Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その5

 子に座りながら、悠葦は時計の秒針を目で追う。周囲の何事にも無関係に、時計は自らのペースで進み、それによって周囲を動かしていく。それとは全く反対に、周囲の誰もが自分の意思とは無関係に、彼らのペースで話を進め、それによって自分を動かしていく。世の中で自分と似ている存在があるとすれば、それはきっと犯罪者くらいのものだろう、と悠葦は思う。自分の処遇を、これから自分が生きていく場所もあり方もその全てを、寄ってたかって他人が決定していく。学校の同級生たちが思い思いの絵の具を使って、人や風景に彩られた未来図を描いている横で、自分のそれを、他人が単色の絵の具でグロテスクな抽象画として仕上げていく。

 「正直に申し上げて、難しい子であるとは思います」

 そんな言葉が、文字通り自分の頭上を通り抜けていく。隣に座った職員が事務的に淡々と説明する言葉を、その正面に座っている中年の夫婦が丁寧に頷きながら聞いている。柔和な表情をして、時々二人とも、こちらを安心させる気遣いを見せるかのように悠葦を見て微笑む。こちらを取り残すまいとしてくれているのは分かったが、他人からの優しさに全く不慣れな彼にとっては、それは奇妙なものに映っていた。暴力を受けている時は、他人から拒絶されているために自分の殻の中にこもっていることができたが、優しさを向ける人間は、その殻の中に入りこんで、自分とつながりを持とうとしてくる。それが彼に、なんとも言えないような居心地の悪さをもたらす。

 「私どもは、何も心配してございません。いかなる困難も受け入れ、手を取り合って、歩んでいく所存です」

 夫婦の夫の方、白髪混じりの気品をたたえた男性が静かな口調で答えている。随分落ち着いていて、児童養護施設の担当職員の方が緊張しているようにすら見える。

 「それと、あなた方のその、宗教についてなのですが……」

 「それも大丈夫です。私どもは、この子に何ら宗教的なことを強制するつもりはありません。本人が望みもしないのに教会に連れて行ったり、そんなことも一切いたしません」

 今度は妻の方、夫より一回りほど若く見えるが、やはり落ち着いた態度で、両手をきれいに膝の上にそろえ、背筋をすっと伸ばして受け答えをする。どんな悪意も、この夫婦から感じ取ることはできない。品行方正という言葉そのままと言っても良い立ち振る舞いには、出会ってすぐの他人であっても、自分たちを信頼させるのに充分な説得力が備わっている。担当職員も、この夫婦が悠葦の里親にふさわしいかどうかをいちいち審査するのが申し訳ないとばかりに、時々気恥ずかしげな笑顔を作りながら応対しているほどだった。

 「私たちにとって、この子との巡り合わせは、神様のお導きなのです。神様、などと言うと、宗教に馴染みのない方には奇妙に聞こえるかもしれません。けれども、私たちにとって、この子をきちんと立派に育て上げることが、そのご意志に沿うことなのだと信じておりますゆえ。どうか、ご安心なさっていただきたい」

 悠葦は顔を上げて、その夫の方を見つめる。神様、とその男は確かに言った。ある日姉が呟いて、父親が否定していたその存在を、確信している人間がいる。彼らが向けてくる優しさも、彼らが抱いている信仰も、今までの悠葦が生きていた世界の、全く外側のもので、ただただその幼い目には不可思議なものに映る。だから彼は、じっとその夫婦を観察していた、判断を下そうとはせず、ただ見ることを目的として見る。それが新しい世界へのいざないなのだとだけ、彼は理解する。そこに何かを期待する訳でもなく、ただ彼はそれを直観した。とはいえ、それは福音であったかもしれない、今まで自分が生きてきた場所だけが、この世界の全てでない、それを知ったことは、悠葦にとってこの上なく大きな価値を持つことだった。たとえ、今の彼がそれに全く気づいていなかったとしても。

 

 

  *

 

 

 テーブルの上に両手を置き、悠葦は目の前で祈りを捧げる夫婦を見ていた。何度見ても、不思議な光景だと思う。自分には決して見えない神というものをこの夫婦は信じて、食事のたび、律儀に繰り返し繰り返して”それ”に対する感謝を呟く。悠葦は祈りを強制されたことはない。もう少し幼い頃は、夫婦の真似事をしてみたこともある。もちろん神の存在に対する実感など皆無なので、思い浮かべるのは恋しい姉の姿ばかりだった。中学生になった今では、ただ単に、じっとしているだけの時間になっている。

 「アーメン」

 夫婦は声をそろえて、祈りを終える。決してそう言われたわけではないのに、行儀よくそれを待ってから、悠葦も食事を始める。顔をあげるたび、食卓の向こう、壁に据えられた神棚に鎮座する、磔のキリスト像が見えていた。この夫婦の信仰スタイルがキリスト教の”正統”から見てどうなのか、あるいはどういう宗派のものなのか、大人になった後で回想しても、決してキリスト教に帰依しなかった悠葦には全く分からない。哀しみに溢れた目でうなだれるその男は、どこまでも不可解だった。あらゆる彫像が力や知性や善を象徴する中で、ただ単に底なしの無力を象徴するこの男の像が、一体なんのために存在するのか、悠葦には全く理解できない。いくら目を見つめても、その男の眼差しは逃げ去ってしまって、その心意はつかみようがない。

 日曜日に教会に行く以外は、夫婦の生活は極めて一般的、並びに品行方正で単純だった。夫は仕事に行き、寄り道もせずに帰ってくる。その間妻は家事をやり、必要に応じて悠葦の世話をする。必要に応じて地域の活動にも参加し、選挙があれば必ず投票にも行く。模範的な小市民以上でも以下でもない。それは、父は何の仕事をしているのか分からず、暴力以外の手段で物事を解決しようとしかしない、母は無気力で料理も掃除もまともにできない、悠葦の生みの親たちとはまるで正反対だった。悠葦に暴力を振るうこともなかったし、余計な干渉をしてくることすらない。極めて良き里親だった、そのほとんど不気味なくらいの正しさが、打ち解けることを阻むくらいに。悠葦は夫婦のことを親のように感じたことはない、強いて言うなら、ずっと友達の親に預けられているかのような感覚に近い。

 「どうだい、学校は?」

 定期的に、ストレスを感じないくらいの頻度で、夫婦は質問してくる。

 「うん、まあ普通だよ」

 悠葦の答えは毎回同じだったし、夫婦は無理やり詮索しなかった。ただ、何もかもを受け入れるような笑みを浮かべて彼を見ている。誰もが安らぎを与えられそうな笑みだったが、悠葦は、むしろそれに不安と警戒を抱いた。悠葦の心の奥底には、幼い時から変わらず、暴力の写像が蠢いていて、それが張り詰めた緊張をもたらしていた。優しさに心を許してその緊張を解いた時、自分がバラバラになってしまうような気がした。その張り詰めた心が、父の暴力と姉の優しさを結び、つなぎとめている。それだけが、自分の存在の根拠のような気がした。

 「何か困ってることはないかい?」

 「何か欲しいものはないかい?」

 やはり定期的に、夫婦は尋ねる。

 「大丈夫だよ」

 悠葦は毎回そう答える。

 小学校六年生のとき、別に欲しくもないお菓子を万引きして補導されたことがある。店主から侮蔑を受け、警察から注意を受け、教師から叱責を受けたが、迎えに来た夫婦はいっさい悠葦を怒ることなく、ただ肩を抱いて、「誰にでも過ちを犯すことはあるからね」と慈愛に満ちた口調で語りかけた。全く夫婦は理想的な親で、その正しさは残酷な大鎌のように、思春期の少年の反抗の芽を刈り落そうとする。この夫婦の正しさに対し、悠葦はありがたみと同時に、しかし嫌悪感も抱いた。愛されるということを、訳もわからず拒否するような心性が、悠葦の中に存在した。耐え難い虐待から逃れて得た生活は、彼にとって耐え難い幸福であり、耐え難い抑圧だった。

 

 打撃音が聞こえている、リズミカルに、荒い息と混ざって。悠葦は打撃音の中へ埋没するように体を動かし続ける。週に一度通わせてもらっているキックボクシングのジムで、悠葦は一心不乱にサンドバッグを殴った。この世の全てがノイズにしか感じられなくなった少年にとっては、限界まで何かに集中することだけが逃げ道だった。夫婦にジムに通いたいと告げたときは、二人ともいくらか当惑したような顔をした。特に妻の方は自分たちからは縁遠い暴力の臭いのするものを忌避したそうな様子だったが、夫の方は少しだけ考えてから「まあ、年頃の男の子がそういうものに興味を持つのは当然かもしれない」と言って許可してくれた。

 「その代わり、そこで学んだことを喧嘩に使わないで欲しい」

 そう言って、一つだけ夫は悠葦に条件を付けた。父の暴力の影を、その血の継承を、いくらかは心配したのかもしれない。悠葦はその条件を呑んだ、建前ではなく、本心からそれを約束した。

 実を言えば、夫の心配は当たっていると言っても良かった。悠葦がジム通いを望んだ理由の一つが、日増しに増幅する暴力衝動をなんとか発散させたいということだった。少年の心には手当たり次第に人を殴りたいという気持ちが湧き上がってきて、いまにも飲み込まれそうになる。とりわけ、その衝動が夫婦へ向かうことを恐れた。意識上は最も殴りたくない相手なのにも関わらず、暗い奥底からざわめくように、夫婦を破壊したいという不気味な欲動が眼を光らせてこちらを見ているような感じがしていた。だから悠葦は、外と内の両側から押し寄せるノイズから身を守るために、ひたすらサンドバッグを殴り続ける。

 「おい。悠葦」

 声をかけられて、顔を上げる。上げなくても誰だか分かっていたが、上げなければどのみちそうするまで名前を耳元に来てでも呼び続けられる。そこにいたのは、タカシという一つ年上の少年で、ジムでの先輩格だった。にやにやしながら、馬鹿にしたような態度でこちらを見ている。いつものことだった、周囲と打ち解けようとしない無愛想な悠葦に、何が気に食わないのかちょっかいを出してくる。独りでいたいと思う人間を、世間は放っておいてはくれないものなのだということを、彼は学ばざるを得なかった。

 「スパーリングやろうぜ」

 そうやって、タカシがいるときはいつもリングに上げられてしまう。ヘッドギアとグローブを着けて、悠葦はしぶしぶとファイティングポーズをとって打ち合う。一発二発とジャブを入れられ、打ち返したパンチは軽々とかわされる。年齢も経験も体格も、さらには運動神経もタカシの方が上だった。終始にやけ顔のまま、タカシは悠葦をなぶってくる。ジャブ、ローキック、ボディ、ストレート、すぐには倒れない程度に加減して、ふらつく悠葦を笑う。ダメージに体力を削られ、悠葦の動きが止まると、タカシはガードを下げ、あまつさえこちらに顔を突き出して挑発してくる。悠葦は決してそれには乗らなかった、タカシは手を出してこないことに調子付いて、到底パンチをかわしきれないくらい近くまで寄ってくるが、それでも悠葦は挑発を無視する。意気地のない後輩を嘲笑いながら、タカシはいよいよ悠葦をダウンさせにかかる。執拗にボディを打って、悠葦がたまらずガードを下げると、そこに下から角度の鋭いフックを顔面に打ち込んだ。そこでとうとう、悠葦は耐えきれずに尻もちをついてダウンする。しかしタカシは、ダウンに気づいてないふりをして、倒れ込んだ悠葦の頭をわざと一発殴る。

 「悪い。つい夢中でよお」

 笑いながら、タカシはこちらを見下ろしている。腹立ちを抑えながら、できるだけ相手の顔を見ないようにして、悠葦はいつもリングを降りた。揉め事を起こすわけにはいかない。そうなれば、少なくともこのジムにはもう通えないし、夫婦が他のジムに通わせてくれるとは思えない。タカシの嫌がらせもこの程度のものでエスカレートはしなかったので、まだまだ耐えることはできる。それに実を言えば、自分でも妙なことだと思ったが、悠葦は人から殴られることに、不思議な安堵感を覚えていた。肉体さえ傷つかなければ、もっともっとひどい痛みを受けても良い、そう思っていた。痛みを受ける罰と引き換えに、この世界から、自分という存在が許されているような気がしていた。

 「そんな弱い相手じゃもの足りねえだろ」

 ジムの大人たちから笑顔で声をかけられて、タカシは彼らと談笑する。その行いを周りの大人が注意しても良さそうなものだったが、世渡り上手なタカシは年上から可愛がられているので、対照的に可愛げのない悠葦をかばう者などいない。鬱陶しい儀式のような時間を終え、悠葦は黙ってサンドバッグの前に戻り、再びそれを殴り始める。全力で、リズミカルに、埋没するために、自分の感情を追い出そうとするかのように。

 

 学校に居場所がある、と思ったことはない。そして求めたこともない。単純に場違いなのだと思っている。ここは生みの両親とその家で暮らす、普通の子供たちが集い学ぶ場所であり、自分のような施設から里親に拾われ、居候で暮らすような人間のいる場所ではない。生みの親から暴力でいびつな形に変えられ欠陥品であることを運命付けられた自分が、彼らと一緒にいるのはおかしいのだ。一緒にいる必然性のない人間同士が、偶然に同じ空間に放り込まれている。そうすることで平等な社会が実現されているのだという大人の自己満足に付き合わされて、ひどく居心地の悪い思いをしている。その方が良いという人間もいるだろうが、自分は違う。学校にいると、自分の存在が消えてしまうことを願わずにはいられない。悠葦は周囲の生徒たちを風景のようにしか見なかったし、周囲もまた自分をそう見ていると思っている。当然のように、休み時間には独り自席でじっとしている。教室ではまるで電車の中から窓を隔てた風景のようで、空間ではなく時間の向こうへ、次々と流れ去って行く。

 「わりいわりい」

 悠葦の足元に何かが転がってきて、顔を上げると、クラスメイトのユウイチが立っていた。ユウイチは笑顔を浮かべているが、悠葦は無表情で動こうとしない。一瞬の間があってから、何もしない悠葦にユウイチは首を傾げ、机の下から野球のボールがわりにしている丸めたプリントを拾い上げ、クラスメイトたちのところへ戻って行った。「何なのアイツ、全然拾わん」ユウイチがかろうじてこちらに聞こえるくらいの声で言った。それでもやはり、悠葦は無反応でいる。自分と関係のない人間に何を言われても、どうでも良い。彼らも風景で、自分も風景だ。悠葦は机に伏せて寝たふりでもしようとしたが、その瞬間に背後からユウイチがプリントの球を打ち返す小気味良い音がする。球は教室の後ろから放物線を描いて悠葦の頭上を飛んで行き、黒板に当たって教壇に落ちた。教室の中、ぽつんとした悠葦を残してどっと笑いが起きる。その中でひときわ明るく大きな笑い声が聞こえ、悠葦の視線はそちらへ向く。そこにはクラスメイトのアヤカがいた。黒い瞳がこっちを見ていて目が合い笑いかけられたような気がして、悠葦はとっさに視線を外す。アヤカは男子生徒の人気を集める明るい性格の美少女で、そのアヤカと目が合えば、いくら悠葦でも多少の気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。

 「本気でやりすぎなんだよ」

 アヤカは球を拾いあげ、ユウイチに投げつけて笑う。

 「いちおう手加減してんだよ」

 ユウイチはアヤカに構ってもらった嬉しさを隠すように、ぶつけられた球を拾い握りしめる。アヤカは彼女一流の愛嬌のある仕草で男子達と距離感の近いコミュニケーションをとり、彼らを手玉にとっていた。アヤカのやり取りは、いつも彼らの注目を集める。悠葦ですら例外ではない。それを敏感に察知したかのようにアヤカの視線がこちらを向き、悠葦は今度こそ確実に目が合ってしまう。再び、悠葦は逃げるように顔を伏せる。彼女には、抗えない魅力があった、そしてそのことに、悠葦は警戒心を抱く。他の男子たちがいとも簡単に彼女に明け渡してしまうものを、悠葦は守ろうとしていた、ただしそれは、彼自身全く自覚していない警戒心で、それゆえに脆いものだった。

 

 ボクシングジムに通い始めて三ヶ月くらい経った頃、いつものようにタカシに理不尽に蹴られ殴られコケにされ、無心でサンドバッグを叩いた後でジムを出たところで、背後から自分を呼び止める声がした。

 「悠葦くん?」

 友達も知り合いもいない悠葦は、まさか道端で自分に声をかけてくる人間がいるとは想像もしていなくて、一度ではその声に反応できず、声の主は二度三度と名前を読んだらしかった。悠葦が振り向くと、そこにいたのはアヤカだった。とっさに、悠葦は顔を背けて足早に逃げるように、そのまま歩いて行こうとする。気恥ずかしさと、それ以上に、タカシを始めとするジムメイトにアヤカと一緒にいるところなど絶対に見られたくない気持ちがあった。

 「ちょっと待ちなよ」

 小走りに、アヤカが追いかけて来る。

 「……何か、用?」

 無愛想にぽつりと、観念したように悠葦が答える。決して止まらず、追いかけて来るアヤカと並走しながら会話する。

 「今、ボクシングのジムから出てきたよね」

 愛らしい仕草で、アヤカは顔を覗き込んでくる。それで余計に、悠葦の気恥ずかしさが増す。

 「そうだけど」

 「ボクシングやってんの?」

 「……ごめん、急ぐから」

 そう言って、悠葦は急に走り出す。悠葦はそのとき始めて、自分が他人と何らかの関係を構築することを不必要だと思っている以上に、実際にはそれがひどく不安を呼び起こし自分を恐れさせるものなのかもしれないと思った。同時に、アヤカにもう一度呼び止めて欲しいという気持ちもあって、一瞬速度を緩めて歩いて見るが、追って来る気配はない。振り返ってその姿を確認したい誘惑にかられながらも、結局そうはせず、そのまま狼狽するような弱々しい足取りで、その道を歩いて行く。

 

 次の日の学校では、随分冷淡な態度をとってしまったことで、悠葦はアヤカの方をまともに見れなかったが、当のアヤカは特に何も気に留めていない風で、クラスの男子たちと戯れて笑い声をあげていた。昼休みになると自分だけが気にしているようでばかばかしくなりあまり教室にいたくなくて、独りになれそうな所を探して校舎内をうろつく。普段でも時々、悠葦はそんな風にしていた。他の生徒たちの気配のするところを避けて避けて、廊下を抜け、階段を昇ったり降りたりする。霧のような静寂が濃くなるところへ自分の身を投げ込むほどに、存在が純化され透明になっていく。まるで幽霊みたいだ__一番静かな場所、校舎裏の非常階段の陰までたどり着いて地べたに座ったとき、悠葦は自分をそんな風に感じる。

 「何してんの?」

 驚いて顔を上げると、こちらを覗き込むようなおどけた仕草で、アヤカが立っていた。どうやらこっそり、後をつけて来たらしい。

 「……別に、何でもいいだろ」

 無愛想に答える。というか、本当はもっと気の利いた言葉でも返したかったが、人付き合いの不得手な悠葦は無愛想にしか答えられない。

 「一匹オオカミ気取ってカッコつけてんの?」

 「そんなんじゃない」__あるいはそうかもしれないが。「そっちこそ、何やってんの」

 「跡をつけてたんだよ、君の」

 「俺の?」

 「だって、逃げたでしょ、昨日」

 なんと返して良いのか分からず、アヤカを見上げる。怒っている様子もなく、余裕のある笑みを浮かべる姿に、「いや逃げたっていうか……」と口ごもる。

 「それで? ボクシングやってんの?」

 アヤカはまるで、昨日の会話を中断したところから再スタートするかのように自然に言う。

 「うん、まあ」

 「すごいじゃん! プロとか目指してんの?」

 悠葦の表情は、なぜかこわばる。喜びより緊張が勝った。思えば、里親の夫婦を除けば誰かに褒められたことなどない。

 「違う。なんていうか……」

 「ていうか?」

 実際、何と言うべきか。暴風にざわめく木々のように腹の底で蠢く暴力衝動を抑えるため、とはまさか言えない。

 「強くなろうと思って」

 「へえ」

 アヤカは空から降りてくる羽のように、ふわりとした動作で悠葦の横に座る。

 「私ね、前から思ってたんだけど」

 耳のそばで喋るアヤカは、甘くて清潔な匂いがする。

 「悠葦くんって、かっこいいよね」

 驚いて顔を向けた悠葦と、アヤカの目が合う。幼子のように澄んだ瞳をしているが、口元にはからかうような笑いが浮かんでいる。戸惑って硬直している悠葦にきらきらした瞳が近づいてきて、そのまま頰にキスをする。

 「強くなって、私のこと守ってね」

 アヤカは立ち上がり、小さく手を振ってから、一人で教室へ帰って行く。もうすぐ昼休みが終わる。しばらく顔を紅潮させたまま呆然としていた悠葦は、ようやくそのことに気づいて、ふらふらと力なく体を持ち上げる。

 

 それ以来、ジムの帰りにときどきアヤカが現れるようになった。何が面白いのか、アヤカは悠葦と並んで帰り道を歩く。初めのうちこそ自分の不器用さが招く沈黙の気まずさに正直困っていたが、次第にぽつりぽつりと言葉を返せるようになり、ひと月もすればいくらか間を持たせられるくらいには進歩した。まるで恋人同士みたいだと思った、アヤカに好意を抱いているのも確かだった、けれども、恋愛経験どころか友達もいない悠葦には、それ以上アヤカに対してどんなふうにすれば良いのか分からない。自分でドラマを動かす勇気も力もなく、ただ月日が流れて行く。それでも、悠葦は心をくすぐる淡い恋の喜びに、控えめながら有頂天になっていた。しかしそんな風に二人で歩いていれば、学校の誰かが見かけるのは必然で、少しずつ噂にもなっているみたいだった。今まで何の注目も集めなかった悠葦が、日増しにクラスの男子たちの羨望の眼差しを受けるようになり、特にアヤカに気に入られようと奮闘していたユウイチなどは、露骨に忌々しそうな目つきをしている。

 「なあ」

 ある日の休み時間に、とうとうユウイチが話しかけてくる。悠葦は何も言わず、無機物のような目をそちらへ向ける。ユウイチの口元は意地の悪そうな笑みが浮かんでいるが、目は嫉妬でぎらぎらとしている。

 「お前さ、アヤカと一緒にボクシングジムから帰ってるらしいな」

 「……たまに」

 相手にするのも嫌だったが、無視し続けることもできなそうだった。

 「付き合ってんの?」

 ほとんど唾でも吐きかけるような態度で、ユウイチはその言葉を放つ。

 「そんなんじゃないけど」

 「へえ、そうなんや」

 ユウイチは喜びを隠しきれず、声が大きくなる。「だよな」と付け加えつつ、ユウイチは窓際に立つ。

 「見てみろよ」

 笑いながら、ユウイチが手招きをしている。ためらいつつ、誘われるままに悠葦は窓から校庭を覗く。

 「あそこ、アヤカいるだろ」

 ユウイチが指差したところには、確かにアヤカがいた。男にじゃれるようにしながら、肩をくっつけてしゃべっているのが、遠くからでも分かった。男はバスケ部の三年生で、校内の女子から人気のある先輩だった。二人は周囲の視線を避けるように木陰に座っていたが、この教室からは丸見えに近い。そのほとんど隠そうとしていない姿が、かえって自分のみじめさを際立たせる。

 「まあ、アヤカは誰とでも気さくに接するからな」

 悠葦は黙って校庭の二人を見ている。

 「同情だよ」

 「何?」

 「同情。だってお前、施設の出身で、一緒に住んでるの本当の親じゃないんだろ? かわいそうだから、アヤカが優しくしてくれただけなんだよ」

 それを聞いた瞬間、反射的に悠葦はユウイチの胸ぐらをつかむ。「なんだよ」ユウイチは興奮と怯えでかすかに震えながらも蔑んだ目でこちらを見る。ユウイチの言葉は差別というより、アヤカを巡る競争に勝てない敗者が、他の誰もを同様に敗者の立場に突き落とそうとするだけの子供の癇癪めいた愚かな態度にすぎない。それを感じ取り、悠葦はどうにか殴り飛ばしたい衝動を抑えて、胸ぐらをつかんだ手を緩めていく。耐えられたとはいえ、大きなショックを受けたことは事実だった。指先が開いていくのと同時に、自分を守るために身体を覆っていた殻が崩れ、その中を漂っていた軽くて柔らかいものが剥がれて飛んで行ってしまうような感覚があった。

 

 拳を固め、標的を射抜く。リズミカルに、軽く重く、感情的に冷静に。ジムでサンドバッグを殴りながら、はじめはアヤカのことを考えていた。あの男は、アヤカの彼氏だろうか。彼氏がいるなら、一体どうして自分に近づいてみせたのか。アヤカは自分にキスをしてきた、それはつまり、好意があるということじゃないのか。それとも、手玉に取れそうな未熟な男子をからかって女としての自尊心を愛撫しているだけなのか。たぶん、ユウイチは嫉妬から、敵わない先輩より見下している同級生から煽られる嫉妬心の方が耐え難いから、そうであることを望んだだけじゃないのか。どうしてユウイチを殴らなかったのか、殴ってもよかったのに、殴らなければならなかったのに。暴力によらなければ守れないプライドがあるんじゃないのか。暴力によらなければプライドを守ることなどできないんじゃないのか。あの男の像は、里親の家の神棚に飾られたイエスの像は、なぜ哀しみに溢れた目でうなだれたまま、沈黙しているのか。もしかしたら、知らず知らずのうちに、俺はあの男に洗脳されていたのじゃないだろうか。思えば、あの男の沈黙は、言葉よりもはるかに強大な圧力で、自分に語りかけていたのかもしれない。俺が暴力を抑えている理由など、どこにあるのか。俺が屈辱を忍受する理由など、どこにあるのか。里親の宗教に洗脳され、アヤカにからかわれ、ユウイチに尊厳を汚され、そして世間に対し己を恥じて、それでも透明な影のような存在として教室の隅で身を固くしていなければならない理由など、どこにあるのか。

 「おい。悠葦」

 お決まりのパターン。タカシがいつものようにいやらしい笑いを浮かべながら、こちらを見ている。どうやってというアイデアもなく、全くいつもと同じやり方で芸もなく、今からこの弱虫を痛ぶってやろうという態度でいる。そして悠葦もまた諦めたように無抵抗にそれに従い、リングに上がってスパーリングを始める。運動神経と悠葦をいくらか上回る経験値を使った器用な足さばきでこちらを翻弄し、小馬鹿にしたようなパンチとキックで痛めつけてくる。タカシはボディを打ってガードと頭を下げさせ、屈辱感を煽ろうと悠葦の頭頂部をしつこく殴ってくる。悠葦が投げやりな態度で打ち返すパンチをひょいひょいとかわしながら、タカシは頭頂部を何度も小突いて、合間につま先をわざと太ももに当てて、何箇所も擦り傷を作る。悠葦はじっと耐えていた、耐えながら考えていた、いったいこいつは、何のためにこんなことをしているのか、いったい自分は、何のためにこんなことをしているのか。

 「何してんだよ、来いや」

 動きが完全に止まった悠葦を見て、タカシが挑発を始める。ガードを下げ、顔を突き出し、舌を出して、悠葦を見下し、自尊心を壊しにかかる。そのタカシの顔の向こうに、ユウイチの顔が浮かんだ、アヤカの顔が浮かんだ、里親の夫婦の顔が浮かんだ。そしてその全てがバラバラに砕け散るイメージが、弾丸のように脳内を突き抜けて行った__。それはまさに一瞬の出来事だった。突然身体を起こした悠葦は、筋肉が爆ぜたようなスピードで、タカシの首筋からアゴを刈り取る大鎌のような蹴りを浴びせる。完全に油断していたタカシは、予想もしなかった反撃をもろにくらい、ジムにいた全員がぞっとするような音を立ててリングに崩れ落ちる。居場所などない、居場所など必要ない。悠葦はそう思った。唖然として誰も動かない中で、グローブとヘッドギアを投げ捨てると、そのまま走るようにしてジムの外へと出ていてしまう。

 

 「おーい」

 背後から、自分を呼ぶアヤカの声がする。今日もまた、彼女は帰り道に現れた。悠葦は振り返らずに歩いていくが、とっくにその存在には気づいている。すぐに応えてもよかったが、彼女を突き放したい気持ちが湧き上がって、それを邪魔していた。

 「おいってば」

 駆け寄ってきたアヤカが、悠葦の肩を叩く。正直会いたくないタイミングだったが、無視するわけにもいかず、ゆっくりとした動きで振り返る。相変わらずの屈託無い笑顔を見せて、アヤカがそこに立っている。その姿を見たとき、悠葦は自分の中に奇妙な自信が湧いていることに気づく。タカシを蹴り倒したおかげなのだろうか、その鬱勃する自信が、今まで女子、特にアヤカに対して感じていた怖気みたいなものを霧消させている。

 「無視すんなよ」

 一瞬沈黙した後で、悠葦が口を開く。

 「考え事、してたんだ」

 「何考えてたの?」

 「アヤカのことさ」

 躊躇なく、悠葦はそれを口に出す。今までの悠葦では考えられないような態度に、さすがのアヤカも怪訝な表情になる。

 「急にどうしたん」

 戸惑った笑いを浮かべるアヤカの手首を、悠葦が突然つかむ。

 「こっち、ちょっと来いよ」

 そしてそのまま、人目を避けるように河川敷の橋の下まで連れて行く。

 「どういうつもり?」

 アヤカは強い警戒心を抱いている様子だった。橋桁から落ちる影のせいでここは薄暗く、ひざ下くらいまで伸びた雑草が風にざわめく音が胸騒ぎを誘う。アヤカは少し後ずさりして距離を取ろうとするが、悠葦は手首を掴んだままでそれを許さない。そしていきなり、悠葦はその手首をぐいっと引き寄せて、アヤカにキスをしようとする。しかしアヤカはとっさに顔を背けてそれをかわす。

 「やめてよ!」

 アヤカの愛らしい目が、悠葦をにらみつけている。

 「……あいつと、付き合ってるのか?」

 「は?」

 本当に何を聞かれているのか分からない様子で、アヤカは聞き返す。

 「あいつだよ、三年生の。この前、学校で二人きりでいるの見たんだ」

 「……え、だから何? それがどうかしたの」

 「だから、付き合ってるのかって聞いてるんだ」

 「別に付き合ってない。ていうか、なんであんたがそんなこと聞くの?」

 その言葉に、悠葦は驚いてしまう。アヤカが自分のことを恋人かあるいはそれに近い存在だと思っていないなどとは、つゆほども考えていなかった。

 「だって、俺にキスしただろ」

 「まさか……、それであんた私の彼氏にでもなったつもりだったの?」

 「彼氏っていうか……」

 悠葦の口調は徐々に弱くなり、最後にはとうとう口ごもってしまう。ついさっき手に入れた自信が、嘘のようにあっさりと奪われていく。そして突然、悠葦は腹の底から、うめき声をあげる怪物のような恐怖を感じた。その恐怖は、かつての、自分を最も戦慄させる喪失体験の記憶を呼び起こしてまう。あの時、姉は、何の予告もなく、目の前から消えてしまった。目の前でアヤカに拒絶されることが、喪失の恐怖とリンクして、パニックのような発作の引き金を引いてしまう。悠葦はいきなりアヤカを突き飛ばして、その細い身体を草むらに押し倒したかと思うと、彼女にのしかかり、両手首をつかんで自由を奪う。そのまま二人はにらみ合うように見つめ合っている。恐怖で荒くなった呼吸が、アヤカの胸を上下させている。悠葦は全くとっさに押し倒しただけで、強姦しようとか暴行しようとか、そんな考えを抱いてはいない。ただ、アヤカにどこにも行って欲しくないだけだった。だから、懸命にその腕を振りほどこうとしたアヤカの顔を、悠葦は無言で殴りつける。これ以外の方法は、知らなかった、暴力を使って他人を支配する以外の方法で、アヤカを自分から離れないようにすることなど、彼にはできなかった。アヤカの唇が裂けて、ゆっくりと、血液があふれてくる。

 「やめろ!」アヤカは男勝りな声で叫ぶ。「一回キスしたからって何だって言うんだよ! 私は別に、お前の所有物になったわけじゃない。私が誰と何をしようと勝手だろ? 私の心と体は私のもの、お前の好きにさせるわけないだろ!」

 アヤカの言葉が、悠葦の心をずたずたに切り裂いていく。この女もまた、姉と同じように、自分の目の前から消えようとしている。その恐怖に、体が硬直し、力を失っていく。その隙に、アヤカは今度こそ両腕を振り解くと、叫び声をあげながら闇雲にそれを振り回す。肘が悠葦の顔に当たり、たまらず仰け反って後ろに倒れると、アヤカは素早く起き上がってその支配からすり抜ける。悠葦は慌てたように、アヤカに向かって手を伸ばし一歩を踏み出す。自分でもどうしようとしたのかは分からない、もう一度捕まえようとしたのかもしれない、謝ろうとしたのかもしれない。

 「近寄るな!」

 アヤカはそう叫んで走り出す、もはや一度も、悠葦を振り返ろうともせず、ただただ彼女は遠ざかって行ってしまった。悠葦は呆然とその姿を見ていた、追いかけることもせず、痛みに疼く鼻を手のひらで押さえながら。__いったい、俺は何をやっているんだ? ようやく、手のひらを鼻血が濡らしていることに気づいた時、自分の情けなさにその場に崩れ落ちそうになる。姉がいなくなった日、後ろから追いかけてきた父親に押さえつけられながら泣き喚いていた自分の姿を思い出してしまうくらい、情けない気分だった。

 

 家に帰ってきた悠葦を、迎える者は誰もいなかった。里親の夫婦は出かけていて、唯一、あの男の像が神棚の上から彼を見下ろしている。悲しみと、無力と、絶望の中で、見捨てられ、ただ黙ってそれらを受け入れているだけの男。おもむろに、悠葦はその神棚の前でひざまづいてみる。何の試みか、何の気まぐれか、彼は、自らを低くしたその場所から、男の姿を見上げる。そのまま、彼は動かなかった、何か遥かに高く大きなものが、自分に手を差し伸べるのを待ってみた。もちろん、それに応えるものなど何もない。イエス像も悠葦も静止している。漂うほこりの粒だけが、ここに未だ時間と空間が存在していることを告げている。悠葦は祈りなど知らなかったし、知っていたとしても祈りなどしなかっただろう。エリ・エリ・レマ・サバクタニ、とその男は今際のきわに叫んだという。見捨てられていることの残酷さもあるだろうが、里親がいる自分は完全には見捨てられていない、そのことの、耐え難い惨めさを思った。なぜだか、彼は完全に見捨てられることを望んだ。惨めさよりも、残酷さを渇望した__。

 気付いた時、すでにその手にはバットが握りしめられていた。頭上にそれを掲げ、躊躇なく振り下ろす。神棚は砕け、イエスの像は首と体が折れて真っ二つになって床に転がった。罪悪感と後悔の帳を引き裂くようにして解放感が溢れ出し、それがタカシとユウイチとアヤカのイメージを押し流していった。その心の中に残ったのは、結局姉の記憶だけだった、子供の頃の記憶が呼び起こされ、ぼやけそうになっていた姉の顔と優しさを繋ぎ止める。足元に転がった無力な男の首と目が合い、その悠葦の目にゆっくりと涙がにじんでいった。夕方の陽光が窓から差して、遠くの炎のようにちらちらと輝く。

 姉を、探しに行こう。

 見捨てられて、震えながら、悠葦は独りで誓う。

 

 

最後の物語 その6へ続くーー