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Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その8

 

 はノリマサを許したのか、と言われると、それはよく分からない。ノリマサは終始三年生の側だったのだから、別に僕らは裏切られたわけではない。僕らは正義と公正さを重視して、ノリマサは保身と権威を重視していただけのことだ。強い恨みを持っていたわけではなかったから、それ以降の人生でそのことについて考えることもあまりなかった。ただ、たぶん、僕の中には、ノリマサに対する軽蔑の感情があった。三年生から受ける抑圧を、そのまま周囲に向けることで己の力であるかのように行使していた彼は、アヤカが被害に遭ってもなお、それを変えることはなかった。僕は、そしてタカユキはもっと強く、心の底にそんなノリマサに対する軽蔑を抱いていた。もしかしたらノリマサも、心の底で僕らの軽蔑を感じ取っていたのかもしれない。僕らの存在は、ノリマサが同級生の中で奮っていた権勢の、無根拠さを突きつけてしまうものだった。だからそんな裸の王様のようなノリマサは、僕とタカユキを屈服させる必要があったのかもしれない。僕は今ではそんなふうにノリマサのことを考えていたから、言うなれば、確かに僕は彼を恨んではいないが、昔から変わらず、今もどこかで軽蔑してしまっているのかもしれない。今のノリマサに、僕とタカユキから、自尊心を守るものは残っていなかった。タカユキを見たノリマサが、あんなに攻撃的になったのは、そのせいかもしれない。そうだとすれば、ノリマサが僕らに会うのは、実は僕ら以上に苦痛なはずだった。自分に対して軽蔑を抱いている人間と対峙するなんて、誰にとっても耐え難いことだろう。

 ましてやその相手に、金を無心するなんて! そう考えて、初めはタカユキをノリマサに会わせることに懸念を抱いていた僕は、次第にノリマサをタカユキに会わせることにより強い懸念を抱くようになっていた。

 「かまわないよ、別に」

 タカユキの返事は、あっさりとしたものだった。てっきり断るとばかり思っていた僕は、虚を衝かれたようで一瞬言葉に詰まる。ノリマサの用件は伝えなかった、ただ、会って話したいことがあるみたいだ、とだけ伝えた。金の無心だと伝えるべきだったろうか。僕はもちろんタカユキの側だったが、ただ、積極的に踏み込む気にもならなかった。ノリマサと決定的に対峙しているのはタカユキで、そこでは自分が出しゃばらないほうがいいような気がしたのだ。

 

 結局、僕とタカユキとノリマサの三人は、『サンビ』で会うことになった。改めて見ても店内の雰囲気は穏やかなもので、当時僕らの溜まり場になっていたというのは、たまたま学校の近くで周囲にファストフード店がなかったことを抜きにしても、妙なことに思える。とはいえ、当時から一面ガラスのエントランスと明るい店内は客が入りやすい感じで居心地も良く、同級生が中にいるのが見つけやすかった。学生たちが溜まっていた一角には本棚があって、そこには当時から連載していた『ワンピース』とか、そういう漫画が今も並んでいた。

 僕らはかつて指定席のようにしていた木製のテーブルで、そこに置かれた当時と同じコーヒーを、三人で囲むように座っている。

 「調子はどうだ?」

 ノリマサは薄ら笑いを浮かべてそう言う。待ち合わせの時間から、三十分くらい遅刻して席についての、開口一番だった。そのことについても、この間のことについても、悪びれた様子はない。忙しい仕事の時間を調整して来ていたタカユキの顔には、不愉快そうな色が浮かんだ。

 「お前こそどうなんだ」

 たぶんわざとなのだろう、タカユキはぶしつけな感じで聞き返した。さっきまでは冷静だったのだが、腹を立てたらしい。無理もない、ノリマサの態度は、それだけ挑発的だった。

 「見ての通りさ。ひどいもんだ」

 ノリマサは自嘲する。いったいこの男には、金の無心の交渉を上手くやろうという気持ちがあるのだろうか。それとも何か、他の目的があるのだろうか。

 「見ての通り? 俺には見てもよく分からない」

 まるで挑発をやり返すかのように、タカユキはトゲのある言い方をした。どうもこの二人の間には、互いの感情を逆なでするようなものがあって、それが会う前の冷静さを奪っていくようにも見える。

 「俺に説明させるのか? 詳しく説明する必要はないだろう、『見ての通り』だ、低賃金の単純労働でうだつのあがらない毎日を送って、先の見通しもない、そういう生活だ。自分で会社起こしてしこたま儲けてるお前とはまったく別の、な。『お前も何かやればいいじゃないか』とでも言うつもりか? だいたいお前みたいな連中はそう言うんだ、自分ができたんだから、他人にもできるってな。でもな、俺みたいな連中も100パーセントのバカってわけじゃない。自分がそういうことをして成功するような器かどうか、多少なりとも分かってるのさ。だから結局、夢を見ずに今の生活に甘んじるだけさ。みじめだろ? でもな、みじめさを受け入れるくらいの分別は残ってる」

 「本当にお前はそれを受け入れてると言えるのか? それならなんで、この前は俺に対してそんなに突っかかったんだ」

 「は! お前は無神経だな、それともそういうことに関しては蒙昧なのか? お前は、自分が他人をどれだけ軽蔑してるか自覚してないんだ。俺が腹を立てたのは、お前の中にあるその軽蔑を一目で見抜いたからだよ。みじめさを受け入れるってのは、尊厳を捨てるってことじゃない。忠告しといてやるよ、俺みたいな人間は、そういう軽蔑に、お前なんかが想像できないくらい敏感なんだ。お前が自覚していない軽蔑ですら、俺たちの怒りを煽るには充分だ。だから、お前はよっぽど巧妙に、その軽蔑を隠さなきゃいけない。今のひと言でよく分かるよ、お前みたいな連中は、俺たちのことを賎民みたいに思ってる。お前の言う『受け入れる』っていうのは、おとなしく軽蔑されてろってことだ」

 「いくらなんでも曲解しすぎだ。お前の方こそ、妬み僻みがあるんじゃないのか。それが、悪意を生んでる。世間は、お前が思ってるほどお前のことなんか気にしてない。人間は、気にしてもいない他人をわざわざ軽蔑しない。お前は過剰に卑屈になっているだけだ」

 「気にしてないから軽蔑しないんじゃない。軽蔑してるから、気にしないのさ。お前の言う世間というものは、俺みたいな連中のことを、見えないものとして扱ってる。それだけのことだ。誰もかれもが、資本主義に毒されてあくせくしている。世間というのは、日本人の美徳を忘れてしまった。どいつもこいつも自分のことしか見えなくなった個人主義のロボットなのさ」

 ノリマサの言うことの中には、たぶんノリマサの側から見た真実が、いくらかは混じっているのだと思う。けれども、タカユキの指摘もまた、その通りだろう。僕は、ノリマサにはもはや自尊心を守るものはない、と言った。けれども、自分で自分のみじめさを露出するこの卑屈さこそが、唯一彼に残された防衛の手段なのかもしれない。自分で自分を下げるアイロニーで、ノリマサは自分にわずかでも残されたプライドを守ろうとしている。それが、よけいにそのプライドを削り落としていくのだとは気づかずに。その先にある、プライドの枯渇という地獄を、たとえ想像的にであれ救うものがこんな状態の彼に残されているとすれば、それは、宗教か、または国家みたいな権威に、自分の身を空にして投じることくらいしかない。

 「話をすり替えるなよ。それは他人の美徳の問題じゃない、お前の意識の問題だ。自分のありのままの状況を受け止めて、もしそこから抜け出したいなら、自分ができることを全力でやる。話は全てそこからだ。お前は単に、プライドと現実のズレにふてくされて、駄々をこねているにすぎない。誰もそんな人間を助けたいとは思わないし、そもそも、そういう人間に手を差し伸べるのは逆効果だ。他罰的で依存的な人間は、助ければ助けるほど自立から遠ざかる。資本主義とか美徳とか、そんなこと以前のレベルの話だ」

 「なあ、タカユキ。お前の主張はやっぱり、個人主義に偏りすぎなんだ。追い詰められた人間が、なんの助けもなしに、その状況から脱け出せると思うか? 想像力が足りないんだよ、お前は」

 「助けさえあれば自分はどうにかなる、とでも言いたげだな」

 それを聞いて、ノリマサは喉の奥から笑いを漏らした。まるで、自分の思い通りに会話を誘導できたのだとでもいうように。

 「少なくとも、俺は今、助けを必要としているんだ」

 「どういう助けだ?」

 「ちょっとしたトラブルに巻込まれてな、警察のやっかいになっちまった。まあ、あれだ、俺を見下した調子で絡んできたオッサンをぶん殴っただけのことなんだ。それで、保釈金を払うのに借金しなきゃいけなかった。そのオッサンにも非はあるのにな、結局、手を出したやつが悪いってことになる。とにかく、俺には、どうにもその金を返すあてがないのさ」

 「意外だな。お前がそんなふうに、『目上』の人間に反抗することがあるなんて。中学のとき、あんなに上級生に従順だったくせに」

 その皮肉の辛辣さに、タカユキはあのときの怒りを思い出してしまったのだろうかと僕は感じた。

 「あんまり見下した感じだから、キレただけさ。それでも目上を敬うってのは基本だよ、それは日本人の美徳であり、文化だ。というか、今さら中学時代の話を持ち出すなよ。まだ恨んでるのか? 俺に謝罪を要求するのか? 中国や朝鮮みたいに? そもそも、あのオッサンも、本当に日本人だったかどうか疑わしいけどな。は、は!」

 ノリマサは妙に興奮していた。精神のバランスを欠いた人間が、何の脈絡もなく、頭に浮かんだことをただ言いたいだけという理由で言ってしまう、あの感じが、しばしばノリマサには伺える。

 「俺に言わせれば、そんなものは反倫理的な陋習で、共同体の中で通用する「道徳」でしかない。別に謝罪なんか求めてない。お前こそ、なんで中国だの朝鮮だのと言い出すんだ。何の関係もないだろ」

 「は! 残念ながら、どうしても俺たちはそりが合わないらしいなあ。でもな、俺は今、お前の助けを必要としているんだ。とりあえず、金を貸してくれるだけでいいんだ。時間はかかっても、返すつもりはある。結局は、俺とお前は同じ日本人なんだ、同じ共同体の仲間なんだ。同胞は、助け合わなきゃいけない。なあ、そうだろ?」

 一瞬、タカユキがあきれて言葉も出ないという感じの顔をする。

 「国籍なんか関係ねえよ。俺が助けるべき人間は、俺が決める。少なくとも今のお前は、俺が助けるべき人間じゃない。自分の状況を何とかしようという発想もなくて、ただ単に自業自得で引き起こした問題の尻拭いを頼んでくるようなやつを、俺は助ける気にはならない」

 タカユキの言い方はにべもないものだったが、さりとて、僕はさすがにノリマサを擁護する気にもならなかった。主義主張はともかく、いくらなんでもこんな頼み方があるだろうか。

 「なあ、タカユキ。お前にとってはたいした金額じゃないだろ。それに、俺はくれって言ってるんじゃない、返すって言ってるんだ。俺とお前はしかも中学の同級生だ。それなりによしみがある。いっそうつながりが深いんだ」

 「いいか、何度も言うけどな、俺とお前が同じ集団に属しているかどうかなんか、問題じゃない。俺がもし他人を助けるなら、そこには個人と個人の信頼関係がないといけない。けどな、お前と俺の信頼関係なんか、あの時に完全に消え去ってる。いざというときに、権威だとか帰属意識だとか、そんなものを離れた視点からものを見て判断できない人間に、他人との間に本当の意味での信頼関係を結ぶことはできない。お前はアヤカを裏切ったし、お前は盲目だった、本質的なことは、何も見えちゃいない」

 「ふん。俺をよっぽど恨んでるらしいな」

 「恨みとかじゃない。俺が言ってるのは、お前を助ける理由がないってことだ。お前は他人との間に信頼関係を持てる人間じゃなくて、だから強制的にそれを保証してくれる同族意識みたいなものを必要としてしまうってことだ」

 ノリマサの顔から笑みが消え、彼はタカユキを睨んでいた。タカユキはちょっと相手を追い詰めすぎじゃないかという気もする。だが、次の瞬間には、ノリマサの顔にすでに不敵な笑みが戻っていた。

 「ずいぶんな言い草だな。なるほどここで優位なのはお前だ、だからいくらでも俺を突き落とせる。けどな、お前も綺麗なことばかりやってきたわけじゃないだろ。因果応報なのは皆同じだ。個人としての強さにも限界がある。お前が俺を突き落としても、足をつかまれて、一緒に落ちていくことだってあるんだぞ」

 まるで呪いをかけるように、ノリマサは吐き捨てる。目の奥には、僕が見たこともない、己の卑屈さを全て悪意として表現するような暗い暗い感情が蠢いていた。

 「どういう意味だーー?」

 突然タカユキは妙に饒舌さを失って、言葉を見つけられなくなったかのように黙る。

 「まあ予言みたいなものだ」

 おもむろに、ノリマサはそばにあった本棚から分厚いマンガの週刊誌を一冊取り出して机の上に置く。そしてポケットに手を入れて探るような仕草をしたかと思うと、そこから一本の折りたたみナイフを取り出した。不可解な行動に怪訝な顔をする僕とタカユキの前で、ノリマサはナイフの刃を取り出して逆手に柄を握ったかと思うと、いきなり机の上の週刊誌に突き立てる。

 「何をやってるんだ」

 半ば脅すようなしぐさに、タカユキは身構えるような姿勢になる。

 「これは俺の覚悟だ」

 「覚悟?」

 「いざとなれば、なんだってやる覚悟が俺にはあるのさ。俺は追い詰められている。だからこそ、覚悟を決めることができる。たとえば、国のために死ぬことだってできるだろう。それはお前みたいな個人主義者にはないものだ。大きなものに身を捧げることで個人というちっぽけな枠を超越して、崇高さを身にまとうことができる。俺のような人間は、美学的にお前のような人間に優越している」

 そう言ってノリマサは喉の奥で笑いながらナイフをしまい、イスから立ち上がる。そしてまたタカユキのことをじっと見つめてから、それ以上は何も言わずに、ここから立ち去ってしまう。僕の方には一瞥もくれなかった。

 「いったい何なんだ?」

 困惑して、僕はタカユキを見る。けれども、タカユキはノリマサの出て行った方を見たままじっと動かなかった。苦々しそうに唇を噛んで、ずっと黙ったまま、何かを考えているようにも見える。ノリマサの態度は、終始おかしなもので、まるで、初めから交渉をあきらめているかのようだった。他に何か意図があったのか、ただタカユキに嫌がらせをしたかったのか、精神のバランスを失いかけているせいなのか、僕には全くよく分からなかった。

 

 

 

僕らが何者でもなくなるように その9へつづく__