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Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その10

 (フィリピン海上で発生した台風12号は北上を続け、7日土曜日には南西諸島を通過し、その後西日本へと上陸する見通しです。今日10時現在大型で非常に強い台風となっており、推定値は中心気圧が930ヘクトパスカル、最大瞬間風速70メートルです。このまま上陸すれば大きな被害をもたらす可能性があり、十分な注意が必要です。今後の台風情報にご注意ください)

 あくる日の仕事は、妙に疲れてひどく眠かった。公園脇の道路に車を停めて、ラジオから聞こえるニュースを聞き流しながら仰向けでじっとしている。

 「お父さん!」

 子供の声が聞こえて、悠葦はそちらを見る。自分の息子と同じくらいの年齢の男の子が、道の真ん中に立って手を振っていた。もう一方の手を、母親らしき女性とつないでいる。男の子の視線の先を追うと、そこには父親らしき男性が歩いてきており、男の子に応えて手を振り返す。二人を迎えに来たらしい父親に子供がじゃれついて、父親も笑顔で相手をしてやっていた。そしてその後は、子供を真ん中にして、それぞれ手をつなぎながら、どこかへ帰って行く。テレビCMのような家族を見ながら、きっと家族を作る誰もが、ああいうものを目指しているのだろうと悠葦は思う。ならば自分もああいうものを理想として描いていたのかと言われれば、はっきりとそれは違うと答えるだろう。それなら一体、なぜ自分は家族など持とうと思ったのか。結局のところ、自分は父親のコピーになろうとしただけなのか。確実なのは、そこに選択肢がなかったということだった、人の人生の可能性は無限にあるのだとしても、狭い世界で生きていた自分が子供の頃に直に接していた大人は結局父親だけで、だから自分が現実的な手触りを感じることができた選択肢はそれだけでしかなかった。夢や理想と呼べるようなものを、悠葦は知らない。自分の人生には、いつだって選択肢と呼べるようなものがないのだ。

 __姉を救うことはできなかった。

 大人になって、彼はそんな風に考えるようになっていた。選択肢はなかった、だから、姉はどこかへ消えてしまう運命だった、密かにルームミラーにぶら下げたウサギのぬいぐるみを見る度、心の中でそう繰り返す。念仏のように唱えていると、自分の無力感や罪悪感から来る苦しみや苛立ちから逃れることができる。ずっと姉のことを忘れずに生きて来たはずだったが、今ではそれを忘れようとすらし始めている。姉についてのそれでさえ、少しずつ、家族についての忌まわしい記憶の一部になりかけていた、だから、それらを全て、捨ててしまおうとしている。

 悠葦は短い休憩を終えて、車のエンジンをスタートさせる。ハンドルを握ると、さっきの家族にこのまま突っ込んで、自分も含めて何もかも破滅させてしまいたい衝動に駆られる。だからゆっくりと車をバックさせて方向転換すると、さっきの家族が歩いて行ったのとは正反対の方向へ走り始めた。ひどく恥ずかしい気分だった、それが何に対しての感情なのか分からないが、ただただ、顔を伏せたいくらいに恥じ入っている。

 

 仕事を終えて営業所に戻り、帰宅しようとした悠葦を待っていたかのように、例の同僚の男が外の喫煙所でタバコを吸っていた。二人の目が合うが、互いに何も言わず、そのまま数秒の間があった。

 「悪かったな昨日は」

 不意に、男がそう言う。悪態の一つでもつくのかと身構えていた悠葦にとってそれは奇妙で、返す言葉も見つからずに男を見たままでいる。

 「普段は独り者だからよ、ついつい」

 男はそう続ける。どうして謝ろうとするのか、悠葦には理解不能だった、悪態をつかれてやり返し、ケンカ別れしてそれ以降は口も効かない、それで良かった。自分の非社交的な性質を差し引いても、男の態度はどこかおかしいと思う。

 「独り者だから? なんだよ、人恋しいとでも言うつもりか」

 「そんな嫌味な言い方するなよ。たまには他人と飯を食って喋りたい日が誰にでもあるだろ」

 「俺にはねえよ」

 「無い? じゃあ、なんでお前は結婚して家族を持ったんだ?」

 「……女とヤってガキができた。それだけのことだよ」

 「おいおい、事実はそうだとしても、そりゃ随分身も蓋もない言い方だな。奥さんと真栄くんにも悪いだろ」

 「別に、事実だろ」

 「そうかも分からんけど……じゃあお前にとって家族ってなんだよ」

 悠葦はそこで言葉に詰まる。家族について感情的な部分で思うことはあれこれあるが、理屈の部分でそれが何かという定義について考えたことは、自分にはただの一度も無いのだ、とそこで初めて気づく。

 「……何でも無いな」

 「何でも無い?」

 「空洞だよ。俺にとって家族は、がらんとして何も詰まってない」

 男は、一瞬だけ怯えたような目をする。悠葦の言い方は、とても乾いて、冷たくて、空虚だった。

 「なんだよそれ、カッコつけてんのか?」

 「率直に、そう思ってる、いや、そう感じてる」

 それを捨て台詞にして、悠葦は男の目の前から歩いて去っていく。男は唖然とした表情をしていたが、それ以上声をかけてくることもなかった。

 

 それから三日後の夜、いつもの時間に家に帰った悠葦だったが、いつもと違って妻が家に居なかった。部屋の中へ入っていくと、青白い蛍光灯の光の下で、薄汚れたおもちゃを握った息子が、不器用な手つきで遊んでいる。その鈍臭い姿には、いつもどこか彼をイラつかせるものがある。

 「おい」

 呼んだ瞬間、息子は身をすくませて、強張った手からおもちゃを落とす。父親に殴られることに怯えきって、声を聞くだけでも体を固くしてしまう。かつて同じように殴られ続けていた悠葦だが、別にそれに対してなんの同情もしない。自分はもっとましだった、と思う。殴られても殴られても、いつか必ずこいつを殺してやるんだという復讐心を燃やし続けていた。実際はどうあれ、少なくとも大人になって形成された彼の記憶の中では、幼い彼は小さい体にそういう満腔の反骨精神を宿していた。そして、自分は息子より優れているのだというその考えには、彼をどこか安堵させるものがある。彼にとって、息子は自分より劣っているべき存在だった。

 「あいつはどこへ行ったんだ」

 「……買い物」

 「買い物? それならもう帰ってる時間だろ」

 「……」

 「何黙ってんだよ」

 「……遅くなるって言ってた」

 「遅くなるって何でだよ」

 「……」

 「おい」

 息子はますます身をすくませて、少しずつ壁際までにじり寄って逃げようとする。そして今にも泣き出しそうな顔で、か細い声を絞り出す。

 「……知らない」

 「あ?」

 「分かんない」

 「何で分かんねえんだよ?」

 「……だって」

 衝動的に、悠葦は息子の胸ぐらを掴む。ひぃひぃとか細く息を吐きながら、目には涙をにじませ、息子は訪れる暴力に虚しく身構えている。

 「だって?」

 「だって……本当に知らない」

 言い終わると同時に、悠葦の平手が息子の頭を殴打する。息子はその場に崩れ落ち、頭を押さえて荒く息を繰り返す。泣くのを我慢していた、泣けば、泣き止むまでもっともっと殴られる。その姿を見ながら、悠葦はそれが何かひどく滑稽に見えてきて思わず噴き出す。急に許してもらえたの だと期待したのか、息子は顔を上げる。けれども、悠葦は悪意に満ちた笑みを浮かべながら、もう一度殴る。そして、二度、三度。とうとう泣き出してしまうが、悠葦は息子の顔面を掴んで泣き声を封じ込める。息子の弱さが、彼の嗜虐性を刺激する。

 その時、玄関のドアが開いた、物音と気配で妻が帰ってきたのだとわかる。部屋に入って来た妻は、顔を押さえられた息子を発見して息を呑む。

 「どこへ行ってた?」

 「どこって、買い物」

 「いつもより遅い」

 「今日は、スーパー以外にも行く店があったから」

 「店?」

 悠葦は妻に近づくと、襟首をつかんで押さえつける。

 「痛いっ」

 「どこの店だ」

 「どこって……」

 「言えよ」

 悠葦は手に力を込め、痛がる妻に一つ一つ今日行った店の名前を挙げさせる。支配欲が満たされるに従い、情欲が頭をもたげてきて、彼はお決まりのように妻を風呂場まで連れて行こうとする。

 「……やめて」

 絞り出すような声とともに、妻は自らを支配する悠葦の腕に抵抗しようとする。悠葦はそれに驚いて動きを止めると、じっと妻の顔を見つめる。今までならば、確かに妻は進んで従うそぶりを見せることはなかったが、しかし抵抗するそぶりを見せることもなかった。まるで性処理の人形のように力なく悠葦にされるがままだったのに、初めて彼女は意思を示している。それは、彼の世界に突然闖入した異物のように映った、それは彼の奥底にある他者への怯えの感情を揺さぶり、神経を逆撫でする。家庭は彼の箱庭で、そこに、彼に逆らう者など、存在して良いはずがない。

 「てめえ!」

 怒鳴り声と同時に、彼は妻の顔を殴りつけていた。その体は背後のドアに激しくぶつかって大きな音を立て、そしてそのまま床へ崩れ落ちる。頭を押さえて、妻はうずくまった、それがまるで彼から身を守ることで抵抗を試みているように見えて、悠葦はますます怒りを募らせ、妻の髪の毛を引っ張って顔を起こす。痛みと恐怖で喘ぐ妻を見ると、ドアノブで打ったのかその額からは赤い血が滴っている。そこまで相手を傷つけるつもりはなかった、彼はかすかに狼狽したが、それでも髪の毛を掴む手を話そうとはしない。彼は恐怖を感じていた、妻が、自分の目の前から消えてしまうような感じがしたのだ。あの日、姉が消えてしまった時の記憶が鮮明に蘇り、失うことの恐怖が、吐瀉物のように腹の底からせり上がってくる。彼は必死で妻の髪の毛を押さえつけ、彼女がもがく度、動きを止めようと殴りつける。動きを止めなければ、彼女が目の前から消えてしまう。彼は恐怖に支配され、パニックを起こしている。その時、背後から火のついたような息子の泣き声が聞こえた。

 「静かにしろ!」

 彼は叫んだが、息子は泣き止まない。息子もまた、感じたことのない恐怖でパニックになっていた、息子の目には、父親が母親をなぶって殺そうとしているように見えていた。近所の人間に聞かれて、警察だの児童相談所だのに通報されては困ると思い、舌打ちをしてやむなく妻から手を離すと、悠葦は息子に近づいて行く。そして再び息子の顔面を鷲掴みにすると、泣き声をあげられなくなるまで締め上げる。殺してしまいかねないほどに、強く強く力を込めていく。もはや彼は、自分で自分を制御できそうもない。鬱血して色が変わっていく息子の顔をただただ眺めているだけだった彼の背中に何かがぶつかってきて、彼はよろめく。それは彼の妻で、必死に彼の手から息子を取り返してくる。乾いた血で額をべとつかせている妻は泣き声を上げながら、顔面蒼白になっている息子を抱きしめていた。彼は動きを止める、そしてそれ以上二人に危害を加えることはなかった、そこでようやく、彼は自分が危うく二人を殺してしまうところだったことに気づいた。目の前の母親と抱きしめられる息子は、まるで一つの存在のようで、それゆえに、自分たち以外のものから閉じている。その母と子の結びつきが、まるで自分を排除しているようで悠葦はたまらなく不快な気分になるが、彼はそれでも動けない。妻の姿はまるで、自分を庇おうとした、姉のようだった。感情はどんどん複雑なものになっていき、彼は去来するものを眺めるようにしている、そうしていると、少しずつ、自分が自分から切り離されているかのような感覚__幼い頃、父親に殴られていた自分を守っていたあの感覚が、甦ってくる。

 

 「おい、あいつどこにいるか知らねえか?」

 珍しく、営業所の所長が悠葦に話しかけてきたかと思うと、そんなことを尋ねられた。

 「あいつ?」

 「あいつだよ。お前ら一緒にパチンコとか言ってんだろ」

 どうやら、あの男のことを聞いているらしい。

 「知りません。たまにあいつが誘ってくるだけで、俺から連絡とって誘うことなんかないし」

 「本当かよ。参ったな、あいつ昨日から急に行方不明なんだよ」

 「行方不明?」

 「仕事中にだよ。会社の車に乗ったまんま、どっかに消えやがった。消えるなら、終わった後に自分の車で消えろってんだよ。こんなことされると俺のカントクセキニンが問われる」

 そう言って所長は奥に引っ込んだかと思うとまた帰ってきて、悠葦にメモ書きを手渡してくる。

 「あいつの住所だよ。お前、ちょっと行ってきてくれ」

 所長にそう言われて、悠葦は仕事を午前中で切り上げると、受け取ったメモに書かれた住所に向かって車を走らせた。毎日単調な仕事をやって、その退屈さをギャンブルへの依存で誤魔化すようことの繰り返しの日々が嫌になったのだろうが、わざわざ仕事中に消えるようなことをしなくても良さそうなものだと思う。帰宅後にこっそり消える方が発見もされにくいだろうに。そんなことを考えながら、悠葦はハンドルを操作する。

 男の住所には、築40年は超えているであろうマンションが立っていた、雨風で黒く汚れ切ったコンクリートの壁が、家賃の安さを物語る。鳩の糞で汚れた階段を上がり、3階にある男の部屋のドアをノックする。1度2度と叩いても、3度4度と叩いても、案の定男は出てこない。郵便受けに突っ込まれた数枚のチラシが、近づく台風の風にあおられてガサガサと音を立て、男がしばらく帰っていないことを知らせているようだった。無駄足だったなと思いながらも、悠葦はじっとドアを見つめている。何か妙な感じがした、直感でしかなかったが、そこに誰かがいるような気がしていた。もう一度だけ、ドアをノックする。その瞬間、小さくて短い、子供の声を聞いた気がした。耳を近づけ、ドア越しに音を聞こうとする。何も聞こえてはこない、だが、ドアを隔てたそこに、息を殺して自分の様子を窺う、誰かが存在しているような感じがする。

 「誰かいるのか?」

 声を出してみる。当然、返事はない。しばらくそこでじっと待ってみるが、やがて、悠葦は踵を返す。たとえそこに誰かいるとしても、自分に何の関係があるのか。会社に義理立てするような動機もないので、必死になって男を探そうとも思わない。あいつが消えたいのなら、好きにすればいい。そのまま、悠葦は階段を降りると、車に乗り込んで、エンジンをスタートさせる。

 

 

最後の物語 その11へ続くーー