまり、周りにいる人間と知的な会話をするチャンスもないし」

 「長年日本にいるストレスが、溜まっちゃってるみたい」

 「僕なら外国に長年いるとあきらめもつきそうだけど」

 「彼は環境に合わせて自分を変えるよりも、自分に合わせて環境を変えることを望むタイプで、それに一度疑問や違和感を持つと、それをそう簡単には手放さない」

 「言ってしまえば、欧米の男性の典型みたいなところがある」

 「そうね」

 アヤカは苦笑して、視線を落とす。

 「いいじゃないか。従順であきらめの良い人間なんてどうせ退屈だよ」

 「確かにそれが彼の良いところでもあるけど」

 「けど?」

 アヤカの表情が暗くなったのに気付いて、僕は聞き返す。

 「正直、あんまりうまくいかなくなってきてる気がするの。最近の彼は、ささいなことでもいら立ってしまう感じ。だから今日は、二人よりも三人のほうが良いかと思って、ソウスケを誘ったみたいなところもある」

 「さっきは君のことを褒めてた」

 「もちろんお互いを嫌いになったわけじゃない。なんていうか、直感ね。嫌な流れが来てる感じ。こういうのは、無理に変えようとしてもうまく行かない」

 「流れにまかせるってのかい」

 「彼が勝手に流れていくだけ。無理に堰き止めても、爆発するでしょ」

 「観念してるみたいだね」

 「みくびらないで。ダメになるまでは、がんばるつもり」

 アヤカは笑顔を作った。ただ、その笑顔のせいで彼女の寂しさが際立って、胸が痛む。僕は急に、彼女が昔からとても他人をひきつける魅力を持った人だったことを思い出す。

 「そうだ。また一緒に飲まないか。改めて悩みも聞くよ。今度はタカユキも呼んでさ」

 やや唐突な感じもしたが、ブライアンが帰ってくる前に切り出す必要があった。

 「タカユキも?」

 「うん」

 僕は表情を変えずに答える。とにかく、それは別に自然なことだという印象を与えるために、注意を払っていた。

 「……まあ、いいけど」

 アヤカは僕をじっと見て返事をした。たぶん、僕の演技なんか見抜かれていたと思うが、アヤカはそこに特別な含意はないと読み取ったのだろう。

 「約束だ」

 役目を果たした安堵から、僕は妙に明るい声を出した。その滑稽さがアヤカをリラックスさせたのか、彼女の笑顔から暗さが引いていた。

 「しかしまあ、時間って容赦なく過ぎてしまうもんねえ」

 「あの頃にもどりたいのか?」

 「そんなことないけど。何もかもが起こる前よりは、起こってしまったあとのほうが、ずっといい」

 「多くの人は逆のことを言うもんだけど」

 「少なくとも、私はそうね。今よりも、無知で無自覚な少女だったころについてのほうが、後悔することが多いもの」

 そう言って、アヤカはグラスからビールをあおった。僕らが一緒だったころについても、アヤカはより多くの後悔を抱えているのだろうか。無防備で率直だったあのころとは違い、今のアヤカは、隠さなければならないことを隠しながら喋っているような気がした。

 

 

僕らが何者でもなくなるように その7へつづく__