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Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その12

 して彼は、20年ぶりに自分の生家に戻ってきた。それが同じ場所に同じように残っていることにいくらか驚きつつ、近くの公園のそばに車を停める。当時ですら古びていたアパートは20年経った今では無残なくらいにみじめな見た目になっており、壁は乱雑に淡墨を吹き付けたかのように汚れ、階段は錆びて歩くと崩れ落ちるのではないかと思える。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどだった。自分の生みの家族は、とっくにどこかに引っ越しているのだと、何の根拠もないのに今まで信じきっていた。しかし、福祉事務所からの文書に記載された母親の住所がここだったということは、未だにここから引越しなどせず、とどまっているということになる。少なくとも母親は。父親と姉はどうしたのだろうか、と思う。自分にとって重要なのは、その二人なのだ。会ってどうするのか、ということは、彼自身はっきりとは分かっていない。三人ともここにいるのなら、両親を殺して、姉を連れて逃げるのか、あるいは他に方法があるのかは知らない。彼が求めているのは、自分を呪縛している家族の呪いのようなものを、完全に断ち切ることだった、一刻も早くそうしたくて、何の考えもないくせに、衝動的にここへやってきた。殺すなら、二人まとめて焼き殺すのが一番いいと思って、車にはガソリン携行缶を積んである。

 確かに見覚えのある部屋のドアの前に立って、インターホンのボタンを押す。音は鳴らなかった、何の反応もない。続いて、ドアをノックする。やはり反応はない。苛立って、ほとんど殴るような強さで、一度ドアをノックする。誰も出てはこなかった、だが、部屋の奥で、ガタンと何かが落ちるような音が聞こえる。誰かが、部屋の中にいる。母親か、父親か、もしかすると姉なのか、それは分からないが、彼は何の躊躇もせずに、ドアノブを掴みガチャガチャと音をさせて何度か回してから、そのドアが施錠されていないことに気づく。一瞬動きを止めて、小さく呼吸をした。それから、勢いをつけるようにして、悠葦は20年ぶりに、そのドアを開ける。

 そこにいたのは、何か予想外なもので、不潔な見た目の老婆だった。パサついた白髪を垂らし、襟元の黒ずんだ服を着て、色が褪せきったような絨毯に座っている。悠葦と老婆は、無言のまま互いを観察している。悠葦がゆっくりと近づいて行くと、おそらく何日も風呂に入っていない老婆からは、老いた人間特有の生臭いにおいがした。これは誰だろうかと訝りながらも、老婆はどこか見覚えのあるような姿をしている。老婆もまた、何か思うところがあるのか、近づくほどに、まじまじと悠葦の顔を観察し続けている。

 「……お前、悠葦か」

 歯がまばらに抜けた口を動かして、老婆が尋ねてくる。うまく喋れなくなっているようで、言葉と一緒にひゅうひゅうと間の抜けた息が漏れる。

 「なんで俺の名前を知ってるんだ?」

 初対面の老婆に自分の名前を呼ばれて驚き、悠葦は足を止める。

 「なんで? 理由なんかいらんやろ」

 「どういう意味だ」

 そう言った瞬間、悠葦は目の前の老婆の正体に気づく。20年前とは、見た目が変わりすぎていたが、それは紛れもない、自分の母親だった。年齢で言えば50歳くらいのはずだが、あまりに醜い老い方をしているせいで、幼い頃の記憶しかない悠葦には別人にしか見えない。いったいあれからどういう人生を歩めば、こんなひどい老い方をするのか。

 「何や、アタシが分からんのか」

 「今分かった。ずいぶん汚いなりをしてるな」

 「ひどいやつ。久しぶりに会ったいうのに」

 そう言って、母親はくっくっと喉を引きつらせて笑う。悠葦は、記憶の中に母親の姿がほとんど残っていないことに気づいた、見た目や話し方や、笑い方を目の当たりにして、自分の母親とはこういう人間だったのかということをたった今、この場所で発見する。俺と姉は、こんな醜くて頭の悪そうな存在から生まれ落ちたのかと思うと、背筋が寒くなる。この女から遺伝したものを全て引きちぎって捨てられるのなら、そうしたい。

 「それで? どうしてここへ来た?」

 「役所から手紙が来た」

 「ああ、あれか」

 「何のつもりだ」

 「アタシは知らんよ。役所の奴らが勝手にやったんだ。息子に金があるかどうか、聞かにゃならんとかいって」

 「迷惑だ」

 「別に金なんか無いって言えばいいだろ。アタシだってお前に期待なんかしちゃいない。どっからだろうと、金さえもらえりゃいいんだ」

 悠葦は、話せば話すほど不愉快な気分になっていく。口を開けるたび母親の口から漏れる口臭で吐きそうになる。

 「俺もお前の世話なんかするつもりはない」

 「じゃあ、何しに来た」

 「親父の居場所を教えろ」

 母親の表情がさっと変わり、目つきが悪くなる。まるで悠葦を憎悪して睨みつけるような顔だった。

 「……知らんよ」

 「嘘つけ」

 「知らん」

 「嘘つけ!」

 何の根拠もなく、悠葦は母親が父親の居場所を知っているはずだと思う。激情に任せて、台所のカゴに無造作に入れてあったなまくら包丁を掴むと、それを母親の顔面に突きつける。

 「何すんだい」

 「言えよ」

 「本当に知らんよ」

 「じゃあ死ね」

 「……ちょっと待ちなよ。何でアタシがあの男の行方を知ってるんだい」

 「知るか。でも、それを確かめるには、お前を殺してみるのが一番だ。命の引き換えに隠すようなことじゃない」

 「知ってりゃタダでも教えてやるよ。いいか、あの男はな、お前が施設に入って養子に行った後、どっかに消えてしまったんだ。それから連絡もよこしゃしない。20年も前に失踪した男の居場所なんか、アタシが知るわけないだろ」

 「手がかりくらいあるだろ」

 「ないよ。まったく銀行から有り金全部引き出して、自分だけ逃げやがって」

 「逃げた?」

 「……ほら、その、あれだよ。金の持ち逃げってことだよ」

 母親は何かを隠しているような感じもしたが、それは悠葦の関心を引かなかった。彼は考えあぐねた、父親を見つける手段がないということは、見つけだして殺す術もない。いっそ母親だけでも殺して行くかと思ったが、自分が本当に殺したいのは父親だった、そんなことをしても何にもならない。ならば、と思う。

 「それなら教えろ。姉はどこへ行った?」

 「……知らんよ」

 さっきと同じ答えだった、しかし、声のトーンは明らかに違う。何かを知っている、と悠葦は直感する。

 「教えろ!」

 「だから知らんよ」

 「じゃあ、姉はどうしていなくなったんだ」

 「……知らん」

 「そんなわけないだろ!」

 「知らん、アタシは何も知らん!」

 その叫びを合図にしたかのように、突然、激しい地鳴りがした、山が裂けるような音がして、立っていられないほど地面が揺れ、二人はほとんど床にしがみつくかのようにへたり込む。猛烈な地震に襲われ、ボロボロのアパートは今にも倒壊しそうになり、壁や柱が軋んでバキバキと嫌な音がする。ようやく収まりかけた瞬間、壁に大きな亀裂が走ったかと思うと、壁紙が破れ、中から砕けたコンクリートがなだれ込んでくる。地震が収まり、呆然とそれを見ていた悠葦は、なぜここだけコンクリートになっているのかと思い、近づいて行く。

 「やめな!」

 母親が叫ぶ。恐ろしい形相で、這うようにしてこちらへ近づこうとする。だが、地震で腰が抜けたのか、動きは緩慢でその場でもがいているのと変わらない。悠葦はそれを無視して、コンクリートが砕けた壁の奥をのぞき込む。そこには、何か白い枝のようなものが突き出している。コンクリートの中に入れてある建材か何かかと思ったが、そうではなさそうだった。もう少し近づき、そして悠葦は息を呑む。そこにあったのは、人の骨、人の頭蓋骨だった、大きさから言って、小さい子供のものに間違いない。

 「……これは何だ」

 母親は黙っている。動きを止め、悠葦をじっと見ている。

 「言え!」

 悠葦は母親に駆け寄り、不潔な白髪頭を掴み上げ、自分の方を向かせる。

 「……知らん、知らん」

 母親は弱々しく首を振るが、頭を掴まれているので、ろくに身動きが取れない。悠葦はその垢で汚れた首筋に、包丁の切っ先をゆっくり押し付ける。皮膚が破れて、一筋の血が流れた。

 「言えよ」

 「……」

 「あれは、俺の姉だろ?」

 包丁を喉元に突きつけられて、母親は首を縦にも横にも振れない。ただ血の気の引いた真っ白な唇をパクパクさせて、ようやく言葉を漏らす。

 「……そうや」

 その答えを聞いた瞬間、悠葦は包丁の柄で母親の頬を殴りつける。

 「どうしてだ。何があった!」

 「あの男だよ。お前の父親がやったんだ」

 「何でだ……姉が一体何をした!」

 「……」

 黙っている母親の頭をもう一度掴み上げ、同じように包丁を突きつける。

 「助けたからだよ」

 「助けた? 誰を?」

 「お前をだよ」

 驚いて、悠葦は思わず包丁を下ろす。あの日、父親にひどく殴られた自分を、姉は救おうとした。そして、代わりに暴力を振るわれる姉を救い出そうと、自分は初めて父親に逆らい、そして病院に運ばれることになった。そのことを思い出して、悠葦は動きを止める。

 「俺のせいで、姉が死んだっていうのか」

 「そんなことは知らんよ。ただ、お前が入院したせいで警察のやっかいになりかけたあの男は、尋常じゃないほど腹を立てて、あの子を顔の形が変わるほど殴ったのさ。気を失うと、風呂場で水をぶっかけて、目を覚ましたかと思うとまた殴るの繰り返し。もう手がつけられなかった、アタシにゃ止められんかったよ。そんで、気が付いたらとっくにあの子は死んでた。アタシだって、あの子を救いたかったよ。でもな、分かるだろ、あの時、お前の父親に逆らうなんて無理な相談だっただろ」

 悠葦に殺されるとでも思ったのだろうか、母親は、懇願するように、自分の罪のなさを認めさせようとしてくる。

 「お前は、俺と姉を救おうなんて、一度たりとも思ったことはないだろ」

 「そんなことないよ」

 「お前はただ、自分がやられなければ、それで良かっただけだろ。お前はただ、見ているだけだ」

 「そんなことないよ、そんなことない、そんな__」

 呪文のようにつぶやき続ける母親の前で、悠葦は包丁を振りかざすと、懇願するように自分を見つめる母親の両眼めがけて、その刃を真一文字に薙ぐ__。

 

 

最後の物語 その13へ続くーー