Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 最終回

 日も、悠葦はチャンスを伺っていた、男と妻子が暮らすマンションの近くを車で周り、息子が一人で外に出てくる瞬間を待つ。自分が指名手配されていることをニュースで知っていたので、とにかく慎重にやらなければならず、警察に怯える毎日だった。帽子を目深に被り、口にはマスクをして、一箇所に長時間いないように気を配る。助手席にはバッグが置いてある。その中には、彼がいつか姉と一緒に暮らそうと貯め続けていた金が入っていた。決して多くはないが、しかし彼のこれまでの人生で費やしてきたものが、そこに詰まっている。漠然と、彼はその金を息子に渡そうと思っていた。所詮そうしたところで男と妻に取られてしまうだけだが、悠葦はそんなことについては何故かまるで考えない。とにかく、自分が貯めた金を息子に与えたという事実だけがあれば、それで良いとでもいうように。

 そしてようやく、彼は公園で独り遊ぶ息子を発見する。母親から暗くなるまで外で遊んでおいでと言われたので、真栄はそれと引き換えに渡されたお菓子をポケットに入れて、公園までやって来ていた。新しい生活が始まってから、母親は長い時間を男と二人だけで過ごすようになり、あるいは世間からネグレクトと批判されるかもしれないが、真栄自身はそれをどうも思っていない。父親から離れることができて、男が自分を殴る様子もないし、もともと母親は子供に対して関心を示すような人間でもない。独りで遊ぶ自由があるだけで、真栄は満足だった。遊具を使ってひと通り遊んでから、草むらでバッタを捕まえると、ベンチに座ってそれを観察する。それは真栄にとって平穏そのもので、初めて彼の世界が安定した時間だった。だから、ベンチに近づいていくる父親の影を見たとき、それはさぞかし巨大で、不穏な暗闇に見えただろう。

 「真栄」

 久しぶりに、悠葦は息子の名前を呼ぶ。真栄はなぜ父親が現れたのか分からず、驚いた顔で見上げている。恐れているが、体がすくんでおり、逃げる様子もない。一方で、悠葦も何と言っていいのか分からない。息子が生まれてから今まで、まともにコミュニケーションなど取ったことがなかった。

 「来い」

 悠葦にできたのは、結局力ずくで息子の腕を引っ張って、車に押し込むことだけだった。公園を散歩していた老人がそれを見かけて、何やら叫びながら一人で後ろを追ってくるのが見える。悠葦の行為は、当然のことながら他人から見ればただの誘拐でしかない。いちいち取り合っている暇はなかった、急いで息子を車に押し込むと、エンジンをスタートさせて、一気に逃げて行く。

 できるだけ信号の無い道を選んで走る。一瞬でも止まりたくはなかった、自分は息子に、何かを伝えなければいけないと思っていたから、せめてそれまでは捕まるわけにはいかない。ただ、いったい何を伝えればいいのか、彼には全く分からない。殴るということ、屈従するということ以外の、父子関係のイメージを持ち合わせてはいないのだ。もうこれ以上、息子を殴る気はなかった、かと言って、息子に何をしてやろうとしているのか、自分でもよく分からない。ただ、金を与えようということだけは決めている。助手席の真栄は、ただじっと身を固くしている。何かをする勇気など、父親相手に持つことはできないでいる。散々いろんなところを走り回った挙句、悠葦がたどり着いたのは、父親の失踪と姉の死を知り、母親の両眼を切り裂いたあとと同じ、夜の山道の路肩だった。

 「真栄」

 もう一度、息子の名前を呼ぶ。けれども相変わらず、何をしていいのか分からない。息子は、じっとうつむいたまま目を合わせない。悠葦はシートに体を沈めるように座り直し、空を見上げるようにする。よく晴れた日だった、暗い山道からはたくさんの星が見える。積み込んだ携行缶のせいで、車内はガソリンの匂いがする。悠葦はずっと考え続ける。考え続けるが、何も思いつかない。一つため息をついてから、もはや自分にできるのは、言葉ではなく行動だけだと結論付ける。しびれを切らしたような動作で、悠葦は後部座席へ身を乗り出して、そこに置いてある、金の入ったバッグを掴む。そして後ろを振り返ろうとした瞬間、息子がまるで抱きつくかのように、背中に覆いかぶさってくる。息子は固く目を閉じ、唇を噛みながら、悠葦にくっついたまま、荒く息をし続けている。何が起こったのかを理解する前に、悠葦の脇腹に激しい痛みが走った、全身が脈を打っているかのようにピクピクと蠢き、自分の中から、何かがどろどろと溶け出していくかのような感覚があった。体が動かない、言葉が出てこなかった、出そうとすると、一緒に力が失われていくのが分かる。ただ、弱々しい呻きだけが漏れる。

 __刺された。

 ようやく悠葦はそれを理解する。息子の両手に握られたなまくらの包丁が、自分の脇腹に刺さっている。黒くて円い奈落のような息子の瞳が、こちらを見つめている。それは、父と子が見つめ合った最初の瞬間であり、同時に、最後の瞬間だった。口元は笑っているようにも見える。そこには、身を凍らせるような恐怖と、身を焼き尽くすような昂揚が同時に溢れ出している。真栄は空想の中で何度も何度もシミュレーションした通り、ヒーローの武器を両手に持ち、父親を突き刺したのだ。

 「やめろ!」

 振り絞るように叫んで、悠葦は息子の頭を殴打する。真栄は弾き飛ばされて、後頭部をドアにぶつけて動かなくなった。一瞬殺してしまったかと思い、息子に顔を近づける。鼻からかすかな呼吸の音がしていて、失神しただけだと分かってひとまず安心する。今に至るまで、悠葦は自分が息子を完全に支配下に置いているという意識が抜けずにいた、よもや息子が自分を殺そうとするなど、夢にも思っていなかった。子供の頃の自分と比較しても、意気地のない息子だと思っていたが、それが完全に間違いだったと認めざるを得ない。たぶん同じ状況にあっても、自分には父親を殺せなかっただろうと思う。包丁は、さほど深く刺さっていない。このまま病院に行けば助かるはずだった。

 一度山道から出て、悠葦は交番の近くにある公園を見つけ、そこに息子を降ろした。ここならば、明日の朝にはだれかが見つけて、息子を交番に預けてくれるだろうと考える。失神したままの息子を見下ろしながら、その手には金の入ったバッグを握っている。しばらく考えてから、悠葦はその金を息子に与えるのをやめようと思った。代わりに彼が思いついたのは、このまま息子に殺されてやるということだった。金を与えるなどというのは、愚かな思いつきだったと思う。何かを与えるということは、所詮、たとえそれが純粋な善意からのものだったとしても、自分の力を息子に誇示することでしかない。この後に及んで、何のために力を示すというのか。彼の考えは、全く正反対の方向へ進み始めていた、すなわち、どこまでも無力な存在として死んでいくというのが、彼の結論だった。全く殺すに値しない、同一化する必要のない、徹底的に無力な存在として、俺は息子に殺されてやるのだ。悠葦はそう思った。

 

 (おい、よく聞け。俺は今、真栄と一緒にいる。お前が男と逃げたことは分かってるんだ。用意できるだけの金を、今から言う場所に一時間後に持ってこい。警察には言うなよ!)

 我ながら随分と不器用な身代金の要求の仕方だと思いながら、悠葦は妻へ向けた電話を切る。こうしておけば、あの二人は当然警察に通報するだろうと思った。そして指定の場所で待っておけば、警察が自分を捕まえにくるだろう。脇腹の痛みはまだひどかったが、あと少しで終わると自分に言い聞かせ続けて耐える。

 約束の時間、約束の場所までやって来て、そこをぐるりと一周しながら、警察の車に目星を付けようとする。実際のところ、どれがそうなのか悠葦には分からなかった、どれも怪しい気もするし、どれもそうでない気もする。たぶん警察が来てるはずだと思うしかなかった。しかし、ここで捕まろうとは思っていない。悠葦は急に進路を変え、約束の場所から離れていく。フロントミラーで、後続車が三台ほど来ているのを数える。きっと警察の尾行に違いない。悠葦が徐々にスピードを上げていくと、それに合わせて三台の後続車もついてくる。やはりそうだと思い、さらにアクセルを踏み込む。あとは後ろを振り返らず、夢中で逃げ回ることにする。不器用に身代金を要求して、あとは警察に追い回され、できるだけ無様に事故で死ぬだけだ。川にでも飛び込むか、公衆トイレに正面衝突でも良い。闇雲にハンドルを切り、対向車線に飛び出しながら前の車を追い抜いて進んでいく。街を走り抜けながら、彼は死に場所を探している。街にはいろんなものが溢れすぎている、建物が建ち並び、人々が往来し、ガードレールも電柱も続いているし、歩道橋なんてものもある。死ぬ場所にはことかかない! 俺はどの瞬間であっても、ハンドルひとつ切るだけでこの身体をぐしゃっと押しつぶすことができる。悠葦は妙な解放感で恍惚としながら、運転をしていた。しかしそこで、警察が追跡しているのに、全くパトカーのサイレンが聞こえないことに気づく。不思議に思い、スピードを落とすと、フロントミラーを再度確認する。そして、そこにはなんとさっきの車が一台も映っていなかった。悠葦は驚き思わず車を停める。もう一度確認するが、そこには一台の車も自分を追っては来てはいない。どうやら最初の三台は、警察でもなんでもなく、ただの普通の後続車だった。そのことをようやく理解した悠葦は、同時に笑い声をあげる。ならば妻とあの男は、自分からの脅迫の電話を、ただ単に無視したのだ。後ろめたいことのある二人であり、警察との関わりを持ちたくなかったのか。たとえ子供の安否がかかっていたとしても。見放されたものだと悠葦は思う。だが別に、それでも良い。真栄が、誰かの子供である必要などないのだ。

 __まあ、これで良い。

 そう思った。いちいち警察に後を追わせることはない。無様な死に方なら、いくらでもある。

 

 悠葦は、三たび山道に戻ってくる。夜もだいぶ遅くなったおかげで、他の車は一台もこの道を走っていない。目的の場所が近づくと、ハンドルを切りながら徐々に速度を上げていく。足元のガソリンの携行缶を蹴り倒すと、においが車内に充満する。身代金を取り損ねて、結局息子を放り出した男が逃走を図って山道に逃げ込んだが、誤ってガソリンの携行缶を蹴り倒し、そのまま危険性について何も考えることなくタバコを吸おうとして、気化したガソリンに引火、そして火だるまになった男は無様にも、急なカーブでガードレールに突っ込み、そのまま転落して死亡。それが彼の筋書きだった、まるでギャグ漫画のような死に方だと、悠葦は笑いを漏らす。ハンドルを握る手が冷たい汗を書き、震えている。ああ、俺は怖いんだな、と悠葦は自分が恐怖心を抱いていることを受け入れる。そうすると、心がどんどん静まっていくのを感じた。車を操作しながら、口にタバコを咥える。結局、自分には何もできなかったな、と思う。父親を殺すことはできなかったし、姉を救うこともできなかった。妻と息子を殴り、母親の両眼を切り裂いた。無力を恐れ、力を求め、それゆえに何もかも台無しにしただけだ、何よりも自分の人生を。けれども今、自分はただの無力な存在として死んでいくことができる。父親の死の顛末を知ったとき、息子は自分をこの上なく愚かで無力な存在だと思ってくれるだろう。息子は、将来もう誰かを殴る必要はないだろう。殺すに値しない父親を殺そうとした息子に、父親の死を贈与する。それは、与えられた者が与えられたことに気づかない贈与だ。痕跡のない、贈与であることをあらかじめ剥奪された贈与。与えられた者が一切の負債を抱えることのないゼロの贈与。与える者が一切を与えてしまう無限の贈与。

 悠葦は正面のガードレールめがけてアクセルを踏み込むと、ハンドルから両手を話す。フロントガラスの向こうには、無数の星が見える。囁くように光を放ち、夜空は明るく天体の声で満たされている。ただ悠葦一人だけが静かで、茫漠の闇の中でぽつんと車を走らす。歌でも口ずさみたい気分だが、なんのメロディも浮かんでこない。好きな歌が、一つもない人生だった。姉のくれた、小さなウサギのぬいぐるみを胸に抱いて、咥えたタバコの先に、ライターで火を点ける__。

 

 

(了)