僕らが何者でもなくなるように その12
もらった本をバッグにつめて、僕はアヤカの部屋を出た。何か助けてあげられることはないかとか、タカユキに連絡すればしばらく逃げられる場所くらい確保してくれるんじゃないかとか提案してみたのだが、アヤカは何度も「大丈夫」だと繰り返すだけだった。心配だとは思いつつ、埒が明かないので困ったらすぐに連絡をしてくれとだけ言い残して、結局帰ることにした。しかし、僕の知っているあのアヤカが年月を経て結婚し、そして今は離婚かと思うと、その生々しいくらいのリアリティにかえってリアリティを感じにくかった。
家の前までたどり着いたとき、僕はそこに人影を認めた。人影は自分もまた僕の姿を認めると、煙のように不規則にゆらゆらと揺れて、僕の方へと迫ってくる。そのたたずまいと口元に浮かんだ笑みがかもしたす不穏さに、思わず身を固くする。
「待ってたぜ」
暗い目つきの男が、僕に上目遣いで視線を向ける。かつての覇気を失い、不遜さだけが残った姿は、何度見ても嫌な感じしか残さない。
「ノリマサ? どうしたんだ」
僕はその男、ノリマサを見つめ返す。なんだか気圧されるような感じがして、あえて目をそらさず、じっとその姿を見つめた。
「話があってな。まあ、頼みごとがひとつ」
「頼みごと」
「ああ」
しばらくここで待っていたのだろう、足元に、タバコの吸殻が二、三本落ちていた。
「部屋の中で話す?」
正直ノリマサを家に上げたい気分ではなかったが、いちおう僕はそう言って、住んでいるマンションの入り口を示す。
「いや、ここでいい」
足元のタバコの吸殻を踏みつけながら、ノリマサは首を上げて背筋を伸ばす。
「急ぎの頼みごと?」
「まあ、早い方がありがたい」
「どうしたんだ」
たぶんあまり良い用件ではないだろうが、目の前に来られた以上、聞くだけ聞いてみるしかない。
「簡単なことさ。前にも頼んだ」
「前にも?」
思い返して、首をかしげる。ノリマサに頼まれたことなんかあっただろうか。金の無心は僕にはしなかったし、タカユキにはもう会わせたはずだ。全くピンと来てない僕を見て、ノリマサはまた笑いを浮かべていた。
「そう、前にも頼んだ。つまり、タカユキに会わせてくれないかってことさ」
「タカユキに? いやでも、だって……。ということはつまり、もう一度会いたいってことか?」
「その通り」
完全にあきれてしまった、前回の散々なやり取りの後なのに、この期におよんでまだ会おうなんて、どうやったら思えるのか。
「ちょっと待ってくれよ、さすがにそれは無理だろ」
「どうして無理なんだ」
「だってこの前、あんなにタカユキの気分を害するようなことを言いまくってたじゃないか」
「そうか?」
「そうかって……、自覚ないのかよ」
「俺は面白かったけどな。俺の言うことに、まともに反論してくるやつなんてめったにいないからな」
「タカユキが面白がってるようには見えなかった」
「まあ、そうかもな」
ノリマサがのどの奥で笑う。その態度には、以前に比べるとなんとなく妙な余裕というか自信めいたものがあった。
「タカユキに会うとしたって、いったいどういう話をするんだ。前みたいな話をしようっていうんなら、僕はもう頼まれてやらないぞ」
「前とはちょっと違う話さ」
「ちょっと?」
「あいつに金を出してもらいたいっていう目的は一緒だ。けどな、今度は単に、俺の窮乏を救ってもらおうっていうだけの話じゃないし、もう一つ言うなら、今度は頼みごとじゃない」
「金の無心をするのに、それが頼みごとじゃないっていうのはどういうことだ」
「頼みごとじゃあない。交渉をやるんだ、今度は」
「交渉?」
「そう、交渉さ。俺だって、一方的に金を貸してくれっていう俺の頼みをあいつが聞きそうにないってことくらいは分かる。それに、今度はもっと大きな金額をあいつから出してもらいたいって思ってる」
「ますます良く分からないな。何か、タカユキにメリットのある話でも持っていくのか?」
「メリット……というか、あいつのデメリットを消すという話を持っていくんだ」
「デメリット?」
「そうさ。デメリット。タカユキも、若くして成功するために、いろいろと探られたくないことを抱え込んでるようだしな」
再び、ノリマサがのどの奥で笑う。勝ち誇った、嘲笑的な、醜悪さのこもった声で笑う。
「どういう意味だ?」
「どういう意味? 俺が言った通りの意味さ」
「タカユキが、何かまずいことをやってるっていうのか」
思いもかけないノリマサの言葉に、僕はとっさに感情的な声を出してしまう。タカユキが妙なことをするなんていうのはとても信じられなかった、だから当然、これはノリマサの狂言なんだと思った。他人を陥れようという悪意から出ているとしか、僕には見えない。
「まあ、ここでそれ以上は言えないな。でも、これはあいつも聞いておいたほうがいい話だ」
「僕には、そうは思えない」
「どうしてだ?」
「お前には何か、悪意を感じるんだ。なあ、ノリマサ、お前に少しでも、あいつを思いやる気持ちがあるなら、あんまり妙なことはしないでくれ。日本人だとか、同級生だとか、そういうつながりが大事だと思うんなら、それを実践してくれ」
「誤解するなよ、俺はそれが大事だと思うから、あいつに会おうとしてるんだ。そしてあいつにも、それが大事だと思って欲しい」
「よく分からない。僕にはひどく矛盾して聞こえる」
「まあ待てよ。お前、最近変な電話がかかってこなかったか?」
ぎくりとして、僕はノリマサを見る。ノリマサは僕の態度を予想していたかのように、満足げにしている。あのフジオカという男に、いきなりタカユキの会社のことについて聞かれたことと、ノリマサがほのめかしたことがつながると想像して、嫌な冷たい感触が僕の首筋を走る。
「何か知ってるのか?」
「ああ。俺がタカユキについて知っていることは、あのフジオカに聞いたんだ」
「ちょっと待てよ。いったい何をしようとしてるんだ。まさか、タカユキの弱みでも、握ってるっていうのか」
冷たい感触が刃のように僕の首筋を裂いて、だんだんそれが熱い感触に変わり、僕の心臓の鼓動を速める。何か悪いことが、起きようとしていた。ノリマサの、暗い目が僕を見ている。
「お前は賢いな。まあ、さっきも言ったように、交渉をしにいくんだ」
「交渉? 脅迫にしか聞こえない」
「はは! 心配するなよ。少なくとも俺は、そこまで無茶な要求はしない。俺が欲しいのは、俺のピンチを脱するためのわずかな援助と、俺がこれからやろうと思ってる計画のための、いくらかの資金だ」
「計画?」
「団体をひとつ、起ち上げようと思ってるんだ。愛国のための団体さ」
「そんな団体、世の中に結構あるだろ」
「俺は、俺の問題意識によって団体を作ろうと思ってるのさ。俺と似たような境遇の、若い、むくわれない人間たちを集めて、ひとつの政治的活動を行う団体にするんだ。自分たちの孤独感や不全感を、表現する言葉をもたない連中に、その言葉を与えてやるんだ。自分たちの孤独感や不全感を打破するための方法を、共に手に入れるんだ」
それを聞いて、僕の頭はくらくらした。別に自分の思想信条に従って団体を作るくらいは自由にしたらいいが、ただそのために、曲がりなりにもかつて一度は友達だった人間を脅迫しようなんていうのは、明らかに度を超している。ノリマサの精神の歪みが、取り返しのつかないところまで来つつあるように思えた。
「利用するつもりなのか、タカユキを」
「利用じゃない、交渉だ」
「どういう言葉をあてがおうと、それは倫理的にアウトだ」
「俺の目的は公的なものだぞ、それは私的なものを超えている。それに、タカユキもまた、倫理に反することをやっている」
「いったい、タカユキが何をやってるっていうんだ」
「それは、ここでは言えない。ただ、あいつも早めに知っておいたほうがいい。遅かれ早かれ。まあ、そういう話だ」
「僕は嫌だ」
「俺は別に、こっちに協力してくれっていうんじゃないぞ。いちいちタカユキに会おうとする手間を省くために、ちょっと取次だけしてくれたらいい。俺がここでしているのは、それだけの話さ」
ノリマサは、暗い目で僕を見ている。僕も、まるで深淵を覗き込むように、その暗い目を見返した。暗さをはじくための、強い意志を得るために、一呼吸おく必要があった。
「嫌だ」
「待てよ」
「僕は断る。いいから帰ってくれ」
怒りの感情を表に出すのは苦手だったが、僕は懸命にそれを、ノリマサに向かって矛のように突き出して見せた。ノリマサはその姿を見て、僕が本気だということを感じ取ったのだろう、ため息をつき、首を傾げて上を向く。
「……そうか。でも、お前が断ったからといって、問題が解決するわけじゃないぞ」
「ただ単に、ほんのわずかであっても協力したくないだけだ」
「それならそれで、かまわない、俺は、自分であいつを探して、話をするだけさ」
足元に落ちていた吸殻を、話の間ずっとノリマサは踏みにじっていた、巻紙は破れてぼろぼろになり、茶色いタバコの葉がアスファルトの凹凸に埋め込まれるように散っていた。
ノリマサが帰った後、僕はすぐに部屋に入り、鍵を閉めた。アヤカからもらった本の入ったバッグを床に置き、うなだれる。ノリマサは、どうして自分を守るために周囲のものを壊さずにいられないのだろうか。そこには、彼自身の表面的な意識から来るものではなくて、もっと奥底の、衝動に近いものがあるような感じがした。タカユキは、いったい何をやったというのか。フジオカは、何を知っているというのか。床に座り、バッグから、アヤカが大切に保管していた二冊の本を取り出してながめる。嫌な予感は、いや増していた、決して止まらず、僕の背中を何度も突き飛ばしてくる。僕はタカユキを、あるいはせっかく戻りかけたアヤカと僕ら三人の関係性を、どうにか守らなければならないと思った。でも、そのために何をしていいのか分からない、そもそも、これから何が起ころうとしているのかさえ分からない。僕は無力だった。僕は仰向けに寝転んで、じっとしていた。誰もいない静かな部屋を占める鉄のような空気は、ひどく冷たく、僕はひとつ、身震いをする。
僕らが何者でもなくなるように その13へつづく__