Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

『君を想う、死神降る荒野で』 その19

 

 墟。そこは確かに廃墟だったが、かつての超高級住宅街だけあって、建ち並ぶ家はどれも豪華で美しいデザインになっている、それだけでなく、大きさもかなりのもので、しばらく歩かないとその全体像が分からないくらいだった。建物自体は全く風化していない。ただ、その場にいた人々が消え去り、時が止まってしまい、このまま何百年も同じ姿のままでいようとするかのように、東京ヘブンズゲイトはそこにあった。鮮明に耳に届く歌は、空間に染み込む香水のように、柔らかなヒダのように、街全体を覆っている。街中を歩くたび、空気が重いガレキのように動いて、顔や足元にまとわりつく。その空気はやたらに濃密で、息をすると胸がふさがりそうになる。調査団の全員が無言だった。本当にあの世に来たかのような現実離れした世界に全員が圧倒されていた、そして同時に、それぞれがこの街についてあれこれと考えないわけにはいかなかった、そうしなければ、自分の精神のバランスを失いそうになるのだ。完璧すぎる状態で状態が維持されているために、今この瞬間、目の前から人が現れてもおかしくないような街なのに、凍りついたような静寂が広がる。まるで、無数の人々が入り乱れる都会の雑踏に立って、一瞬目を閉じて、再び開けると、もうその瞬間には忽然と誰もいなくなってしまっていたかのような不気味な孤独と喪失感を、調査団の全員が抱えていた。調査団の誰もが、他のメンバーにすり寄るような近さをキープして歩いた、もし集団から離れれば、そのままこの街に飲まれて、かつての住人のように消えてしまいそうな気がするのだ。

 誰も、何も言わない。あいかわらず、全員が無言のまま歩いていた。だが、誰が案内するでもなく、調査団はまっすぐ、その街の中心部を目指して進んでいる。この東京ヘブンズゲイトで最も大きな邸宅、この空虚の中心、柔らかで優しい歌が聞こえてくる場所。

 ――何か、妙だな……。

 ゼロシキは他のメンバーの横を歩きながら、さっきからかすかに頭の中に生まれ、そして広がってくる違和感に苦しみ始めていた。そこで種火が燃えているかのように、頭の奥が熱くなってきていた。ひりひりとして、焦げ付くように、神経がうずいている、そしてそれは、歌が次第にクリアに響くにつれて、その症状を悪化させている。

 ――まさか、俺がこの歌に影響を受けているのか?

 頭を押さえながら、ゼロシキはそのことを疑い始めていた。あるいは、この歌のせいでタチバナみたいに記憶を強制的に引き出され、自分の奥に眠ってほとんど消えたようになっていたそれがよみがえろうとしているとでもいうのだろうか。はっきりとはしない、それは未だ、具体的なイメージを持ってすらいなかった。もちろん、単に体調が悪いだけなのかもしれない。自分に何が起きているのか見当もつかず、ゼロシキは徐々に混乱しだしていた。ふと、一瞬だけ、心配そうな顔をしているタチバナと目が合う。どうもタチバナは、ゼロシキの身に何か異常が生じ始めていることを敏感に察知しているようだった。それに気づいて、ゼロシキは急いで目をそらし、頭を押さえるのをやめて平静を装う。ここでタチバナに感情を揺さぶられでもすれば、症状が悪化しそうな気がして、ゼロシキはその視線を振り切るかのように歩みを進めた。

 とうとう邸宅の前にたどり着いた調査団は、そこでまた異様な光景を目にすることになる。邸宅の入り口から奥の庭園へ続く遊歩道は、遠目には美しい曲線を描くガラスの双璧に囲われている。うろこのように一枚一枚貼り合わされたガラスは、光の屈折の加減により赤や黄や緑に輝き、まるで虹を織ってできた布が、そよ風でかすかに揺れているかのように見える。甘く幻想的な光景に、調査団のメンバーは魅入られてしまい、誰もが夢のなかにいるように、うっとりした目でそれを眺めていた。だが、ゼロシキだけは、そこに渦巻いているただならぬ雰囲気を感じ取り、じっと、ガラスの壁を観察する目に鋭さを保っていた。

 「……中に、何かいる」

 とうとうその異様さの正体をつきとめ、ゼロシキが声を漏らす。美しいガラスの皮膜、その奥に隠れていたのは、死神だった。一匹や二匹というレベルではない、邸宅の中を延々とうねる、見上げるほど背の高いガラスの壁の奥にびっしりと敷き詰められたように、死神が隠れているのだ。遅れて気付いた調査団の数人がほとんど失神しそうなくらい青ざめて悲鳴を上げてしまう。

 「落ち着け」

 ゼロシキが取り乱したメンバーに声をかける。そう、慌てる必要はなかった。よく見れば、そのガラスの壁に閉じ込められている死神たちは、全く動いていないのだ。まるで眠っているか、よくできた標本を置いてあるのだとさえ思えるほど、死神は活動する気配を持っていなかった。

 「これはいったい……?」

 全員が首をかしげていた。病院の新生児室みたいだ、と誰かが言う。確かに、ガラスの壁の中の死神たちは、病院で生まれたての赤ん坊たちのように、決められたスペースに収まって、じっと動かずに並べられている。もしかすると、本当に生まれたてなのかもしれない、とゼロシキはふと考えてみる。無尽蔵に塔の頂上から降ってくる死神は、もしかしたらここで生まれているのかもしれないのだ。そして、その可能性は充分にあった。いったいどういうプロセスになっているのかは推測できないが、新しく生まれた死神が、ここでしばらく目覚めを待つのだろうか。ガラスの皮膜に近づき、つぶさに、ゼロシキは死神を観察してみる。空洞が穿たれた仮面、白装束、大事なものを抱きかかえるように大鎌を持ったまま、廃墟と同じ様に止まってしまった時の中にいるかのように、死神はガラスの壁に埋め込まれている。いつも見ている死神には、特に目新しいところはないはずだった。しかし、ゼロシキは、何か心の奥に引っかかるものを感じた。間違いなくいつもの死神なのに目を離すことができない、自分の直感のようなものが、もっとよく見ろと警告しているようだった。

 ――あ。

 違和感の正体に気付いた瞬間、ゼロシキは思わず声を上げそうになる。いつもの死神、だが、いつもは戦いの中で抹消することしか考えず、こんなにじっくり観察したことがなかったせいで気付かなかった。ゼロシキは死神のひたいに釘付けになる、真ん中にピンで刺したようにほんの小さな穴が空いており、そこから赤いチップがのぞいていたのだ。そのチップは、まぎれもなく、あの首のない少年の死体のひとつひとつに埋め込まれていたものと全く同じだった。つまり、あの少年たちの死体と、東京ヘブンズゲイトから襲いかかってくる死神たちとの間には、何らかのつながりが、それも並々ならない、密接なつながりがあるということなのだ。思わず、ガラスの壁に手を突き、ゼロシキは死神の仮面に見入る。目と口のような、三つの空洞、そして、ひたいの赤いチップ。

 光のゆらぎによって、オパールの影が落ちたように皮膜が輝く、その瞬間、ゼロシキの頭に妙ななつかしさがあふれた。

 ――いったい、これは何なんだ?

 なつかしいという感覚は、普通の人間と違いゼロシキにとってほとんど異常に近いもので、ゼロシキを苦しめていた頭の中の違和感は、とうとう苦痛へと昇華されてしまう。ゼロシキはガラスの壁に手を突いたまま、頭を抱え、崩れ落ちそうになる体をどうにか支える。頭が、どうしようもなく痛かった。それでも、どうにか顔を上げようとする。目の前には死神、じっと、氷の中に閉じこめられたように動かなかったはずの死神。だが、苦しむゼロシキを見て喜ぶかのように、その死神が笑いかけてくる。自分から遊離しはじめていた虚無を、根こそぎ吸い取られてしまったような感覚がゼロシキを襲う。それは幻覚だったのかもしれない、だが、ゼロシキは、確かに自分をあざ笑った死神を睨みつけ、脂汗を垂らしながらも《機械》をかまえようと歯を食いしばった。それなのに力が入らない、もはや限界だった。圧搾機に頭を潰されているような痛みと重さに耐えかねて、とうとう、ゼロシキはゆっくりとその場に崩れ落ちていく。ガラスの壁に寄りかかりながら、ずるずるとへたり込み、頭を抱え、うめき声を上げてしまう。

 「ゼロシキ?」

 ずっとゼロシキを見ていたタチバナが、それに気づいて素早く駆け寄ってくる。

 ――俺に近づくな……!

 声を上げ、タチバナを振り払おうとするが、もはや完全に体の力を奪われたゼロシキには、どうすることもできなかった。歌が、頭の中に突き刺さり、ひどい音で響いてくる、まるで頭をドラム缶につっこんでその上からバットで殴られているような感じだった。

 「ねえ、大丈夫?」

 タチバナが横に座って、ゼロシキの肩に手を置く。他の調査団のメンバーたちは、何が起きているのかよく分からず、遠巻きに眺めているだけだった。

 「すまない……急に頭が痛くなっただけだ……。少し休めば……どうにかなる」

 声を振り絞り、ゼロシキは何とか言葉を発する。

 「しかし、我々はそこまで調査に時間をかけるわけにもいかない。それに、ここは死神だらけで、いくら動かないとはいえここで立ち止まるのは危険だ」

 調査団の一人がそう言うと、他のメンバーたちもうなずいていた。

 「……かまわない……俺は、しばらくここにいる……調査を……続けてくれ」

 ゼロシキの言葉に調査団のメンバーたちは特に反応を示さなかった、言われなくてもそうするという様子でいる。

 「じゃあ、このまま我々は邸宅の内部へ向かうんで、君は調子が戻ったら後を追ってくれ」

 案内役の男がゼロシキに声をかけると、調査団の全員が死神に埋め尽くされた壁から逃げるように、すごすごとした動作で邸宅の方へと進んでいく。ただ、タチバナ一人だけは、ゼロシキの横に座ったままでいる。ゼロシキは「お前も行けよ」と目で合図を送ったが、タチバナは黙って首を横に振り、ひどく痛むゼロシキの頭をいたわるようにして、そのひたいに手を触れた。その手は柔らかく暖かで、ほんの少し痛みが和らぐような気がする。タチバナにそんなふうにされることを望んではいない、だが、今襲いかかってくる痛みは救いようがないほどの苦しみをもたらし、そこから解放されたいという思いが勝ってしまう。タチバナは何か話しかけたそうにしながらも、それが痛みに苦しむゼロシキには重荷になることを知っており、じっと黙ったままそこに座って、ひたいに手を置いている。

 「……声が聞こえる」

 震える唇をゆっくり動かして、ゼロシキが呟く。

 「声?」

 「頭の中で、……声がするんだ」

 「どんな?」

 ゼロシキは分からないと首を横に振る。本当は、はっきりとその声が聞こえていたが、あえてそれをタチバナに言う気にはならなかった。――お前さえ生まれてこなければ……! というあの声だ。おそらく中年の女の、あざけりと憎悪のこもった声。確かに、自分はこの声とこの言葉を聞いたことがある、とゼロシキは思う。しかし、ゼロシキの記憶を封じるフタは強固で、それをこじ開けようと侵入してくるこの歌の力をもってしても、依然として闇の奥に沈んだままでいる。

 「これ」

 タチバナが、歌を防ぐための例の特殊な耳栓の、予備として持っていた分を差し出す。ゼロシキはそれを見て、いらないと手を振る。おそらく、それは自分にとって歌が聞こえているかどうかの問題ではないのだとゼロシキは考えていた。結局、自分の中に生まれた亀裂がどんどん広がっているだけで、根本的な解決のためにはむしろそれに向き合わなければならない。だが、どうやって? それがゼロシキには分からなかった。だから、今は必死で痛みに耐えながらも、それを受け止め、自分の虚無と、あるいはそれをかき消そうとする何かと、その正体を、たとえ手探りであってもつきとめるしかないのだ。再び、タチバナがゼロシキのひたいに手を触れる。ゼロシキはもう、それを振り払おうという考えを捨て始めていた。もし、タチバナが自分の虚無をかき乱すのならば、それはしょせん自分の虚無が不完全であるからで、それをどうにかしたければ、完璧な虚無を手に入れるか、あるいは別の何かを探すしか無いのだ。別の何か、とはいったい何なんだろう、ゼロシキはどうにもならない状態のまま、ただ、サンドバッグのように、頭を打ち抜く痛みにその身をさらし続けていた。

 

 遠くから、ほんのわずかな音量の、耳をくすぐるような悲鳴を聞いた気がして、ゼロシキとタチバナは首をかしげていた。続いて、廃墟に満ちていた静寂を叩き壊すような振動が襲いかかってくる、驚いてその振動の発生源である邸宅の方向を見た二人が、そこで起きている事態を察知するのに時間はかからなかった。濃醇な緑をたたえる木々の奥に見える白い邸宅の上に、巨大な死神が浮かんでいる。八つの首、無数の触手、ゼロシキを死の間際まで追い詰めた、あの死神だった。邸宅に向かった調査団の前に突如現れ、そして虐殺を開始したのだ。まだ戦いは続いているのだろうか、死神の触手がゆっくりと、何かをもてあそぶようにうごめいたままになっている。そして、歌はいつのまにか止んでいた。それに呼応するように、ガラスの壁、ゼロシキとタチバナを囲むその皮膜が妖しく光を放ったかと思うと、いつのまにか壁の中にいた死神が、かすかに震える程度ではあったが、徐々に動き始めている。状況が一変していた、明らかに、このままゆっくり休んでいられそうにはない。

 「くそ!」

 まだ鈍く痛む頭をかかえながらも、ゼロシキは立ち上がって《機械》を構えようとする。体は重いままだった、しかし、ゼロシキは戦うつもりでいる、今度あの死神とあったら、死力を尽くして戦うのだという決意を、変える気はなかった。ゼロシキは思うようにならない《機械》を、ゆっくりとしたスピードで武器に変化させようともがく。体の一部のようだった《機械》は、もはや手枷のように、自由を奪うものにすら感じられた。ゼロシキはうまくいかないもどかしさに歯を食いしばり、それでも、何とか走りだそうと足に力を込める。だが、その時、ゼロシキの手首をタチバナがつかむ。

 「どうした?」

 タチバナは無言で首を横に振った。

 「邪魔するな。怖じけづいたのか? 死ぬのを恐れてもしょうがないだろう。俺たちに生きのびる理由なんかない、俺たちは単なる戦いの道具でしかないんだぞ」

 ゼロシキは力の入らない手首を振って、タチバナの手を振りほどこうとするが、タチバナは断固とした態度で、必死で力を入れ、その手を離そうとはしない。

 「逃げよう」

 「は?」

 「逃げるの。ここで死ぬべきじゃない」

 「どこで死んでも一緒だ」

 「正確に言うよ。あなたも私も、この戦いのために死ぬべきじゃない」

 「どういう意味だ? 俺たちが死ぬ理由はあっても、生きる理由なんかないんだぞ?」

 「理由なんかいらない。私は生きていたいし、あなたにも生きていてほしい」

 「急にどうした? 何を馬鹿なことを言ってるんだ」

 「馬鹿げていてもいい。私はそうしたいの。そして、私はそうしなければならないの」

 「よく分からんな。とにかくその手を離せ。俺は行かなきゃならない」

 「行かせない」

 「なぜだ?」

 「救けたいの、あなたを」

 「俺に救いなんかない。強いて言うなら、戦いの中で死ぬことだけが救いだ」

 「それは救いなんかじゃない」

 「いいかげんに……」

 怒鳴りかけた瞬間、ゼロシキの頭に再び強烈な頭痛が戻ってくる、脳髄を圧搾されるような苦しみに、ほとんど気を失いかけたゼロシキは、バランスを崩してへたり込む。それを見たタチバナが、《機械》を変形させて楕円を半分にしたようなベッドを作り、ゼロシキの体を支えた。

 「くそ……いったい……何のつもりだ……」

 タチバナは何も言わずに《機械》を操って、力の抜けたゼロシキの体をエレベーターまで運んでいく。八つの首の死神は調査団をなぶり殺しにしながらも、こちらに襲いかかってこようとはしなかった。ガラスの壁の中でも慌ただしい死神の気配がしていたが、外野からヤジを飛ばすような気配でしかなく、二人を攻撃しようとする様子はなかった。タチバナは振り返らず、一直線に道を走り、ゼロシキの体を運んでいく。ゼロシキは、ひどい寒気と痛みで幼い子供のように無力に震えていた。頭の中では、あの中年の女の、自分をあざけり憎悪する声が何度も何度も反響していた。何もかも、もうわけが分からない。これ以上無いほど、最悪の気分だった。

 

 

『君を想う、死神降る荒野で』 その20へつづく――