Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その7

 

 ブレーキを踏んだ。体が前に飛び出し、頭をハンドルにぶつけそうになる。ゆっくりと顔をあげると、そこには猫が一匹いて、悠々と目の前を横切っている。車に轢かれそうになったことなど気にも留めていないといった態度で、悠葦の正面まで来ると、こちらを見てにやりと笑う。小馬鹿にされた気がして、ほとんどハンドルを叩くようにしてクラクションを鳴らす。猫はその不快な音に耳をピンと立てて反応しただけで、あとは滑稽と言っても良いような仕草で体をくねらせ、ぴょんと飛んで道の反対側へと駆けて行ってしまった。馬鹿みたいだ、と悠葦は吐き捨てる。猫が、自分を嘲っていたとしか思えない。そうとしか思えない自分の馬鹿馬鹿しさも感じている。少女と再会してからというもの、悠葦は徐々に自分の中で膨らんでいく、全く理由の分からない苛立ちにさいなまれている。再会して、自分の過去を露わにした瞬間にはどこか幸福な部分を感じていた、それなのに、幸福は一瞬で消え、腹の中をカマキリのような虫が締め付けかきむしっているような不快感ばかりが居座っている。彼にはその理由が全く分析できない。それが余計に、苛立ちを膨れ上がらせる。

 その日から、よく夢を見るようになった。夢はいつも、父親に殴られているところから始まる。子供の頃と同じように、押さえつけられ、いいように殴られ続ける。体は大人になっているはずなのに、全く抵抗できない。父親は巨大で、圧倒的な力で、もがく悠葦をねじ伏せてくる。ぼろぼろになって床に転がると、そこで映像は歪み、出来の悪い編集がされたように場面が少しだけ飛んで、次の瞬間には這いつくばる自分の目の前で、幼い姉が父親から引きずりまわされている。

 「やめて!」

 彼は叫ぶが、誰にも聞こえていない。

 「助けて、助けて」

 父親に髪の毛を鷲掴みにされてもがきながら姉は繰り返すが、彼女には悠葦が見えていない。それを見ながら、悠葦は苦しみ続ける、姉の痛みは、自分の痛みだった。

 「やめてくれ!」

 再び、彼は叫ぶ。苦痛と悲しみで破裂しそうになりながら、無音の怒りを腹の底から絶叫し続ける。叫べば叫ぶほど彼は静寂に凍りつき、その耳に響くのは、助けを求める姉の声ばかり。

 狂人のような叫び声と共に、彼は目を覚ます。肩を震わせるほど息が上がっていて、しばらくぼうっとして体を起こせない。ふと顔を触ると眠っている間に流した涙で顔が濡れていることに気づいて、ただただ己が情けなく思える。惨めな彼がうずくまる狭い部屋には、金色の朝日が差していて、ベランダに降りてきた鳥が囀っていた。霞にような雲を抱く空は高く青く澄んでいる。たった一枚の部屋の窓を隔てた外の世界は、絶望的に美しく輝いていた。

 夢を見た朝はひどく抑鬱的な気分だったが、それでも真面目に仕事には出る。車を運転している間も悠葦の頭の中を占めているのは、少女や姉ではなく父親になっていた、しばらく意識的も無意識的にも思い出さないようにしていた存在が、癌細胞のように増殖して腫瘍となってせり出してきているような感覚に襲われ、息が上がって苦しくなる。もう忘れかけている父親の顔は靄がかかったようなのに、その頑強な肉体が岩石のように現れ、そこから火傷に覆われた二本の腕が突き出してくる。仕事を始めて姉を探しながら、毎日同じようなことを繰り返しているだけの、はたから見れば退屈で無益な日々は、実を言えば悠葦に妙な気分の安定をもたらしていた。周囲の人間が、自分を何者か知らない生活は、彼にとって心地よかった。それまで被虐待児であり、里子であり、過去にも現在にも未来にも、軽蔑と不幸と、よくて憐れみしかない生活から、初めて外に出られた。世間は自分を何者とも定義できなかったし、定義させずにいられた。けれどもいま、甦る父親の記憶によって、自分は内側から引き摺り込まれるように、被虐待児に逆戻りしている。記憶の奈落から這い出してきた、父親という怪物によって。

 __殺してやる、殺してやる、殺してやる!

 頭の中で、悠葦は何度も叫ぶ。そうすることで、必死で父親の幻をかき消そうともがく。最悪の気分でハンドルを握り、車を直進させる。いつの間にか足先がアクセルを踏み込んでエンジンはうなり声を上げ、赤信号の交差点を突っ切って行く。横からクラクションを鳴らして走ってくる車をすんでのところでかわしたが、勢いで前方の原付を跳ね飛ばしそうになって慌ててブレーキを踏む。全く集中力も冷静さも欠いていた、このままでは本当にまずいと思い、スピードの落ちた車をほとんどガードレールにこすりつけるようにしながら、車を路肩に停める。

 __俺か、父親か、どちらかがこの世から消えるべきなんだ。

 車内でそれを声に出ながら、天を仰ぐようにシートに持たれる。

 

  He walked on down the hall, and
And he came to a door
And he looked inside
“Father?” “Yes, son?” “I want to kill you”
“Mother? I want to…”


Come on baby, take a chance with us
Come on baby, take a chance with us
Come on baby, take a chance with us

 

 車のラジオからは、ドアーズの"The End"が流れている。かくも図式化された葛藤の中でもがいていることについて、彼に自覚はない。彼はその憎悪を、己の内奥から生まれてくる、己に固有の感情だとしか捉えていない。空白の時間の谷間に落ち込んだようになった状態から我に帰り、悠葦は時計を見る。これ以上じっとしているわけにはいかなかった、今すぐにでも走り回らなければ、課せられているノルマをこなすことは到底できない。車を発進させて、次に配達する家のことを考える。最悪だな、と思った、よりにもよって、いつも自分の都合に合わない時間に荷物を持って来られるだけでクレームをつける面倒な客の家に、これから向かわないといけない。

 何度言ったら分かるんだ、というフレーズを、もうさっきから何度言われたのか分からない。案の定、理不尽なクレーマーは目の前で無抵抗に突っ立っている悠葦にくどくどと説教を垂れ、執拗に罵ってくる。その男は、ちょうど悠葦の記憶にある父親と同じくらいの年齢だった、同じくらいの背格好だった、もしかしたら、同じような顔をしているのかもしれない。漠然と、悠葦は男を眺めている、自分の体とは離れた場所から、まるでいま罵倒されているのが自分ではないかのように。男の声が聞こえなくなって、凍りついたように体温が下がっていく。

 __なんだろう、これは。

 突如として、自分がそこに突っ立って、無抵抗に罵られている状況が不気味なほど客観的な視点で捉えられ、なぜそんなことが起きているのか全く理解できなくなる。目の前の自分は、なぜここまで尊厳を踏みにじられながら、何もせずにいるのか。

 __殺してやる、殺してやる、殺してやる!

 体の奥で、誰かが三回叫び声をあげる。かつて中学生の時にジムメイトを蹴り倒して厄介なことになって以来、もうそんなことはしないと心に誓っていたはずだった、怒りに任せ人に暴力をふるって、良いことなど何もない__。しかし悠葦は握りしめた業務用端末で、自分を罵るために開いたり閉じたりを繰り返す男の口を思い切り殴りつける。

 「あっ」

 威勢の良かった男は、急に情けない声を上げてのけぞる。悠葦がもう一度鼻面を殴りつけると、男は土間の上に転げ落ちる。男はそれでも悠葦を睨みつけるが、それによって余計に苛虐性を煽られた悠葦は、玄関先に立てかけてあったバットを握りしめると、再び男の口に向かって振り下ろす。鮮血と一緒になって、ぱらぱらと男の歯が土間に散らばる。男はうずくまって小さくなり、ようやく抵抗する意志を失ったようだった。父親の影に侵された霧は晴れ、人を殴って屈服させる側に立つことの快感に、万能感に、彼は震える。

 __見ろ! 俺はここにいる。消えたのは、父親のほうだ!

 彼は心の中で凱歌を響かせ、顔中が血まみれになった男を見下ろしている。

 

 

最後の物語 その8へ続くーー