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Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように その13

 

 は、僕の行く手を塞いでいる。僕の身体と呼吸を蠕動する闇の襞が飲み込んでいく。それはひとつの眩暈で、夜は無を掻き立て人から存在の衣を剥ぎ取る。無の中で、人は両翼のように時間と空間を捉えようと想像力を広げるだろう。そこでは光が、むしろつまづきとなる。目を閉じるかのように、目を開ける。夜の街で、光が連なっていた。そのあまりの明るさに、僕は迷うことができない。まっすぐに、何ひとつ遅らせることはできず、目的地まで歩くのだ。

 呼び出されたバーに着くと、そこにはすでに、タカユキとアヤカが座っていた。

 「ずいぶん、急な話だよな」

 イスに座るなり、僕はタカユキに向かってそう言った。ノリマサの件について連絡をためらっていた僕に、タカユキのほうからいきなり連絡があり、明日、東京に戻るから今夜会おうと呼び出されたのだ。

 「ちょっと本社のほうで、対応しないといけない問題がでたもんでな」

 「しばらくこっちには帰ってこないのか」

 「さあ。いつになるか分からないな。特別、もうこっちにいないといけない用事があるわけでもないんだ、正直」

 「そうか」

 相槌を打つと、いったん会話を止めて、僕はカクテルを注文した。

 「まあでも、久しぶりに会えてよかったよ」

 「冗談抜きで、だいぶ久しぶりだったけどな」

 僕の言葉に、タカユキは苦笑いを返す。

 「あまり、帰ろうという感覚がなかったからな。故郷という観念が、俺にはほとんどないんだ」

 「それでも、今、一度は帰ってきた」

 「そうだな。自分でもよく分からない。どういう了見で、自分はここに戻ったのか。都合に合う候補地の一つだったとはいえ、なんでわざわざ、自分の育った場所に支社なんて開設してしまったのか」

 「やっぱり、懐かしかったんじゃないの」

 アヤカが、会話に割って入る。

 「俺も最初はそれを疑ったよ。年月が経って、ある程度成功して、自分の出発点みたいなものを省みたくなったのかって。でも、今はそうじゃないって思ってる。この街の風景を見ても、俺には結局何の感慨もなかった」

 「じゃあ、私たちのことが懐かしくなったのね」

 「さあどうだろうな」

 アヤカのからかいに、タカユキはもう一度苦笑いを浮かべる。ただ、その苦笑いのあとで、なんだか遠い目をして、つぶやくように唇を動かしながら、独り何かを考えるような様子になった。

 「場所は懐かしく思えなくても、人は懐かしく思えるものなんだろうか」

 僕の問いかけに、タカユキは一瞬こっちへ視線を向けた。

 「正直に言うと、俺は、最近よく想像してしまうんだ。今自分が手に入れて持っているもの、そして手に入れようと努力しているもの、つまり今の自分を形成しているものがすべて、消え去ってしまったら、俺はそのとき、何を考えるだろう、世界をどんなふうに見るだろうって。あるいは、俺は権威に金で抵抗しようとしているけど、でも、その二つは所詮、人間の妄想の産物でしかない。ならば、権威を相殺するくらいの金を手にしたら、もしくは、いっそそのすべてが消えてしまったなら、果たして俺は自由というものを感じられるだろうか、とか。場所や物は、その手がかりにはならない。結局、人間を通して、俺は何かを知るしかない。もしかすると、だからこそソウスケやアヤカに会ってみようと思ったのかもしれない。まだ、こんなふうにあれやこれやを手に入れる前の自分を知っている他人と話すことが、何かのヒントになるかと思ったのかもしれない」

 「それで、何か見出せた?」

 「さあ、どうかな。でもまあ、人は結局、権威とか金とかに限らず、あらゆるレベルで何かに絡め取られてる。どこで生まれ育ったかとかはもちろん、どういうものに属してどういう人間とつながっているかとか、さらには今ここで話している言葉でさえも、俺を絡め取っている」

 「その全てから、逃れたいとさえ思う?」

 「常に、新しい場所へ移動し続けるしかないかもしれない。既存のものは全て、自分を絡め取る桎梏に変わるから」

 「その考えすら、ひとつの桎梏じゃないのか。人間が新しい領域を求め続けるのは、フロンティアやイノベーションを求め続けるように駆り立てる、資本主義の圧力によるものじゃないのか」

 僕の指摘に、タカユキはしばらく考え込む、カクテルを飲みながら、眉間にしわを寄せていた。

 「そこまで言ってしまうのなら、俺は全てを投げ捨てるかのように、全てから切り離されなければいけないんだろうな。まるで、自分が何者でもなくなってしまうかのように」

 「そんな自由が、果たして実現し得る?」

 「ーーいや、無理だな」

 タカユキはそう言って、笑いとため息を同時に漏らす。あきらめと安堵が、その表情から読み取れるように、僕には思えた。昔から、タカユキにはいつも、絶望の中で、希望も抱かずに歩き続けているような感じがあった。今のタカユキは、もっと速いペースで、それは歩いているというより、走っている状態だった。もしかすると、彼はもっと速度を上げてしまうだろう。そしてもはやそれ以上走れないところまで来たとき、彼は拘束されるのだろうか、解放されるのだろうか。

 「まあ、またそのうち帰ってくるんだろうし」

 会話の切れ目を弥縫するように、あるいは念を押すように、僕は呟いた。僕にはタカユキが、何だか遠い所へ吸い込まれて消えていこうとしているような感じがした。

 「まあ、仕事の用事で来ることもあるかもしれないけど、でも、個人的な感情から、ここに赴くことは、二度とないような気がする」

 また会話が途切れた。次にその沈黙を破ったのは、アヤカだった。

 「ちょっといい? 私も話があるんだけど」

 愛嬌のあるしぐさで、小さく手をあげて、僕とタカユキにそれを示す。

 「何だよ」

 タカユキが、アヤカを見つめる。

 「わたくし、この度、正式に離婚いたしました」

 「ええ?」

 タカユキは大きな声を出して驚いていた、一方の僕は、事情を知っていたので「ああ」と小さく漏らしたくらいだった。

 「それでは、わたくしの離婚に乾杯!」

 アヤカが飲みかけのグラスを掲げ、僕とタカユキに向けて差し出す。

 「いやいや、いきなり過ぎるし、それになんだよ乾杯って」

 タカユキはのけぞってアヤカの乾杯から逃げる。

 「いやほら、だって嫌じゃん、離婚とか言って深刻な雰囲気になるの」

 「ちょっとくらいそうなるのが普通だろ。なんだよその軽すぎるノリは」

 「いいでしょ。私は軽く流してくれるくらいがありがたいんだから」

 「流せねえよ。ついこのあいだ旦那と会ったばかりで、もう離婚とか聞かされたほうの身にもなれ」

 「たまたまそういう時期に出会ってしまっただけじゃない」

 「それはそうだけどよ、なんでいきなり別れることになったんだ」

 「簡単なことよ。殴られたの。といっても一発だけなんだけど。でも、その一発が決定的なことだから」

 「……そうか」

 急にトーンを下げて、タカユキはアヤカを心配そうな目で見つめる。それは、僕がタカユキに再会してから見た中で、もっとも優しげで人間的とでも言えるような、そういう目だった。

 「いいんだって。むしろめでたいというか、解放感? みたいな。もう夫婦関係も上手くいかなくなってたし、ブライアンは日本での生活に苛立って、うんざりしてたし。ちょうど止め時と言えば止め時だったから。それに、私はちゃんと闘ったっていう気分だし」

 「闘った?」

 「もちろん殴り返してやったとかそういうことじゃなくて、私はちゃんと意志を持って、そこから逃げ出してやったってこと。暴力でかなわない相手なんだから、私にできる手段は、躊躇なく逃げ出してやることくらいだった。だから、それを実行してやったの。速やかに、毅然として」

 その言葉に、僕はうなずく。アヤカはアヤカなりに、自分を縛るものから抜け出そうとしながら生きてきたのだろうと思った。

 「でも、これからどうするんだ?」

 タカユキがアヤカに質問する。

 「さすがにそこまでは何も、決めてない。だけど、今までとは、違う姿勢で生きていくんだろうなって思う」

 「今までとは違う姿勢?」

 アヤカは、僕らのほうを見ていなかった、テーブルの上のグラスを見つめてから手に取ると、逡巡するように、おしぼりでグラスの底の水滴を、ゆっくりと拭き取ってから、またテーブルの上に置く。そして、また、意を決したかのように、口を開く。

 「実を言うとね、私は、ずっと、自分のアイデンティティの檻みたいなものから、逃れようと思ってきた」

 「どういう意味だ?」

 タカユキも僕も、どちらも首をかしげた。アヤカの言う意味が、あまりよくとらえられない。

 「妙に昔から、外国に憧れてたのも、そういう理由だと思う。それでブライアンと結婚して、全く別の世界とつながりを持つことで、私は自分がどういう所から生まれて、どういう所で生きてるかってことに、とらわれないような人生が、手に入るような気がしてたんじゃないかと思う」

 「よく分からないな。日本人としてのアイデンティティが嫌だったってことか?」

 「日本という磁場が強制のように意識させる、私自身のアイデンティティについて」

 「日本なんていうのは、むしろ普段みんながアイデンティティなんてものについて考えることをせずにすむ場所じゃないかと思うんだが」

 「それは、あなたが「普通の」日本人だから。だけど、むしろマイノリティなのよ、私は。アイデンティティに対する問いが希薄な場所で、マイノリティになると、それが反対に、とてつもない重圧のように襲いかかってくる」

 「アヤカ?」

 この時まで、タカユキも僕も、アヤカが何を言っているのか、全くピンと来てはいなかった。アヤカが抱えている、あるいは抱えさせられている問題のことなど、これっぽっちも想像して生きてはこなかった。

 その時、いきなり乱暴に入り口のドアを開けて、バーに二人組が入ってくる。照明を落とした室内で、初め、僕はその二人の顔がよくわからなかった、けれども、その二人は何かを探すように店内をうろついたかと思うと、急に動きを止めて、今度はまっすぐこちらへ向かってくる。

 「タカユキ!」

 二人組のうちの片方が、店内の静寂を粗雑になぎ倒すような大声を出す。その正体に、僕ら三人はほぼ同時に気づいて、はっと息を呑んだ。薄暗い照明に浮かび上がったのは、ノリマサの姿だった。勝ち誇るような笑みを浮かべて、僕ら三人を見下ろしている。そして、僕はもう一人の人物の姿を見て、ぞっとしてしまう。声しか聞いたことはなかったのに、僕には一目でそれが誰か分かった、あまりにも想像通りの姿、四十がらみの、腹黒そうな、猫背の男、それがフジオカだった。心臓がひとつ、大きく拍動して、僕は同時に、冷たいものを感じた。これから確実に、悪いことが起こるのが分かった。可能ならば、タカユキとアヤカを覆い隠して、どこかへ避難してしまえればよかったが、もちろん、僕にそんなことはできやしない。タカユキもまた、ただならぬ空気を感じ取ったのだろう、不気味な笑みを浮かべる二人と対峙して、鋭い視線を向けながら身構えている。全てがここに集まり、終わりへ向かっていた、転がり落ちるように、僕には手に負えないような速さで。ノリマサは、ポケットに手を突っ込んで仁王立ちしている。そのポケットのふくらみの形から、僕はそこにナイフが入っていることに気づいた、ノリマサの暴力と悪意が、そこに凝集している。タカユキとノリマサはにらみ合っていた。互いの不穏な敵意が、真正面からぶつかり合って拮抗している。

 

 

僕らが何者でもなくなるように その14へつづく__