Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その3

 を覚ましたとき、周りには誰もいなかった。天井はのっぺりとして真っ白で、それが限られた視界の全てだったから、茫漠として空のように見えていた。それはもしかすると彼が母親から産まれた瞬間に見た光の洪水に似た光景で、だから自分が今までとは違う世界へ、もう一度産まれ直したのだと思ったかもしれない。僕はお父さんに逆らった、だからもう、同じ場所へ帰ることはできない__彼がそう予感していたのは事実だった、その予感は、自分が別世界へやって来たのだと信じさせるのに十分だった。やって来たというよりも、父親に危害を加えないように放り捨てられたのだ、誰もいない世界へ運ばれ、放置されているのだ。二度目に目を覚ましたときには、誰かがそばに立っていて、声を上げて彼の目覚めを誰かに報告した。三度目に目を覚ましたときには、絵画の中の羊飼いのような白衣を着た医者がやって来て、彼の体を触診した。科学的な態度で触れられるのは初めての経験で、それはひどく不気味なものに映る。触れられた箇所がパズルのピースになって、崩れていくような気がした。四度目に目を覚ましたとき、そこには姉が座っていた。彼はそこでようやく安堵することができ、忘れかけていた記憶を取り戻そうとするかのように、ぎこちなく微笑んだ。

 「時間がないの」

 姉はそう言った。彼に微笑みを返すが、彼のそれとは違った形で、ぎこちない、哀しげな微笑みだった。姉もまた幼かったはずなのに、どうしてこんな風に微笑むことができたのだろうか、と大人になってから彼は思い返すことになる。そればかりか、姉は毛布の中へそっと手を滑り込ませると、いつも肌身離さず持っていた小さなウサギのぬいぐるみを彼に渡してきた。姉はすでに、彼らに起こることを予感していたとすら思える。少なくとも、たとえあり得ないようなことが起きたとしても、それを受け入れる覚悟を決めて生きていた__それを考える度、彼の胸は引き裂かれ、絶えず新鮮な悲しみの血の滴をこぼして震えた。柔らかくて暖かいぬいぐるみと対照的な、冷たく凍りついたような姉の運命を、どうして悲しまずにいられようか。それが彼が最後に聞いた姉の声であり、最後に見た姉の姿だった。

 

 「お姉ちゃんはどこ?」

 退院して家に帰って来て、最初に彼が発したのは、そのひと言だった。真っ先に出迎えてくれるはずの姉の姿を目にすることができず、家のあちこちを見て回ったあと、洪水のように押し寄せる不安と寂しさに溺れそうになりながら、一条の呼吸を求めるかのように、彼は母親と、そして父親を見上げながら尋ねる。

 「知らねえよ」

 父親が、冷たく言い放つ。知らないとはどういうことか、彼には全く飲み込めなかった。父親も母親も、その所在を知っているはずだったし、知っていなければならないはずだ。だから彼は、食い下がるように何度も同じ質問をする。苛立った父親は彼の髪の毛をつかんで、そのまま床に向かって突き飛ばす。二人の無機質な視線が、姉を失う恐怖と無力感で輪郭を失って崩れそうな彼の体に注がれていた。そこで彼はようやく、父親と母親が、姉の存在が消えてしまったことを無理やりにでも彼に受け入れさせようとしていることに気づいて、パニックになる。

 「お姉ちゃん! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 彼は外に飛び出して、周囲を走りながら姉を呼び続ける。どこへ行けばその声が姉に届くのか分からずに、当てもなく。だが、人々の好奇の混じった訝しげな視線以外、それに応えるものはない。彼を本気で心配して、手を差し伸べる者など誰一人いない。やがて追いかけて来た父親に首根っこを掴まれて地面に突っ伏された彼は、姉を呼ぶことをとうとうやめて、哀切を極めるような悲痛な声で泣き叫ぶ。まるでなまくらの鉈でぶつ切りにされたかのように、あまりに不条理でぞんざいなやり方で、彼の幼年期は終わらされてしまった。彼と父親がそのまま、こう着状態に入ったかのように動かなくなったその時、不意に地鳴りが訪れる。彼をさらいに来た大蛇のように、ちょうど真下の地面を引き裂いて走り抜けて行く。彼のそばに立っていた父親が、その地面の震えでバランスを崩してよろめいた。地面に突っ伏したままそれを感じた彼は、不思議な同調をその大蛇に感じた。極限の悲しみの膜を破って噴き出した怒りが、大蛇を呼び、地面を震わせたのだと思った。憎悪が、暴力と殺意が、彼の中に、まるで超越的なものを喚び起こす魔術的な力であるかのような何かとして、芽生えた瞬間だった。

 

 

最後の物語 その4へ続くーー