僕らが何者でもなくなるように その11
とうとう週も明けて、人の生活のもう一サイクルが始まったころになって、ようやくアヤカから連絡が来た。特に自分の今までの状況についての説明とかそういうものはなかった、ただ、明日の昼過ぎにでも家まで来て欲しいのだという。あまり元気はなさそうだ。フジオカのこともあったせいで、なんだか僕の周囲で、物事が悪い方向に動いているような気がした。でもまあ、だいたい人間というのは、ネガティヴな気分のときは、ちょっとしたことでも悪いことの兆候のようにとらえて、余計な心配をしてしまう、そういう滑稽な生き物なのだ。僕の場合はいざとなったらパスタでも作ればいい、なんでもないことに充足していれば、なんにも変わらないような気がしてくる。別に悪いことなど、起きはしないのだと。
「いらっしゃい」
玄関のドアを開けて、アヤカが僕を出迎える。口元には笑みを浮かべているが、どこかうつむき加減で、僕から顔を背けるようにしながら、部屋の中へと案内する。
「ブライアンは仕事?」
部屋の中にはアヤカだけしかいなかった。隅にあったマホガニーの机の上には、ブライアンのものらしきメガネと、アルミの灰皿が置かれている。何かで慌てていたのだろうか、灰皿のまわりには、タバコの灰が散らばっていた。
「そうね。ついさっき出て行ったとこ」
「そっか。そういえば、先週は忙しかったの?」
何気なく、予定が延びたことについて質問する。別に会話の糸口としてはごく自然はものだったと思うのだが、アヤカは僕の方に視線を向けることすらせずに「まあね」とだけ短く答えて、部屋の机と対になって立っていた本棚のそばへと移動する。
「そこにある本、全部処分するつもりなの?」
「うん。なんか、気分転換でもしたくなってね。そういうとき、私は自分の蔵書をごっそり入れ替えるの。新しいことを考えたりするには、それが一番効果的で手っ取り早い方法だと思うから」
「何か新しいことをやってみようってことか」
「そういう気分ね。具体的には何も考えてないけど」
「まあ確かに、ゼロから本を読んでいって、また新たに本棚を埋めていくっていうのは、新しいことを探したり考えたりするには面白い方法かもしれない」
「何年かに一回、私はそういうことをするの。特に、生活環境が変わるときに。留学したときとか、日本に帰ってきたときとか、結婚したときとかに、今まではやってきたかなあ」
「今はアヤカにとって、何かの節目なのか」
アヤカはかすかに首をかしげるようなあいまいな仕草で僕の言葉に応える。
「とりあえず、ゆっくりでもいいから見てみて。そんで気に入ったのがあれば、いくらでも持って行っていいから。もちろんなければそれでもいい」
「うん。そうさせてもらうよ」
僕はアヤカの横に立って、本棚を眺める。主に英米の作家や有名人による、小説やエッセイが多かったが、心理学や旅行についての本もあった。棚の上のほうから順に、僕はタイトルと作家名を見て、気になったものを手にとって目次と最初のほうのページをぱらぱらとめくってみながら、持って帰る本を選んでいく。下のほうの段にさしかかるころには、僕は手元に数冊の本を抱えていた。それらはアヤカの好みで選ばれた本で、僕には僕の嗜好があるから、実際に全部読むかどうかは分からない。でも、アヤカの本を僕の手もとに置いておくというのは、自分とは異なる視点を自分の懐に入れているような感覚があった。僕とは違ったアヤカの視点が、それらの本に宿って、僕のそばにあるような、そういう感覚だ。
「あれ?」
本棚の一番下の段に視線をやったとき、僕はその隅にひっそりと置かれていた二冊の本に気づいた。
「ああ」
それを見たアヤカが、相槌を打つように小さく声を出す。
「買い直してたの?」
「うん」
その二冊は、僕らが中学生のころに一緒に読もうかと相談していた、『ハリー・ポッターと賢者の石』と『グレート・ギャッツビー』だった。ノリマサと上級生たちに盗まれてしまった後、アヤカはもう一度その二冊の本を買っていたのだ。古いペーパーバック特有の黄味を帯びて、表紙は時間をかけて読まれたせいで、外へ反って曲がっていた。僕は捨て犬でも拾うように大事に二冊を手にとって、ぱらぱらとめくってみる。
「結局、一緒に読まなかったね」
「そうだね」
あの一件以来、僕らとアヤカの間にはなんとなく溝ができて、親しげなやりとりをすることがなくなってしまい、一緒に洋書を読む相談もふいになってしまった。僕はその二冊を十年越しに手にとって、アヤカがあのとき、本当にこの二冊を買っていたんだということに甘いような苦いような気持ちになり、胸がかすかにうずく。
「ホントに読んでたんだ」
「ギャツビーは当時の私には難しすぎてだめだったけど、ハリポタはなんとかがんばって読んだ」
「そっか」
「けなげだったのね、私」
アヤカは笑いを漏らす。なんとも愛しくなるような、それでいて淋しい、そういう笑いだった。
「この二冊はずっと処分しなかったんだ」
「うん。私の出発点っていう感じだったから。特別な意味をもたせてたわけでもないけど、なんとなく」
「じゃあ、今回も処分せずに残しておくんだね」
「正直迷ってる。なんか、いつまでも残しておいてもなあって、思わなくもないから」
僕は手に持った二冊を、まるで重さを確かめようとするかのように、手のひらの上に乗せてじっと眺める。
「それならさ、僕がもらっておいていいかな?」
「え、欲しいの?」
「なんか、あのとき約束しただろ。一緒に読もうって」
「今さら、な話ね」
「今さら、な話だけどさ」
「まあ、別にいいよ」
「とりあえず預かっておくよ。やっぱり手元に置いておきたいって思ったら、すぐに返すから」
僕は二冊をアヤカの前に掲げてから、他の本と一緒に脇に抱えた。
「ソウスケらしいね」
「そうかな」
何が「僕らしい」のかよく分からなかったが、とにかくアヤカはそう思ったらしい。ふいに僕はアヤカのほうを向いて微笑みかける、アヤカも顔を上げて僕を見る。笑顔だった。笑顔だったが、僕はアヤカの顔の、様子がおかしいことに、そこで初めて気づいた。
「ーーアヤカ、それは?」
「えっ」
一瞬驚いた顔で僕を見たアヤカは、僕が何に気づいたのかをすぐに察して、慌てたように顔を背ける。背けたまま、僕のほうを見ない。
「アヤカ、それはどうしたんだ。こっちを向いてくれ」
僕はアヤカの横顔をじっと見る。アヤカは僕から隠したほうの頰を、そっと手のひらで覆ったまま動かない。
「アヤカ」
名前を呼ぶ僕に、アヤカは無言で、ただ首を横に振って答える。
「なんでもないから」
「なんでもなくないだろ。そんなアザができてるのに」
アヤカの左の頰には、青くなったアザができていた。ここへ来てからのアヤカの様子とか、先週連絡した時の態度とかを思い出して、僕はなんだか嫌な予感がしていた。
「まあ、転んだ、みたいなことだよ」
「転んで、そんなところにアザができるのかよ」
言い訳がベタでヘタすぎて、嘘がバレバレだった。僕の指摘に、アヤカはうつむいて唇を噛む。そして、ゆっくりと、ひとつ、ため息をつく。
「……殴られたの」
「ーー誰に?」
嫌な予感が的中して、思わず僕は大きな声を出してしまう。アヤカは何度もためらうように、唇を開いたり閉じたりする。
「……ブライアン」
「ブライアンが? 何でそんなことを」
僕はブライアンのことを思い出す。一度しか会ったことがないとはいえ、僕の中で彼は理性的な人間というイメージで、そんなことをするのは意外だという感想しか抱けない。
「きっかけなんてささいなことよ。ただ、もうずっと、夫婦仲が悪くなってきてたの。ちょっとしたことでブライアンは腹を立てるし、私も理不尽な彼の態度が許せなくて口ごたえを繰り返してた」
「それで?」
「それで、今日も朝からケンカして、さっき、とうとう殴られたの」
「……そんな」
アヤカがもう一度、ため息をつく。さっきより深いため息だった。
「私たち、もうだめね」
「だめって、別れるってこと?」
「そうよ」
アヤカは短く、断定的に言う。
「もう、修復できないのか」
「口ゲンカくらいならしょうがないけど、手を出すっていうのは、もうだめ。それは、人と人との関係において、ひとつの線を越えてしまってる。暴力は、言葉の空隙に入ってくるものだから。言葉は無力だけど、言葉による努力を放棄した瞬間に、すべての対等な人間関係は崩れ去る。あとは暴力による支配と服従の世界があるだけ」
僕は何か気の利いた言葉を探そうとした、けれども、何も見つけられない。僕の頭には、なぜか中学時代のアヤカの姿がよぎった。暴力の影をにじませた支配力を持つ、ノリマサのそばにいるアヤカの姿。それがよけいに、僕を複雑な気分にさせ、彼女にかける言葉を見つけることを妨げる。
「あーあ、まさか、こんなことになるなんてねえ」
深刻になっていく空気から逃れようとするかのように、アヤカが指先で髪の毛をかき上げながら言う。
「うん」
「なんか、いろいろ思い出しちゃった。今までずっと、がんばってきたこととか、楽しかったこととか」
「そっか」
「どんなものでも、いくらがんばって積み上げても、壊れる時は一瞬ね」
「……そうかもしれない」
「あーあ」
もう一度、アヤカはため息をつく、今度は小さくて、弱々しくて、震えていた。僕はとうとう本当に何も言えなくなった。何も言えずに、少しでも気丈に振舞おうとするアヤカの、目元をかすかに潤ませている涙を見つめていた。この場にタカユキがいれば、と僕は思う。あのとき、僕とタカユキは、もっと勇気を振り絞って戦うべきだったのではないかという思いが湧き上がってくる。それはもちろんそうではないのだけれど、僕はそう思わずにはいられない。僕はタカユキに言いたかった、あのとき、僕とタカユキもっと力を持っていて、僕らを恐れさせたものと戦えたなら、今ここで、こんなふうなことにはなっていなかったのではないか。そんな、甲斐のないことを僕は考えてしまう。僕はうつむいた。うつむいた視線の先には、脇に抱えた、あの二冊の本があった。どういうわけだか、僕もなんだかもらい泣きしそうになる。ペーパーバックの黄味と、表紙の反りが、僕の胸を、さっきより強く締め付けていた。ただ、僕の目の前でうつむくアヤカが、僕がそこで思っていたよりも、もっと複雑な思いを抱えていたことを、僕はそのとき全く思ってもいなかったのだ。
僕らが何者でもなくなるように その12へつづく__