Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

僕らが何者でもなくなるように 最終回

 

 れから何がどうなったのか、僕はその全体像を知らないし、そもそも、うまく整理することすらできていない。だから、僕にできるのは淡々として事実を述べるくらいだ。ノリマサは救急車で運ばれたが、とっくに手遅れだったらしい、病院に着くまでには、命を落としてしまっていた。救急車の後には警察が来た。タカユキはおとなしく手錠を受け入れ、パトカーで連れて行かれた。僕は混乱状態のまま、泣き叫ぶアヤカを必死でなだめながら、警察に聞かれたことに答えていた。後日、どうにか留置所で面会したタカユキが語ったところによれば、怒り狂ったノリマサがアヤカを本当に殺そうとしたのを、止めようともみ合っているうちに、とっさにノリマサが落としたナイフを拾って刺してしまったということだった。興奮状態のせいで、衝動的になっていた、本当に恐ろしいことをしてしまった、タカユキは、インタビューに答えるかのように、冷静に説明していた。まるで、何もかもをあきらめて受け入れ、観念し、人生の全ての望みを捨てたような顔をしたタカユキだったが、たったひとつだけ僕に、「アヤカを頼む」と願いを託してくれた。けれども、僕はそれ以来、アヤカに全く顔を合わせる機会を持たないままだった。ときどき、彼女を気遣うようなメッセージを送ったりしたのだが、アヤカは、自分は大丈夫だというような内容を、ごく短く返信するだけだった。だが、しばらくそんな日々が過ぎて、ある日、僕はアヤカのほうから連絡を受けた。知人のつてを頼って、カナダで働くことにした、アヤカは、やはり手短な文章で、僕にそう伝えてきた。カナダに行く前に一度だけ会わないか、と僕は彼女に提案してみた。その日、彼女からの返事はなかった。数日の後に、ようやくアヤカが僕に返信してきた。「わかった」、それだけが彼女の返事だった。例えば返事が遅れたことの言い訳や心境の説明など、余計なものは何も付け加えられていなかった。

 

 僕は車を持っていないので、そこに行くまでには、歩いて三十分ほどかかった。中学校を横切り、丘の公園を抜けて、階段を登っていく。いつか、タカユキと僕とアヤカの三人で来た場所だ。頂上まで着いて、時間を確認する。二時ちょうど、約束の時間だったが、アヤカはまだ来ていない。アヤカを待つ間、僕は、ただ街を見下ろしていた、立ち並ぶ家々を、スーパーや図書館を、学校を、僕らが使っていた通学路を。

 「やっぱり、変わらないね」

 背後から声がして振り向くと、そこにアヤカが立っていた。約束の時間からは、十五分が過ぎていた。僕はうなずく。街の風景のことかと思ったが、本当は、何が変わらないと言っているのかは分かっていなかった。

 「カナダへ行くんだね」

 「うん」

 アヤカは首を縦に振る。少しやつれたように見えるが、憔悴してるとか思いつめているといったほどでもない。もしかしたら、そういう状態から立ち直りつつある、その過程なのだろうか。

 「どうして急に?」

 「わかるでしょ。あんなことがあった後で、私はここにいて、どうしていいのか分からない。ブライアンもいない、私は独り。いっそ、新しい場所で、一から始めるのがいいんだろうなと思って」

 吹いている風が、アヤカの髪の毛を、彼女の顔にまとわりつかせる。アヤカはそれをうっとうしそうに指先で払いのける。

 「いつから考えてたの?」

 「あのことがあってから、一週間くらい後。正直、それまでショックと抑鬱で、ずっと何もする気がしなかった。ご飯すら、まともに食べられなかった。だから、何でもいい、何かしなきゃって、そう思ったけど、でも、何ひとつ思い描くことができなかった。だから、こことは全く違う環境へ行こうと思った。ここにいると、今までの私の人生の全てが、まるで急にとてつもない重力になったかのように襲ってくる。悪い思い出や事実だけじゃなくて、良い思い出や事実までもが、全て、ひどく重苦しいの。だから、一から何かを始めるしか、私に残された道はなかったの」

 「……タカユキには、会っていかないのか」

 無神経で不用意な質問だったかもしれない、けれど、僕は聞かずにはいられなかった、いや、聞かないわけにはいかなかった。アヤカは、じっと黙って、僕から顔を背ける。風が吹いて、アヤカはまた、指先で髪の毛を払おうとする。けれども、もう一つ強い風が吹いて、アヤカの長い髪が、彼女の顔を覆うように舞い上がる。もう一度その髪の毛の先を指先で払うと、彼女はそれを押さえるように、手のひらの中へ握りしめる。アヤカはうつむき、唇を噛む。じっと考え、僕に返す言葉を探しているのかと思ったが、そうではなかった。アヤカはただひたすら、自分の感情を抑えることに集中していたのだ。けれども、その懸命の努力は、溢れてくる涙を抑えることはできなかった。僕の目の前で、アヤカはぽろぽろと、大粒の涙をこぼし始める。

 「アヤカ?」

 僕はとまどい、アヤカの背中に手を置いて、ゆっくりとさすってやる。しかしアヤカの感情の波は引く様子を見せず、嗚咽が始まり、涙はとめどなく流れる。どうしてこんなに泣いているのか、僕にはよく分からなかった。

 アヤカが泣き止むまで、ずいぶん長い時間がかかった。泣きはらした目元をぬぐいながら、それでもなんどかしゃくりあげていたが、やがて意を決したかのように、深呼吸をひとつして、アヤカはようやく口を開く。

 「ソウスケ」

 「うん」

 「ソウスケだけには、本当のことを話しておく」

 「本当のこと?」

 アヤカの瞳が、僕の顔をのぞきこんでいる。涙で濡れていたが、まるでショックを受けたかのように瞳孔が開き、震えている。そこにあるのは、ただ、恐れの感情のみだった。他人を目の前にして、こんなにも恐怖を感じている瞳は、相対する僕をも戸惑わせる。

 「そう、本当のこと」

 「あの日のことについて?」

 うなずいたアヤカは、恐怖に耐えながら、それでも僕から視線を外さない。彼女は、浅い呼吸を繰り返していた、深呼吸をしようとしているのに、動揺のせいで、うまくいかないのだ。僕は、もう一度、ゆっくりアヤカの背中をさすった。またしばらく時間をかけて、ようやく落ち着いたアヤカは、なんとかもう一度、話を始める。

 「そう、あの日、何があったのかを、ソウスケだけに、言っておきたいの」

 「というと、何か、僕が思っているのとは違うことが、あそこで起きていたっていうことなのか」

 「その通り」

 「ノリマサが、アヤカを襲って、それを止めようとしたタカユキが、思わずノリマサを刺してしまった。でも、そうじゃないっていうのか?」

 「そうじゃない」

 「じゃあ、いったい何が?」

 「私よ」

 「私? 何が?」

 「私が、ノリマサを刺したの」

 「え?」

 僕は、アヤカを見つめる。今度は僕の目が、ショックと恐怖で見開かれる。対照的に、まるでそれが僕に乗り移ったとでもいうように、アヤカの瞳からは恐怖の感情が引いていき、そこには安堵と覚悟が表れ始める。

 「ノリマサが私を殺そうとして、それをタカユキが止めたところまでは本当よ。タカユキに体当たりをされたノリマサは、ナイフを落としたけど、それを押さえようとしたタカユキを殴りつけて、その上に馬乗りになったの。そして抵抗するタカユキを、ノリマサは何度も殴り続けた。私は夢中でナイフを拾い上げて、体ごとぶつかるように、ノリマサの脇腹に、ナイフを突き刺したーー」

 アヤカの告白を聞きながら、僕はくらくらする頭を抱えていた。アヤカの目を見ることが、できなくなっていた、いったい、どういう表情で、こんな話を聞いていいのか、全く分からない。

 「でも、どうして? どうして、アヤカがノリマサを刺すなんていうことまで、しなければいけなかったんだ」

 「憎しみよ。途方もない、私の存在の全体すら飲み込んでしまうくらい、圧倒的な憎しみ」

 「憎しみ?」

 「タカユキに馬乗りになったノリマサは、笑いながら唾を吐きかけ、ありとあらゆる侮辱を浴びせてた。今の彼の持っている考え方に対してだけじゃなくて、中学時代の彼の情けなさに至るまで。けれど、それで終わりじゃなかった、ノリマサはさらに、とうてい聞くに耐えないような言葉で、私のことを侮辱し始めた。私の父親の出自のこと、その父親と結婚した母親のこと、私自身のこと。私が中学生のとき、どんなふうにあいつとセックスしていたかとか、私のその出自のせいで、ただの性欲のはけ口にするにはちょうど良かったとか、とてもおぞましい、考えうる限りで最低最悪の侮辱で、私の自尊心を破壊し続けた。抵抗できなくなったタカユキをそれでも殴り続けながら、あいつは、ありったけの憎しみを私にぶつけていたーー」

 アヤカの語るその光景を、僕はうまく想像できない。聞きながら、僕の目には涙がにじんで来さえする。僕はそれを必死で押しとどめながら、アヤカの告白を聞いていた。

 「そのとき、私の中に、今まで感じたことのないような、恐ろしく大きくて強い憎しみが湧き上がってきた。私はもはや、私を自制することはできなかった。こんなやつに、生きる資格はない。私は、あいつの死を望んだ。他のことは、何も考えなかった。ただ、爆発するような憎しみの感情とともに、ナイフを握りしめると、そのまま、あいつの脇腹めがけて、思い切り突き立てるだけだった」

 語れば語るほど、アヤカは落ち着いていくようだった。僕は、ますます動揺して、もはや、目の前にいるのがアヤカだとは信じられなくなりそうだった。

 「それで、タカユキは、アヤカをかばって逮捕されたのか」

 「そうよ。悲鳴をあげてのたうちまわり、だんだん動けなくなていくノリマサを見て、自分がしたことに気づいて恐ろしくなってナイフを落とした私に、タカユキが体を起こして、這いずるように近づいてきて、言ったの。『これは、俺がやったんだ。俺が刺した。お前がやらなかったら、俺がやってた。お前は、俺を救けるためにあいつを刺したんだ。だから、何も悪くない。これは、俺がやるはずだった。いいか、だから、誰に聞かれても、警察に聞かれても、ソウスケに聞かれても、自分が刺したとは絶対に言うな。俺はどの道、全てを失う運命だ。だから、俺が捕まればいい。犯人は俺だ、俺が、あいつを刺したんだ』 タカユキは、泣きわめくだけの私に、何度も繰り返した。俺だ、俺があいつを刺したんだってーー」

 深い、奈落のような沈黙が続いた。僕に、いったい何が言えただろう? 僕にできるのは、ただ、アヤカの言葉を待つことだけだった。

 「私、本当にカナダへ行くのか、もう少し考えてみる」

 「どうして?」

 「本当は、自首すべきだって思ってるから」

 「でも、それはタカユキの望みじゃないだろ」

 「これは、私の問題よ。目を背けるわけにはいかない」

 「確かに、刺したのはアヤカだけど……」

 「そうじゃない。つまり、これは私の、実存的な問題。私をあのとき動かしたのは、憎しみよ。私はあの瞬間、あいつと変わらないくらい、おぞましい憎しみに満ちた存在だった。そして、まるであいつが私の鏡像だったかのように、私がその鏡を割ってしまったかのように、私は私の姿を見失った。私が私であることを保障していたものが、突然消えてしまった。あいつの肉体に死をもたらしたことが、私の精神に死をもたらしたかのように。今の私には、あいつを否定することができない。だから、逃げるわけにはいかないの」

 「それで、自首をして、罪を償おうってのか? 罪を償うことで、自分と、あいつを、赦せるようになろうとするってことなのか?」

 「……分からない。自分が、いったいどうするべきなのか。そんなに簡単に答えは出せない。だから、もう少し考えてみる」

 僕は、ただ、アヤカを見つめていた。そのとき僕の目の前にいた女性ほど、孤独で、美しいものを、僕は見たことはない。

 別れを告げ、アヤカはこの場を去っていった。彼女の立ち姿は、まるで幻のようで、胸が締め付けられる。僕はもう二度と、同じ人間としてのアヤカに出会うことはないだろう。アヤカは、途方もなく遠いところへ行こうとしている。

 

 アヤカが去った後も、僕はその場を離れることができなかった、呆然と、眼下に広がる街を見つめている。日は暮れかけ、西からの光が差している。僕はひとり、取り残されているような気がした、僕ひとりが、どういうわけか、無傷で、安全な場所にいる。ノリマサも、タカユキも、アヤカも、あんなふうに、ひどく傷ついて、ぼろぼろになり、全てを失っていったというのに。僕ひとりだけが、自分の闘いを持たずに、生きてきたのだと思う。ノリマサも、タカユキも、アヤカも、僕の知らないところで、己の中に、人知れず、闘いを抱えていたのだ。どうして僕だけが、闘いから遠ざけられ、生きていられたのだろう。安全な所にいる僕こそが、もっとも自由から遠かったのではないのか。もっとも惨めなのは、この僕なのだ。僕だけが、自分が生きる場所を保障されている、僕だけが、それに満足しきっていたのではないのか。

 そのとき、突然、僕の中に、怒りが湧き上がってくる。僕は、眼下に広がっている、この街に、急に激しい怒りを感じ始めていた。僕は、僕の中に、今までになかった、僕の闘いを探し出そうとする。そうすればするほど、正体の分からない怒りが、僕の体を熱くしていく。こんな街など消えて無くなってしまえばいい。そんな言葉が、僕の頭の、体の、全体を満たす。僕は上着を脱ぎ捨て、胸を、太陽の光へと開く。赤い光は、まっすぐ僕を射抜いた。赤く燃える空が、街に向かって、轟音を立てて落ちてくる。僕は目を閉じた、光が、まぶたの裏を焼く。ずっとずっと、僕はそこを動かずにいた。

 

 僕はふたたび目を開ける。世界は、すでに闇に包まれていた。けれどもその闇は、白く白く、輝いている。