Re: Writing Machine

Teoreamachineの小説ブログ

最後の物語 その13

 がつけば、また車でずっと長い距離を走っていた、ただ衝動的に、彼は遠くへ逃げたのだ。助手席には、血のついたなまくらの包丁がおいてある。母親の両眼を切り裂いた後、彼は極度の興奮状態にあり、包丁を握りしめたまま車に乗り込んでしまった。彼は人目を避けるように夜の山道へと入り、路肩に車を停めて、疲れ切った体と神経を休めようとする。手はかすかに震えていた、母親の両眼を切り裂いた時の感触が、まだ残っている。せいぜい15分に一台車が通る程度だった、重く滞留する煙のような静けさが、周囲を満たしている。シートを倒して仰向けになった時、ルームミラーに吊り下げた姉の形見のぬいぐるみが目に入る。その瞬間、彼の感情は激しく揺さぶられる。

 __姉はもう、この世にいないのだ。まだ生きていると俺が信じていた間も、ずっと、姉は死んでいたのだ。

 悠葦は仰向けのまま顔を覆った、そして、目から涙があふれ、彼は嗚咽し始める。感情のコントロールができなかった、今までの人生で耐えてきたものが全て崩れ落ちていくかのように、彼は泣き続ける。何もかもが、耐え難かった、自分が今まで耐えてきたという自覚すらなかった。いつもどこかで、最後の心の拠り所にしてきた姉が、もう存在していなかった、その事実が、自分の存在をどこまでも無根拠にしていくような気がする。自分が、この夜の闇の中にふわふわと浮かんでいるように感じた、このまま流されて、自分はどこかへ消えてしまうんだと思う。

 __本当に、どこへ行けばいいんだ。

 彼はひたすら、心の中でそう自問し続ける。根拠のない存在には、帰る場所も行く場所もない。父親を殺しに行くことについて、何度も考える、何度もそれを目的にしようとするが、うまくいかない。姉を殺した父親に対する憎悪はこの上なく激しかったが、同時に、父親を憎悪することも殺すことも、この上なく無意味だという考えが湧いてくる。矛盾した感情と思考の両極に引き裂かれながら、彼は煩悶する。煩悶しながら、自分が今まで、自覚もせずに、父親に同一化しようとしていたことを理解し始める。そしてそれは、その同一化の欲望が、姉の死を知った瞬間に、完全に停止したことを意味している。彼は自分のそれを、今や距離を取って、遠くから眺めている。姉の残した小さなウサギのぬいぐるみを抱きかかえるように胸元に持ちながら、彼は嗚咽を続ける。悲しめば悲しむほど、絶望の底で、父親への恐れとそこから生まれる怒りが、まるで浄化されるように消えていく。そして涙が枯れた時、彼はどこまでも空虚な何者でもない存在でありながら、しかし、これまでの彼とは全く別の存在になっていた。今まで彼を駆動させていた、父親への怒りと恐れが消えて、もはや彼は何によって動けば良いのか、分からなくなっている。まるで姉が、自らの命と引き換えに、悠葦の中の父親を消し去ったかのようだった、殺したのではなく、まるではじめから存在しなかったかのように、消し去ってしまった。殺すことはそれまで存在していたことを逆説的に強く肯定するが、消し去ることは、その存在の痕跡すら残さないように、根こそぎ捨て去ることを意味する。どこまでも小さく無力な姉は、どこまでも大きく万能な父を、悠葦の中から消し去ったのだ。彼はもはや、父殺しと、その対象となる父を求める必要がなくなった。

 __息子に会いに行こう。

 彼は、突如としてそう考える。もはや彼は、なんの希望も抱いていない。だから、このまま消えてしまうつもりだった、だから、消える前に、何か贖罪をしようと思った。自分が父親と同一化することで、最も苦しめたのは、自分の息子に他ならない。強大な力で抑圧を受けた息子は、大きくなるにつれてその無力感から逃れるために、自分に同一化しようとするかもしれない。人間の世界で、愚かしくも繰り返されるメカニズムを再生産することに人生を費やしてしまうかもしれない。だから、悠葦はそれを阻止したいと思う。

 

 真栄は、母親から貸し与えられたスマホでゲームをしていた。以前に父親が家に連れてきた男と母親と別の家に移って新しい生活が始まってから、母親は頻繁にゲームをさせてくれるようになった。「ちょっと二人で話があるから、真栄はゲームやってて」と母親は言って、いつも男と二人で寝室へ入って行く。そこでどんな会話が行われているのか、真栄は興味を持たなかった、時々母親の笑い声が漏れてくるので、楽しいことでも話しているのだろうと思う。そんなことよりも、彼はゲームに夢中だった。まだ慣れていないので、画面の上で指を乱暴に扱い、しょっちゅうゲーム画面を閉じたりしてしまう。とはいえ、何度も繰り返したのでゲームを再開させる方法もすっかり覚えてしまった。ゲームを再開した時、彼の指はたまたま降りてきたニュース速報の通知を捉えて、それを開いてしまう。

 

 被害者息子を指名手配 母親の両眼切り裂いて逃走

 市内のアパートで無職の新宮優子さん(51)が両眼を包丁で切り裂かれて倒れていたのが発見された事件で、捜査本部は15日、傷害容疑で新宮悠葦容疑者(25)を指名手配したと発表。写真も公開した。

 捜査本部によると、悠葦容疑者は優子さんと親子関係にあり、血のついた包丁を持って部屋から逃げるところを近隣住民から動画で撮影されており、捜査線上に浮上。12日夕方ごろ、優子さんの両眼を包丁で切りつけた疑いが持たれている。悠葦容疑者が自宅を訪れたのはおよそ20年ぶりで、近隣住民は優子さんが子どもについて話すのは全く聞いたことがないと話している。

 室内からは白骨化した女児と見られる遺体も発見されており、警察は20年前に失踪した優子さんの娘である可能性が高いと見て、捜査を進めている。

 捜査本部は、昨年に撮影された容疑者の写真と、近隣住民から提供された映像を公開している。

 

 そこに何が書かれてあるのか真栄には分からなかったが、そこに載った父親の写真を見て、何か恐ろしい、悪いことをしたのだということは直感的に分かる。真栄の指はゆっくりと画面をスクロールして、ネットニュースのコメント欄を表示させる。

 

 rin***

 白骨化した女児の遺体って何?この事件ヤバすぎますね。

 

 13g***

 母親と息子が娘を殺したのかな。そんで母親が自首しようとしてもめたとか。

 

 Kuu***

 誰が娘を殺したのかは不明だが、間違いなくキ○ガイ家族。この母親にしてこの息子ありだろ。

 

 K7x***

 産んでくれた母親の目をきりさく??? コイツは真の悪者。だれかコイツをころせよ。ころしたらヒーロー。

 

 「ころしたらヒーロー」という文字を見て、真栄の指が止まる。「ころす」と「ヒーロー」という言葉は彼にでも分かる。好きなアニメに出てくる、強い存在。父親に打ちのめされ続けた彼の、憧れの存在だった、彼はヒーローになりたかった、ヒーローは無力ではなかった、ヒーローの力が欲しかった。アニメによく出てくる「悪」という言葉も理解できる。ネットニュースへの書き込みが、彼にヒーローになる方法を教えてくれた。父親は「悪」で、「ころせ」ば、ヒーローになれる。真栄は空想の中でアニメのヒーローの武器を両手に持ち、それを父親の虚像目がけて振り下ろす。父親は断末魔の叫びをあげながら爆発し、炎の中へ崩れ落ちる。その空想は、強い昂揚をもたらしてくれる。彼はもう一度武器を振り上げ、父親の虚像を爆発させる。また気分が昂揚する。何度も何度も繰り返し、彼は空想の中で、何度も何度も父親を殺し続ける。空想の中で、彼は父親と同じ大きさの体と、同じ太さの腕を持っていた。どんな悪にも負けることはない。彼は圧倒的な力を持った、ヒーローなのだ。

 

 

最後の物語 最終回へ続くーー