Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その4

 

 「遊ばないのか?」

 ヨシオ、とみんなから呼ばれている男の子が、悠葦に話しかける。壁を背に体育座りをしている悠葦は、ふっと顔を上げてそちらを見る。一瞬ヨシオについて行くようなそぶりで立ち上がって歩いて行くが、急に気が変わったかのようにヨシオから顔を背けてその横を通り過ぎ、独りでどこかへ走り出してしまう。

 「ははは、お前、何逃げられてんの」

 ヨシオの背後から、それを見ていた他の男の子たちがからかい半分に声をかける。

 「うっさい。知らんわ」

 苦々しそうに舌打ちをして、ヨシオは悠葦の背中を目で追う。施設に来たばかりの子供には、様々な態度が見られるのは承知の上だが、周りと全く馴染まず孤立すれば、いじめのターゲットになる可能性も高い。声をかけたのは、少しばかり心配をかけてやったという意味合いがある。全身にアザを作って入所して来た悠葦を見れば、ここにいる多くの子供たち同様、虐待を受けていたのは一目瞭然だった。肉親から心身ともに傷つけられた者同士、痛みを分かち合えるようになれるのも道理のはずだが、どこの世界でもそうであるように、虐げられた者はむしろ、虐げる相手を求める。傷を癒す術など知らない者たちは、他人を傷つける側にまわることで、束の間、その痛みを忘れようとする。

 悠葦は、施設のグラウンドを囲繞するフェンスに顔を押し付けるようにしながら、外を眺めていた。往来する人々に、日がな一日姉の面影を探す。姉と同じくらいの年頃の女の子を見かけるたびに心を躍らすが、それが姉であるはずもなく、ただじっと、姉のような姿をした”何か”を見送る。ここに来て、自由時間が与えられるのだと知ってから、彼は毎日それを繰り返した。フェンスの前に立ち、往来する人々を眺め、姉を探し、姉を見つけられず。まるで初めて外界が存在することに気づいた赤ん坊のように、彼は外を見つめる。その赤ん坊の視線で、姉のいない世界を見つめる。ポケットの中のぬいぐるみを頼りに、姉の存在を感じながら。やがて彼は、姉を探しながら同時に、往来する人々を分類し始める。最初は、姉かそれ以外か、そして次は、彼に気づくか否か、気づいた後で彼をどんな風に見るか。訝しんだり、無視したり、睨んだり、後ろめたそうにしたり、憐れんだり。翌日は歩き方で分類する、体を揺すったり、上下させたり、背中を丸めたり、両手を降ったり、かかとを浮かせたり。次は髪型とか、体型とか、鼻の形とか。悠葦はまるで、世界に対して失ったコントロールをささやかながら取り戻そうとするかのように、自分なりのやり方で、人々を分類していく。それは同時に、自分もまた分類されているという事実に気づいたことに端を発している。このフェンスの内側と外側で、人間は分類されている。分類の仕方は、世界の形だった。自分が今いる世界の形を探ろうとするかのように、悠葦は人間を分類し続ける。自分はいったい、何によって分類されているのか。その正体を、彼は求めながら、フェンスを握りしめる。

 コツン、と頭に何かが当たった。悠葦が振り向くと、数人の男の子たちがケタケタと笑ってこっちを見ている。足元に転がったそれに気づいて、頭に小石を投げられたのだと分かる。痛くはなかったが、男の子たちが自分を馬鹿にする悪意を持ってそれを投げたのは明らかで、不快な気分になる。けれども、その不快な気分を、どうしたらいいのかが分からない。男の子たちはこちらの反応を窺っているようだったが、他人からの攻撃に晒された時、じっと動かずにそれをやり過ごすことに慣れきってしまって、頭も体も固まったまま無反応でいる。フェンスを握って、そこに立ったままの悠葦をさらに挑発するかのように、男の子の一人がまた小石を投げつけてくる。今度は頭ではなくて頰に当たった、痛かった、でも、彼は何もせずにそこにいる。男の子たちは、無抵抗の悠葦を見て、馬鹿にしきったようにニヤニヤとしていたが、不意に施設から現れた職員の姿を目にとめると、蜘蛛の子を散らすように走って逃げてしまう。ポツンと取り残された悠葦は、外を見続けるでもなく、逃げて行く男の子たちを睨むでもなく、動かずにいる。単純に、何が正しい反応なのか、それがどうしても分からない。

 それらは、彼の日課になった。朝起きて、朝食を摂り、学校に行き、施設に帰って来て、フェンス越しに外を眺め、分類し、嫌がらせをしてくる男の子たちを不快に思いながら、何もできずに棒立ちでどこかへ去るのを待つ。来る日も来る日も、同じことを繰り返す、同じことが繰り返される。

 「なんで、何もしないんだお前」

 ヨシオ、とみんなから呼ばれている男の子が悠葦に尋ねる。悠葦は一応ヨシオの顔をみるが、さりとて何を答えるでもなくそこにいる。ヨシオが何をしに来たのか分からない。石を投げるならさっさと投げればいい、そしてどこかへ消えたらいい、そう思いながら、悠葦はそこでじっとしている。

 「逃げるとか、やり返すとか、何かあるだろ。黙って石投げられたり、砂かけられたり、馬鹿にされたり。なんでぼうっとして突っ立ってんだよ」

 悠葦はしばらくヨシオの顔を見ながら、じっと考える。どうやら、何が正しい反応なのかを、教えてくれているらしい。

 「ああいうことをされたら、逃げたり、やり返したり、したらいいの?」

 「普通そうするだろ」

 困惑して、眉をひそめながらヨシオは言う。悠葦は噛みしめるように二、三度頷いたが、結局またフェンスの向こうを見てしまう。

 「そうなんだね」

 独り言のようにそう漏らして、悠葦はそれ以上、ヨシオの方を見なくなる。

 「なんなんだよ、お前」

 呆れて吐き捨てるように言って、ヨシオは踵を返し、悠葦のもとを去ってしまう。ヨシオには、自分のことが理解できないのだろう。この施設に来た子供が受けた暴力は、種類や程度が様々で、自分はかなりひどいケースに当たるらしい。悠葦は何となくそういうことに気づいた。

 彼の日課は変わらなかった、フェンス越しに外を眺め、男の子たちから嫌がらせをされる。彼は変わらなかったが、ヨシオが諦めたのを見て取ったせいで勢い付いたのか嫌がらせはエスカレートし始めていた。石ではなく拳で頭を小突かれたり、背中ではなく顔に砂をかけられたり。それでも悠葦はじっとしている。不快だったが、父親からの情け容赦ない暴力に比べればなんでもない。ヨシオは”正しい反応”を教えてくれたが、悠葦の体は全くそういう風には反応しない。生まれてこのかた、彼は自尊心を手にしたことがなかった、だから、ひどい仕打ちをいくら受けたところで、怒りも悲しみも湧いてこない。自分の心身が破壊されて行くのを、まるで他人事のように遠巻きに見つめたまま動かない。

 「そこに何入れてんだよ」

 それはある日、唐突に起こった。ポケットの中をしきりに探るようにしている悠葦に、男の子たちの一人が気づく。悠葦は”それ”を見られたくはなかった。見られればどういう反応を男の子たちの間に巻き起こすか、容易に想像できる。

 「見せろよ」

 男の子が近づいて来て、ポケットの中に手を突っ込もうとする。悠葦は抵抗したが、無駄だった、すぐに二人三人と加勢がやって来て、あっという間に手足を押さえつけられる。うめき声を上げて身をよじらせる悠葦をあざ笑いながら、男の子たちはポケットからぬいぐるみを取り上げる。

 「何これ! お前オンナかよ」

 男の子たちが一斉にわっと笑い声を響かせる。

 「返して」

 悠葦は手を伸ばして姉のぬいぐるみを取り返そうとするが、年長で背の高い男の子は届かない高さにそれを掲げて、悠葦をからかう。周囲の他の男の子たちが囃し立て、手を叩いてあざけりの言葉を浴びせてくる。

 「返してよ!」

 もう一度言うが、相手が応じるわけもなく、ますます面白がってぬいぐるみを高く掲げ、手を伸ばしてくる悠葦の体を突き飛ばす。悠葦はパニック寸前だった、自分が馬鹿にされているということは大事ではなかったが、ぬいぐるみが、唯一の姉とのつながりが、もしかすると彼にとってはこの世界とのつながりの感覚を与えてくれる唯一の温もりが、奪われてしまう、その底知れない恐怖が、彼の心臓を冷たい刃のように貫く。年長の男の子たちに囲まれ、彼自身には、どうすることもできない。その時、彼の脳裏をよぎったのは、他でもない、父親の姿だった。他人を自分の意志に従わせる、たったひとつの、彼が知っているやり方__彼はいきなり足元の石を拾い上げると、何のためらいもなく、目の前でぬいぐるみを掲げて笑っている男の子の顔面を殴りつけた。硬いものがぶつかる音が響いて、同時に、男の子の潰れた鼻から鮮血が散る。間髪入れずに、もう一度、今度は頭頂部に石を振り下ろす。たまらずその場にうずくまり、男の子は泣き声を上げ始める。皮膚の切れた頭から、血がポタポタと流れ落ちて、地面の砂の上でビーズのように連なっていく。状況は一瞬で変わってしまった、さっきまで囃し立てていた周囲の男の子たちも唖然として怯えた顔になり、せめて次の標的になるまいと後ずさりするばかりになる。悠葦は、地面に突っ伏したようにして泣いている男の子を見下ろす。全能感が体にみなぎっていた、それは言い知れぬ快感となって、下腹部と背すじと脳髄を震わせる。この瞬間、彼は彼ではなくなっていた。彼は、父親に同一化していた。彼は、父親を理解した。言葉によってではなく、暴力で他人を支配する快感によって。この男の子は、かつて父親が見ていた自分であり、自分は今、かつて自分を見ていた父親と同じ存在なのだ。姉が消えたあの日、心の奥底から憎悪したはずの父親になった。ほとんど無意識からの呼び声に応えるようにして、彼は何のためらいも持つことなく、サナギから成虫になるかのように、そのメタモルフォーシスを受け入れる。

 この日、彼は世界とつながるもう一つの回路を手に入れた。二つの回路とはつまり__姉の温もりと、父親の暴力と。

 

 

最後の物語 その5へ続くーー