Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その11

 はだんだんと強くなり、遠くからたたなづく薄墨色の雲はまたたく間にカラスの大群のように真っ黒になって広がる。道は混んでいて、赤信号に何度も捕まった。家までまだ15分はかかるだろうかというタイミングで、空がひび割れるような雷の音がして、どろっとした白味のように重い雨の粒が天から一斉に落ちてくる。激しい雨の打擲の音が車の屋根で鳴り続ける。断続的に突風が吹くと、雨粒は弾丸のように車のフロントガラスにぶつかり、血しぶきのように散る。なんとなく楽観的に天気が持つような気がしていたが、荒ぶる台風に捕らえられてしまったようだった。悠葦は舌打ちをしたが、虚しく雨音にかき消される。

 家に帰って玄関のドアに鍵をさして解錠しようとしたところで、鍵がかかっていないことに気づく。家人の不用心に腹を立てて、わざと勢いよくドアを開け放って中へ入る。反動で帰って来たドアが、悠葦の背後で閉まったとき、いやに良く音が響いた、まるで、家の中に誰もいないかのように。部屋の中はとても静かだった、静かだけなら良いが、気配すらない。そこで初めて違和感を覚え、中を観察するようにじっと見る。

 「おい!」

 威嚇するように、彼は大きな声を出した。しかし、それはドアと同じように、がらんとした空間で響く。

 __ここには、誰も、いない。

 彼は見るより先ににそれを直感して、部屋の中へ飛び込む。そしてただ、自分の直感が正しいことを確認する。本当にそこには、誰もいない。乱暴に家族の服を詰め込んであるクローゼットを開けると、妻がいつも使っているバッグと、服が数着無くなっている。引き出しも漁ってみるが、息子の服も、妻の下着も消え失せていた。何が起きたかをようやく理解して、彼は腹立ちに任せ、残った妻の服を引っ張り出すと、力いっぱい床に叩きつける。逃げやがった__。

 「逃げやがった!」

 彼は一人で大きな声を出し、玄関の外へ飛び出す。何のあてもないくせに、アパートを出て、目の前の道を走って行く。雨風に打たれ、ずぶ濡れの異様な風体になりながら、闇雲に突き進む。当然ながら、妻子の姿などそんな近くに見当たるはずもない。とうとう彼は立ちすくんで、正面から矢のように叩きつける雨を全身に受けながら、はるか道の先、妻子が逃げていった道の先、を睨みつける。彼にそうさせていたのは、家族への執着というよりも、姉の喪失の記憶だった。

 「また、いなくなった__」

 まるで抑圧しようとした姉の記憶が、現実の現象となって回帰したかのように、妻子が消えてしまった。彼は訳のわからない叫び声をあげた、どこにいるのかもまるで分からない、失踪した姉へと向けて、叫び声をあげる。この地に繰り返し訪れる地響きが台風に呼応するように、街を囲んでいる山を揺らし、その軋みがが足元へ伝わる。そのとき彼は、憎悪の塊だった、いったい誰に向けた憎悪なのかも分からず、あるいはこの世の全ての者へ向かう憎悪を、彼は全身の毛穴から噴き出してしまいそうなほどみなぎらせている。

 

 妻子がいなくなったということを、彼は誰にも言わなかった、何くわぬ顔で仕事へ向かい、飯を食い、また家に帰る。ただ、彼は帰途において、あの男のマンションに立ち寄り、そこで30分ほど停車して様子を伺いながら、一度だけ、男に電話を入れる。

 __どうしてあいつは、息子の名前を知っていたのか。

 妻子がいなくなった後、彼は遅まきながらそのことに疑問を持った、「真栄くん」とあいつは言った、息子の名前を読んだ。あの食卓では、息子はただ黙って座っていただけで、特に名前を言う機会もなかった、もちろん、自分からあの男に息子の話をしたこともない。まさかとは思いつつ、男と妻子が一緒に逃げたような気がしてならない。出会ってたった一週間たらずで、男と女が一緒に逃げる? 馬鹿げた話だった、だが、妻ならやりかねない、そのことも分かっている。あれはそういう女だ、と悠葦は思う。かつて、自分もまた、たった二度会っただけの彼女を連れ出したのだから。人は同じことを繰り返す生き物だ、それが常識から外れていれば外れているほどに、それを繰り返したいという衝動は強くなる。

 一週間ほど、毎日男のマンションを訪れ、様子を窺った、もとより男と妻子を見つけられるなどとは思っていなかった、ただ、そうでもしなければ、気持ちが落ち着きそうになかった。だから、その日も同じようにもう切り上げて帰ろうとした時だった、マンションの階段を、誰かが周囲を気にする様子で降りてくる。まさかと思い、じっと目を凝らした悠葦は、思わず噴き出しそうになる。そのまさかの、あの男が、黒バッグを抱えて、駐車場に止めてある車めがけて走って行く。流石に失踪した時に乗っていた仕事の車ではなかったが、悠葦はその車に見覚えがあった。男は一人のようだった、慌てて逃げるように、車のエンジンを抱えてさっさと発進させる。やはり思い過ごしで、男はただ単に、例えば借金だとかそういう理由で一人で逃げただけなのだろうか。そんなことも考えてみるが、まだ確証はないので、彼もまた車を発進させ、男の後をつけることにする。

 間に一台車を挟みながら、悠葦は男を尾行する。さすがに真後ろならバレそうなものだが、これなら全く気づく様子はない。男の車はただただ、国道をまっすぐ走って行く。わずかな距離を移動する、と言う感じではない。男の車は止まる様子はなく、普段の生活圏となるようなエリアを超えて進む。悠葦は、かつて自分が妻を連れてあてもなく走り続けた時のことを思い出す。あの時見えていた、淡く光り輝く世界の、この上なく生々しい手触りを、あれから自分は一度も体験できていない。もし男が妻子と逃げているのだとしたら、今その感覚を味わっているかもしれない。それはまるで、生きている動物の胸腹を真一文字に裂いて、まだ鼓動する心臓に直接触れたかのような、そういう暖かく血なまぐさい感覚だった、人をバットで殴って血まみれにして、女を連れて逃げたあの瞬間ほど、自分にとって確かな実存の経験はない。それから2時間ほど車は走り続け、ついには県境をまたぐ。そこでようやく男は道から外れ、坂の上にある住宅街へと入って行く。並んでいる家は40年ほど前くらいに建てられたようなものばかりで、新しい家はほとんどない。そして男が停車したのは、やはり40年ほど前に立てられただろう、四角い箱と呼ぶのにぴったりなマンション群の中にある駐車場だった。車から出てきた男は、さっきとはうって変わって安堵したような表情をしている。どういう経緯かは知らないが、ここに住んでいるらしい。もともと住んでいたマンションと、全く同じような雰囲気の場所だった、それを見て、あの男は定住することを苦に思わない人間なのだと理解する。妻もまた、よくもまあそんな男と逃げたものだと思う。何の証拠もなかったが、すでに悠葦はそれを直感していた、自分もまた車から降り、男への尾行を続ける。 エレベーターの無いマンションの階段を上がり、3階まで来た男は、奥の方へ進み、一つのドアをノックする。中から出て来た子供を見て、「ああやっぱり」と悠葦は思う。間違いなく自分の息子だった、だから当然、妻もあのドアの向こうにいるのだ。息子は笑顔だった、男も笑っていた。証拠を押さえたら、男を殴り倒して妻子を連れ戻そうという気持ちさえあったのに、それを目撃した瞬間、自分が不可解なほど冷静になっていくのを感じた、本当は、この光景を見たがっていたような気すらしてくる。妻が自分の前から消えることを恐れながら、姉の喪失の反復をどこかで求めていたという矛盾を、彼は抱えていた。屈辱と怒りと、それを覆い尽くして余りある安堵感。凍傷を起こしてしまいそうなほど冷たい孤独で体をひりつかせながら、ゆっくりと彼は帰っていく。これからどうしようか、と思う。悠葦はここからどこにも行けないような感じがしている、もはや自分の家ですら、自分が帰って良い場所ではないような、そういう感覚がして、車を発進させると、そのまま家があるのとは反対方向へ向かって走り始める。

 

 結局、彼は家に帰らなかった、一晩車中泊を経て、次の日の仕事にも行かず、再び走った。そしてもう一晩寝てから、また走り、そしてまた一晩。

 __俺は、たぶん、家族について、何かの期待を抱いていた。

 朝起きた彼は、突如そう思った。そこで初めて、自分が絶望していることに気づく。家族に対する強烈な否定感情と同時に、それに対する無自覚な依存というアンビバレンスが、自分の知らないところで、自分を引き裂いていたのだと思い至る。しかし、いったい何を期待していたというのか。幸福? 愛情? それを素直にそう呼ぶことはできないと思った、強いて表現するなら、自分に植え付けられた欠落感を、埋めてくれる何かだった。「失敗した」家族に生まれ落ちた自分が、父親とは違って「失敗ではない」家族を持ちうるという期待、と呼べばいいのかもしれない。しかし、失敗ではない家族の営み方など全くわからず、失敗した家族以外のパターンでそれをすることはできなかった、ただただ、同じような家族を再生産しただけだった、あたかも、自分が父親のコピーであるかのように。そんなことを考えていると、気分が悪くなって来て、だんだんと視界が暗くなってくる。このまま失明してしまうのではないかという強迫観念に襲われ、思わず車を路肩に止めてハンドルにうつ伏せになる。視界がぼやけ、彼は冷や汗をかいていた、洪水のような不全感に神経が犯され、体がホメオスタシスを失っていく。彼はまるで自らの魂を吐き出すかのように、嘔吐してしまう。そしてそのまま、意識を失った。

 「__すいません。ちょっと、すいません」

 窓ガラスをノックする音で目が冷める。そこには警察官がいて、こちらを窓越しに覗き込んでいた、すぐ真後ろに、パトカーが停まっている。誰か通報したのだろうか。悠葦は、足元の吐瀉物を見られないように、とっさにそれを踏みつけて隠す。

 「どうかされましたか」

 「いや、ちょっと眠かったんで」

 「大丈夫ですか?」

 「もう大丈夫だよ」

 「ちょっと、免許証見せてもらっても?」

 「……どうぞ」

 「今日は、仕事お休みですか?」

 「……まあ、そうだけど」

 悠葦のひどい表情を見て、警察官は何か違和感を感じたようで、探りを入れてくる。いくつか質問をした後に、トランクの中身を見せて欲しいと言われた。それを不快に思いながらも、いちいち抵抗する方がもっと不快な思いをする可能性があると考え、「好きにすれば」と答える。トランクを調べて戻って来た警察官はまだいろいろ調べたそうに見えたが、ネタが尽きたのか、不服そうな顔で悠葦を解放する。

 パトカーから逃げるように車を走らせながら、彼は自分の目が光を感じることを確かめ、安堵した。ただ、もう限界だった、これ以上走れないと思う。車を方向転換させ、ずっと進んで来た道を帰ることにする。他に行くところはなかった、だから彼は、自分の家に行くことにする。もはやそれは自分の居場所ではなかったので、彼はそこに帰るのではなく、そこに行くとしか感じられない。

 

 家に着いた時、彼は疲れ切っていて顔は土気色、墓場のようになった家に入るゾンビさながらだった。郵便受けに溜まったチラシや封筒を抜き取ると、ドアを開けて部屋に入り、それを床に撒き散らすように放ってから布団に倒れこみ、そのまま眠りにつく。目を閉じると闇の底へ引き摺り込まれ、もう二度と自分は目覚めないのだと思った。彼は眠り続け、起きた時には長すぎる睡眠のせいでいつまでも意識が覚醒せず、もう何日も日が経っているような気がした。

 ようやく体を起こした時、時間帯は夕方で、窓が西向きの部屋に毒々しい真っ赤な光が差し込んでいた。口の中がひどく乾いて、吐きそうなくらい気持ち悪い。周囲には帰った際に放ったチラシや封筒が散乱している。その中の一つ、枕元に落ちていた緑色の封筒に目が止まる。差出人は、市の福祉事務所、全く心当たりのない相手だった。いったんキッチンまで行って蛇口から水をがぶ飲みした後、いったい何の用があるのか検討もつかない福祉事務所からの封筒を拾い上げ、乱暴に破って中に入った文書を取り出す。

 

 扶養義務の履行について

 次の方は当福祉事務所において、困窮により生活保護法による保護を申請中です。生活保護法においては民法に定められた扶養義務者からの扶養が、生活保護よりも優先して行われることとされております。

 つきましては、保護決定の実施上必要となりますので、あなたがどの程度扶養することができるかについて、別紙様式にてご回答ください。

 生活保護対象者__

 

 そこには、生みの母親の名前が記されている。養子に出されて以来、一度も会っていなかったし、互いに会おうとすることすらなかった、だから、悠葦の中ではすでに縁が切れているものだと思っていた。しかし、全く自分のことなど知らず、書類上でしか確認していない役所からの通知は、その極めて事務的な無味乾燥さによって、かえって彼と母親の間のどうしても切れない縁を強調しているようだった。幼い自分が散々父親から殴られている時に、ただ無気力な目で宙を見つめ、一度たりとも助けようとしなかった母親を、どうして自分が今、助けてやる必要があるのか。あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑いすらこみ上げてくる。

 __自分には、家族がいた。

 そのことを改めて突きつけられ、彼はまるで完全に忘れていたことを思い出したかのような気がする。どうして俺にはそんなものがあるんだ、そんなものがあるから俺は苦しみ、無益にも自分の家族を持ち、それを失って絶望している。なぜ俺は、希望のないところに、むざむざ希望を抱こうという愚かな試みをしてしまったのか。そんな言葉を心の中で反芻しながら、次第に、彼の心意は一つの考えに収斂していく。

 __俺は、もう一度だけ、生みの家族に会いに行かなくてはならない。

 ただし、それは家族と「再会」するためではない。彼は、布団を足で踏み、ゆっくりと立ち上がる。

 __もう一度だけ、会いにいかなくては。俺の家族を、この世から消し去るために。

 

 

最後の物語 その12へ続くーー