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Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その2

 「悠葦__」

 ガラス戸がゆっくりと、静かに開いた。寒くて震えていた悠葦が顔を上げると、姉が部屋の中から現れて、ベランダへ出てくる、慎重に、音を立てないように。

 「お父さん、もう寝るとこ行っちゃったからね」

 姉は悠葦に微笑みかけ、ウサギのぬいぐるみを手渡す。抱きしめると、ふわふわとしたぬいぐるみに残った姉の体温が伝わる。父親は折檻の後、凍え死ぬ可能性のある冬を除いて、ほとんどいつも悠葦を二階のベランダに閉め出した。だが春や秋であっても、夜間に外に放置されれば体はひどく冷える。だから姉はいつもこんなふうに、父親が寝たのを見計らって、こっそりウサギのぬいぐるみと垢で薄汚れた毛布を持って現れ、弟の横に座ると、冷えた体を毛布で包み込んであげる。悠葦は何もしゃべらずに、じっと何かに耐えるようにその抱擁を受け入れた、あるいは、実際に耐えていた。耐えていないと、涙を流してしまいそうになる。だから悠葦はじっと耐えていた、父親に絶対泣くなと言われていたから、そして、自分の涙を見せてしまうと、姉はうろたえて、一緒に涙を流してくれるから。姉は、唯一悠葦を愛してくれる人間で、そして唯一悠葦が愛する人間だった、だから、悠葦は姉の涙を見たくなかった。父親への恐怖と姉への愛情から、悠葦はほんの五歳になったばかりにもかかわらず、徹底的に自分の感情を殺すことができるようになっていた。溢れ出そうとする本能的な攻撃衝動のエネルギーを折り曲げて自分に向ける方法ではなく、自分を自分から切り離してしまう方法によって、悠葦は感情を殺す。自分から切り離すことには、このまま自分に戻れなくなって消えてしまうような不安と同時に、不思議な気持ち良さがある。すうっと自分の体から脱けて、離れれば離れるほど、あらゆる苦しみが溶けていく。戻りたくないとさえ思う。このままどんどん遠くまで離れていって、空高い所へ消えてしまいたかった。自分がいなくなってしまう方が、世界の全てが上手く回るような気がした。だからいつもベランダに閉め出されると、その安らかな孤絶の中で、悠葦は夜空を見上げる。そこに見える星々は、暗闇によって互いに隔てられ、弱々しく輝く。まるで呼びかける言葉を発するように光を放つけれども、どこへ届くこともなく、意味をなすこともなく、ただ、紙の端切れに書きつけられた宛てのない詩のように響く。自分が自分から切り離されてどこまでも高く昇っていけば、あの星々の声が聞こえるかもしれない、と悠葦は想像する。

 「お姉ちゃん」

 「ん?」

 「お星さまってな、どれくらい高い所にあるん?」

 「うーん、どれくらいかな。そうやな、近くのお風呂屋さんの煙突、あるやろ」

 「うん」

 「きっと、あれが百個くらいの高さ」

 「めちゃくちゃ遠いな」

 「誰も行ったことないような所だよ」

 「そんな所にいて、お星さまは寂しくないんかな。見て、お姉ちゃん、みんな離れ離れになってるやろ」

 「心配せんでも大丈夫」

 「なんで?」

 「お星さまってな、ほんとはもっといっぱいあるから。この前のな、テレビで観た。日本では全然見えないけど、砂漠に行ったらな、すごいたくさんお星さまがあるのが見えるんだよ」

 「砂漠?」

 「そう。人がいなくて光が全然ない暗い暗い所やったら、お星さまの本当の姿が見えるんだって」

 「人のいない所には、星がいっぱいあるんだね」

 「うん。そんで、ものすごく近い所に見えるんだって」

 「どれくらい近いの?」

 「きっと、でっかい大人がジャンプしたら届くくらいじゃないかな」

 「ほんとに? すごい!」

 「ほんとだよ。だって、手を伸ばしたら届きそうって、テレビで大人の女の人が言ってたから」

 「じゃあ、おれ、大人になったら砂漠に行く。それで、お星さまに触って、お星さまの話を聞くんだ。たくさんのお星さまの話しを聞いてたら、ここみたいに、寂しくない。ここは、お姉ちゃんが来てくれるまでは、一人ぼっちだから」

 「お星さまの話を聞くって、なんか神様みたいやな。お星さまの上には、神様がいて、みんなの話を聞いてくれてるって、誰か言ってた」

 「神様なんて、いるの?」

 「さあ。でも、お父さんはそんなものおらんって言ってた」

 「じゃあ、いないよ、そんなの」

 悠葦は、即座に不在の父親の言葉に同意する。その幼心には、父親に疎まれていると思うのは耐え難くて、いつも父親の言うことを素直に受け入れて良い子でいようとする。

 たわいもない話が終わると、悠葦は毛布にくるまれて、姉のぬくもりを感じながら眠りに落ちる。柔らかさと温かさはいつも、家の中ではなくベランダで与えられる。そして朝が来て、父親が仕事へ行った後、再び固く冷たく静かな部屋の中へと帰っていく。

 

 

  *

 

 

 小学校からの帰り道、悠葦は安普請のアパートの前で足を止める。子供の気まぐれな好奇心で、彼はその不吉な居住いを観察する。手入れのされていない敷地にはひび割れたコンクリートのあちこちから雑草が這い出し、鉄製の階段は錆びきって赤茶け、ザラザラとした卵色の壁は黒皮症のように汚れが染み込んでいる。裏側の壁にはとりわけ黒く変色した部分があり、大人たちの語るところによれば、このアパートでは過去に二件ほど殺人事件が発生し、そのうちの一件の犯人が、内縁の妻を殺して屍体をどこかに捨てるために運び出そうとしたが予想外に重くて疲れたので、建物の裏で燃やそうとした跡らしい。当然、犯人はあっさり通報されて捕まった。あまりに短絡的で稚拙な犯行は、この地域の人々からすれば笑い話のようにして語られている。

 折から風が吹いて、生臭い川底の汚泥のにおいがした。悠葦は再び、家に向かって歩き始める。手提げ袋の代わりに渡されたスーパーのレジ袋には、小学校に入学して初めての図工で作った紙粘土の作品が入っている。悠葦が作ったのは、車だった。車好きの父親に見せたら喜ぶのではないか、と子供の想像力で考え、できるだけ父親の大事にしている車に似せて作った。父親にその紙粘土の車をプレゼントするところすら夢想する。いくら殴られても、彼の中に父親を憎むという感情は芽生えて来なかった。父親はあまりに大きく、全能で、憎しみの埒外にある。暴力の雨の中で、寵愛の光を求めている。それがいつか終わるかもしれないという想像すらできない。自分にとっては当たり前の、生きなければならない日常でしかない。だから悠葦にとってそれは、悲劇でも喜劇でもない。

 紙粘土の車を、悠葦はテーブルの上、父親がいつも使う座椅子の正面の位置に置いておく。自分の思いをアピールするために直接渡すのではなく、気付いて手にとって欲しいという、控えめでいじらしい気持ちと、父親への怯えからだった。

 「それ、どしたん?」

 作品に気づいた姉が聞く。

 「学校で作った」

 「お父さんにあげるの?」

 「うん」

 「自分で、ハイって渡したらいいのに」

 悠葦は首を横に振る。このほんのささいな選択が、結末を変えるだけのものだったのかどうかはさておき、計算からではなく直感から、悠葦は姉の勧めとは違うほうを選んだ。通りすがった母親もまた、テーブルの上の作品に気づいたが、特に興味を示さずに、無言のまま台所に入る。冷凍食品の袋をバリバリと破って、スーパーで買ってきた惣菜と一緒にレンジで温め、使い捨ての紙皿の上に並べていく。光の無い目が、時計をちらりと確認する。もうすぐ、父親が帰ってくる時間だ。

 けれども、いつもの時間になっても父親は帰ってこなかった。こういうことはちょくちょくある。時間が遅くなればなるほど、家族の間に緊張が高まっていく。それは父親がどこかで酒を飲んでいる証だった。酔った父親は、いつもよりもさらに暴力性をむき出しにする。それは常に、悪いことが起きる前兆だった。まるで首を絞め上げる圧力をゆっくりかけていくかのように、部屋の中に時計の針の音が規則正しく響く。悠葦は、テーブルの上に置いた作品をそれがお守りであるかのように見つめていた。三人はじっと息をひそめるように身を固めて、父親の帰りを待つ。まるでぼろぼろの小屋に隠れて、嵐が来るのを待つかのように。

 そして父親は帰ってきた、案じたそのままに、彼は酔っている。ただでさえ大人としても大きな図体が、爛れたような赤い顔を乗せて、どたどた重い足音を立てて近寄る姿は、幼い悠葦の眼にはまさしく怪物のように映る。何が面白くないのか不機嫌そうにして、身を投げるようにソファに腰掛けた父親は、すぐに悠葦が置いておいた作品に気づく。間髪入れず、父親はそれを手に取り、有無も言わさず悠葦にそれを投げつける。

 「俺のテーブルに物を置くんじゃねえ!」

 父親に睨みつけられて、悠葦は硬直する。そして我に帰ると同時に、わんわんと泣き始めてしまう。あまりに瞬間的な出来事に、何の防衛機制も働かすことができず、切れて血を流す額の痛みと淡い期待をあまりに簡単に打ち砕かれたショックで、歯止めが聞かないほどに涙を流す。「うるせえ」と言いながら、父親が悠葦を見下ろす。苛立ちに震えて、右腕を弄りながら。父親の右腕には、子供の頃に付けられたらしい、ひどい火傷の跡があった。手首から肩までうねるように伸びるそれは、火の神を象った刺青のようにも見える。誰かにその火傷の跡の中に埋め込まれた怒りの感情をほじくり出すかのように弄るのが、苛立った時の父親の癖だった。

「黙れ!」

 怒鳴りつけられ、髪の毛を引っ張られて命令されるが、感情をやりくりする術を失った悠葦は、ますます泣きわめく。その感情のエスカレートに呼応するように、父親の苛立ちもエスカレートしていく。次の父親の一撃で、自分がばらばらになる予感がした、その恐怖に、悠葦は悲鳴を上げる。

 「やめて!」

 その瞬間、そう叫んで二人の間に飛び込んできたのは、姉だった。それは無謀な行為だった、いくら普段は矛先を向けられていない姉とはいえ、父親に逆らえば容赦ない仕打ちが待っているのは明らかだ。そしてあっけなく、姉は髪の毛をつかまれてその場に押さえつけられる。姉が悲鳴をあげ、同時に、悠葦は姉の声に反応する自動機械のように注意をそらした父親に飛びかかっていく。恐怖が消え、興奮で信じられないくらい体が熱くなっていた、雄叫びを上げ、持てる力を振り絞って、父親の腕に噛み付いた、まるで火傷の跡を喰いちぎろうとするかのように、そこに封ぜられた火を盗もうとするかのように__。そこから先の記憶は無い。後頭部に重く強烈な衝撃が走って、悠葦の意識はぷっつりと途絶えてしまった。次に病院のベッドで目を覚ますまで、彼は暗闇の底へ沈んで動かなくなる。

 

 

 

最後の物語 その3へ続くーー