Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その6

 

 「行ってこいよ」

 先輩から言われるままに悠葦はバンの助手席から降り、荷室から手早く目的の物を見つけると、それこそ放たれた矢のように、家の玄関めがけて飛んで行く。

 __すいませんお届け物です。ここにサインを……あ、ハンコですね、じゃあここに。……ありがとうございました。

 お決まりの会話を手早く済ませて、待機するバンまで走って戻る。家の人とほとんど目を合わせる必要すらない。他人と関わる意欲も技術もない悠葦でも、このくらいはすぐにこなせるようになった。

 「お前、なかなか要領良いじゃねえか」

 先輩の言葉に、悠葦は無言のまま、曖昧な角度で頭を下げて応える。相変わらず孤立して一八歳になるまで生きてきた悠葦には、先輩後輩とか友人とか、そういった関係性においての適切な振る舞いがやはり分からない。

 「まだ十八だっけ?」

 先輩は結構なスピードを出して車を運転し、最短コースで住宅街を走り抜けて行く。限られた時間で、ノルマの荷物をさばかなくてはならない。

 「そうです」

 「高校出たばっかりか」

 「……中退なんで」

 「なんだよ中退かよ。もったいねえ」

 「もったいない?」

 「女との出会いに不自由しねえのなんて、高校までだぜ。大学行くような奴らは違うだろうけどよ。俺も高校出てから、ほとんど出会いなんかねえよ」

 悠葦は黙って聞いている。学校の外に出てから出会った大人はなぜかみんな、車と女とギャンブル以外に話題がない。

 「若いんだからこんな仕事やんなくたって良いだろお前。もっとファミレスとか、女がいそうなバイトいくらでもあるじゃねえか」

 「いや、俺はそういうのできないんで」

 「なんだよそういうのって」

 「接客とか、俺には無理なんで」

 「バカ、苦手でもやってみるんだよとりあえず。続かなくても、女と知り合いになるくらいはできるからよ」

 「手っ取り早く、金が欲しいだけなんで。そういうの、別に良いから」

 しつこく女の話題を続ける先輩の言葉を断ち切るように、悠葦は淡々と返す。

 「金なんか貯めてどうすんだよ」

 先輩はそう言って次の配達先で車を止める。もはや答えを期待していない口調だった、悠葦もまたそれに答えずに車を飛び出して荷物を探し、玄関先まで走って行く。金を貯めるのは、姉が見つかったときに生活資金にするためだった。里親のところは出てしまってもう二度と戻るつもりはない。子供の頃から今に至るまで、友達も恋人もいない、だから他人との付き合いもないし、ギャンブルも風俗も行かない、趣味もない、家賃と食費以外に、金を使うことはない。だから少ない収入でも勝手に金は貯まっていく。悠葦は、人生の喜びも目標も知らない。つまり彼には、楽しむべき現在も、選択肢に溢れた未来もない。過去に失った姉を見つけて二人で生活を始めるということだけが、唯一求め得ることだった。この仕事にしたって、選んだ最大の理由はいろんな場所をめぐることができるからだった。姉と暮らしていた生家からそう遠くないエリアをぐるぐると回っていれば、偶然に姉を見かけることもあるかもしれない、あわよくば、たまたま訪問した家のドアから姉が出てくることもあるかもしれない。浅はかだと他人は笑うかもしれないが、たいして賢いわけでもない一八歳の彼に思いつくのは、せいぜいそのくらいの方法だった。

 物覚えが良かったせいか、一緒にいても全く面白くない人間であるせいか、というかどうやらその両方のせいで、先輩は早々に「こいつもう独りでもやれると思いますよ」と会社に推薦し、悠葦の研修期間はすぐに終わった。だから早速次の日から、悠葦は独りで配達に回ることになる。流石に車の運転には不慣れな部分があったが、とりあえず研修で見たままを真似しながら仕事をこなして行く。体力勝負のような仕事で一日の終わりには体がぐったりすることもあったが、それはあまり苦に感じるほどでもない、彼にとって面倒だったのは、他人とわずかでも関わりを持たずにはいられないタイプの人々だ。必要最低限のやり取りだけでは済ませたい悠葦に対して、ひと言ふた言かけてくる。「いつもご苦労さま」と言って缶コーヒーを手渡してくる人の良い老婆などに出会うこともあったが、「遅えよ! 六時半くらいまでには来るのが当然だろうが」と六時から八時の時間指定ぎりぎりに配達したことに対して独りよがりな文句をつける客に出会うこともあり、もっともっと理不尽なクレームをつけられることも日常茶飯事だった。正直腹も立ったが、ずっと他人から見下されながら、あるいは見下されていると思いながら、どうせ虐待を受けた子供がまともに人間扱いされる人生など望むべくもないと思いながら、そうやって生きてきた悠葦には、いちいち怒るよりはできるだけの対策を立てるほうが良いと判断するだけの冷静さもあって、誰が何曜日のどの時間帯に在宅なのかとか、どんな種類のクレームをつけて来るのかとかを素早く頭に叩き込むと、それを元に最適な配達ルートを構成していく。半年もすれば、完璧にとまではいかなくとも大抵の面倒は避けられるようになった。存外に自分の記憶力は良いのだなと悠葦は思った、常連の顔なども早々に覚えてしまっている。

 その中でも、真っ先に覚えたのが、とある家の少女の顔だった。軽くて振るとかさかさと音のする封筒を持って、市営住宅マンションの階段を三階まで駆け上がりインターホンで呼び出した時、無機質なネイビーカラーのドアを開けて、その少女は出てきた。

 「……はい」

 消え入るような声で、うつむき加減のまま答える。灰白色のコンクリート床のひび割れに視線を添わせながら。学校から帰ったばかりなのか制服を着たままで、デザインからすぐに近くの高校の生徒だと分かる。

 「荷物のお届けにあがりました、ここにサインを」

 自動機械のような喋りをしながら、悠葦はボールペンを差し出す。少女もまた、自動機械のような動きで指定の場所に名字を書く。なんでもないやり取りだった、そのまま悠葦は階段を駆け下り、少女は家のドアを閉ざすはずだった。離れぎわのほんの一瞬、少女は悠葦の顔を見上げ、悠葦は少女の顔を見下ろす。二人の目が合う。色素の薄い茶色い虹彩が光を透いて、浮かび上がるような黒い瞳孔が悠葦の姿を捉えてぎゅっと縮む。何か怯えたようでいて、何かを訴えているようでもある。動作のせいか風のせいか、細い髪の毛の先が白い肌を撫でるように揺れる。まるでマネキンのような少女だった、かすかに動く瞳だけが、そこに生命のあることを告げている。

 「何歳?」

 いきなり、少女は年齢を訪ねる。まるで口の利き方など知らないという様子で。

 「18歳」

 悠葦は答える。ただ一言、必要最低限に、まるで口の利き方など知らないという様子で。

 「私、 16歳」

 悠葦は黙って少女を見る。少女はずっと遠くを見るような目をしていて、互いに見つめ合うような格好なのに、二人の目線は合わない。彼女はまるで遠くへ紙飛行機でも飛ばすように言葉を投げかけている。

 「また、来る?」

 「届けるものが、あれば」

 少女は頷く。満足しているともしていないとも取れる表情で。悠葦はその場にとどまっているわけにはいかなかった、二人の会話はごく短い瞬間で、彼はすぐに車まで駆け戻って行く。互いに、何か感じるものがそこにあったのは間違いない。少女は何も自覚していなかったが、悠葦はそれが何なのか勘付いていた。同じ経験を持つもの同士だけが通じ合う、直感と言っても良いもの。

 __あの少女は、たぶん虐待されている。

 少女の仕草が、目つきが、そう語りかけていた、そしてそのメッセージを、悠葦だけが理解できる。ここにいるけど、ここにはいない、そういう得意な存在感、それはたぶん、あの少女と、かつての自分と、そして姉が持っていたものだ。悠葦は車で、自分の足で、走りながら考えている。なぜあの少女が自分に話しかけてきたのか、自分が少女と共通体験を持っているからといってそれが何だというのか。心の中に眠らせていたものが這い出して来るような不快なざわめきを感じ、ひたすら荷物を運ぶ。やがて体が全てのエネルギーを失い、疲れ切って倒れこむ瞬間をひたすらに待ちながら。

 

 それから一週間ほど、悠葦は配達先によって微妙に変わるコースをぐるぐると回っていた。あれ以来、少女とは一度も会っていない。けれども、その姿はずっと彼の頭の中に留まり続け、無視できない存在になってしまっている。まるで、配達コースの中心を、虚のような彼女の存在が占めており、ただただ自分はその周りをぐるぐると走り回っているのではないかという気がして来る。あるいは電子のように、あるいは惑星のように。市営住宅の横を通り過ぎる際には、自然と少女の姿がないか確認する視線が向いて、時には車のスピードを緩めることさえする。

 車は信号まで、配達先まで、進んでは止まり、進んでは止まりを繰り返す。停車する時、発進するとき、ふとバックミラーを見るたびに、そこにぶら下がったぬいぐるみと目が合う。幼い頃に姉から預かったそのぬいぐるみを、今でもずっと大切に持ったままでいる。姉の姿は、この街のどこにも見つけられずにいる。少女について考えることは、姉のことを思い出させるし、姉について考えることは、少女のことを思い出させる。姉もまた、どこかで誰かにひどい目に合わされているのかもしれない。いつもそんな気がしている。姉はきっとどこかで、自分に救い出されるのを待っているのだ。姉を救い出さなくてはならない、姉を見つけ出さなくてはならない。彼は休むことなく車を走らせ続ける。はたから見れば、とにかく真面目に働く少年だった、本人からすればただ単に、わずかな時間でも長く外を走り回って、姉を見かける可能性を上げようとしているだけでしかなかったのだが。

 

 「てめえ何で勝手に不在票なんか入れてんだよ」

 「いえ……指定の時間帯に二回ほど配達に来たんですが、いなかったみたいなんで」

 「配達できるまで何回でも来い!」

 その日出会い頭にクレームをつけてきた客に慣れない敬語で応対するが、結局30分ほどくどくど怒鳴られてしまう。腹立ち紛れに拳が出そうになるが、中学生の時ボクシングジムでジムメイトを蹴り倒して厄介なことになったのを想い出して感情を抑える。不運が続く日で、そんな出来事から始まって、その後も二つ三つのトラブルとクレームに見舞われた。何か諦念に似た感覚を持っているとはいえ、ここまで理不尽が続くとと世間ずれしきれていない18歳の不安定さが出てしまい、仕事が終わってからもささくれ立った気持ちのまま帰途についた。立ち寄ったコンビニで、せめてもの気休めにと甘ったるい缶コーヒーを手に取りレジに向かったとき、棚に並んだケーキが目につく。しばらくそれを見つめてから、衝動的に手にとって、缶コーヒーと一緒にレジに持っていく。

 ケーキを買って帰ったのは、たぶん、今日が姉の誕生日だったからだ。古アパートの6畳の部屋に入り、床に散らばった漫画と雑誌の上にぽつんと浮かぶ島のような小さなテーブルのガラス板にケーキを乗せて、そばに腰をおろしたまま、じっと動かずにそれを見つめる。ケーキは一つだけだった、テレビドラマのクリシェのように、不在の誰かの為に二つのケーキを用意して一緒に祝う雰囲気を作ろうとしたわけではない。正直、そのケーキが姉のためのものなのか、自分のためのものなのかすら分からない。殺風景で、静かな部屋だった、テレビもない、アパートのそばを通る電車の音がクリアに響いて、冷たい孤独と静寂が、異様に鮮やかな色彩のように浮かび上がる。姉の顔を頭に想い描こうとするが、ささくれ立った心に聞こえてくるのは、今日出会った人間たちが自分をなじる屈辱的な言葉で、それが姉の優しく柔らかいイメージを塗りつぶしてしまう。悠葦はケーキをほとんど握りつぶすかのように持ち上げると、侮辱の言葉ごと飲み込もうとするかのように、自分の喉を塞いで窒息させようとするかのように、それをいきなり口の中にねじ込む。そのまま口を大きく動かして、口の周りを汚しながら、あっという間に買ってきたケーキを食い尽くしてしまった。食べてすぐに、込み上げるような吐き気が襲ってきて、彼は床に寝そべりうずくまる。吐き気は不快でしかたないが、同時に、僥倖と言ってもよかった。不幸で孤独であるほどに、自分を襲う痛みは、救済になってくれる。

 __お姉ちゃん。

 まるで5歳の子供であるかのように、彼は呟いた。その言葉は、鮮やかな静寂の壁にぶつかって、床に転がり崩れて消えてしまう。

 __お姉ちゃん。

 もう一度呟き、消えていく言葉を見つめながら、姉のイメージと痛みを抱え込むようにうずくまったまま、悠葦は眠りに落ちていく。

 

 再び少女の所へ配達に行くことになったのは、それからちょうどまた一週間経ってからだった。通販サイトから送られた小さなダンボールを抱え、階段を駆け上がる。玄関までたどり着いて、まるで見比べるように、部屋番号と宛名と交互に視線を遣る。「真莉亜」と書かれた宛名を見て、母親の名前にしては字面が現代風なので、たぶんあの少女の名前だろうと思う。

 「 あ、また来たね、ホントに」

 ドアを開けて、少女は悠葦を見上げる。

 「自分で注文したんだろ」

 「そうだけど、違う人が来るかも知れないでしょ」

 「今は俺が担当してるから」

 「この前と同じ、私だけが家にいる時間帯」

 「普通に配達してたら、このくらいの時間になる」

 悠葦はそう言ったが、実際には、彼女に会えるよう上手く時間と配達コースをを調節していた。

 「背、高いね。何センチくらい?」

 相変わらずどこか焦点の定まらない目をこちらに向けている。いやに存在感の希薄な少女だった、目を閉じて、開けたら、次の瞬間には消えてしまっている、そんなことがあっても不思議ではない気がする。

 「177センチ」

 質問に答えながら、そういえば、父親も全く同じ身長だったとなぜか急に思い出す。

 「へえ」

 少女は筋肉の生理反射のような笑みを一瞬だけ浮かべて、悠葦の頭に手を伸ばす。玄関に近いキッチンの奥から、かすかに生ゴミのような匂いがした。あまり良い生活環境とは言えないのだろう。それもまた、自分の幼いときの記憶と重なる。

 「どこ住んでるの?」

 再び、少女が質問してくる。けれども、仕事のことを考えれば、これ以上ここにとどまっている暇などない。

 「俺、もう行かないと」

 「そっか」

 残念そうに、少女は目を伏せる。ロボットのような少女だが、その仕草にはとても情感がこもっていた。

 「ねえ」

 離れようとする悠葦を、少女は呼び止める。

 「何?」

 急いた気持ちから少し苛立つような声で、悠葦は応える。

 「名前は?」

 悠葦はなぜなのか自覚のないまま、答えるのに躊躇する。

 「……どうして、俺と話したがるんだ?」

 答える代わりに、質問を返す。

 「どうしてって、分かんない……」

 彼女は照れているのではなく、本当に分からないという顔をする。

 「……悠葦」

 彼は唐突に名前を言う。彼女は顔を上げる。

 「私、真莉亜」

 初めて、少女は彼の目を見つめた。二人の目が合う。その瞬間、悠葦は、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。

 「また、来てよ」

 少女は手を振る。幸福な恋の始まりのような瞬間だった、けれども、悠葦を捉えているのは、どこか苛立ちに近い感情だった。悠葦はいきなり、手を振る少女のその腕を掴む。思いもよらない行動に驚き、すくんで身を固くする彼女の腕を引っ張ると、着ているシャツの袖を乱暴に引っ張り上げる。

 「誰にやられた?」

 悠葦は、少女をにらみつけていた。むき出しになった細くて白い少女の腕には、強い力で握られたような紫色のアザと、誰かに殴られたような青色のアザが並んでいる。

 「……離して」

 弱々しい声を出して、彼女は腕を振りほどこうとするが、向こう見ずな少年の乱暴さで、悠葦はますます力を込めてその腕を握る。そのせいで、血管が透けて見えそうなくらいの肌には、もう一つ、新しいアザが浮かび始めていた。

 「父親か?」

 少女は何も答えない。うつむいて、唇を噛んでいる。はっきりとは見えないが、たぶん目には涙を浮かべていた。

 「離してよお」

 今にも泣き出しそうな声だった。とたんに、悠葦は少女がひどく愛おしいような気がした。

 「俺も、子供の頃、さんざんやられたから」

 おもむろに、悠葦は自分のシャツをまくり上げて、腹を見せる。褐色の肌には、幼い頃にタバコの火を押し付けられてできた、いくつもの白い火傷跡が並んでいる。少女は何も言わずに、腕を掴まれたまま、それを見ている。まるで、時が止まってしまったかのような瞬間だった。けれども、悠葦はこれ以上そこにいるわけにはいかない。

 「また、配達に来るから」

 約束とは言えない約束を残して、彼は少女の手を離し、走り出す。全身が疼いている。彼を支配する感情は、後悔にも似て、喜悦にも似て、熱を放って膨らんでいく。肉体が、眩暈を感じている。彼はその歪みの中を、ただひたすらにまっすぐ走る。

 

 

最後の物語 その7へ続くーー