Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その7

 

 ぶん、僕はこの辺で、僕らがまだ一緒にいた過去に、ノリマサとタカユキとアヤカの間に、何が起こったのかを言っておくべきじゃないかと思う。アヤカが言ったように、僕らは無知で無自覚だった。だが何に対して無自覚だったのか? 欠落に対して。いや、そうではなくて、過剰さについて。僕ら四人が、皆に与えられている以上の何かを必要としていたことについて、僕らの精神の、僕らの存在の、過剰さについて。

 あの頃。僕らはまだ十四歳だった。降りしきる雨のような大人たちの話す言葉に、ただ無防備に打たれ、イメージの世界に生きることを許されていた幼年時代を終え、その雨が、言葉が、実体をもった存在のようだと気付く時期、言葉に対して能動的にならなければならないのに、その術がまるで分からない時期、その中で自分の存在が、言葉の音の響かない空洞なのだと気付く時期。

 

 「あーむかつく」

 ぶつくさ言いながら、タカユキは校舎の壁を蹴っていた。

 「落ち着けよ。別に直接何かされたわけじゃないだろ」

 その横に座っていた僕は、タカユキをなだめる。

 「偉そうに群れて、下級生が自分たちにびくびくしてるのを見て楽しんでやがる。腹を立てるのが道理だ」

 タカユキは、僕らの中学校の上級生のことを言っていた。彼らは下級生に対していつも威圧的な態度を取り、萎縮するのを見てにやにやしている。

 「あんまり露骨にそういうのを態度に出すと、目をつけられるぞ」

 「だからなんだよ。正義はこっちにある。だいたい、みんなが従順にしてるから、こういう上下関係が無くならないんだ」

 世の中のほとんどの人間が当たり前のように受け入れている年齢による階層に、珍しくもタカユキはこの頃から反発していた。というか、後にも先にも、それに反発する彼以外の人間に、僕は出会ったことがない。強いて言うなら、古い本で「抑圧の移譲」と呼ばれているのを読んだくらいだろうか。それはこの国の人たちが、例えばフェミニズム等に見られるように、外国から言説を輸入することなしに、自分たちで問題を発見して論じることを苦手とするせいかもしれない。当時、なぜタカユキがこんなにそれを毛嫌いするのか分からなかったが、同時に、なんでみんながそんなにそれを素直に受け入れているのかも確かに分からなかった。

 「反乱でも起こすか」

 「みんなにその度胸があればな」

 「たぶんボコボコにされるぞ」

 「いいんだよ、それでも。何もしないよりは、堂々と負けたほうがいい」

 年齢相応な、まばゆいくらいの血気盛んさを振りかざして、タカユキが胸を張る。僕は、タカユキのこういうところが気に入っていた。

 「おい、君たち。また悪いことの相談かね」

 急に声がして、僕とタカユキが顔を向けると、そこには両手を腰に当て、おどけて威丈高な態度を取るアヤカの姿があった。

 「公正な社会を作ろうという相談さ。僕らは正義の味方だ」

 僕はアヤカのポーズを真似ながら混ぜっ返す。

 「へえ、ホントに?」

 「ああ、そうさ」

 控えめに、タカユキが答える。タカユキはアヤカの目の前では口数が減って、態度もやや無愛想になる。つまり、好意を抱いていることの裏返しだ。当時のタカユキには、こんなシャイな一面があった。

 「仲良いよね、君たち」

 「まあね。他に友達がいないから」

 「言えてる」

 「良いだろ、別に」

 「悪いなんて言ってないもん、別に」

 「何で話しかけてくるんだよ」

 「いいじゃん。私も仲間に入れてよ」

 「変なやつだな」

 「お互いにね」

 僕もタカユキも、クラスでは浮いた存在だった。なんというか僕らはマイペースで、みんながやっているような、集団的人間関係の馴れ合いのゲームみたいなものから距離を置いていた。それゆえに僕ら二人は仲が良く、それゆえに他のみんなとは馴染んでいなかった。ただどういうわけか、アヤカは僕らに興味を示したし、僕らもそれが嫌ではなかった。

 「ホント、困っちゃうよね。怖いもんね、三年のヒトたち」

 僕らは当時二年生だったので、上級生とはつまり、三年生のことだった。

 「何だよ。聞いてたのか」

 「違うよ。けど、いつも言ってるじゃん」

 「怖いんじゃない。自分たちの優位を振りかざして、偉そうでムカつくんだよ」

 「ケンカ売ってやっつけちゃえばいいのに。私はそんな度胸も腕力もないけど」

 「やれるもんならやりてえけど、そもそも賛同者がいないんだよ」

 「まあ、おとなしくしてたらそのうち卒業するんだし、しばらくガマンするしかないね」

 「みんながそういう姿勢だから、こういうのが無くならないんだ」

 「でも、本気でやりあう気もないんでしょ?」

 「そりゃあ……」

 タカユキが口ごもる。アヤカは現実的なことをずけずけと言いながらも、嬉しそうだった。僕には時々、アヤカもタカユキに好意を抱いているのではないかと感じることがあった。それが単なる勘違いだったのかどうか、未だによく分からない。

 「アヤカ」

 いつの間にか、僕らの近くに、ノリマサが立っていた。堂々とした態度、余裕のある笑み、こちらを見つめているが、その目には冷たい光もちらついている。

 「何かそいつらに用でもあったのか?」

 「……ううん、別に」

 「もう帰るぞ」

 まるでアヤカが自分のペットだとでもいうように、ノリマサは彼女に手招きをして呼び寄せる。僕はそれがあまり好きではなかった。ノリマサとアヤカが付き合っているというのは、ひどく不自然なことに思えていた。けれども、アヤカはその自信たっぷりな声に誘われるように、ふらふらとノリマサのそばにいく。

 「ソウスケ、タカユキ、お前らも、たまには来いよ。これからクラスのやつらと、『サンビ』かゲーセンに寄って行こうって話してるんだ」

 ノリマサはときどき、僕らをクラスの輪に引き入れようとした。真意は分からなかったが、それはしばしば好感に近いものにも見えた。

 「僕はどっちでもいいけど……タカユキはどうする?」

 僕はタカユキを見る、彼はそれに、首をかしげるしぐさを返す。

 「俺はちょっと、用事があるんだ。店から借りてたDVD、返却しに行かないといけない」

 タカユキとしょっちゅう一緒にいる僕には、それがたぶん嘘だということが分かった。実際、タカユキはいつもノリマサの誘いには乗らなかった。僕はノリマサのことが嫌いなわけではなかったが、タカユキには、彼を拒むような態度が感じられた。クラスの中心にいて、その影響力の中にみんなを引き込もうとするノリマサから、タカユキは常に距離を取っていた。

 「そうか、残念だな」

 断られたことに何の感情の動きも見せず、ノリマサは言った。

 「じゃあ、行こうぜ」

 ノリマサは僕とアヤカに合図を送って、タカユキに背を向ける。「バイバイ」とアヤカはタカユキに手を振って、その後ろについていく。僕もどっちでもいいと言ってしまった手前、ノリマサについて行くしかない。

 

 「ノリマサ君、すげえ!」

 ノリマサのゲームプレイを見て、彼の取り巻きたちが声を上げる。僕らは結局ゲームセンターに来ていた。取り巻きたちとゲームをするノリマサの後ろで、ゲームに興味のない僕とアヤカはその様子を見ているだけだった。ノリマサは何をやっても器用にこなした。勉強も、スポーツも、こういうゲームも。ただ、当時のノリマサの一番の才能は、その過剰な自信と、そこからくるカリスマ性だった。自我の未熟な集団ではありがちなことだが、意識していてもしていなくても、誰もが集団のボスに気に入られたがっていた、ノリマサの言うことには誰もが”自発的”に賛同し、誰もがノリマサに気を遣う。アヤカもそうだった。自覚はなかったが、たぶん僕もその気持ちがゼロではなかっただろう。唯一の例外は、権威にも承認にも惹かれない、最も自律的な自我を持っていたタカユキだった。

 「でも、ここのゲーセンってちょっと怖い雰囲気あるよな」

 取り巻きの一人がぽつりと呟く。ここはゲーム自体は頻繁に新しく入れ替えてはいるものの、建物は古くて、あまり清潔ではなく、雑然として、照明が薄暗い。

 「時々、カツアゲとかあるらしいぜ」

 もう一人がそれに応じる。

 「びびんなよ」

 プレイしていたゲームを終えたノリマサがそう言って、その二人の目の前で、ポケットに手を突っ込み、そこから折りたたみナイフを取り出してかざす。

 「いざとなったら、これで脅してやればいいんだよ」

 ナイフから刃を出して、ノリマサはその二人の心臓を突き刺すような動きをしてみせる。二人は少し慌てたように後ずさりをして、嘲笑を浮かべるノリマサをこびるような目で見る。そのナイフを、ノリマサはいつも持ち歩いていた。少年ならたいていナイフを持ちたい願望を抱くものだが、僕らの中で実際にそうしているのはノリマサだけだった。ノリマサがそれを持っていることによって、他の取り巻きや同級生たちは、同じようにナイフを持つことができなかった。ノリマサがそうしろと命じたわけではないのに、誰もが自らの判断でそれを控えていた。ノリマサのナイフは、単なる凶器というより、まるで神器のように権威を象徴し、同級生たちを萎縮させていた。

 「次はあっちのヤツやろうぜ」

 ノリマサはナイフをしまいながらそう言って、近くにあったガンシューティングのゲーム機まで移動する。取り巻きたちに騒がれながら、ノリマサは見事な反射神経でゲームをクリアしていく。僕らのグループはしばらくそうやって盛り上がっていた。けれどもその間、いつのまにか別の集団が近づいて来ていたことに、ふと僕は気付いた。

 「よう、ノリマサ」

 薄ら笑いを浮かべた、僕らより背丈の大きな、四、五人のグループ、中学校の上級生たちだった。「あっ」と取り巻きたちが声を上げて、怯えた顔で後ずさりする。

 「こんちわっす」

 ゲームを中断して、ノリマサは彼らに軽く会釈をする。慌てた様子はなかった、上級生を前にしても落ち着いていて、その顔には余裕すらうかがえる。

 「面白そうなゲームやってんじゃん」

 「やりますか? よかったら」

 そう言って、ノリマサは手にしていた拳銃型のコントローラーを差し出す。

 「いいのか?」

 「はい」

 上級生はそれを受け取って、嬉しそうにゲームを始める。結果的には横取りされたわけだったのだが、ノリマサは終始落ち着いた態度を崩さず、卑屈な感じを抱かせない。誰もが威圧的な上級生にビビってしまっている中で、こんなやり取りができるのはノリマサくらいだった。そこには何か、共犯関係があるように見えた。下級生のカリスマに気を遣わせることで威厳を見せる上級生たちと、その上級生たちと落ち着いたやり取りができるのを見せることで他との違いを見せるノリマサ。お互いが、その上下関係から利益を得ていた。

 

 「あのうわさ聞いた?」

 ゲームセンターからの帰り道、取り巻きの一人が、ノリマサに話しかけた。

 「うわさ?」

 「あの四組のヤツが、もう一週間ずっと欠席してるでしょ」

 「ああ」

 「俺の親、PTAの役員やってるんで、親同士が話してるのこっそり聞いたんだけど、あれ、自殺未遂起こしたらしいんだ」

 「自殺未遂?」

 「そう、救急車とか来て、大騒ぎだったって」

 「なんで自殺なんか」

 「たぶん、いじめだよ」

 「そういえば、あいつ三年生からだいぶやられてたみたいだな」

 「小遣いとかけっこうもらってるの自慢してたのが耳に入って、だいぶ巻き上げられてたって話だった」

 「バカだな。三年生は容赦ないから、とにかく目立たないようにしとくのが常識だろ」

 「ノリマサ君の言う通りだよ。ずっと搾り取られて、嫌だとか言うと、傷が目立たないように腹とか殴られたり、ズボン脱がされて写真撮られたり、雑巾を口の中に入れられたり、まあ他にもいろいろやられてた」

 「親たちにバレたのか?」

 「いや、本人は何も言ってないみたい。ただただ学校にはもう行きたくないって言い続けてるだけだってさ。きっと報復が怖いんだろ」

 「まあ、目をつけられたら終わりだよな。目立ちすぎず、媚びすぎず、うまく付き合うのが一番だ。なあ、アヤカ」

 「え? あ、うん」

 急にノリマサに話をふられて、ずっとぼうっとしていたアヤカはびっくりしたように返事をする。

 「じゃあ、解散だな」

 別れ道にさしかかって、ノリマサが取り巻きたちにそう言った。

 「あ、じゃあね、ノリマサ君」

 返事をする取り巻きたちの前で、ノリマサはアヤカに手招きをして近寄らせ、そのまま二人で帰っていく。学年で一番の美人だったアヤカとの関係を見せつけるようにするノリマサに、取り巻きたちはただただ羨望の眼差しを向けていた。ただ、そんな取り巻きたちとは違って、僕はいつもノリマサよりもアヤカを気にしていた。当時、僕の目からは、アヤカはいつも、まるで人質に取られているように見えた。確かに、アヤカにはノリマサを崇めるような気持ちもあったのかもしれない、だが、同時に、何だかいつも脅かされて怯えているような気配がそこにはあった。

 

 その頃、僕らの学校を悩ませていた問題があった。それは、度々起こる窃盗事件で、財布とか、こっそり持ってきていたマンガとかCDとか、そういうものが、体育や別教室の授業でみんなが教室を空けた隙に盗まれてしまっていた。

 「また盗まれたらしいよ、今度は一年生のやつがやられたんだって」

 僕は聞いた噂を、そのままタカユキに伝える。

 「ちょっと間が空いたと思ったら、やっぱりって感じだな」

 「計算かな? あんまり短期間にやりすぎて、大きな問題にならないようにしてる」

 「多少は頭使ってるのかもな。小賢しい」

 「でもこれだけ連続して起こるってことは……」

 「この学校の誰かが犯人だろうな。白昼堂々だし、外部の人間っていうことは考えにくい」

 「誰なんだろうな」

 「さあ」

 「そんなにリスクを犯すメリットはあるのかね。財布はみんな警戒して持ち歩くようになったし、マンガやCDなんて売ってもそんなに大した金にならないだろ」

 「単純に面白がってるのかもな。俺も小さい頃、万引きとかしてたけど、盗みのスリルはクセになりやすい。あとで親にばれて、死ぬほど怒られたけどな」

 タカユキは笑いながら、腕をまくって、「ここを棒切れでさんざんシバかれたんだ」と僕に見せる。

 「そういうのを面白がりそうなヤツが犯人ってことかな」

 「もしくは……」

 「もしくは?」

 「リスクを負わずに済むヤツかな」

 「そんなことが可能なのか?」

 「仮定の話だよ」

 そうは言いつつ、タカユキは何か考えがあるようにも見えた。

 「あ、いたいた」

 声がして振り向くと、そこにはアヤカがいた。いつものパターンだった。

 「君たち、いっつもこの非常階段の下にいるよね」

 「ここなら、他のやつらが来ないからな」

 無愛想にタカユキが答える。

 「また悪いことの相談?」

 「むしろ悪い奴らについての相談だな」

 「私も相談があったんだけど」

 「相談?」

 そう言って、タカユキが意外そうにアヤカを見る。

 「そう。といっても、ソウスケにだけど」

 「僕に?」

 「うん」

 アヤカは小さく尖ったあごを傾けて、軽くうなずく。そのしぐさに、タカユキは一瞬見とれたようだったが、それを隠すように視線を伏せた。

 「英語のことかな」

 「そのとおり! 分かってるじゃん」

 アヤカが僕に相談しそうなことといったら、それくらいしかない。僕もアヤカも当時から英語を熱心に勉強していて、それだけなら成績は学年のツートップだった。

 「僕がアヤカに教えられそうなことなんかないけど。成績も一緒くらいなんだし」

 「勉強教えてほしいとかじゃないんだよね。ソウスケさ、英語で小説とか読んでみる気、ない? 私とソウスケで一緒に読んでさ、分かんないところとか、相談できるじゃん」

 「ああ、そういうこと」

 「そういうこと。どう?」

 「いいと思うよ」

 「あら、二つ返事」

 「僕も、そういう勉強が必要だと思ってたから」

 「さすが、ソウスケと私は気が合うよね」

 「それは何より」

 「何か『これ読みたい!』ってやつある?」

 「いや、特に」

 「じゃあ、私決めていい? 二冊目はソウスケに選ばせてあげるし」

 「ああいいよ」

 返事をしながら、根気が続くか分からないうちからもう二冊目のことを考えているのが、アヤカらしいなと思う。

 「実はねえ、『ハリー・ポッター』か『グレート・ギャッツビー』のどっちかにしようと思ってるんだけど。でも『グレート・ギャッツビー』は難しすぎるかなあ」

 「とりあえず一回、両方にトライしてみるっていうのができたらいいけどね」

 「あ、じゃあ、一緒に読んでみようよ。私、実はすでに両方とも買っちゃったんだよね」

 「気が早いなあ」

 「こういうのは、迷ってるようじゃだめ。思い立ったがキチジツなの」

 「まあ、それはそのとおりかもしれない」

 「ていうか、実は持ってきてるんだよね」

 「え、小説?」

 「そう。貸してあげるから、両方読んでみて、どっちにするか決めようよ」

 「勢いがすごいな……」

 僕のその言葉を聞くか聞かないかのうちに、アヤカは手招きをして、教室まで行こうと言う。見えない縄で引っ張られているみたいに、僕は半ば強引にアヤカの後を追わされる。振り向くと、タカユキが苦笑しながらついてきていた。

 教室に入ると、アヤカは自分のバッグを取り出してきて、中をごそごそやり始める。僕とタカユキはすぐ横に立って、その様子を見ていた。

 「うーんっとねえ……」

 アヤカがバッグの奥に手を突っ込みながら首をかしげる

 「どうかしたの?」

 バッグをいったん置いて、今度は机の中をのぞきだしたアヤカに、僕は尋ねる。

 「あれー? 確かに持ってきたはずなんだけどなあ」

 「ないの?」

 「うん」

 アヤカはひどく困った顔をして、考え込む。

 「絶対バッグの中に入れといたのに」

 「……それって、まさか」

 「えええ、うそ……」

 何が起きたのかを察したアヤカは、さっきまでの元気を一瞬で失って、泣きそうなくらいにしゅんとした表情になってしまう。

 「くっそ、マジかよ」

 タカユキが怒りを隠さずに言葉を吐いた。

 「どうした?」

 僕らの様子を教室の隅から見ていたノリマサが近づいてきて、声をかけてくる。アヤカはうつむいて何も言わない。

 「アヤカの持ってきた本が、盗まれたみたいなんだ」

 黙っているアヤカの代わりに、僕が答える。

 「おいおい、今度はアヤカがやられたってのかよ」

 ノリマサがアヤカを見てそう言うと、アヤカは小さくうなずきだけを返した。

 「探そう」

 僕はノリマサとタカユキを交互に見ながら、つぶやく。アヤカの気落ちした顔を見ると、ふつふつと義憤が沸き起こってきた。

 「探す?」

 タカユキが僕の顔を見る。

 「犯人だよ」

 「落ち着けよ、ソウスケ」

 怒りのトーンで言葉を発する僕を、ノリマサがなだめる。僕はそれに違和感を持って、ノリマサをにらんだ。「落ち着け」とはどういうことなんだろう、アヤカのこんな悲しそうな顔をみて、どうして落ち着けるんだ。ましてや彼氏なら、なおさらだろう。

 「でも」

 「まあ、もちろん俺も探すよ。目撃情報とか、犯人のうわさとか、そういうのがないか、聞けるだけのヤツ全員に探りを入れてみるからよ」

 ノリマサの態度には、妙な余裕があった。まるで、自分なら犯人を見つけられるとでもいうように。

 「そうだな」

 僕はそう言うしかなかった。僕がここで何をしたって、確かに犯人を見つけられる見込みはない。なんだか拠り所がなくなって、ふいにタカユキを見る。タカユキもまた、どこか妙な態度を取っていた。鋭い目線で、ノリマサとその取り巻きたちを見つめていた。まるで、何かあいまいで隠されたものを、冷徹な目線で射抜こうとするかのように。どうやら、出来事の表面的な部分しか分かっていないのは、僕だけらしかった。

 

 その日は結局、釈然としない気分のまま、帰途に着く。タカユキと一緒に歩きながら、アヤカのことについて考えていた。僕は、そしてタカユキも、ほとんど喋らなかった。けれども、僕の家の前まで来た時、急にタカユキが僕を見て口を開く。

 「ちょっといいか?」

 そう言いながら、タカユキは何かを警戒している感じだった、キョロキョロと周囲の様子をうかがってから、もう一度僕に向き直る。

 「なんだよ」

 「今日の事件のことなんだけど……」

 「ああ、やっぱりムカつくよな。まさか英語の小説まで盗られるなんて。古本屋で小銭に変えられたら、何でもいいのかよ」

 「まあそりゃそうだけどよ。俺はそんなことが言いたいんじゃない」

 タカユキは真面目な顔をしていた。素直に腹を立てている僕とは違って、落ち着いていた。

 「何かあるのか?」

 そう言いつつ、僕はタカユキの腹に一物があることに感づいていた。事件があってからのタカユキの態度は、そうでなければ説明がつかない。

 「俺な、犯人に目星がついてるんだ」

 「え? マジか」

 「ああ」

 「誰なんだよ」

 「大体わかるだろ。あんなことしそうなヤツなんて、学校の中にほとんどいない」

 「それってつまり……」

 「三年生だよ。あいつら、今までの金づるをいじめで自殺未遂に追い込んだせいで、他の手段を求めてるんだろ」

 「でも、目立ちすぎるだろ。三年生が一年生とか二年生の教室の周りをうろうろしてたら、怪しまれる。とっくにバレててもおかしくない」

 「あいつらが自分でやる必要なんかない。それぞれの学年で自分たちに従う奴らにやらせたらいいだけだ」

 「そうすれば、自分たちはリスクを負わなくてもいい」

 「そういうこと。バレても三年生が怖いから、そいつは名前を出さないだろ」

 「なんだよ。マジで小賢しいな。でも、どうする? 先生とかに相談してみるか?」

 「そんなことしたってダメだ。証拠がないし。ヘタに疑いかけたら、ややこしいことになるだろ。それに証拠があっても、大人は厄介ごとを避けたがるし、まともに動いてくれるかどうかわからない」

 「まだはっきり確信できたわけでもないしな」

 「だから、俺とお前で証拠を押さえようぜ」

 「どうやって?」

 「おとり捜査だ。金になりそうなものを学校に持って行って、やりそうなやつらにそれを見せた後、わざと机の中に放置しとくんだ」

 「それならいけるかもしれないな。でも、その”やりそうなやつ”って誰なんだ?」

 「決まってる。ノリマサたちだよ。三年生たちと繋がりがあって、学年中にネットワーク持ってる一番有力なグループといったら、あいつらしかいない」

 「ノリマサ? でも、今日被害にあったのは、アヤカだぞ?」

 「そこがよく分からないところだけどな。でも、怪しいのは間違いない。あいつらが誰かにマンガとか貸してくれって頼んで、実際持ってきたらそれが盗まれるっていうことが、一度や二度ならずあったみたいだし」

 僕は、そこで黙って考え込んでしまう。正直言って、僕はこのときまで、ノリマサをそんなに悪いやつだと思ったことはなかった。タカユキと一緒にノリマサを疑い、その悪事を暴くことの中には、何か熱い正義と冷たい裏切りが共存しているように感じられた。

 

 僕とタカユキは話し合って、結果、僕がちょうど読み終わっていた、当時人気のあったマンガをエサに使うことにした。まず、僕らはわざとノリマサたちのグループに見えるところで、そのマンガの貸し借りをやる。僕が渡したマンガ数冊をタカユキはカバンに入れて、そのまま置いておく。選んだのは、結局放課後だった、体育などの時間では抜け出すのが難しいし、先生たちに見つかればそれどころではなくなる。みんなが帰って人が少なくなった頃合で、タカユキと僕は用事があるふりをして、カバンを置いたまま教室を出た。そのまま廊下を挟んだ窓の外へこっそり移動し、窓枠に動画撮影状態にしたデジカメを固定して様子をうかがう。

 「ホントにこれで上手くいくかな」

 僕は作戦が単純すぎやしないか心配だった。といっても他にいい方法は思いつかなかったのだが。

 「たぶんあいつらはやるよ」

 「アヤカが被害にあったばかりなのに?」

 「でも、あのマンガは人気があるし、けっこう高く売れる。だから、あいつらはチャンスがあれば盗みたいはずだ」

 「いつ行動に出るか分からないぞ。まだ二、三人は教室に残ってたし」

 「適当なこと言って誘い出して、全員で出たらいいだろ。そのすきに、他のクラスとかから仲間がうちに侵入して、誰もいない教室からマンガを盗み出せばいい」

 「ああ、なるほど」

 結果はタカユキの予想通りになった。ノリマサたちのグループと一緒に教室から全員が出て行き、身を隠した僕らの前を横切る。ほとんど間髪入れず、後から他のクラスの生徒が二人現れ、タカユキのカバンに手を伸ばす。

 「よし、いいぞ」

 相手の死角でデジカメのモニターを確認しながら、タカユキはつぶやく。連中はマンガを盗み出すと、それをふところに隠し、たがいに顔を見合わせてにやにや笑いながら、教室を去って行った。

 「やったな」

 僕はタカユキの肩を叩いて喜ぶ。だが、タカユキはデジカメを回収しながら、渋い顔をしている。

 「いや、まだだ」

 「もう証拠は押さえただろ」

 「手下なんか捕まえてもしょうがないだろ。俺は、本当はこの機会にあの三年生の連中を痛い目に会わせたいんだ」

 「どうするんだ?」

 「追いかけるんだ。あいつらが三年生かノリマサと本当につながっているなら、絶対あのマンガをどちらかに渡すはずだ。それを動画に撮らなきゃいけない」

 そのとき、僕は誰かが近づいてきているような気配を感じて、振り返る。

 「あっ」

 思わず声が出る。そこには、ノリマサたちがいて、ゆっくりとこちらに歩いてきていた。僕と同時にそれに気づいたタカユキが、素早くカメラをしまう。

 「なんだそれ」

 けれども、ノリマサはそれを見逃さなかった。

 「ん、ああ、カメラだよ」

 隠すと怪しまれると思ったのか、タカユキは正直に言い、「このあいだ家族で行った旅行の写真、ソウスケに見せてたんだ」と付け加えた。

 ノリマサは一瞬タカユキを見つめたが、「ふうん」と言ったきり、特にそれ以上質問してくることもなかった。

 「じゃあ、俺たちもう帰るし」

 タカユキは僕を連れて、そそくさとその場を離れる。不自然な態度をとってしまったが、もたもたしているわけにはいかない。教室に入ると、マンガを盗まれたカバンを手にとって、急いで犯人たちを追いかけた。

 

 「まずいな」

 僕はタカユキの背中に向かってつぶやいた。犯人たちは校舎の裏手に回り、非常階段を上り始めていた。この最上階から建物の中に入れば、そこは三年生たちのグループがいるクラスだった。僕らはもっと学校から離れた場所での受け渡しを期待していたがそうはならないようで、このままうかつに犯人の後ろをついていけば、目立ちすぎること間違いない、そこを歩くだけでインネンをつけられてしまうかもしれない。そこでばれたら元も子もない。

 「どうしようか……」

 タカユキは犯人たちの影を追いながら考えていた。

 「いちかばちか、非常階段から狙うか」

 僕はそう提案した、三年生たちの溜まり場はクラスのベランダで、そこならば非常階段からこっそり様子をうかがうことができるはずだった。

 「しょうがないな」

 タカユキは同意した。せっかくここまで思い通りにいった以上、最後まで証拠を押さえたかった。僕らは最上階まで上がったあと、音を立てず姿も見せず、慎重に、踊り場のコンクリート壁にカメラだけを置いて角度を調整し、ベランダをフレームに収めた。

 けれども、そこからベランダの様子をとらえるのは、どうにも難しいことだった。マンガを盗んだ犯人は確かにベランダの所にいるようで、聞こえてくる声からすると、たぶん三年生たちにそれを見せているようだったが、カメラの視界は犯人たちの背中をかすめているくらいでしかない。

 「くそっ。やっぱりこれじゃだめだ」

 タカユキはつぶやいて、抑えきれずに大胆な行動にでる。カメラの視点を高くしようと、あろうことか直接それを手に持ってかかげるようにする。

 「おい、そんなことしたらバレるって」

 僕は小声で注意する。タカユキの行動は、まるでこっちを見てくれと言っているようなものだ。

 「バレたら全力で逃げるだけだ。このままじゃせっかくの現場を押さえられない」

 タカユキはカメラを高く上げたまま動かない。アヤカへの恋心と上下関係への反抗心に突き動かされているタカユキは、ほとんど向こう見ずになっている。

 「いくらなんでもーー」

 そう言いかけた瞬間、僕はいきなり誰かに肩を掴まれ、関節を外そうとするかのような強い力で引っ張られる。

 「うわっ」

 不意をつかれたせいで、僕は転びそうになる。それでもなんとかバランスを保とうとしたが、こんどは顔に体当たりをくらってしまい、結局その場に崩れ落ちてしまった。一瞬、何が何だか分からなくなったが、いつのまにか僕の目の前で腹を押さえてうずくまっていたタカユキと、そこに立っていた数人の三年生たちを見て、ようやく事態を察した。

 「ホントに撮ってやがる」

 腹を殴られ地べたに転がったタカユキが落としたカメラを、三年生の一人が拾い上げて動画を確認している。

 「気をつけろよ。使えねえやつらだな、オイ」

 もう一人が、青ざめた顔の犯人たちを睨みつけ、その頭を平手で何度も叩いた。犯人の二人は涙目になり、へなへなとその場に座り込んでしまう。僕は正直、恐怖とともにそれを見ていた。僕らはいったい、どんな目にあわされるのか。痛みと屈辱への怯え。でも、怯えている時間はほとんどなかった、ほとんど振り向きざま、犯人たちを叩いていた三年生が、僕のみぞおちを蹴り上げたのだ。悲鳴をあげることもできず、というか息もできずに、僕は内臓を突き抜けて反響するような強烈な痛みで全身が麻痺してしまう。目には涙がにじんだ。

 「こんなことしちゃだめだろう?」

 そいつは笑いながら、僕の頭を何度も叩いた。みぞおちの痛みで体が痺れ、屈辱で感情が痺れた。その僕の目の前で、タカユキは何度も背中を蹴られ、うめき声を上げている。

 「やめてくれ!」

 僕は叫んだ。恐怖のせいで、タカユキが死んでしまうんじゃないかと思ってしまっていた。けれども三年生たちは顔を見合わせて笑い、今度は取り上げたカメラで僕は頭を小突かれる。

 「謝れ」

 三年生たちは、うつむいた僕の頭を靴の裏で踏みながら言った。

 「すいませんでした」

 考えている時間はなかった、蹴られ続けるタカユキを救うためにできるのは、プライドを捨てて、ありったけの嘲笑を受け止めることくらいしかなかった。

 「なんだよ根性ねえな。そんなすぐ謝るなら、最初からやるなよ」

 三年生たちは興ざめしたような顔をして、うずくまっているタカユキの胸ぐらをつかみあげる。ようやく許してもらえるのだろうか、と僕が期待した瞬間、カメラを持った三年生がいきなりその硬いカドでタカユキの鼻面を殴りつけた。僕は「うわっ」と思わず声をあげる。タカユキの鼻から赤い鮮血が飛び散った。勢いよく鼻血が流れ、あっというまに口の周りを濡らす。

 「お前も謝れ」

 タカユキは苦しい呼吸に喘ぎながら、目を細めていた。その瞳には葛藤が浮かんでいた。

 「すいませんでした」

 タカユキは冷静だった。冷静に、ここで意地を張っても、プライドも自分も友達も守れない、と判断していた。そのせいで余計に、彼の姿が痛ましい。

 「声が小せえな」

 そう言って、三年生はさっき殴ったタカユキの鼻をカメラでぐりぐりとやる。

 「すいませんでした!」

 タカユキは声を絞り出した。

 「もうこんなことは二度としませんって言え」

 「もう、こんなことは、二度と、しません!」

 軍隊の新入りのような声で、タカユキは叫んだ。三年生たちは大笑いして、タカユキの目の前でカメラをコンクリートの壁に何度も投げつけて、めちゃくちゃに壊した。連中の笑い声を聞きながら、タカユキは目をふせる。その瞳は、屈辱と憎悪に燃えていたが、彼の感情の力は全て、それを抑え込むことにそそがれていた。

 

 トイレの洗面台で、タカユキは血まみれの鼻と口をずっと洗っていた。赤く染まった水道水が、排水溝で渦を巻き、流れていく。血のにおいが広がり、それを嗅ぐたびに、僕はタカユキの怒りと悔しさを感じた。

 「大丈夫か?」

 互いにハンカチを持っていなかったので、僕はトイレットペーパーをロールごと外してきて、タカユキに手渡す。タカユキはそれを受け取り、ずっと無言のまま、何度か適当な長さに切っては顔を拭った。拭う度、紙は水で薄まった血をにじませて、形を崩す。鼻の、殴られた部分は紫色に腫れている。

 タカユキの鼻血が止まって、僕らは校舎の外へ出る。外は晴れて明るい、さわやかな陽気、木々の葉は風とたわむれてささめき、校舎に迷い込んだ野良猫が柔らかそうなお腹を晒してうたた寝をして、校門の外には、近くの小学校から帰る子供たちの影がぽつぽつと横切っていく。人々はこういうのをのどかで美しい日と呼ぶだろう、けれども、外の景色がそうであればあるほど、僕らの惨めさは際立った。僕もタカユキも、全く喋らずに、とぼとぼと学校の外へと出て行く、僕らには、帰るということ以外何も選択肢はなかった。

 「どうしたの?」

 うつむき加減だったせいで気付かなかったが、いつの間にか、僕らの目の前には、通りがかったアヤカが立っていた。そして、その後ろにはノリマサもいる。

 「いや、別に……」

 僕はアヤカの視線からタカユキをかばうように立って何か言おうとしたが、何も上手いごまかしは思いつかなかった。

 「別にって……タカユキの顔、何か腫れてない?」

 タカユキは無言のまま、アヤカから隠れるように顔を背ける。そんな姿を、見られたいわけがなかった。アヤカは青ざめた顔で、心配そうにタカユキを見つめていた。

 「なんていうかまあ、……転んだ、みたいな?」

 あいまいに答えながら、僕はタカユキの反応を見る。タカユキは単にうつむいていた、アヤカに真実を伝えなければ何でもいい、といった具合で。

 「別に、嘘つかなくていいだろ」

 突然、ノリマサが口を開いた。僕は驚いてノリマサを見る。ノリマサは意外にも、真顔だった。普段の嘲笑的な態度ではなく、口元は真一文字に結ばれ、どこか苦しそうですらある。

 「嘘ってどういうこと?」

 アヤカがノリマサを見る。ノリマサは、ずっとタカユキに視線を向けたままでいた。

 「三年生にやられたんだよ」

 遠慮も躊躇もなく、ノリマサは言い放った。

 「三年生に?」アヤカは驚いて、ノリマサと僕らを交互に見る。「どういうこと?」

 「三年生が、盗みの犯人だっていう証拠を、カメラで撮ろうとして、見つかった。そういうことだろ?」

 ノリマサはタカユキを睨んでいた。

 「そうだ」

 タカユキもまた、ノリマサを睨み返す。

 「何それ? ホントに? ひどい! ちょっと、先生たちに言いに行こうよ」

 「やめとけ」

 アヤカの勇み足を、ノリマサが制止する。

 「どうしてそんなこと言えるの? ノリマサは、二人の味方じゃないの?」

 アヤカが、ノリマサを睨む。それはたぶん、普段彼に対して従順にしていたアヤカが、初めてはっきりと見せた反抗的態度だった。ノリマサはいらだった表情になったが、同時に、苦々しそうに唇を噛む。

 「そんなことしたら、こいつらがもっとひどい目に遭うぞ。なあ、ソウスケ、お前にも言っただろ。三年生に対しては、目立ったことをしたらダメなんだ」

 「……そうだな」

 残念ながら、ノリマサの言うとおりだった。結局証拠は押さえられなかったのだし、告発してもさらなる暴力と屈辱を味わう結果になるのは目に見えていた。

 「でも、でも……」

 悲しそうな目で、アヤカはタカユキを見ていた。タカユキは何も言わず、顔を背ける。もはや彼にとっては、アヤカの同情は、屈辱の傷をえぐる刃にしかならない。

 「もういい。行くぞ」

 ノリマサが、アヤカの腕をつかんだ。アヤカは一瞬、その腕を引いて、抵抗するそぶりを見せる。アヤカとノリマサの目が合い、二人はしばらくそのままになる。ノリマサの目には、相手を支配しようとする意思がこもっていた。しばらくそれに抗っていたアヤカの目には、しかし徐々にあきらめの意思が表れる。そしてとうとう、アヤカはノリマサに引っ張られて、僕らの前を去っていった。アヤカは僕らから遠ざかりながらも、しかし僕らのほうを見ていた。けれど、僕もタカユキも、その視線を避けるために、彼女の方を見なかった。それに気づいたアヤカは、その視線をずっと低いところに伏せて、弱々しい瞬きを繰り返す。

 

 そのとき、僕らは二人とも、三年生にあんなに簡単に見つかったのは、ノリマサが密告したせいなのだと気づいていた。だから僕らは、去っていくノリマサの後ろ姿を見ながら、それに強い強い嫌悪を感じていた。以来、僕らはノリマサと、卒業まで二度とまともに喋ることがなかった。たぶん、アヤカも何かを感じていたのだろうか、彼女もだんたんとノリマサと距離を置き始め、進級してクラスが別々になったのを機に、別れてしまった。

 けれども、後々になって、僕はそのときのノリマサに顔に浮かんでいた、どこか苦しそうな表情のことを思い出すようになった。不条理に対するひどい無力感に、突き放されたようなどうしようもない悔しさを味わっていたのは、きっと僕ら三人だけではなかったのだ。力に抵抗しようとしてあっさり打ち砕かれた僕とタカユキ、力に対して鈍感で受動的であるだけだったアヤカ、力に服従することで代償としての虚勢を得ていたノリマサ。子供の頃に、もっとひどい体験をした人間はたくさんいるだろう。けれども、教訓を引き出すのに、必ずしも特別で過激な体験を要するわけではない。僕はそこから、自分たちが、教えられてきた物語の主人公でないことを学んだ。その主人公たちのように正義や公平さに守られていないし、その存在は何によっても保証されていない。僕らは、ただただ、無名で、無根拠な存在にすぎないのだ。自分たちを支えてくれる物語など、実は何ひとつ持たなかったのが、僕らなのだ。

 

 

僕らが何者でもなくなるように その8へつづく__